top of page

11571-11579: フローニンゲンからの便り 2023年12月11日(月)



・カリンバ即興演奏曲はこちらからご視聴いただけます。

・8617個のピアノ曲・箏曲の全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

・アートギャラリーはこちらからご覧いただけます。


成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11571. 今朝方の夢

11572. 破壊と創造を内在させた遊戯としての構築活動

11573. サイケデリック・セッションにおける音楽の重要性:第22回&第23回のシロシビン・セッションに向けて

11574. 脳ではなく意識に存在する記憶

11575. 意識階層の折り畳みと他者の記憶

11576. 昨日のシロシビン・セッションでもたらされた踊りや舞いに関する大きな気づき

11577. 昨日のシロシビン・セッションによって気づかされた成長の意味/今朝方の夢の続き

11578. スキルの所在/多元宇宙/カート・フィッシャー教授の「脳成長仮説」とサイケデリクス

11579. 第21回目のシロシビン・セッション後のジムでの筋力トレーニングを終えて


11571. 今朝方の夢


第21回のシロシビン・セッションから一夜明け、今日からまた新たな週を迎えた。昨日のセッションを通じて得られた事柄や宿題が多くあったので、今日からはそれらについてじっくり取り組みたいと思う。今週の金曜日にはいよいよ、ハーバード神学大学院の出願を終えようと思っている。実際の出願期限はまだ先なのだが、もうすでに出願に必要な書類を全て準備し、提出する書類について何度も推敲を重ねてきて納得のいくものが完成しているので、早めの出願を行う予定だ。予定として、金曜日の午前中に出願を完了させ、年末をゆっくりと過ごしたいと思う。


セッションを終えた今朝方もまたいくつか夢を見ていた。印象に残っているものからまず順番に書き留めておきたい。


夢の中で私は、一昔前のサッカー日本代表の選手たちが乗るバスの中にいた。それは代表専用のバスのようで、中には代表選手たちしかいなかった。選手たちは思い思いに花が咲いており、バスの中は楽しげな雰囲気で包まれていた。時々バスの中の選手たちが1人の選手の話に耳を傾け、その選手の話で盛り上がる瞬間があるなど、一体感がとてもあった。バスを運転していたのは定年近くの男性で、ある選手がトイレ休憩をしたいとリクエストをしたので、カジノとショッピングモールがある場所でトイレ休憩することになった。少し高い位置から駐車場に降りていくと、スリーピースのスーツを着た少し小太りの中年男性がゆっくりと道路の上を歩いていた。運転手の方はその男性のゆっくりと歩く姿に少しイライラしているようで、ブレーキを踏まずに勢いよくその男性の後ろにバスをつけると、男性はそれに気づいてさっと左に避けた。そんな出来事がありながらも無事に駐車場に到着した。トイレに行きたい人だけが降りるのではなく、せっかくなので選手みんなでカジノを覗いてみようということになった。楽しげな雰囲気でバスから降りてくる選手の中で、ボランチを務めていたある選手がいきなり私の肩を組んできて、右側のほっぺたをつねってきた。それは後輩をいじる一環のようで、その選手はけらけらと笑っていた。その選手にそんなお茶目な側面があるとは知らず、発見になった。


その他には、外国の街の屋外のビュッフェで昼食を摂っていた場面を覚えている。現在仕事を一緒にしている自分よりも若いある男性と一緒に、とても雰囲気の良い場所で昼食を楽しんでいた。ビュッフェは2時間という時間制限があり、最初はそれくらい時間があれば十分だろうと思っていたが、ビュッフェの食材が置かれている場所が屋外に点在しており、それぞれの食材を取りに行くのに随分と時間を要した。1つのテーマパークとビュッフェの店が融合しているような感じだったので、隅から隅まで歩いて食材を取りに行くのはほぼ無理だった。私はまず紙皿を2枚取って、それに食材を乗せていくことにした。野菜と果物をまず中心に乗せていくと、レモン汁がかけられた美味しそうなサーモンを見つけた。それをいくつかもらうことにしたら、店員と思われる外国人の若い女性に声を掛けられ、ビュッフェのための受け付けを済ませているかと尋ねられているので、済ませていると答えた。するとその女性はにこりと笑い、「ごゆっくり」と述べた。サーモンの右横にある食材を皿に乗せたところ、それが焼肉用の生肉のように思え、肉を食べない自分としてはしまったなと思った。もう皿に乗せてしまったのでどうしようかと思った時に、一緒に食事をしている彼に食べてもらおうと思った。そこから席に戻ろうとすると、気がつけばもう1時間56分ほど経っていて、時刻は15:56を示していた。これはもう彼がいる場所に戻っていたら食べ終えれないなと思ったので、その場で歩きながら食材を食べることにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/11(月)04:43


11572. 破壊と創造を内在させた遊戯としての構築活動 


時刻は午前5時を迎えた。今の気温は8度と暖かく、まだ午前5時なのだが、この気温が今日の最高気温となる。午後6時までずっと8度で安定しているようで、そのくらいの気温であれば午後にジムに行く際にはさほど寒さを感じないだろう。明後日と明々後日は少し寒いようだが、少し前に続いていたマイナスの世界からは脱却しているようだ。マイナスの世界は年末や年明けにまたやって来るだろうか。


今日もまた旺盛に読書をしていきたいと思う。昨日のシロシビン・セッションで得られた気づきや発見を紐解く形で、さらに洞察を深めていきたいと思う。それは自分自身に対して、リアリティに対して、意識に対して、宇宙に対してである。昨日のセッションの振り返り日記で書き留めたように、シロシビン・マッシュルームを中核に据えたサイケデリクスの摂取は多分に実験的であり、「サイケデリック実験心理学」「サイケデリック実験哲学」の様相はこれからさらに増すであろう。さらには、これから神学を体系的に学んでいくことを通じて、「サイケデリック実験神学」のような形での学問探究が始まることを予感する。


昨日、発達心理学者のスザンヌ・クック=グロイターの書籍を読み返していると、構築することに狂気的なまでに向かわせられている今の自分の姿を思った。こうして言葉で構築活動をするだけではなく、絵画の創作や音楽の創作として、日々様々な形で自分は自分をこの世界に表現しようと構築活動に従事している。いつかこうした構築衝動が緩む日がやって来るのだろうか。発達の原理である「含んで超える」に従えば、構築活動の衝動を緩ませながらも構築活動そのものは続けていくことができるのかもしれない。今の自分の最大の楽しみ及び遊戯は構築活動なのだ。それがポッカリと抜けてしまう生き方は、今の自分には想像できない。こうした想像できない状態になることが発達なのかもしれない。昨日のセッションでも確証されたように、自分の本質は破壊と創造と遊戯なのだ。それらは構築活動の本質とも言える。最も理想的なのは、宇宙と1つになった状態で、思う存分に構築活動に従事し続けるあり方だろうか。すでに今もその望みが叶っているように思えるが、仮に自分が着実に発達の道を歩んでいるのであれば、これからますますその在り方が定着していくだろう。

なるほど、きっと今の自分は構築活動に囚われているわけではないようだ。自分の内側の感覚の声に耳を傾けてみると、何かの埋め合わせや強迫観念で構築活動に従事しているわけではないことが見えて来る。やはり自分はもうすでに宇宙と一体となって、破壊と創造を内在させた遊戯としての構築活動を毎日楽しんで行っているのだと思う。フローニンゲン:2023/12/11(月)05:27


11573. サイケデリック・セッションにおける音楽の重要性:

第22回&第23回のシロシビン・セッションに向けて


昨日の第21回のシロシビン・セッションでは、音楽は前回と同じく禅仏教の音楽を流していた。途中で一度音楽を止めて内側の感覚に深く入って行く時間があったが、それ以外はずっと音楽を流していた。音楽というのはセッティングにおいて最も重要な要素の1つである。流れてくる音楽がどのようなものなのかで知覚体験が変化するのだ。その点を押さえて前回と昨日のセッションを振り返ると、宇宙的な体験や気づきがあれだけもたらされたのは、ひょっとしたら禅仏教のコスモロジカルな力や特性によるものなのかもしれないと思った。とにかく毎回のセッションは創意工夫に満ちた実験の場であるから、次回は音楽を少し変えてみようと思う。今のところ第22回のセッションは、2週間後のクリスマスの日を予定している。狙ってこの日にしたわけではなく、偶然その日になったのも何かの導きだろうか。クリスマスということで、キリスト教に影響を受けた音楽を流すことを検討している。例えばクラシック音楽のヴァイオリン協奏曲をメインとしたり、はたまたバッハのコラール(賛美歌)をかけてみるのが理想的だろうか。このところのセッションは、とにかく人の歌声が無いものばかりをかけていたので、その流れを踏襲するのであれば前者の曲を、その流れを踏襲せずに変化をつけてみるのであれば後者の曲を流したい。人の声が入っている音楽でどこまで体験を深めていけるのかを実験する意味でも後者については要検討である。


そこから2週間後の第23回のセッションは、新年に入ってから行う。2024年の最初を祝うセッションでは、神道の曲をメインでかけてみたいと思う。これはかつてシロシビン・トリュフを摂取していた時に好んでかけていたもので、そこでの体験の深まりは興味深いものであったから、久しぶりに神道の曲を使ってセッションを組み立ててみることを検討する。禅仏教やキリスト教の音楽とはまた違った体験が開かれて行くだろう。そのように考えてみると、自分自身の内側にチョムスキーの普遍文法ならぬ普遍宗教のようなものが内在しているように思えて来る。人間はきっと本来どの言語でも習得できるのと同じく、どの宗教も受け入れることができるのではないかと思う。それができないのは教育や文化によるマインドの調教が大いに影響を与えていて、そうした調教の鎖から自分を解放すれば、いかなる宗教も受容できる本来の自己が立ち現れて来るのではないだろうか。幾分自分にとって遠いが、先般のトルコ訪問によって自分の内側に種が巻かれたイスラム教の曲もいつか試してみる日が来るだろう。そして自分の内側にいるシヴァ神をさらに呼び覚ますべく、どこかでヒンドゥー教の曲をかける日もやって来るだろうという予感がある。フローニンゲン:2023/12/11(月)05:43


11574. 脳ではなく意識に存在する記憶  


昨日のセッションで起こった夢の世界と記憶の世界と現実世界の混淆現象を振り返っている。あの知覚体験を改めて思い出すと、どうやらベルグソン・ハクスリー理論は意識と脳の関係性だけではなく、記憶と脳の関係性においてもうまく説明してくれるように思った。その理論が示すように、脳が意識を生み出しているのではなく、脳はあくまでも意識を受信する存在なのだ。この考え方は自分にとってパラダイムシフトを起こすようなものだったが、この考えは記憶と脳においてもそっくり当てはまると思ったのである。端的には、脳は記憶を生み出すことをしておらず、脳は記憶を格納すらしていない。記憶は意識世界の中にあって、脳は記憶を受診する装置なのではないだろうか。すでに脳科学の研究で記憶と脳の関係性については様々な事柄が分かっているが、発見事象の解釈枠組みが旧態依然とした物質主義的なものなので、多くの科学者は記憶が脳の中に格納されていると錯覚しているのではないかと思う。繰り返しになるが、ベルグソン・ハクスリー理論と自身のサイケデリック体験を紐付けてみた時に、脳の特定の部位やニューロンあるいはシナプスの中に非物質的な記憶が格納されているとは到底考えられず、非物質的な記憶は非物質的な意識の中に存在していて、脳はその記憶に対応した部位を活性化させる形で記憶を映し出しているにすぎないのではないかと思う。まさに映写機のように。


映写機を脳に見立て、映像を記憶と見立ててみよう。するとすぐにわかるように、映写機そのものの中には映像はない。ベルグソンが用いたラジオのメタファーを採用してもいい。ラジオの受信機とラジオ番組の関係を考えてみた時、ラジオ番組は決してラジオそのものの中に格納されているわけではないのだ。記憶は脳の中にはなく、意識の中にあるということ。顕在意識から無意識を経て、集合意識、さらには宇宙意識にまで拡張される形で記憶が格納されている。そのようなことを直観させられる体験が昨日のセッションの中であった。記憶もまた自分にとって非常に重要なテーマなので、今日のどこかで1階に降りて、ベルグソンの“Matter and Memory”の書籍を引っ張り出してこよう。どの段ボールに入っていたかは大体覚えている。またそれに加えて、「記憶の哲学」というキーワードで学術書を探してみようと思う。フローニンゲン:2023/12/11(月)06:10


11575. 意識階層の折り畳みと他者の記憶     


昨日のシロシビン・セッションから一夜が明けて、一夜経ったからこそ思い出されることがいくつもある。そう言えば重要な体験として、昔見た夢がセッション中に数多く走馬灯のように想起される瞬間があった。今「瞬間」と表現したが、実際のところは時間的持続は結構長く、しばらくその記憶映像を眺めながら、かつて見た夢のメッセージを感じ取ろうとしている自分がいた。メッセージを知的解釈するのではなく、体感把握することに努めていたのは自分にとっては自然なことだった。 むしろ言語的な知的解釈をすると、その深層的なメッセージを汲み取れない可能性があったので、自分は目撃者の意識のように、ただただ言語活動を抑え、流れゆく過去の夢の記憶を眺めていた。過去の夢の記憶が再想起されるという現象は今回が初めてだったように思える。意識というのは確かにフロイト的に言えば階層構造になっているが、昨日の体験を通じて思ったのは、その階層構造を全て取っ払い、3次元的意識階層を2次元の平面に次元を折り畳み、全ての意識階層に格納されている記憶を縦横無尽に活用する形で知性を働かせる道である。長年にわたる即興的な日記の執筆、即興的な絵画の創作と作曲実践によって、このところ自分の即興性がより一層増しているのを実感するが、その即興性がさらに高みに向かうためには、3次元の意識階層を行き来するのは煩わしいので、それを2次元に折り畳んで、全階層を一緒くたにアクセスする形で全記憶情報をその瞬間に活用できるようになっていくことが重要かと思う。2週間後のセッションでは、意識階層の溶解がさらに進み、全ての意識階層が渾然一体になるプロセスがどのように進むのかを確認してみたい。はたまたこの現象はしばらくは今回限りのもので、しばらく体験を熟成する期間が必要となるかもしれない。それは天のみぞ知る、ないしは宇宙のみぞ知るである。


その他に記憶にまつわる興味深い体験としては、「果たしてこれは自分の記憶なのだろうか?」と思う知覚体験があったことである。過去の夢の記憶や体験記憶が走馬灯のように想起される中で、どうも自分の記憶ではなく、他の誰かの記憶としか思えないような記憶が混入していたように感じられた。ひょっとしたらそれもまた自分が思い出せないだけで自分の記憶なのかもしれないし、映画や文学作品の中の登場人物の世界に入る形で覚えていた記憶なのかもしれないが、いずれにせよ今の自分では思い出せないようなまるで他者の記憶であるかのような映像が意識空間内に映し出されていた。この点については、先ほど書き留めていた記憶と意識の考え方を採用すると、あながちおかしなことではないかもしれない。記憶は個人の物質的な脳の中にはなく、非物質的な意識の中に格納されているとすれば、自らの意識は他者の意識とシンクロしたり、あるいは他者の意識世界と自分の意識世界が1つになることも可能であるし、集合意識に格納されている記憶にもアクセスが可能であるゆえに、他者の記憶を自分が想起するというのも十分可能であるように思えて来る。このテーマは既存の科学的発想と研究手法では検証が難しいだろうが、トランスパーソナル心理学や超心理学の枠組みであれば実証研究ができるかもしれない。このテーマについては今後のセッションでも引き続き意識のフックにかけておきたい。フローニンゲン:2023/12/11(月)06:34


11576. 昨日のシロシビン・セッションでもたらされた踊りや舞いに関する大きな気づき


シロシビン・セッションはその前にどのような準備をするかが重要であり、またセッションそのものの体験をどのように深め、そこから何を汲み取れるかが重要なる。そしてそれ以上に重要なことは、セッション後の振り返りであり、それはセッションのその日の振り返りだけではなく、翌日以降の振り返りの形を取る。今まさに自分も有言実行の観点から、昨日のセッションを振り返りながら追加で色々と言葉の形にしている。もうすでに昨日の知覚体験で印象的なものを書き留めていたように思うが、まだ書き留めていないもので言えば、踊りの深層的な意味に気づけたことは非常に大きかった。端的には、舞いによって宇宙の中に入れることがわかったのである。こちらの世界ではなくて、踊りを通じて本当にあちらの世界ないしは宇宙の世界に入り、宇宙と1つになることができると体感されたのだ。具体的にはセッションの後半で、ベッドの上に横たわりながら、両手を天井に上げて舞いを踊るような仕草を自然と行っている自分がいた。そこで起きた不思議な知覚現象は、手のひらを返すと宇宙の世界に入ったり、こちらの世界に入ったりがなんと自由自在にできるということであり、それは非常に大きな発見だった。


日本の歴史を遡ると、神楽に行き着く。神楽は、神座に神を招いて、自らの生命力を高めようとする儀式である。あるいは神楽は、神と人間の双方が享楽の境地に入ることを通じて人間が神の力を得ようとするための神事だと言えるだろう。 その起源は古く、まさに「天岩戸伝説」にまで遡るとも言われる。日本の歴史は舞いと共にあったと言えるかもしれない。

そこから時代が下ってくると、平安時代には空也が現れた。空也は踊り念仏を提唱し、一般人が踊り念仏を通じて悟りに至る実践道を示した。その流れを受けて鎌倉時代には一遍が現れ、踊りを通じた極楽浄土への実践道を提唱した。踊り念仏とは本当に理に適っているし、空也と一遍の慧眼には深く敬意を表する。ここから踊りや舞いについても探究したいという思いが出てきたので、とりわけ日本の伝統舞踊に焦点を当てて研究をしてみよう。


そして最後にハッとさせられたのは、そう言えば自分の守護神でもあり、かつ自分自身でもあると気づいたシヴァ神は、インド神話においてはなんと「舞踊の王」とされていることである。シヴァ神の破壊と創造の力の根幹には踊りがあり、踊りを通じて宇宙の律動と深く繋がることによってそれらの力がもたらされていると考えられている。これを知って、ますます踊りや舞いに興味が湧き、単に学術的な研究としてそれを扱うのではなく、自分も伝統的な舞いを習ってみたいと思い始めた。人生がまたこのようにして新たに動き出す。それは宇宙の律動に従った動きであり、流れである。自分は宇宙の律動を感じ、それと一体となってこれからも生きる。フローニンゲン:2023/12/11(月)07:02


11577. 昨日のシロシビン・セッションによって気づかされた成長の意味/

今朝方の夢の続き


天から降り注ぐ雨音が消え、午前8時半を迎えた今、ようやく辺りが明るくなり、外の世界の様子が見えてきた。裸の木々の枝に雨滴が付着していて、雨が訪れた様子が見て取れる。

成長の意味。それはこの世界でより広く深く遊ぶためにあったのだ。そのような気づきがやって来た。この気づきはもちろん昨日のセッションによってもたらされたものだろう。なぜ人は成長するのかは形而上学的な問いのように思えていたが、そのなぜに対して今の自分であればそのように答えるであろう。人が成長するのは、この無限に広い宇宙の中でより広く深く遊ぶためだったのだ。宇宙で遊び尽くすために人は成長する。少なくとも自分はそのような成長観を得た。そして、その成長観に基づいて自らのさらなる成長を実現させていき、広く深くこの宇宙で遊ぶ。自分のこれからの人生はそのような形で進展していく。


起床してもう5時間近く経とうとしているが、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私は、中学校時代の部活の顧問の恩師と大学時代のゼミの幹事の女性友達と一緒にスマホのゲームで遊んでいた。そのゲームはダンジョンを攻略していくもので、画面に表示された数字をスマホから入力することでキャラクターをダンジョン内で動かすことができた。しかし、画面に表示された数字を速やかに入力することは意外と難しく、ミスをして違う数字を入力してしまうことがたびたびあった。時間の経過と共にダンジョンの地形が変わり、その地形変化に応じて入力するべき数字も変わるので、両方の変化に対応するのは難しかった。また、ダンジョンの地形はますます複雑に変化していくので、数字の入力の難易度も上がり、ダンジョンの攻略の難易度も自ずから上がっていった。私はあるところでもうこのゲームはいいやと投げやりになった。最初こそ凄く面白いゲームを見つけたと心の中で思っていたが、いざやり始めるとそうした困難さに直面し、ゲームを進めていくことが煩わしくなってしまったのである。自分にはもっと楽しめる遊びがあり、その最たるものは学術研究であることを思い出し、先生と友人には申し訳ないが、自分はその場を離れることにして、自分が最も楽しめる遊びである学術研究を行うために家に帰ることにした。そのような夢を見ていた。この夢においても遊びがキーワードになっている。どうやら自分の日々の学びと実践の全てが遊びのようだ。ここからまた正午にかけて行う読書も遊びであり、午後にジムで筋力トレーニングをするのも遊びである。きっと食事も睡眠も、果ては呼吸までもが自分にとっての遊びであり、宇宙遊戯なのだと思う。フローニンゲン:2023/12/11(月)08:58


11578. スキルの所在/多元宇宙/

カート・フィッシャー教授の「脳成長仮説」とサイケデリクス 


記憶が脳の中に格納されているのではなく、意識の中に格納されているのと同じく、発達心理学者のカート・フィッシャーが述べるスキルもまた脳の中に格納されているのではなく、意識の中に格納されていると考えるべきだろう。私たちの能力は物質的な脳の中にあるのではなく、意識の中にあるのである。スキルや能力の存在論としてそのように捉えることができるのではないかと思う。この考え方を採用すると、グレゴリー・ベイトソンのエコロジカルマインドの深層的な意味も見えてくるのではないかと思う。


目を閉じた状態で意識を集中させると、過去の記憶として生き直すことが可能になるという体験。かつて見た夢の世界の中で生き直すことが可能になるという体験。そう言えばそのような体験も昨日のシロシビン・セッションの中であった。一念の中に一世界あるいは一宇宙があり、一念を通じてその世界を生き直すことがありありと可能であった体験がセッションの中であった。その体験中はベッドの上にいる物理的現実世界の世界とは違う世界に自己があるいは自己霊が参入していて、物理的現実世界にいるという感覚は一切なかった。自己霊は多元宇宙に参入できることを物語る体験だったように思う。また、常に自分の一なる巨大宇宙には記憶や夢によって織り成される宇宙が無限に存在していて、いつでもそれらの1つ1つの宇宙の中を生き直すことが可能であることを示唆しているように思えた。自己霊と多元宇宙の関係性についてこれからさらに探究をしていき、セッションを重ねる中で多元宇宙への参入機会を増やし、直接体験を増やす形で考察の材料を得たいと思う。


カート・フィッシャー教授が1987年に提唱した「脳成長仮説」は、その後の発達心理学と神経科学を架橋させた研究によって実証され、仮説から理論となった。その理論は何かというと、新たな発達段階の出現は、神経ネットワークの新たな形成によってもたらされるというものである。この理論をサイケデリック体験と絡めてみると、サイケデリック科学者のロビン・カーハート・ハリスたちの研究部隊が明らかにしているように、シロシビンやLSDといった古典的サイケデリクスは脳神経を再編成させ、脳の可塑性を高める形で新たな神経回路ネットワークを構築する働きをする。当然ながら発達段階の高度化に向けては学習と実践がなければならないが、学習と実践を積み重ねた上でのサイケデリクスの摂取は、高度な発達段階を促進する大きな働きを持つのではないかと思う。


今、再び発達心理学の学術書を片っ端から読み返しており、それを通じて様々な仮説や理論を整理し、サイケデリクスと絡めて新たな仮説や理論を創出したり、サイケデリクスが人間発達に対して果たす役割について発達心理学の観点からも考察していきたいと思う。フローニンゲン:2023/12/11(月)09:33


11579. 第21回目のシロシビン・セッション後のジムでの筋力トレーニングを終えて  

 

小鳥たちが夕方の世界で音楽を奏でている。その鳴き声はとても美しく辺りに響き渡っている。時刻は午後4時を迎えた。先ほど、第21回目のシロシビン・セッションの次の日の筋力トレーニングを終えてジムから帰って来た。今日もまた大変良い汗を流した。シロシビンの良さは翌日に疲労や違和感を残さないことであり、むしろ生まれ変わったかのように感じられる身体で次の日を迎えられることである。昨日のセッション中は細胞が若返っていくような感覚があり、5歳の頃の細胞の若さまで若返っていくかのような感覚があった。これも1つのビジュアリゼーションの技術かもしれないが、マインドの力を活用し、シロシビン・セッションの最中には全身の細胞が若返っていくようなイメージをこれからも持っていきたいと思う。


今日は自主トレーニングの日だったので、自分のペースで必要な箇所を鍛えていった。パーソナルトレーナーのエリーザからこの1年間で創意工夫に満ちた様々なトレーニングを教えてもらったおかげで、自主トレーニングの際にも自分で色々と工夫してトレーニングを行うことができている。今日はバランスボードを活用した下半身のトレーニングを取り入れてみたり、ダンベルを用いたハムストリングのトレーニングなどを新たに行っていった。そして久しぶりにアブローラーを使って腹筋を鍛えていった。先日新しくやって来た器具を用いての腹筋トレーニングは相当に効き、なんとそこから1週間は腹筋が痛い状態だったので、腹筋をもう少し定期的に鍛えていこうと思った。木曜日のパーソナルトレーニングではその器具にリベンジを果たしたいと思う。


今日の有酸素運動は大変気持ちの良いものだった。しっかりと汗をかき、本当にフレッシュな気持ちになった。昨日がシロシビン・セッションだったこともあり、目を閉じると集中力が第三の眼に集まってくることが容易に感じられ、その恩恵を受けて目を閉じながらローイングマシンを12分ほど漕いだ。目を閉じて身体の内側を感じたかったこともあり、強度はいつもの8から7に落とした。12分ほどローイングマシンを使った後は、ランニングマシンに移動し、20分ほど走り、マシンの上で徐々に速度を落としていく形で3分ほどクールダウンを行った。時間の推移に合わせて時速を0.5km上げていくことによって心肺機能を鍛えていった。心肺に一定の刺激ではなく異なった刺激を与えることで心肺を鍛えることはとても効果的のようだ。ランニングの最中は呼吸のリズムに合わせて「ワンツー」と繰り返し唱えていく数を数える瞑想法に近い実践を今日も行った。次回のシロシビン・セッションに向けて、ここからまた余念なく身体と集中力を高めていく。それはシロシビン・セッションのみならず、毎日の学術研究を行う際の絶対的な支えになる。フローニンゲン:2023/12/11(月)16:30

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page