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1233. 異質な存在の再考と自己とコンテクストの相互関係について


午前中の仕事を終え、昼食を摂り終えた後、昨日読んでいた論文について思い出していた。それらの論文はどれも、教育学と複雑性科学を架橋した内容である。

改めて、論文内に下線と共に星印を付けた箇所に目をやり、書き込まれた自分のコメントを読み返した。器の成長にせよ、能力の成長にせよ、私たちは異質なものと向き合うことによって成長していく、ということを私はよく述べている。

異質なものと向き合うことによって成長する私たちの特性について、論文を読みながら改めて考えていた。異質な存在の重要性は、一つには、それらが私たちの既存の認識の枠組みから逸脱したものであるがゆえに、私たちの認識の枠組みを新たなものにさせる促しのような力を持っているということだろう。

言い換えれば、異質な存在は、認識の枠組みを変容させる触媒としての役割を担っているのだ。能力の成長においても、未知な課題に取り組むとき、私たちは既存の能力をなんとかその課題に適用できるような適応努力を迫られる。

未知な課題と向き合えば向き合うだけ、既存の能力の枠組みが徐々に拡張され、それは適用範囲を拡大させながらより高度な能力へと変貌していくことが考えられる。異質な存在と絶えず向き合っていくことは、器と能力の成長の双方にとって大切だということを改めて認識していた。 また、論文の中に記載されていた、「私たちの存在はコンテクストの一部に他ならない」ということの意味について考えていた。拙書『成人発達理論による能力の成長』の中で紹介したように、置かれているコンテクストが変われば、私たちが発揮する能力の種類やレベルは変化する。

これは逆の関係も成り立つのではないだろうか。つまり、私たちが発揮する能力の種類やレベルを変化させれば、コンテクストそのものを変化させることができるということである。

私たちの存在は、コンテクストに埋め込まれていると見ることができる一方で、コンテクストというのは、千変万化する私たちの存在の織物のようなものとしてみなすこともできるのではないだろうか。

そのような発想を持てば、私たちの能力とコンテクストが相互作用を与え合っているという点に関して、より納得感が得られるのではないだろうか。私自身、欧州での生活を継続させていく中で、自らの内面の成熟と能力の成長に合わせて、置かれているコンテクストそのものが変容しているように感じるのだ。

当然ながら、コンテクストというのは、一人の人間が構築するようなものではなく、取り巻く他者や環境によって構築されていくものであるが、内面の成熟と能力の成長が実現されていく過程の中で、コンテクストそのものに対する働きかけが可能になっていくように感じている。

これがまさに、自己変容が他者変容に結実するということの意味であり、自らの仕事に社会性が宿ることのカギなのではないかと気づかされる。そのようなことを考えていると、自己変容とコンテスクトの変容は不可分の関係を成しているように思えてくる。

今の自分にとって、自己変容というのはさほど重要性を持っておらず、社会への関与を推し進めていこうとする自分がいるのはもしかすると、コンテクストへの働きかけ、つまりコンテクストの変容を希求する自分がいることを暗示しているのかもしれない。

そして、これはロバート・キーガンが提唱した、自己と他者の軸を螺旋状に描いて成長していく私たちの内面の成熟プロセスを考えると、広義の意味で、他者とはコンテクストのことを指しているのだろう。

日々薄々感じていたのだが、結局のところ、こうした広義のコンテクストへ働きかけることが、結果として自己の深まりを促し得るということは、やはり自己とコンテクストとの間には相互作用の関係があるからなのではないかと思う。2017/6/29

追記

改めてこの日記を読み返してみると、自己変容がある程度の深まりを見せると、人はコンテクストの変容者に変貌を遂げていくようである。

そこでは、もはや自己という小さな存在を変容させることに躍起になるような衝動は芽生えず、自己を取り巻くコンテクストそのものへと働きかける強い衝動を持つようになる。コンテクストの変容者は、そのような特徴を持つ。2017/7/6

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