1120. 認知的な夢


早朝目覚めると、寝室の窓を通じて、清らかな空に昇る朝日を見た。五時半の起床と共に書斎の窓を開け、清々しい朝の風を最初に浴びた。

昨日の夢の印象がまだ身体にまとわりついているのを感じる。それは決して悪い夢ではなく、極めて「認知的な夢」と表現できるものだった。

夢の中の私は、夢の中の自己の視点を通じて世界を眺めていたのではなく、覚醒意識と全く変わらない視点を持っていた。つまり、それは夢を見ていたというよりも、心の眼を通じて心の内側を覗き込んでいるかのようだった。

夢の中には誰一人登場人物が出てくることもなく、そこには何枚かに連なる白紙の原稿があった。その原稿に私は日本語で文章を書いていた。

だが、あるところから突如として英語の文章が混じり始めた。その地点から英語に完全に移行したのではなく、英語と日本語を行ったり来たりしながら自分の書きたいことを表現していた。

夢の中で日本語を書いている私は、呼吸をするかのごとく日本語の言葉を紡ぎ出していた。一方、英語の文章を執筆している私は、とても神経質に一つ一つの言葉を選びながら文章を組み立てていた。

その姿は建築性の塊であると言ってもいい。一つ一つの建築素材を組み立てる私の意識はとても慎重であり、執筆した文章の意味がどれほど自分が表現しようとすることに合致しているのかの体感を確認するために、何度も文章を音読していた。

いよいよ原稿の最後の箇所に到達した時、自分が書き記した英文の意味が自分でも理解することができず、ひどく狼狽していた。ここで直面していたのは、「感覚に対する言葉の劣後」という現象だった。

そういえば、昨日の就寝前に、日本語ですら、自分の感覚を正しく表現するための語彙を自分は持ち合わせていないことを反省していた。「毎日、日本語を学ばなければならない」という言葉が就寝前の私の頭の中に何度もこだました。

私が言葉に表現できる以上のものが、絶えず自分の内側にあることを常に自覚するようになってからしばらく経つ。私の言葉よりも常に先行する私の感覚が、日本語をより深く学ぶことを私に突きつけてくる。

それは言うまでもなく、英語を含めた他の言語についても同じである。最後の文章を自分の内側の感覚にピタリと合致するまで何度も何度も文章を書き直していると、そこで一度目が覚めた。

時刻は早朝の二時半だった。未明に目覚めた時、自らの言葉をさらに鍛錬していく必要性、さらなる言語的修練の必然性を思い知らせた。

涼しい外部の気温とは打って変わり、私の身体は少しばかり汗で濡れているようだった。2017/5/31

追記

自らの思考と感覚を英語空間の中で構築するようになってから、六年ほどの歳月が過ぎた。六年経ってみて、ようやく自分の内側の思考や感覚の機微を英語で表現できるようになり始めていることを知る。

六年前、 “indignant”を “indignant”として英語空間で経験したことのない私に、 “indignant”を “indignant”として英語で表現できる日が来るのかを絶望的に感じていたことを思い出す。

そこから六年が経ち、不可能に思われたことが可能になり始めているのを知る。同時に私は、より徹底的に英語空間の中に思考と感覚を晒さなければならないことを知る。

これからの私の仕事は、そこを通らなければ成しえないものだということを強く自覚している。また、それは英語のみならず、母国語についても同様の態度で臨まなければならない。

私はこれからの十年、二十年、いや一生を閉じる日が来るまで、少なくとも英語と日本語の鍛錬を行い続けるだろう。2017/6/12

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