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1220. 生きること・探究することの根源


今朝、普段と同じように、朝食にリンゴを食べた時、いつもとは異なる色と味に対して、肯定的な意味で驚かされた。実は、色に関しては、昨日このリンゴを購入する時に気付いていたのだが、味に関してもいつもと異なるものだとは思ってもみなかった。

これまでと同じ生産者が作ったリンゴを食べたのだが、季節が初夏を迎えたからなのか、色つやがこれまでのものとは異なり、特に味が印象的だった。それはまるで、洋梨のようなみずみずしさを含むものだった。

一口そのリンゴをかじった時、果汁が溢れ出しそうになるのを目にしながら、少しばかりリンゴの姿形に見入っていた。季節の変化に応じて、姿形、そして味までも変化させるリンゴについて、私はソファに腰掛けながら、あれこれと思いを巡らせていた。

この一つのリンゴに詰まった物質的ではない何か、つまり精神的なものが持つ濃密さに対して、私は少しばかり神妙な気持ちになっていた。 サン=サーンスの美しい曲が、食卓を優しく包むように流れている。フランスが生んだこの偉大な作曲家の音楽を、昨日から少しずつ聴くようになった。

まちがいなく、サン=サーンスが残した楽曲は、どの季節に聞いても私たちの内側で喚起させる何かがあるに違いないだろうし、特定の曲はある季節により合致するものもあるだろう。しかし、今私が聴いている曲のどれもが、このフローニンゲンの初夏の朝にふさわしいように思えて仕方ない。

それぐらい、この瞬間に流れているサン=サーンスの曲は、現在の私を取り巻く自然環境と合致していることがわかる。サン=サーンスの曲を聴いていると、早朝に考えていた考えをまた冷静に眺められるような気がしてきた。

今朝の私は、自分が日本語で今後書籍を執筆していくことの意義のようなものを感じることが一切できなかった。第二弾の書籍が出てまだ間もないのだが、あの書籍を世に出したことが全くもって無駄だったのではないかと思うような、ひどく極端な発想に囚われていた。

書籍の中で書かれた事柄が、社会における既存の言説空間に対して何らかの寄与を果たし、読み手の実践的な営みをどれほど喚起しうるものなのかを考えたとき、ひどく絶望的な思いになった。結局、ものを書くということが、この世界にどれほど貢献を果たしうるのかという問題は、私を大いに当惑させる。

一人の個人が書く文章が持ちうる社会性について考えるとき、その社会性があまりに取るに足らないもののように思え、文章を書くことの意義がまた一つ遠のいていくような思いに駆られていた。そのような思いを抱えながら午前中を過ごした私は、昼食を摂り、メールを確認した。

すると、書籍を読んでくださった一人の方から、一通のメールが届いていることに気づいた。その内容についてはここで一切言及しないが、あの書籍を執筆したことは完全に無駄ではなかったことを知った。

そして、何より私に励ましをもたらしてくれたのは、あの書籍を執筆した背景や執筆理由について、その方が私以上に深い理解を持っていたことだった。こうした方が日本に一人でもいる限り、自分が日本語で何かを書くことの意義が全くないわけではないことを知る。

おそらく、その意義だけが、唯一日本と私を繋ぐものに違いないだろうし、私が母国に関与する唯一の道だと思うのだ。その道が存在していることに対して、私は何とも言えない気持ちになった。 その方のメールの次に目を通したのは、非常に嬉しい知らせが記載された内容のメールだった。一昨年、私が日本に滞在している時に知り合った方に第二子が誕生するという知らせだった。

それは全くもって他人事ではない出来事のように感じられ、新たな生命が誕生することの歓喜を私にもたらした。すると、自然と流れるべきものが私の目から流れてきた。

その方に、サン=サーンスの“Gloria Patri in D Major” を贈りたい気持ちになった。生き続けることの意味や探究を続けることの意味は、絶えず自己と他者との関係性の中に見いだすことができるということを、私は決して忘れてはならないだろう。2017/6/26

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