昨日の早朝に、自宅を離れる前にシャワーを浴びていたところ、自分が「精神主義」や「鍛錬主義」に陥りがちであることにふと気づいた。
それらは何らかの対象に関する自分の知識や技術を深めようとすることに不可欠なものであり、内面の成熟を促すものであることに間違いないが、得てして自分が鍛錬を強調しすぎることが多いことに気づく。
それは毎日の日記の節々に見られることであり、過去の日記を眺めているとそれは明らかである。自分の内側に何かを育み、それを深めていこうとするとき、間違いなく献身と関与の伴った鍛錬が必須である。
しかし、鍛錬をすることだけが生きることなのではない。そうした当たり前のことに気づいたとき、私はこれまで自分が盲目的に依存していた鍛錬主義から脱却することができたように思えた。
同時に、これからは意識的に鍛錬主義の中に自己を晒すことによって、これまでとは質を異にするような鍛錬を行っていきたいと思った。鍛錬主義というのも私が自分の頭の中で作り上げた概念であるがゆえに、自分の内面の成熟に合わせて、それは別種の姿を見せるはずである。
シャワーを浴びている最中に、自分の思考空間の中にある鍛錬主義の持つ意味がまた一段深まったことがわかった。結局のところ、そこで起こっていたことは、既存の自分の考えに対して新たな気づきが生まれ、盲目的なものが可視化されるという現象であった。
何よりも興味深かったのは、そうした気づきは、既存の私の考え方を砕く力があるということだった。ひとたび既存の考え方に亀裂が生じ、それが砕ける音が聞こえたら、もはや以前の考え方を通じて生きることなどできない。
それが発達の不可逆性という特性だ。私がこれまで持っていた鍛錬主義が砕かれ、しばらくは新たな鍛錬主義に基づいて日々の生活を形作っていくことになるだろう。
そして、また何かをきっかけとして、その考え方が砕ける日がやってくるに違いない。昨夜の就寝前にもこのテーマが派生して、発達の不可逆性と永劫回帰について考えを巡らせていた。
私たちは自己の領域における発達を遂げた際には、もはや二度と過去の世界観を通じて生きることができなくなる。
そうした不可逆的な歩みを一歩一歩進めていく中にあって、常に私たちが自己であり続けるということ、足を前に進めたとしても自己に戻り続けるという、自己発達における永劫回帰性というテーマが私を捉えて離さなかった。2017/5/25