
夕食時、食卓の窓からぼんやりと空を眺め、昨年の今日を振り返っていた。昨年の今日に私が何をし、何を考えていたのかは、過去の日記を見ればそこに書いてある。
だが、そのように個別具体的な事柄を振り返っていたわけでは決してなく、昨年から今日に向かって起こった一つの円転運動について考えていた。あるいは、漠然とその円転運動の始まりである昨年の今日の自分について思い返していた、と言った方が正確かもしれない。
昨年の今日、私は今と同じように空を見ていたはずだ。それが日本の空であろうと欧州の空であろうと関係なく、同じ空を見ていたということが重要であり、今は同じ空から違うものを汲み取っているということが大切だ。
欧州に来てからしばらくの間、私はなぜだか空をよく眺め、特に飛行機雲の行方を見守ることがよくあった。ここ最近はめっきりそうしたことが少なくなっていると思いながら、先ほどはずっと飛行機雲を眺めていた。
一筋の長い飛行機雲が空に見える。それは東から西へ動いていた。
飛行機雲の先端がどんどん西へ伸びていき、最後尾の飛行機雲がゆっくりと消えていく様子をじっと眺めていた。その時の私は、人生の中でそれしかすることがないかのように、飛行機雲の動きだけをただ見つめていた。 昨年の今日から今年の今日にかけて、地球は確かに一回転したが、果たして自分の内側ではどれほどの円転運動があったのだろうかと考える。昨年の今日の私と今年の今日の私を眺めた時、巨視的な観点から眺めるとそれは同一の地点にあるかのように見える。
しかし、微視的な視点でそれらを眺めた時、その位置にズレがあることがわかる。このズレが私にとっては大事であった。
この一年間の期間において、私は確かに円転運動を行っていたようなのだ。それを証明するのがまさに、同一地点に自己がいるような感覚と共に、同一地点ではなく、昨年の自分と近郊する位置に今の自分が存在しているという確かな感覚である。
「あぁ、確かにポアンカレの回帰定理は、定理として存在し、それは自己の内側に流れている」という思いがやってきた。いついかなる瞬間も自己の出発点であり、ひとたび出発をすると、二度と同じ場所には戻れない。
以前と近い位置に舞い戻りながら、私たちは帰着のない出発を繰り返していく。これはある種の永劫回帰なのだろうか。
無限に繰り返される出発の連続こそ、発達の本質的な姿なのだろう。人は常に出発をしているのだ。
そして、その出発に真に気づくとき、それが真の出発になる。そのようなことを思う。
一年、また一年と時を刻むことに合わせて、私はあとどれほどの円転運動を行うのだろうか。先ほど眺めていた飛行機雲の進行方向と同じように、私は数年後に、西へ進み再び米国の地に足を踏み入れるような気がしている。
そこで経験する円転運動は、これまでにないものとなるだろう。そのようなことを今から思う。2017/5/17