1040. 早春の日曜日より


昨日に引き続き、今日も昼前から素晴らしい天気になった。今日の起床時は、薄白い雲が空を覆っていた。

午前中、まずはジャン・ピアジェの “Structuralism (1968)”を読んでいた。「発達段階とパフォーマンスは不可分である」というピアジェの指摘は、注意深くそれが意味することを掴まなければ誤解をしてしまうだろう。

ここでピアジェが述べている「発達段階」というのは、ある個別具体的な活動を通して育まれた個別具体的な能力のことを指す。それは決して、日本で普及しつつある「意識の発達段階」と単純に括られるようなものではない。

ピアジェは常に、具体的な活動を通した個別具体的な能力を想定していた。ピアジェが元来生物学者であったがゆえに、生物は活動を通して環境に適応し、環境へ適応するための具体的な活動を通してのみ、個別具体的な能力が育まれることを知っていた。

以前の日記で指摘したように、現在日本で普及しつつある「意識の発達理論」と呼ばれるものは、対象領域がひどく曖昧であり、それにもかかわらず、意識の発達を安易に個別具体的な能力のパフォーマンスと結びつけてしまうような傾向がある。これには注意が必要である。

結局のところ、個別具体的な能力のパフォーマンスレベルを知りたいのであれば、その能力の発達プロセスを明らかにする理論と測定手法を活用することが不可欠である。十把一からげに多様な能力領域を「意識の発達」として扱おうとすることは、ひどく乱暴な見立てである。

ある意味で、それは人間の多様な能力を意識の発達という曖昧なものに括ろうとする、一種の還元主義である。私たちは語ろうとする能力と活用しようとする発達段階モデルとの妥当性を常に検証する姿勢を持たなければならない。

さもなければ、私たちが発揮する諸々の能力が「意識の発達」という漠然としたものに還元される傾向は拍車をかける一方だろう。そのようなことを考えながらピアジェの書籍を読んでいた。

結局、午前中は本書を一章ほどしか読み進めることができなかった。哲学書を読むにふさわしい身体と精神がその瞬間に存在しておらず、身体と精神に少しばかり鈍重な感覚があった。

そのため、ピアジェの書籍を読むことをそこで中断し、非線形ダイナミクスに関する応用数学の専門書に移ることもなく、さらには論文を執筆することもなく、森有正先生の日記を読むことにした。

書斎の椅子ではなく、ソファの一角に腰掛け、一時間半ほど先生の日記に目を通していた。早春の太陽光が部屋に差し込むのと同じぐらい、私はこの日記から得られる光を必要としていたような感覚に陥った。

ピアジェの書籍を中断したことは正解であり、応用数学の専門書を読み始めなかったのも正解であった。それらは落ち着いた精神状態の中で丹念に読み進めなければならない。

哲学書を読み、著者の思想に本当に触れるというのは極めて難しいことであるとつくづく思う。応用数学の専門書もそこで記述される数学理論と数式を真に理解するためには、腰を据えてそれらと向き合わなければならない。

ただし、それらの難しさは、一人の人間の思想を真に掴むことよりも難解なものではない。そのようなことを思うと、哲学書との向き合い方を再び検討する必要があるだろう。

オーストリアからオランダに戻ってきて新たに始めた習慣をさらに真剣に継続させたい。一日の最初の仕事は、今の自分が読むべき哲学書を少しずつ読むことであり、これを完全な規律としたい。

まとまった量を多く読むのではなく、一時間でも一章でもいいのだ。とにかく少しずつ何かを築き上げていくような姿勢で毎朝の仕事に向かいたい。

部屋の中に、神々しいバッハの曲が鳴り響く。今の私には、マウリツィオ・ポリーニが演奏するバッハの演奏を「神々しい」としか表現することができない。

だが、バッハが音楽体系をそうした境地へ少しずつ築き上げていったように、私にできることも日々の小さな建築行為だ。2017/5/7

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