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1191. 発達の律動と発達の淵


何かに触れる形でそれを知ること。それは身体的な次元でなされるというよりも、精神的な次元でなされるようなものであり、それは精神的な何かを「触知する」と表現できるだろう。

昨日、私は何かに触れていたんだと思う。それはこれまでにないようなものであり、今日からの私を新たに導いていくようなものであった。

正直なところ、それはまだ言葉の形になることを許さない。別の表現で言えば、それは、今の私の言葉の世界から滑り落ちてしまうようなものである。

ゆえに、私はあえてそれに今の自分の言葉を当てない。それは間違いなく、緩やかに深耕していく現在の自分の内面世界の深くにあるものであり、それこそが自分の次の内面世界を形作るものなのだと思う。

それは将来の自分の内面世界を形作るものであるがゆえに、今の段階の私の言葉を寄せ付けないというのは、とても納得のいくことだ。だが、昨日間違いなく私はそれに触れたのだという感覚が、一夜明けた今この瞬間にも残っている。

それは「発達の淵」と表現できるようなものであり、私はそれを触知していたのだと思う。それは、現在の自己と将来の自己とを同時に知覚するような感覚を引き起こす。

また、絶えず緩やかに深耕していく発達の淵に触れるというのは、発達の律動に触れることに他ならない。もしかすると、それは生の躍動と言い換えることができるかもしれない。

ただ、発達の淵に触れるというのは、自分がまさに徐々に深耕していく何かに他ならないという自覚的な感覚を引き起こす点において、生の躍動と表現されるものとはまた別種のものなのかもしれないと思う。 今、自分がこのようにして、欧州で生活と仕事を営んでいることが、時に信じられないことがある。今この瞬間も、自分がどこにいるのかわからないような感覚だ。

しかしそれでも、私の内側には脈動する何かがあるのは確かであり、発達の律動が私をこの地での生活と仕事に向かわせるのは確かだ。それは避けようのないものであり、必然的なものである。

私は何かをするためにここに来たわけではなく、自分の内側に脈動するものに押されてここに来たのだ。また、私が新しい一歩を毎日刻んでいこうとする意志の奥には、発達の律動があるのは疑いようもないことである。 発達の淵に触れるという体験は、そうした感覚を引き起こす以外にも、自分の精神に火をつけたかのようである。その体験そのものは一瞬に過ぎないが、火をつけられた精神は永続的な運動を見せはじめた。

この精神を通じて、今日の夕方から始まる夏の休暇を過ごしたい。できることなら、発達の律動を絶えず感じる中で日々の探究と実践に励み、自らを新たな発達の淵に送り出したいと思う。

自分にとってこの夏が存在する意味は、それを成し遂げるためだったのだろう。2017/6/19

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