情報は死ぬが情念は死なない。そんなことを思わされる瞬間があった。
日々、私が日記を書き留めているのは、情報を残すためではない。自らの情念をそこに残すためなのだということを知る。
この情報化社会の中で、現代人は情報を求めようとする。それも際限なく、飽くなきほどに求めようとする。
私は、情報の有用性や価値を認めながらも、過剰な情報を追いかけようとする現代社会の状況に待ったをかけたいと思う。日々の日記を改めて読み返すと、時に自分の文章が生き生きしていないことがある。
その理由を考えてみた時、一つ明確になったのは、そうした時は大抵情報を書き留めているのだ。情報だけに彩られた文章はどこか空疎で味気ない。
現代人は、大量の情報を盲目的に消費する状況に置かれており、情報への渇望が満たされていないのかもしれない。だが、本質的には、それは情報への渇望が満たされていないのではなく、人間としての存在が立ち込める情念が満たされていないのではないか、という思いに行き当たった。
情念が満たされていないというよりも、情念への触れ合いを喪失していると言ってもいいかもしれない。とにかく、どこか私たちは、血の通っていない空疎な情報に浸りきることに慣れきってしまっている。これは現代社会の憂う事態の一つだと思うのだ。 欧州での日々が一日、また一日と過ぎていくとき、それらの日々を、過ぎ去っていくものにするのではなく、積み重なっていくものに変容させようとなんとか試みる自分がいる。ここでの毎日は、決して過ぎ去らせてはならないものなのだ、と言い聞かせる自分がいるのだ。
究極的には、それは積み重なっていくものを超え、死を超えた永遠性を獲得するべきものにしていく必要があると強く思っている。その実現に向けた試みとして、私は日々の出来事を、単に情報の記録として日記に綴ってはならない。
そうではなく、情念の宿ったものとして綴っていく必要があるのだ。私は欧州での生活にあたり、何人かの日本人が今から60年ほど前に書き残した日記を持参した。
その日記に私が動かされることがあるのは、そこには単なる情報が記載されているのではなく、感情を動かす感動としての情念がそこに宿っているからなのだ。私の心は、死活した情報にもはや動かされることはない。
私の心を動かすのは、永遠性を獲得した人間の情念なのだ。一人の人間として生きるということは、生きることの中に自らの情念を刻印することでしかない。
そのために日記を書き、そのためだけに日記を書く。2017/7/15