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1270. 夢の中での思考


今朝は五時過ぎに起床した。五時半から書斎の机に着く。

最初に、昨夜見た夢の内容について振り返ろうとしていたが、昨夜の夢はそれほど印象的なものではなかった。もちろん、そうした解釈を下すのは、覚醒意識における私である。

そのため、昨夜見た夢の中に、覚醒意識の自分が見逃していることが多々あるかもしれない。すでに断片的な記憶になりつつあるが、夢の中で私は、学校の校庭にいたことを覚えている。

運動会の定番である、生徒一同による行進の最前列に私はいた。行進の途中で、中学校時代にお世話になっていた数学担当の先生から突然、行進に関する注文を受けた。

それはユーモアのある内容であり、私自身ユーモアを好む傾向にあるため、先生の案を実行に移そうと思ったが、少しばかり躊躇する自分がいた。それを結局実行に移せなかったのは、日本的な恥の気持ちが私に生じたからであった。

その感情は、紛れもなく日本的な恥に該当するものであり、西洋的なそれではない。おそらく、西洋人もそれに近しい感情を抱く可能性はあるだろうが、決して私がその時に感じていたような強度でその感情を感じることはないだろうし、その発生要因や発生後の身体表現においては随分と異なっているだろう。 行進を終えた後、私は、大学の物理学科に所属する友人から数学的思考について話を聞いた。彼の説明をすべて聞き終えてから、説明の要点をまとめると、数学的思考の要点は、記憶と逆算的発想であった。

なぜ私がそのような要点を抽出したのかはわからないが、彼の説明を凝縮させればそのようになる。しかし、それらの要点を解凍したら彼の説明のようになるかはまたしても定かではない。

凝固と解凍のズレ、つまり、帰納と演繹のズレのようなものを見て取ることができる。それに気づいた時、思考が拡散し、人に何かの確からしさを主張する時に、「背理法的説明」を施すことは面白いかもしれないと思った。

要するに、主張したい事柄が誤りであると仮定し、その後説明を続ける中で矛盾を導き出し、主張したい事柄が誤りであるという仮定が誤りであるというところに到達させ、結局は主張したい事柄が正しいものであることを伝える方法である。

そうした一連の思考が終わり、友人の顔を見た。しかし、そこにいたのは見知らぬ人間だった。

だが、その人物が「友人らしさ」のようなものを発していたのは確かである。その人物は静かに消え去り、残っていたのはその友人らしさの感覚だった。

ひょっとすると、私が言語的にある人物を友人だと措定するよりも先に、感覚的にその人物が友人であるかを判断することが行われるのかもしれない。この「友人らしさ」の感覚は、様々な度合いを持ち、その度合いが高いほど、その人物を親友とみなすことにつながることがわかった。

校庭に置かれたサッカーゴールの前で、私はずっとそのようなことを考えていた。その場から立ち去ろうとした時、その友人らしさの感覚は、一人の人間と別の人間の「魂の距離」であることがわかった。

その距離の近接度合いが、友人関係を決定づけるようであり、その距離は時の経過と行動に応じて変化するものもあれば、一切変化することのないものもあることが判明した。そのような気づきを得たところで私は夢から覚めた。

五時を少し過ぎたばかりのフローニンゲンの朝は、まだ薄暗かった。寝室の窓から、まさに今から昇ろうとしている太陽が見えた。

目の前の家の屋根の上から顔をのぞかせた真っ赤な朝日は、とても美しかった。今日もなすべき事をなそうという気持ちになった。2017/7/7

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