1294. この数年間とこの一年


仮眠を終えた私は、夕方の仕事に取り組み始め、今少しばかり手を休めた。先ほどまで、ウィルバーのSESの注釈に目を通していた。

本文よりも細かな字で書かれた250ページに及ぶ注釈を全て読むのは骨の折れる作業であり、途中からは自分の関心事項に合致する箇所のみを読むように心がけた。初版からすでに20年の時が経過しているが、SESという作品の価値は現代においても——いや、このような現代社会だからこそ——色あせることはない。

ウィルバーが現代社会の病理と真正面から格闘した痕跡を本書の随所に目撃することができるし、何より、それは痕跡として残っているだけではなく、格闘時の精神エネルギーが依然としてこの作品の中に生き続けている。

ただし、ウィルバーの作品と数年間離れ、発達科学の研究に従事してきた者として、発達現象に関するSES内の記述はそれほど充実しておらず、具材として堅牢なものではないという思いが湧き上がってきた。これは偽らざるをえない感覚であり、私がウィルバーの思想体系に熱心に浸っていた時には湧き上がりもしなかった感覚である。

SESという作品は、ウィルバーが構築したコスモロジー(宇宙論)であり、それゆえに取り扱われる発達現象は、多様な発達領域のものではなく、「意識の発達」と呼ばれる非常に漠然としたものに留まっている。そうした点において、発達現象を議論する際の材料に堅牢性が感じられなくなっている自分がいた。

とはいえ、全体としてのウィルバーのコスモロジーからは依然として考えさせられることが多いのは確かである。現代社会に根付く深い問題に対峙する形で自らのコスモロジーを築き上げ、自らのコスモロジーを構築する中で現代社会の集合的な病理と対峙した点は、この作品を読むたびに大きな感銘を受ける。

このように、私がウィルバーの思想体系から得られる印象というのは、ここ数年の間に少しずつ変化していたようだった。先ほど私は、フローニンゲンの街で過ごしたこの一年を振り返ってみようとした。

だが、どこから振り返れば良いのかという着手の地点を掴むことができず、「フローニンゲンで過ごした一年間」という言葉の中から浮かび上がるぼんやりとした感覚の中に浸っていた。

大きな変容を遂げたようでいて、全く変容を遂げていないような一年。全く前に進めていないようでいて、大きく前に進んだ一年。この一年間はそのような矛盾時間だったように思える。

今、私はこの一年間に書き留めてきた日記を読み返すことはしない。しかし、この一年間、日々の生活を克明に書き留めてきて本当によかったと思う。

日記を書くことがなければ、諸々の意味で今の私は存在していなかったかもしれない。毎日の格闘や小さな歩みが、この一年間の日記の中に大切に仕舞われていることだけを確認できればそれでよかった。

自分がこの世界を歩いているという確かな感覚を形にしながら、この世界を通じて自らを刻成していくこと。それはフローニンゲンで過ごす二年目にも続けていきたいことであり、これからこの世界のどこに住むことになろうとも続けていきたいことである。

「旅日記」なるものは存在せず、全ての日記は旅日記となる。2017/7/12

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