986. 観点を獲得することの意義


夕方に音楽関連の書籍を眺めていた時、バッハとベートーヴェンがある時期までは他者の意向に沿う形で作曲を行い、ある時期を境に自分が書きたいと思う曲だけを書くようになったことを知る。

当時の作曲家は、宮廷や貴族の依頼に応じて作曲をしていたという背景がある。そうした中、バッハに至っては、人生も終わりに差し掛かってから、世俗に媚びることなく自分の表現したい音楽だけを追求し始めた。

また、ベートーヴェンも、フランス革命など社会的な情勢も相まって、啓示的な目醒めを経験して以降、自分の追求したい音楽を創出することにひたむきに打ち込んだ。そこでふと、果たしてモーツァルトはどのような時期に目醒めを体験し、自分の書きたい曲だけを書くようになったのかが気になった。

もしかすると、モーツァルトの生涯において、そのような時期が訪れることはなかったのではないかと思った。モーツァルトはそのような機会を得られぬままこの世を去ったのではないだろうか。

そのようなことを考えていると、数日前に書き留めたように、モーツァルトの音楽には建築美というよりも、人為性を挟むことなく、美そのものを降ろしてくるような全体美がそこに現れているような感覚に思いが至った。

バッハやベートーヴェンは、美そのものをいかに人為的に生み出していくかの道を探究し、最終的に彼らの作品には建築美のようなものが宿ることになったのだと思う。ピアニストのグレン・グールドがバッハの音楽を敬愛し、モーツァルトの音楽にそれほどの敬意を示さなかったことを踏まえると、建築美と全体美はやはり大きく異なるものなのではないかと思う。

世間では、モーツァルトの音楽は超越的な音楽と位置付けられているが、そうした声を払いのけて、もう一度自分の耳で注意深くモーツァルトの音楽を聴く必要があるだろう。同時に、バッハやベートーヴェンが創出した建築美についても、自分の感覚を通じて真剣に向き合いたいと思う。

その時、感覚のみならず、観点が必要だ。対象に深く入るためには、感覚と観点の二つがなければならない。

昨日書き留めた日記の中で、私が第二弾の書籍に込めた思いについて書き留めていたが、この書籍を通じて主張したかった別のテーマは、観点を獲得することの重要性だった。対象に深く入るためには観点が必須であり、深く入り込んだ対象から脱却し、その対象を新たな次元で捉え直すためにも観点が不可欠なのだ。

私は、アメリカの思想家ケン・ウィルバーの発達理論を入り口に、そこからロバート・キーガン、カート・フィッシャー、ポール・ヴァン・ギアートへと、絶えず新たな発達理論の観点を獲得することを通じて、彼らの発達理論に深く入り、同時に、彼らの発達理論から距離を置くようになっていった。

そうした体験が強く影響し、観点の獲得の重要性を第二弾の書籍の中で伝えたかったのだろう。対象を深く理解するためには、新たな観点を獲得し、そこから深い観点を自ら生み出していくことが何よりも重要である。

書籍を執筆している最中に、私の内側にあったのは、観点の獲得に関する自己反省であり、世間に対する批判であった。死と無知さは人間に不可避であり、両者から私たちは逃れることができない。

とりわけ無知さに無自覚であるがゆえに、私も世間も観点の獲得が決定的に不足しているというような強い問題意識があった。死と無知さから逃れることはできなくても、観点の獲得を通じて、それらとの向き合い方を変容させることができるのだ。

新たな観点の獲得と深い観点を自ら生み出していく志が欠如していることを自分自身の問題とし、それらを真剣に行うことを通じて、世界を眺める方法を変容させるのみならず、世界の中でのあり方と世界への関与の仕方を変容させる必要があることを第二弾の書籍の中で主張したかったのだと改めて思う。 黄昏時に激しい通り雨が降った。辺りが黄金色に包まれ、そこに雨が激しく降る様はとても美しかった。

自分の内側で構築した建築美を通じてその全体美を眺め、そして深く味わいたいと強く思った。2017/4/25

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