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1256. 冷夏に思う冬と環境による発達


少しばかり寒さを感じさせる七月の朝。今日は早朝に、デイヴィッド・ウィザリントンの論文を三本ほど読むことから仕事を開始した。

これらの論文はどれも、発達科学を取り巻く思想的立場の分類と整理を第一目的とし、そこからどのような思想的枠組みを持って発達科学の研究に従事するべきなのかを提言している。特に、最後に読み進めた論文では、哲学的な用語が多く用いられ、論文の内容が発達科学に関することであったとしても、それを読み進めることはそれほど容易ではなかった。

しかし、これらの論文は、今後私が発達科学のメタ理論的研究に着手する際に貴重な文献となるだろう。この夏、ダイナミックシステム理論を発達研究に適用することに関して、科学的な論文のみならず、哲学的な論文を多数執筆しているポール・ヴァン・ギアートの論文を数多く読むことによって、ウィザリントンの主張がより明確になっていくだろう。

今日の天気は晴れ時々曇りとのことであり、早朝から複数の断片的な雲が空を覆っている。辺りを照らす太陽の様子を観察してみると、晴れよりも曇りの方が割合が多いように思える。

昨年私がフローニンゲンの街にやってきたのは、八月の頭であった。その頃は、日中は暑さを感じることがあった。

フローニンゲンの年間気温において、八月よりも七月の方が暑いはずなのだが、相変わらず朝夕は寒さを感じる。今年は冷夏なのだろうか。

今の私を取り巻いている自然環境は、私がこれまで夏に対して抱いていた印象とはかなり異なる。これは良い意味でも、季節に対する自分の認識の枠組みを捉え直すきっかけになったようだ。

夏らしさを感じないことを気にかけていると、たいていの場合、もう少しすると自然は、私の心配が杞憂であったかのように暑さをもたらすだろう。いずれにせよ、夏らしさを感じることのできる期間はそれほど長くないかもしれない。

短い夏が終わればすぐに秋となり、その秋も短いだろう。そうすれば、その次にやってくるのは、あの張り詰めた、凛とした世界を創出する厳しい冬である。

奇妙なことに、私はあの過酷な冬の自然環境を恋しく思っている。あの厳しい自然環境の中で、自分の存在を再び濃縮することを強く熱望しているようだ。 太陽を覆っていた雲がどこかに消え、辺りに太陽光が再び照り始めた。通りを行く人の中に、自転車を運転する小さい子供がいた。

おそらく3歳ぐらいの子供だろうか。何気なくその子供が自転車を運転している様子を眺めていると、驚くことに気づいた。

その子供は本当にまだ小さいのだが、何と補助輪をつけることなく自転車を器用に運転しているではないか。その姿を見たとき、オランダという自転車文化が浸透した国の環境力について思わずにはいられなかった。

そういえば以前、マライン・ヴァン・ダイク教授か私のメンターであるルート・ハータイ教授と雑談をしてるときに、オランダではとても小さい時期から自転車の訓練を開始するという話を聞いた。

確か、その時の話では3歳ぐらいから自転車を遊びとして乗り始めるということを聞いていたが、まさかその年齢から補助輪を外すとは思ってもみなかった。私は、通りを行くその子供を何気なく眺めていただけだったので、危うくこのことを見逃すところであった。

小さな少年が自転車を乗り回している姿は、強引な訓練によるものではなく、彼が遊びながら自転車に乗る能力を獲得したことを物語っていた。自転車を活用するというオランダの文化的環境が知らず知らず、今目の前を通り過ぎていった小さな子どもたちの能力を自然と育んでいることに改めて思いを馳せていた。

これは、置かれた環境が人間の能力を育む一つの好例だった。あと数ヶ月したらやってくる過酷な冬に再度自分自身を置いてみた時、私の内側で今度は何が育まれるのだろうか。2017/7/4

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