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タイトル一覧
11666. 今朝方の夢
11667. 今朝方の夢の続き
11668. 身体的DNAと文化的DNAとしての神道
11669. 哲学の未来と心理学の未来
11670. 天之御中主神を体察・体験する実践
11671. 「サイケデリック学者」としての自己が現れて
11672. DMTの分泌場所/「ジャーナルクラブ」の構想
11666. 今朝方の夢
時刻は午前4時半を迎えた。昨日は強風を伴う1日だったが、今朝方もまだ風が強い。午後に少し風が穏やかになる時間があるようだが、基本的に今日もずっと風が強いようだ。気温に関して言えば、ここ最近はそれほど寒さを感じず、フローニンゲンの12月末にしては珍しいように思う。12月の初旬に気温がマイナスになる日々が続いていて、あの時は相当に寒かったが、今はさほどでもなく、しばらく今くらいの気温が続くようだ。
早速、今朝方見ていた夢について振り返っておきたい。まず印象に残っている夢としては、背景が少しぼやけた雰囲気の見慣れない教室にいた場面である。そこで私は、かつて予備校時代にお世話になっていた数学の先生の国語の授業を受けていた。先生は京都大学の理学部数学科を卒業した非常に優秀な方で、年齢は随分と高齢になっていたが、その分叡智を醸し出していた。実際に、数学の知識と問題の解説は秀逸で、難関大学を志望する生徒には隠れた人気があった。だがそんな先生がなぜが本来の数学ではなく国語を教えていた。最初私はそれに違和感があったが、先生であれば国語についても知識があり、見事な講義をしてくれるだろうと思った。先生は私たちに問題用紙を配った。見ると、古文の問題のようであり、記述式問題が一切なく、空欄を補充型の選択問題だった。この手の問題が一番好きではない自分として、問題を見た瞬間に少し拒絶感があったが、先生が作った問題のようだったのでつべこべ言わずに問題を解いてみることにした。
しばらくすると、問題を解く時間は終了し、解説の時間となった。実際には、全ての問題を解くのは家に帰ってからにして欲しいと先生が述べたので、全員問題を解くのは途中までだった。そこから先生は解説を始めるに際して、席に座っている生徒を次々に指名していき、解答を答えさせた。それを受けて先生が解説をしていくというスタイルで進められた。クラスの全員があるところで1問ほど難問に突き当たった。その問題は古文の問題には似つかわしく無く、ピアジェの発達理論に影響を受けた発達思想に関する問題だった。その問題を見た時、それは自分が解説するべき問題だと思い、他の生徒たちが頭を抱えている姿を見て挙手をした。すると先生は自分を当ててくれて、そこからその問題の解説を自分がした。手短にその発達思想についてまとめようとすると、それでも少し長かったのか、普段は温厚な先生の顔がしかめっ面になり、説明の途中にもかかわらず私の話を遮って来た。そして先生は自らのシャドーを投影するかのように、私に対して厳しいことを述べた。おそらく自分が持っている知識が先生のそれを上回っていたことと、流暢に早口で解説をスラスラと述べたことが先生の何かしらのシャドーを刺激していたようだった。私は先生のそのような姿を見て、正直失望した。自分のシャドーに自覚的でない教師が自らのシャドーに飲まれ、その状態で生徒の可能性を抑圧する様子に我慢がならず、私は先生への敬意を早々と捨て、敬意を持って述べているかのような装いをしながら、先生自身の課題を心理学用語や精神医療用語を巧みに使って流暢かつ永遠と説明していった。最初こそ私の説明を聞きながら怒りのボルテージを上げていた先生も、一切言葉を止めることをしない自分の話を聞きながら、完敗の表情へと変わり、もう何も言葉を返せないような状態であった。私としては尊敬していた先生が単なる下劣な教師であったことを知った失望感を少し感じていたが、言いたいことを全て言い切った頃にはもうその先生を自分は尊敬の対象ではなく、自らを成長させてくれた踏み台として存在してくれていたのだと思い、また別の感謝の念が生まれた。それは師匠殺しの完結であり、自分はまた次の成長段階に進んでいけると思って嬉しくなった。フローニンゲン:2023/12/22(金)04:59
11667. 今朝方の夢の続き
先ほどまで吹いていた強風が少し落ち着いているようだ。しかしここからも休み休み強風は吹き続けるだろう。今日はそんな1日になる予感がしている。外の世界は強風が断続的に吹いているが、自分の心は常に凪の状態である。とても穏やかな心がここにある。外の世界が台風のように激しくても、自分という存在の中心は絶えずその台風の目として静けさで満たされている。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢には続きがあるので、それを振り返り、アニマルフローの実践をしてモーニングコーヒーを淹れよう。そこからは正午まで学術研究に励む。今日も午前中は川連凡児先生の神道書を読み進めながら、少しでも川連神道神学の理解が深まるように努めていく。それは朝のお勤めのようである。自分にとって学術研究とは、この世界に対する、そしてこの宇宙に対する奉仕なのであり、お勤めなのだ。お勤めとしての学術研究に今日も思う存分従事したい。
夢の中で私は、不思議な学園にいた。そこはダンジョンの形をしていて、モンスターが存在していたり、魔法が使えたりと、非常に面白い空間であった。そこで私はひょんなことから教師選抜試験に参加することになった。正直なところ私はその学園の教師になどなりたくはなかったのだが、半ば強引にそこで働いている若い女性教師の推薦を受けて試験に参加することになった。試験の内容はシンプルで、ダンジョンのような形をした巨大な建物の中で出される課題にクリアしていくことであった。最上階まで辿り着けたら晴れて合格であり、そこまでの過程で出題される課題をどのように、そしてどれくらいの時間をかけて解決していったかによってスコアリングされ、最終的な教師のランクが決まるようだった。基本的に初めて試験に参加する人は、最上階まで辿り付けてもランク1の教師どまりのようだった。すでにランク1の教師がランク2へ昇進したり、ランク2の教師が最上位のランク3になるというのが基本的な流れののようだった。すでに教師である者からの推薦を受けなければそもそもこの試験には参加できないようになっていたので、その段階である程度のスクリーニングがかけられていたが、それでも参加者は多く、それでいてランク1になれる人は一握りとのことだった。
いざ試験が始まる前に地上で他の参加者の顔ぶれを見たのだが、彼らは全員、教師になるモチベーションに溢れていた。一方の私は、そのようなモチベーションは皆無であり、その段階で教師になるのは無理だろうと思われた。そんな思いを持ちながらいざダンジョンの中に入ると、そこで出される難題が面白く、気がつけばもう最上階の一歩手前までいた。その階は不気味なほどに暗く、フロアがヌメヌメしていて気持ち悪く感じた。すると突然、天井からモンスターが現れた。それは影のモンスターであり、動きがすばしっこく、こちらの攻撃を当てるのが難しかったので、巨大な念力を飛ばしてそれで対峙した。そのモンスターを対峙すると、パッとフロアが明るくなり、出口が見えたのでそこに向かうと、最上階に到達していた。すでに先にゴールしていた参加者が数名ほどして、彼らはみんな経験豊富なランク1やランク2の教師のようだった。彼らは私を大いに祝福してくれた。いざ試験が全て終了すると、なんと私はランク1を飛び級して4人のランク2の教師のうちの1人となった。資格授与式の際に、ランク2の前列に並んでいたランク1の教師はおよそ10人ほどで、後列に並んでいたランク3の教師は7人ほどだった。ランク2の教師としての資格を授与されたものの、その学園で教師として働く姿がイメージできず、どうしたものかと思ったが、選抜試験そのものが楽しいものだったので、それだけで十分かと思い、満足感に浸っている自分がいた。フローニンゲン:2023/12/22(金)05:36
11668. 身体的DNAと文化的DNAとしての神道
時刻は午前7時を迎えたが、依然として辺りは闇に包まれている。そして静寂さが世界を覆っていて、その心地良さを味わっている。そんな気分の中でふと、日本人の多くが自らが神道という宗教を信奉しているという自覚のなさはどこから来るのかと考えていた。様々なことが考えられるが、歴史上重要な出来事としては、戦時中における政府主導の国家神道の作為的創出の際に、宗教的な本質が骨抜きにされてしまったことが大きいだろうか。表面的には神社や神道まつわる儀式は随所に存在しているが、そこに宗教色が希薄なゆえに――というよりも本当は宗教色はとても色濃いのだが、それを宗教的だと思わなくさせてしまっている認知的洗脳があるように思える――、多くの日本人が自らの精神の根幹に神道的な何かがあるということや、影響を受けているということに無自覚なのではないかと思ったのである。信仰の自由があるように、基本的に私たちはどの宗教を信奉してもいいし、宗教など信奉しなくてもいい。しかし川面凡児先生が述べるように、個別宗教を越えて私たちの心を慰め、霊性を涵養していく働きを担う本来の神道の在り方を自分はもう一度回復させたいと思う。川面先生は神道から宗教的なものが骨抜きにされてしまったことを嘆いておられ、その回復を果たしながら、他の宗教を信奉していたとしても(無宗教であったとしても)、神道が日本人の心と霊性の基盤・拠り所になることを望んでおられた。その思いを自分も汲み取りたいと思う。一神教の場合は神道という宗教を下敷きにすることを嫌うかもしれないが、神道を土台にして一神教のどれかを信奉することは本来不可能ではないのではないかと思う。そのようなことを考えながら、自分の場合は神道を基盤にして仏教を信奉しているような宗教心があるように思える。神道を基盤にしていると言いながら、仏教を信奉しているような宗教心と言いながら、その実践生活は表面的なものにとどまるが、ここから実践生活を自らの宗教心に伴うものにしていくべく、それを深めていこうと思う。
サイケデリクスと関連付けて神道研究を進め、その研究成果を英語で欧米社会に共有していくだけではなく、日本にも日本語でどこかのタイミングで研究成果を共有することができたらと思う。それは日本人が身体的DNAと文化的DNAの双方で深層的に持っている神道的なものの回復と覚醒をもたらすことにつながるかもしれない。現在毎日少しずつ精読を進めている川面先生の書籍の読解と、意識・宇宙・サイケデリクスに関する文献の読解を地道に進めていけば、今自分が実現しようと思っている社会貢献がきっと果たせるだろう。そのようなことを思う自分がいる。フローニンゲン:2023/12/22(金)07:17
11669. 哲学の未来と心理学の未来
極々僅かばかり空がダークブルーに変わり始め、もう30分後ぐらいにやって来るであろう夜明けを予感させる。そんな中、哲学の未来と心理学の未来についてぼんやりと考えていた。サイケデリック哲学者のピーター・ショステッドが述べるように、汎心論的な考えをより多くの哲学者が採用し始めると、哲学はより心理学的なものになっていくのではないかと思う。「心理学的」と述べても、それは実験心理学的という意味ではなく、哲学がますます心を扱うという意味である。形而上学と照らし合わせてみれば、それは心の世界の超越的な場所について扱う方向に向かっていくのではないかと思う。全ての遍く存在に心のような性質や働きがあるとみなす汎心論を哲学者たちがますます共有してくれば、彼らの研究は自ずと心を扱うものになっていくであろう。そんな展望が開けた後に、それでは心理学はどのような姿にこれからなっていくのだろうかと考えていた。哲学がますます心を扱っていくに応じて、とりわけ心の超越的な次元がますます重要になってくるように思えて来る。そうなってくれば、トランスパーソナル心理学や超心理学の重要性が増して来るに違いない。少なくともサイケデリック哲学は必ずやトランスパーソナル心理学や超心理学とより深い関係を結び、相互に良い影響を与え合うだろう。サイケデリック哲学はトランスパーソナル心理学や超心理学の知見から多くの養分を汲み取りながらさらに発展していき、トランスパーソナル心理学や超心理学はサイケデリック哲学の知見から多くの養分を汲み取りながら発展していくだろう。そのような相互発達関係を両者に見出すことができる。自分がこれから本腰を入れて従事しようと思っているサイケデリック哲学に関する仕事の中で最重要なものは、トランスパーソナル心理学や超心理学との関係性の中で進んでいくだろう。もちろんサイケデリック哲学の守備範囲は広く、およそサイケデリクスに関するテーマやトピックであれば全てを包摂しているものであり、サイケデリック科学の在り方やサイケデリック文化について、さらにはサイケデリック規制についての話題などに及ぶ。そうした多岐に渡るテーマの中で、自分はできる限りサイケデリクスに関する全てに対して考察を深めていきたいと思っているが、学術論文を執筆するという仕事に関して言えば、それは兎にも角にも意識と宇宙に関する事柄であり、サイケデリック体験がもたらす超越的な意識の在り方と宇宙認識に関するものになるだろう。ゆえにトランスパーソナル心理学や超心理学の知見がそこで大事になって来るのだ。今日の小さな研究もそこに繋がっているものである。フローニンゲン:2023/12/22(金)08:11
11670. 天之御中主神を体察・体験する実践
川面神道神学でいうところの天地開闢を司る天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)を体察・体験する実践として、自分にはシロシビン・マッシュルームを核に据えたサイケデリック実践があり、神楽があるのだと思う。前者に関しては多くても月に2回ぐらいか、10日1回の月に3回ぐらいしか実践できないが、神楽であれば毎日自主稽古ができる。神楽は自分にとって天之御中主神と繋がり、天之御中主神と同一化する最良最善の実践になるに違いない。そんな確信がある。ゆえに早く神楽を習いたいという気持ちが高まってきている。新たな習い事として神楽を習うことを2024年から始めてみよう。それは身体実践としても素晴らしいし、神道研究においても非常に有益であろう。
時刻は午前8時半を迎えてようやく辺りが随分と明るくなった。少し風も収まったようである。ここまでのところ、早朝からずっと川面先生の書籍を読み進めていた。3章分ほど読み進めたところで一呼吸起きたいと思った。不思議なもので、英文であれば一日中書籍を読むことができるが、日本語で書かれた文章の場合には集中力の限界が早く訪れる。もちろん内容の濃さも影響しているだろうが、川面先生の書籍は焦ることなく、毎日数章ずつ読んでいくようにする。それを受けて、自分にとって湯水のように吸収できる英語の学術書をそこから夕方まで読み進めていくことにする。
ここからはオランダの哲学者バーナード・カストラップの書籍の再読をしよう。カストラップの書籍のうち、再読が済んでいないのは残り1冊となった。最後に残っているのが彼の最新書であり、今からその再読に取り掛かる。それが終わればサイケデリクス関係の書籍を数冊ほど再読し、そこからは鈴木大拙先生や西田幾多郎先生の英文書籍に取り掛かりたい。自分の学術研究の中心はとにかく英語文献だが、神道研究においては川面先生の日本語の書籍を大切にしたいと思う。フローニンゲン:2023/12/22(金)08:37
11671. 「サイケデリック学者」としての自己が現れて
時刻は午後4時を迎えた。先ほどまで3時間弱のオンラインミーティングを知人の方と行っていた。その方は現在ゼミの受講生でもあり、これから協働者になるであろう方である。その方が現在立ち上げを考えておられるメディアの構想が大変素晴らしく、自分も関与させていただく流れになっていて、来年から本格的にその活動が動き出すだろう。それもまた来年の大きな楽しみの1つだ。
オンラインミーティングの最中に、強風のためなのか、寒さによる暖房を含めた電力の使い過ぎのためなのか、突然停電に見舞われた。この8年間の中で過去にも何度か停電を経験していたので、驚きはしなかったが、如何せんミーティングの最中だったので、早期の復旧を願っていた。一応自分の家のブレーカーが落ちただけなのかもしれないと思って外を見渡すと、どの家も灯がついておらず、街全体の停電だとわかったのでしばらく待っていた。20分ぐらいしてようやく復旧し、そこからまたオンラインミーティングの続きを行った。
ミーティングを終えて今少しそこでの話を回想しているのだが、ちょうど今日から何か思い立ったかのように、8年前に知人がつけてくださった「知性発達学者」という肩書を捨て、「サイケデリック学者」と名乗ることにしたことを思い出した。そう名乗ると決心し、ウェブサイトのプロフィールを書き換えたのは早朝のことだった。もうここからは知性発達学者としての自分を含んで超えていく形で、サイケデリック学者と名乗っていく。サイケデリクスに関する研究を始めて日は浅く、サイケデリクスに関する学位をまだ取得してないが、それでもそう名乗らないといてもたってもいられない新たな自己が現れたので、そのように名乗ることに決めた。自分の肩書を自ら名付けたのは今回が初めてのことだった。
サイケデリック学は、サイケデリック哲学、サイケデリック科学、サイケデリック神学の3つが含まれる。学問的に細分化すれば、可能であればありとあらゆる学問領域からサイケデリクスの研究を進めていきたいし、そのようなスタンスで幅広く研究をしていくのだが、外せないのは哲学・科学・神学の観点かと思った。もともと自分は人間発達をジョン・エフ・ケネディ大学の時代には哲学の観点から研究しており、学位の表記も人文学系の修士号として括ることができる。フローニンゲン大学に移ってからは、応用数学を用いて人間発達について研究を進めており、その時の学位の表記は科学系の修士号に括ることがで来る。ちょうど先週の今日に出願を終えたハーバード神学大学院(HDS)に進学することができたら、神学という最後のピースが埋まることになる。果たして人生がこれほどうまく進むかどうかは誰にもわからず、運を天に任せるしかないが、自らの自助努力としてのこれまでの歩みは最後のピースを埋めることに向かっていたのだと気付かされて、なんだかとても感慨深い気持ちになった。これまでの探究の下地であった哲学と科学に加えて神学の探究をHDSで行うことが実現されたら、それ以上に嬉しいことはない。そうした運命がやって来たら、その運命の導きを大切にして、自分の日々の学びを絶えずこの社会に共有し、社会のために、宇宙のために尽力したいと思う。フローニンゲン:2023/12/22(金)16:25
11672. DMTの分泌場所/「ジャーナルクラブ」の構想
日々の輝き。毎日の自己の輝きは申し分ない。この輝きはどこから来るのだろうか。全ての人が、そして全ての存在が光によってできていると考えれば、その内在光を発露させることができれば、全ての人も存在も自ずと輝くのだろう。今の自分は自らを俯瞰的・客観的に見ても輝きがあるように思える。それを人はエネルギーに満ちた状態と言うのかもしれないし、エネルギーが迸っている状態と言うのかもしれない。
午後にDMTの書籍を読みながら、改めて私たちの内側で分泌されるこの物質について関心を持った。DMTはアヤワスカにも含まれているし、シロシビンもDMTが含まれていて、別名「4-PO-DMT」と呼ばれる形でそれらは共にトリプタミン系と分類されたりもする。また、かつてDMT単体で吸引摂取をしたこともある経験から、この物質についてもシロシビン・マッシュルームと同じぐらいに研究を深めていきたいと思う。DMTは肺から分泌されているとされる説もあるが、一番有力なのは松果体から分泌されるというものである。厳密には、DMTが分泌されるというよりも、脳のどこかの部位でDMTに生合成(biosynthesis)されると表現した方が正確だろう。2018年の“N, N-Dimethyltryptamine (DMT), an Endogenous Hallucinogen: Past, Present, and Future Research to Determine Its Role and Function”という論文を見ても、やはり脳のどこかでDMTが生合成されていることは確かなようであり、あとは具体的な部位の特定が待たれる。ひょっとしたら脳全体で生合成されていることもあり得るかもしれないが、それも含めてDMTに関する先端的な科学研究について論文をウォッチしたいと思う。
今後は毎週末のオンラインゼミナールの場で、サイケデリクスに関する論文を扱っていくのもいいかもしれない。欧米の学術機関では、「ジャーナルクラブ」という形で、論文ジャーナルの輪読会を行っていることがよくある。毎回論文を数本ほど取り上げて、それについて侃々諤々の議論をして、お互いに知見を深め、研究アイデアを醸成していくような場である。それに類することをゼミナールの場でもどこかのタイミングでやってみよう。英語の論文を毎回数本読むのは最初のうちは大変かもしれないので、最初のうちは1本か2本を取り上げるようにするのがいいだろう。2本であれば、90分のクラスの前半と後半に分けて取り上げることができる。ゼミの場だけではなく、仮にハーバード大学神学大学院に進学することができたら、サイケデリック読書会を引き継ぐ際にもジャーナルクラブの進め方を取り入れてみたいと思う。フローニンゲン:2023/12/22(金)16:56
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