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11545-11555: フローニンゲンからの便り 2023年12月9日(土)



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成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11545. シロシビン・マッシュルームの収穫をして

11546. 今朝方の夢

11547. 空性の認識の体現/アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の適用

11548. 癒しと成長をもたらす哲学

11549. サイケデリクスに関する対極的な実践の試み/ホロン創出の連続的なプロセスとしての意識

11550. 「意識=リアリティ」/絶対性と教育道

11551. 成人発達理論やインテグラル理論と出会えたこと

11552. 絶対無としての意識とリアリティ/偉大な宗教思想と哲学思想の背後にあるサイケデリック体験

11553. 絶対無矛盾としての自己認識と自己の存在拡張

11554. クロレラへの敬意/「ホモ・センソリウム」に向かって

11555. 第21回シロシビン・セッションを日曜日の明日に行うことにして


11545. シロシビン・マッシュルームの収穫をして


時刻はゆっくりと午前4時に近づいている。室温は20度を示し、20度以上であればさほど寒さを感じないのでこのくらいの温度で室温が保たれることを願う。外気の温度が低いとどうしても20度を下回ってしまうことがあり、それによって寒さを感じてしまうだけではなく、シロシビン・マッシュルームの発育にも良くないので、この調子で気温を維持して欲しいと思う。天気予報を確認すると、早朝のこの時間の気温が一番高く、なんと今は8度もある。そのおかげで室温が20度に保たれているのかもしれない。今日はここから少し気温が下がって6度で落ち着くようだ。6度の気温が朝から夜までずっと続き、夕方から強風を伴う雨が降るそうだ。今日はそのような天気の中で過ごす。


今朝方も午前3時過ぎに起床した。起床してシャワーを浴び、2階に移動して水を飲んで真っ先に行ったのは、シロシビン・マッシュルームの収穫だった。昨日の段階で随分と大きくなっているマッシュルームが数本あり、それらの収穫は今日だと思っていた。なので今朝方起きて、昨日からさらに成長した大きめのマッシュルームを数本と、それに付随してなかなかの大きさになっているマッシュルームを何本か収穫した。フレッシュな状態で合計37gほどの収穫となった。まだ収穫には早いマッシュルームが15本ぐらいあって、そちらの方が数としては多いので、明後日ぐらいにまた収穫をしたいと思う。2周目の栽培もうまくいって本当に嬉しく思う。


先ほど収穫したマッシュルームは早速オーブンで乾燥させることにした。まだ前回に収穫したマッシュルームが半分ほど残っていて、それらは次回のセッションで活用する予定だ。前回の乾燥プロセスを振り返ると、6~8時間の乾燥では完全乾燥を実現することはできなかったので、少なくとも10時間ほどはオーブンにかけたいと思う。前回と同様に、最低設定温度限界の50度でまずは最大稼働時間の5時間オーブンにかけ、そこからさらに5時間ほど乾燥させたい。10時間の乾燥を終えたらそこで一度重さを測り直してみる。37gからどこまで重さが減ったのかを確認し、乾燥の度合いを見てさらに数時間ぐらいオーブンにかけ、そこでまた重さを測って、10時間の乾燥からさらに乾燥が進んだのであれば、10時間ではまだ完全乾燥が実現できていなかったと判断し、今後のオーブンでの乾燥に活かしたい。

前回のセッションは先週の金曜日で、今はまだシロシビンに対する耐性が構築されている状態だろうか。もちろん前回からすでに7日が経ったので、耐性も随分と弱まっているかと思う。これまでの科学調査の中では、大体14日ぐらいが耐性が維持される期間とのことだが、それにはもちろん個人差があり、自分の場合はどうなのだろうと気になるところだ。自分の耐性を確認する意味で、ひょっとしたら明日にまたセッションを行ってみるのもいいかもしれないし、予定していた来週の金曜日ではなく、水曜日にセッションを行ってみることを検討している。栽培にせよ、セッションの頻度にせよ、色々と創意工夫と実験により、色々なことがわかってくることが実に面白い。フローニンゲン:2023/12/9(土)04:05


11546. 今朝方の夢   


時計の針は午前4時を過ぎたことを示している。今、静寂な世界の中でオーブンが稼働する音が静かに聞こえてきて、収穫したマッシュルームたちがゆっくりと乾燥されていくのを想像している。そして、次回のシロシビン・セッションがどのようなものになるだろうかと期待と共に想像している自分がいる。


今朝方は断片的にいくつかの夢を見ていた。まず覚えているのは、高級ホテルのような姿をした研修施設に宿泊していた場面である。そこで私は、現在開催しているオンラインゼミナールの受講生の方々と一緒に勉強会をしていた。勉強会は大いに盛り上がり、一旦それぞれの部屋に帰ることにし、そこから大浴場で入浴をすることにした。その施設には2つの大浴場があって、最初私は偶然にもその施設で出会ったかつての親友と一緒に大浴場に行こうと思った。大浴場に到着する目前で、衣服に関して忘れ物をしたと思ったので、親友には先に温泉に入ってもらうことにし、自分は着替えを取りに部屋に戻ることにした。少し引き返したところで手元を見るとすでに着替えを持っていたので、再び大浴場に行こうと思ったが、そこでばったりとゼミの受講生の数人と出会い、彼らが向かう温泉に私を誘ってきた。もう一方の温泉で親友が待っていたので、受講生の方々からの誘いを断り、彼が待つ大浴場に向かった。だがそこでふと、この施設がかなりの広さを持っていることもあり、彼がいる大浴場がどこにあるのか分からなくなってしまったのである。今すぐにでも温泉に浸かりたい気分だったので、彼が待っている大浴場に行くのが面倒になり、ゼミの受講生たちがいる大浴場に行こうかと思ってそこでまた引き返した。引き返す一歩を前に出したところで夢の場面が変わった。


その他に覚えているのは、見知らぬ日本人の会社員たちが世界のどこかの国の都市に集まって、そこでクイズ大会に出場している場面である。私はその場にいるようないないような、夢を半目撃するような存在として彼らの様子を眺めていた。参加者はそれぞれの会社を代表してクイズ大会に参加しており、参加者は一様に若かった。20代前半から30代前半ぐらいの参加者たちが、外国の都市の一角で開催されるクイズ大会に参加し、それぞれの会社のプライドをかけて競い合っていた。クイズの進行の中で、問題に正解すると正解者が出身大学を述べる決まりになっていた。ある参加者がオランダの大学の出身であることを知って興味を持ったが、私はその大学を知らなかった。そこからはその参加者がその大学のある都市について簡単に全員に紹介した。すると突然、私の左横に父がいて、オランダという国の成り立ちについて私に質問してきた。そこで私は、オランダは12の独立した州からなっていて、それぞれの州ごとにフラッグがあることを紹介した。それはさながらアメリカの州のようであり、「オランダ」という名前の由来の“Holland”と“Netherlands”という呼び名の違いについて国の成り立ちの観点から説明した。その説明に父は納得したようで、それを受けて父は消え、引き続き私はクイズ観戦を楽しんだ。フローニンゲン:2023/12/9(土)04:24


11547. 空性の認識の体現/アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の適用


シロシビン・マッシュルームの乾燥が無事に進んでいるのを静かに喜んで眺めている形で土曜日の朝がゆっくり進行している。今し方モーニングコーヒーを淹れたので、ここから本格的に今日の読書を始めていこう。今時刻は午前5時半をちょうど迎えたところなので、午前10時から行われる第58回のゼミナールのクラスまで4時間半ほどの時間がある。


昨日、自分という存在は、「Aである」と「Aではない」をいくら積み重ねてもそれらを超える存在なのだとふと気づいた。それをもって自己は空的存在と言うのだろう。おそらくこれは自己に対してだけ当てはまるのではなく、万物に対して当てはまるのだ。やはり万物は空的存在なのである。空性に目覚めると、なんだか心が広くなった感じがする。空性の認識は解放への扉なのだろう。万物の空性に気づき、その扉を開けると、そこには無限の可能性と創造性に満ちた万物が集う世界が開かれてくるのである。今自分はそちらの世界に絶えずいる。そちらの世界から扉の反対側の世界に働きかけていくこと。空性が隠され、分断された世界に対しての寄与にこれからより一層励んでいく。


今日はこれから日本思想に関する書籍の再読にまず取り掛かる。その際に、日本思想、とりわけ京都学派の思想に体現されている絶対無、非二元性、空性に関する議論を丹念に追いたい。それらの主要概念はサイケデリック哲学の中で是非とも深く取り上げていきたいものである。また、自分のサイケデリック体験を紐解く際にもそれらの概念は鍵を握る。自分の現象学的体験としてそれらの概念が具体的にどのような知覚体験として立ち現れるのかに注目し、それを自分の言葉で掘り下げていく際にそれらの概念は非常に重要な足掛かりとなる。自らのサイケデリック体験を基にしたサイケデリック哲学の研究においては、当面は日本思想を中核に据え、それに加えてシャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の洞察も活用したいと思う。アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の中心はなんと言っても不二一元論であり、アートマンとブラフマンの同一性を説き、ブラフマンこそ唯一のリアルであるとする。この「ブラフマンだけが実在する」という立場には否定的な見解を自分は持ち合わせているが、最終的に一者を重視し、一者と自己の同一性を説くという点では自分の立場と似ている。今日の読書を通じてまたどのような新たな発見や洞察が得られるか。それを楽しみにしながら読書を進めていこう。フローニンゲン:2023/12/9(土)05:43


11548. 癒しと成長をもたらす哲学   


哲学の探究が自己を癒し、自己を変容させる実践になっていることを実感する。哲学とは単に文献を読んで、文章を書いていくことだけを意味しない。かのソクラテスは文章を何一つ残さなかった。一方、現代の哲学者はアカデミアのルールに縛られて、テキストを生成することに躍起になっている人が多いように思える。


哲学(philosophy)の語源はそもそも “philo”にある。それは「愛する」ことなのだ。知を愛するだけではなく、自分自身、他者、そして世界そのものを愛することから出発し、愛を深めていくのが哲学という実践なのではないかと思う。それはアカデミアに閉じられた学問を超えた自己涵養的実践なのである。


時に自分の頭だけで一から何かについて考えることもあるが、哲学者が残した文献はもちろん貴重であり、文献を起点にして自分の言葉と向き合い、自分の言葉を紡ぎ出していくことを意識している。そこで重要になるのは自分の言葉であり、それと向き合い、新たな言葉を自分の内側から生み出していくことが治癒と変容につながるのだと思う。自分はこれから「空性」「絶対無」「非二元」といった言葉と深く向き合っていく。その過程の中で自分の内側から生まれてくる言葉と絶えず向き合っていくことになるだろう。そしてそれらの概念に対して自分固有の体験と紐付けた独自な意味解釈が生まれ、それが土壌となって新しい言葉が育まれていくことを期待したい。自己は育まれていく生命なのだ。自分を惹きつけてやまない概念は自己の養分となり、そこから想起する自分の言葉もまた養分となって新たな自己という種を育ててくれる。種が芽を出し、十分に育つ頃、実りとしての新たな自らの言葉が生まれ、それを収穫する時がやってくる。


これらの一連のプロセスは植物を育てるプロセスやキノコを育てるプロセスに似ている。そうした生命を育てる中でも癒しと成長がもたらされ、重要なことは生命と向き合い、生命を育てることなのだとつくづく思わされる。フローニンゲン:2023/12/9(土)06:15


11549. サイケデリクスに関する対極的な実践の試み/

ホロン創出の連続的なプロセスとしての意識


サイケデリクスに関する実践として対極的な試みを常にしたい。そんな思いを改めて持った。自分にとってはサイケデリック研究もまた1つの実践であり、そこでは非常に抽象性の高いテーマを扱いたいと思う。それは今朝方の日記でも書き留めていた「空性」「如性」「絶対無」「非二元」などに集約される言葉を絡めたサイケデリクスを通じた現象学的体験の研究となる。もちろんここに先端的なサイケデリック科学の文献調査も絡んでくるが、それらはどれも抽象次元の高い実践となる。その対極にある具体性の高いテーマも実践として扱いたい。それはおそらく政治的なものであり、とりわけサイケデリック規制に関するものになるだろう。もちろん自らがサイケデリクスを摂取するというのも具体的な実践なのだが、それは実験的な意味合いもあるし、個人的なものなので、大学機関に所属する人間として行う具体的な実践としては、サイケデリック規制の改革に協力していくことが自分にとっては最も具体的な形となるだろう。抽象と具体の双方を絶えず意識していくこと。片方の極に偏ると、それは自己を破綻させかねないし、世界への貢献が非常に限定的になる。今の自分は、研究においてはとにかく最も抽象的な概念をベースにして、意識とは何か、リアリティとは何かについて絶えず研究していき、それに関する論文や学術書を執筆することに注力する。一方、具体的現実世界においては、サイケデリック規制の変革に対する関与をしていきたい。それは自分にとって地に足をつける実践にもなる。サイケデリクスという存在がただでさえ天の世界に誘うものなので、必ず地の世界を扱う実践がなければならない。そのようなことを考えていた。


部分と全体、部分と全体、部分と全体・・・。新たに絶えず部分と全体というホロンが生み出されていくプロセスそのものが意識だと言えるだろうか。意識の本質にホロンの連続的な創出があるように思えてくる。そんな一なる連続的なプロセスとしての意識から差異化されて生まれてくる部分は意識そのものではない。それはプロセスの産物であって、プロセスそのものではないのだ。とりわけ科学の観点から意識を扱う科学者はこの点を見過ごしているように思える。脳内で立ち現れた現象や意識の機能に注目した研究を多く見るが、それらはあくまでもプロセスとしての意識から生み出された部分に過ぎないのである。部分の単純な総和が全体を構成しないというのはシステム理論の基本的な考え方であり、科学的な手法で意識を研究する科学者たちは何か方向違いなことをしているように思える。もちろん彼らの研究のおかげでプロセスとしての意識から生まれる部分としての各種性質や機能などが明らかになってきていることは大変素晴らしいことである。しかしそうした研究では意識そのものが何かという意識の本質はわからないままなのである。それを解明するのがサイケデリック哲学に求められていることかと思う。西田幾多郎の一連の考察を辿っていると、彼の禅体験をベースにした哲学実践は、どこかサイケデリック体験をベースにした哲学実践を試みる自分の姿を重なって見えてくる。また西田が行っていたのはまさに直接体験をベースにした意識の本質探究およびリアリティの本質探究だったのである。西田の哲学実践の方法を参考に、自分もまた同様のテーマの探究に全身全霊で取り組みたい。フローニンゲン:2023/12/9(土)06:40


11550. 「意識=リアリティ」/絶対性と教育


西田幾多郎は大変今日深い指摘をしている。意識とは何かを理解するためには、リアリティとは何かを理解しなければならないと。おそらくこれは逆も成り立つのではないかと思う。リアリティとは何かを理解するためには、意識を理解しなければならないだろう。そこから西田先生は、「リアリティは意識の活動なのである」という趣旨のことを述べている。ここでは、「意識=リアリティ」という図式が提示されていることがわかる。意識の活動は動的なリアリティなのである。究極的には、意識はリアリティであり、リアリティは意識なのだろう。確かに個人の意識はその個人のリアリティであり、集合の意識は集合のリアリティに対応し、究極意識は究極的リアリティと同じであるとみなせなくもない。むしろ意識とリアリティの完全な合致を見る。それらをあえて分けて考えることによって、意識とリアリティの双方をそれぞれ深く理解していくことを通じて、究極的に一致している意識とリアリティが何かを把握していくことが大事なのだろう。今まさに自分が行っている探究アプローチはそのようなものになっている。


絶対性を求める自分。かつて相対主義的な世界にあった自分は絶対を拒絶していた傾向がある。しかし今は、相対的な世界を貫く絶対性を強く自覚して日々を過ごており、その絶対性に対してもう少し自分なりの言葉を当てたいと思っている。このリアリティを貫く絶対性を理解することは、絶対的な安心感を生む。現代人の不安の根源には、絶対性を発見することの失敗があるのではないだろうか。絶対性の発見は、ひるがえって自らの固有性に目覚めることにもつながる。自らの固有性もまた絶対性から生まれた絶対的なものであり、否定することのできないものなのだ。そもそもこのリアリティは絶対であり、相対的な側面はその数々の表情に過ぎない。無数の表情の奥にある一なる絶対を捉えること。それを直感的かつ直観的に捉えて、それと一つになること。そうすれば、絶対的な安心感の中で唯一無二の自分の道を歩みながらこの絶対的リアリティに何かしらの貢献ができるだろう。そのようなことを考えていると、教育の究極的な目的はこの絶対性の発見にあるのではないかと思えてきた。もちろんそれを明示的な目的に掲げる必要はないが、少なくとも現代の教育のように相対的なものを知識情報として詰め込むのではなく、絶対に眼差しを向けたものである必要があるように思えてくる。現代人が抱える漠然とした不安の根幹には絶対性を発見することの失敗があり、絶えず絶対性に眼差しを向けた形での教育実践が子供や大人が絶対性に目覚めさせることを支援し、漠然とした不安を抱くことなくその人なりの人生を歩むことを後押しするのではないだろうか。絶対性という抽象的なテーマもまたこのように教育という具体的なテーマにつながっていく。抽象性と具体性もまた1つの絶対性を構成していることがここからもわかる。フローニンゲン:2023/12/9(土)07:08


11551. 成人発達理論やインテグラル理論と出会えたこと


ここ最近は起床時間が早くなり、午前中に活動できる時間が増加したことに伴ってか、午前中の活動には温かいコーヒーを欲する自分がいる。カフェインが体から抜けていく時間を考慮して、コーヒーを飲むのは遅くても正午までとしている。午後からは一切コーヒーを飲まず、水だけで過ごしている。先ほど本日2杯目のコーヒーをフレンチプレスで淹れた。今コーヒーの漂う香りを味わいながら、抽出が終わるのを待っている。


コーヒーを淹れている最中にふと、成長に関するメタ理論としての成人発達理論とそれを包摂したメタ理論としてのインテグラル理論がなければ、自分のサイケデリック研究と実践はにっちもさっちもいかなかったであろうことを思った。2つのメタ理論が研究と実践におけるこれ以上ないほどの信頼に足る見取り図を提供してくれていて、その地図に沿って実際の土地を歩むことの楽しさに満たされている。


今こうしてサイケデリクスへの目覚めを通じてその研究と実践に日々没頭できている背景には、それら2つのメタ理論の習熟と熟成があったのだと思う。きっとサイケデリクスはそれを待ってくれていたのだろうし、それを実現させてくれた自己を超越した世界はそれを待ってくれていたのだと思う。


ここ数年間はもうめっきり読まなくなっていた成人発達理論に関する学術書をここ最近は読み返すようにしている。サイケデリクスの観点で改めてそれらを読み返してみると、これまで気づかなかった気づきや発見がどんどんと現れてくるので興味深い。とりわけ高次元の発達段階や意識状態に関して、自らのサイケデリック体験と照らし合わせることによって、自らの身体知に根付いた発見や洞察が得られているように思う。ここから成人学習に関する学術書も改めて読み返していこうかと考えていて、サイケデリクスの実践を成人学習の一環として行うプログラムをデザインすることを支援したいという思いがある。実際に、自らのサイケデリック・セッションは成人学習の一環として存在している。


成人発達理論やインテグラル理論と出会えたこと。それは奇跡のような出来事であり、それを思うと多大な感謝の念で一杯になる。そしてそれらとの出会いがサイケデリクスとの出会いを導いてくれたことを思うと、さらなる感謝の気持ちで満たされる。出会いの連続の最中で深層的な出会いをしたのがサイケデリクスだった。そうして出会ったサイケデリクスに対する研究と実践を、かつて運命的に出会った2つのメタ理論が支えてくれている。人生は誠に不思議なものである。今の自分に言えることは、それら2つのメタ理論が自分を絶対的に支えてくれているのだから、サイケデリック研究とその実践はこれからますます実り豊かなものになり、きっとこれからもまた新しい様々な素晴らしい出会いをもたらしてくれるであろうという確信があることだ。フローニンゲン:2023/12/9(土)07:41


11552. 絶対無としての意識とリアリティ/

偉大な宗教思想と哲学思想の背後にあるサイケデリック体験 


先ほど意識とリアリティを1つの連続的な絶対的プロセスとして捉えていたが、そこには意識とリアリティの基盤としての絶対無の観点が抜け落ちていたことに気づいた。絶対無の観点を導入すると、意識とリアリティはプロセスでもあり、同時にプロセスではないことが見えてくる。意識とリアリティがプロセスとしての性質を持つ点にはついてはすでに述べた通りだが、意識とリアリティは絶えず絶対無に寛いでいるのである。そして意識とリアリティは絶対無と非二元でもあるのだ。絶対無はプロセスではない。それは絶対的な基盤なのである。プロセスには流れゆく時間の感覚がつきまとう。意識もリアリティも確かに生成流転する性質があり、それは時間を通じて立ち現れる。しかし、意識もリアリティも時間を超えた性質がある。絶対無とはまさに時間を超えた永遠的な基盤なのである。それは時間の枠組みを超えて存在していて、常に存在している基盤なのだ。


そうなってくると、昨日考えていたサイケデリック体験から得られる3種類の知識についても新たな洞察が得られるように思う。それら3種類の知識をプロセスから得るのか、絶対的な基盤から得るのかという2種類の知識獲得アプローチがあり、それぞれのアプローチによって得られる知識内容も異なり得る。それらの現象学的知識内容を精査することは今後の研究の1つのテーマになると思った。サイケデリック体験から得られる事実的知識、手続き的知識、既知的知識のそれぞれに対して、そのような研究テーマで取り組んでみよう。


なぜ今こうして禅仏教やヒンドゥー教の根幹思想を学んでいるのだろうか。そのような問いが浮かんだ時、それらの思想の根幹にサイケデリクスが存在しているからだと思った。ソクラテス、プラトン、アリストテレスたちが「キキオン(カイキオン)」と呼ばれる麦角菌起源のサイケデリクスをエレウシスの秘儀の中で定期的に摂取していたことは、もはや考古学的な調査や文献学的にも明らかであり、それと同様に、仏教の開祖のゴータマ・シッダールタもまた何かしらのサイケデリクスを摂取していた可能性が高いというのがサイケデリック宗教学・文化人類学研究者の中での共通見解である。少なくとも、仏教もヒンドゥー教もそれらの古代の芸術作品が示しているように、シロシビン・マッシュルームを摂取していたことは間違いなく、それらの思想の本質にはサイケデリック体験があると言えるだろう。逆に言えば、サイケデリック体験がなければあれほどまでの本質に辿り着けなかったであろうし、宗教体系を築き上げるところまで思想が発展していかなかったのではないかと思われる。


やはり自分はサイケデリクスの匂いを嗅ぎ分けているのだと思う。古代中世の哲学思想から現代思想にかけて、自分の関心を引く哲学者たちはやはり何かしらのサイケデリック体験がある。そして上述のような伝統的宗教の隠れた深層部分にはサイケデリック体験がれっきとして存在しており、だからこそ自分はそれらの思想に関心を持っているのだと思う。夜が明けるまであと一歩のところまで来た朝の世界の中でそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/12/9(土)08:14


11553. 絶対無矛盾としての自己認識と自己の存在拡張


ますます自分になることは、ますます自分でないものになること。ますます自己の本質に迫っていけばいくことは、ますます自分ではないものに迫っていくこと。そうした一見相矛盾するかのようでいて、それは全く矛盾しないという絶対無矛盾としての自己認識と自己の存在拡張を感じる。自分を知るというのは自分ではないものを知るということであり。自分ではないものを知るというのは自分を知るということなのだ。そしていずれの場合においても、自分は知る者も知られる者も超えた存在としてただありありと常に存在しているのである。その明瞭な存在顕現感覚がある。


自己は有形であり、自己は無形である。自己は形のある形無き存在であり、自己は形のない形有る存在である。そしてはたまた、自己はそれらの有形無形の存在を超えた者として存在し続けている。それを直観把握し、その感覚を体現した形で自己は今に完全なまでに寛いでいる。


かつて道元は「一方を証する時は一方は暗し」と述べた。まさに本来は絶対無矛盾的自己の両側面のうち、片方を見るともう片方は盲点として見えなくなる。だが、それらもまた実際には一つのものとして全体把握ができる。まるで今の自分には万華鏡の中の千変万化する世界を眺めながら、同時に万華鏡そのものと、それを眺めている自分までもが同時に把握できるかのような認識力が息づいている。しかもそれは絶えず活性化されていて、日中は絶えずそのような認識で自己と世界を眺めているかのようだ。あとはこの状態が夢の世界でも具現化されることだろうか。それがおそらく次のステップになるだろう。

自己は不一不二的存在。すなわち、一でも二でもない存在。その自己感覚を大切にし続けて日々を生きたい。その思いを汲む形で1羽の小鳥が鳴き声を上げ始めた。フローニンゲン:2023/12/9(土)09:29


11554. クロレラへの敬意/「ホモ・センソリウム」に向かって 


正午過ぎに仮眠を取り終えたあと、近所のショッピングモールに行ってヘンプパウダーなど、タンパク質を補う健康食品を購入してきた。久しぶりにクロレラを摂取したいと思い、30億年前から地球に生息しているこの微生物のパウダーを再び夕食時に取り入れてみることにした。それは毎日摂取するのではなく、夕食としての茹で野菜に八丁味噌を和える日にそこに振りかけるようにする。ゆずポン酢でさっぱりと茹で野菜を食べたい時にはクロレラは振りかけない。そのようなルールで夕食を味わいたい。サイケデリック実践においては天然系のシロシビン・マッシュルームを愛好しており、菌類への愛は深い。どうやら地球最古の菌類は10億年前に誕生したらしく、クロレラは最古の菌類よりも長い歴史を持つため、クロレラに敬意を払ってしまう。クロレラの光合成の力、細胞分裂の力は凄まじく、彼らの生命力をこれから再び夕食を通じて分けてもらうことにした。それを通じて、自分の心身がまたどのように変化するのかを観察してみよう。


それではここからは夕食準備まで再び読書に取り掛かる。午前中の読書はゼミナールのクラスの開始と共に一旦中止し、午後からの読書はここからが本格的なものになる。今日のゼミナールのクラスを振り返ってみると、今日もまた少人数ではあったが、その分深い対話が行えたように思う。今日のクラスの中で出てきた話題をもとに来週に向けて自分も考えていきたいのは、テクノロジーとサイケデリクスの関係性、スポーツとサイケデリクスの関係性、シロシビン・マッシュルームの性質から考える自分の生き方の指針などである。テクノロジーとサイケデリクスについてはここ最近の大きなテーマになっており、サイケデリクスの観点からテクノロジーを考えるという思考ベクトルと、テクノロジーの観点からサイケデリクスを考えるという思考ベクトルがあり、それに加えて両者の相違点と共通点を考える思考ベクトルがある。スポーツとサイケデリクスについても同様の思考ベクトルから考えていくことができる。それらのベクトルの向きを意識して、今後それらのベクトルを念頭に入れてあれこれ考えを巡らせてみたいと思う。マッシュルームの性質から考える生き方については、マッシュルームが自然環境の中で生きていく自己保存の力と環境適応の力の2つの側面から考えていきたい。前者については過度に自己防衛的になってはいないかという観点で自分を内省することができるし、新たな環境に飛び込んでいく際の自分の適応力の性質を見ていくことも興味深い。それ以上に、菌類の繁殖力と菌糸体を通じてのコミニケーション能力には目を見張るものがある。まさに『センス8』のドラマで登場する「ホモ・センソリウム」のように、超常能力神経の働きによって人々と交流することができたらと思うことがある。もしかしたら今後シロシビン・マッシュルームを定期的に摂取していくことを通じて、神経細胞に進化が起こり、DNAレベルでの変化と共にそのような能力が獲得されるかもしれない。そうなってくると、それは超心理学(parapsychology)の分野における探究とも繋がってくる。今後のサイケデリック研究と実践がますます楽しみになってくる。フローニンゲン:2023/12/9(土)14:52


11555. 第21回シロシビン・セッションを日曜日の明日に行うことにして    


午後の読書を始めたところ、天気予報よりも早く小雨が降り始めた。早朝の天気予報では強い風を伴うとのことだったが、今は風はさほどではない。先ほど買い物を早めに済ませておいて良かったと思う。雨が降り始める前に帰って来れた自分は本当に運がいい。自分の運の良さをもたらしてくれている存在にいつも感謝の気持ちで一杯である。


さて当初の予定では、来週の金曜日にシロシビン・セッションの第21回目を予定していた。2週間に1度のセッションを通じて、それは自分の内面と向き合うリトリートとしての時間にもなるため、月に2回のセッションのペースは望ましいかと思った。しかし実験的に、自らのシロシビンへの耐性度合いを把握するために、明日にセッションを行ってみようかと思っている。仮に明日にセッションをする場合には、前回から丸8日ほど時間が経っていて、9日目の昼前にセッションを開始することになる。平日と週末の土日では辺りに流れているエネルギーが若干異なる。自分の生活リズムは平日も週末も変わらないのだが、世間がやはり休日モードに入っている土日は、平日以上に穏やかで落ち着いた雰囲気が漂っているように感じられる。それは社会的な集合意識が自分にそのように感じさせるのかもしれないが、これもまたセッションにおける広義のセッティングの要素である。日曜日にはジークンドーのプライベートセッションが入る時があり、両親とのZoomミーティングが入る時もあるので、セッションは2週間に1度の金曜日に行うのが良いかと思っていたが、自分のスケジュールは柔軟に変更できるので、基本的には日曜日にセッションに行うこととし、何か予定が入っていたら平日に行うようにしたいと思う。金曜日の場合には、前日の木曜日にジムでの筋力トレーニングを行っているので、金曜日に昼食をスキップしてしまうと、せっかくの筋肥大のための栄養補給機会を逃してしまいかねない。一方日曜日であれば、すでに木曜日のトレーニングから時間が経っているので、普段摂取しない朝食のみならず昼食をスキップして、丸1日のファスティングを行う形でのセッションは筋力トレーニングの効果を阻害しない。そのような良さが日曜日のセッションにはある。今回は、日曜日の社会集合的に穏やかな無意識をセッティングの要素とし、シロシビンへの耐性の確認のために明日に第21回のセッションを行ってみることにしたい。10日も間を置かないことは今回初めてなので、そこで知覚される体験内容を含め、また色々と気づきと発見が多いセッションになるだろう。フローニンゲン:2023/12/9(土)15:24

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