937. 顕現を待つ内側の音楽


オーストリアからフローニンゲンに帰ってきてから、ピアノ曲だけではなく交響曲をかけながら仕事をするようになった。特に、起床直後に身体を動かす際は、モーツァルトの交響曲をかけ、その後にベートーヴェンの交響曲を二時間ほどかけている。

今もこの瞬間に書斎に鳴り渡っているのは、ベートーヴェンの交響曲である。なぜだかよくわからないのだが、今この瞬間に聞いている二時間ほどの交響曲は、冬の時期ではなく、春から夏に聞くべきものだというような直感がある。

とても爽快感に溢れ、躍動感に満ちた音楽が、私をいつの間にやら遠くに運んでくれるような感覚がするのだ。これまでの私は、音楽というものを物理的な身体を中心にして聴いていたのではないかと反省させられる。

音楽は間違いなく心や魂の領域にまで響き渡るものであるし、身体心理学の観点から言えば、音楽は物理的な身体のみならず、サトルボディやコーザルボディにまで染み渡るものなのだ。それに気づかなかった私は、これまで何を聴いていたのだろうか。音楽と内側の体験が結ぶ関係はとても奥が深い。 ふと私は、今から四年前にコネチカット州にあるイェール大学を訪れた時に聴いた鐘の音を思い出していた。あの鐘の音は、私を捉える何かがあったのを今でも鮮明に覚えている。

ウィーンとザルツブルグを訪問している最中に、私は様々な音楽家の記念館や博物館を訪れた。私には一切の音楽的な才能はなく、また、音楽的な教育を受けたこともない。

だが、私の心の内側に、なぜか前々から作曲をしたいという思いが静かに横たわっていた。イェール大学の鐘の音を聴いたとき、私は詩を書きたいという強い思いに掴まれた。

しかし、その後の私は日本語や英語で詩を書くことに大きな意味を見出すことができなかった。今回のオーストリアの訪問で突如として湧き上がってきたのは、日本語や英語を超え、自然言語を超えた音楽という普遍言語で作曲をしたいという強い思いだった。

ザルツブルグを訪問する前に、私はこの町に住む知人から美味しいアジア料理店を教えてもらっていた。学会の最終日の昼食時に、私は学会を通じて知り合った他の研究者を10名ほど連れて、このアジア料理店に訪れた。

その帰り道、スイス人の研究者と自然言語に関する話をしていた。その中で、普遍語の創造に関する可能性について少しばかり雑談していた。私は、自然言語から普遍語を生み出すのではなく、そもそも普遍語としての性質を帯びている音楽をもとに、自分なりの創造物を生み出したいと思うようになっていた。

私の内側で、これまでまとまりを見せなかった様々な記憶が徐々に結びつき始めている。自分の内側の記憶と体験が、不思議な糸で次々と結ばれていくかのようである。

私が四年間の米国生活を終え、ロサンゼルスから東京に帰ってくる最中の飛行機の中で、ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンの交響曲を偶然にも聴いた。特に、『だったん人の踊り』という曲が持つ力強さと躍動感に惹かれるものがあったのを覚えている。

曲が終わり、ボロディンという人物の解説を聞き始めた時、私は思わず仕事の手を止め、解説に釘付けになっていた。このような曲を残したボロディンは、本業が化学者であり、なおかつ30歳になるまで作曲を学んだことがなかったことを知ったのだ。

これは私にとって、とても大きな驚きであったともに、私に励ましをもたらした。今の私は、日々の体験を日本語で日記として書き留め、研究を通じて得られた知見を英語で論文として形にしている。

これらは、一生涯継続させていきたいと強く望んでいる。しかし、自分の内側では、もはや自然言語では捉えきれないものがうごめいているのだ。

それは形としてこの世界に顕現することを待っている音楽的な何かである。それは、私の固有の音だと言ってもいいかもしれない。今の私には、それを表現する方法がないのだ。

もちろん、言葉としてそれらの音楽的なものの一端を、この世界に形として表すことができるだろう。しかし、それには限界があることが歴然として私の前に立ちはだかっている。

いつか作曲に関する本格的な訓練を受けることを小さな楽しみとして、その日に向けて私は自分の仕事にこれからも邁進したい。2017/4/13

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