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11527-11534: フローニンゲンからの便り 2023年12月7日(木)



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成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11527. 今朝方の夢

11528. 常に既に超越的な存在としての私たち/テクノロジーとサイケデリクス

11529. テクノロジカル・エクスタシー/「器官なき身体」が示す身体の潜在欲望

11530. 胎児の頃の夢

11531. テクノロジーとサイケデリクスの包摂関係の見直し

11532. サイケデリック体験と宇宙論

11533. 自己改善のためではなく、社会病理の超克のためのサイケデリクスの活用の重要性

11534. ボディの鍛錬の方法に応じた集中力の鍛錬の方法


11527. 今朝方の夢


時刻は午前4時半を迎えた。今の気温は1度で、今日も日中の最高気温は3度までしか上がらないようだ。明後日からは最高気温と最低気温の双方がもう少し上がるようなので、それに期待したい。


今朝方は2つほど夢を見ていた。まず覚えているのは、主体と客体、そして超越に関する夢だった。夢の中の自分は何かを閃いたかのように、突然ハッとした。主体が客体になる瞬間に、そこには超越が存在していることに気づき、主体は絶えず超越運動を行なっていると思ったのである。これは発達理論を学んでいる身からすると既に知ってはいることだったのだが、知るレベルに変化が起きたのだ。知識として知っているという段階から、身体としてそれを感じることができるほどに知っているという段階に移行したのである。絶えず超越運動を行なっている主体としての自分が確かにそこにいるとも感じた。そうした運動を自分が絶えず行なっているからこそ、そうした気づきが得られたのだ。主体と客体の背後には常に超越が隠れていること。主体を客体にした瞬間に、これまで見えなかった主体が客体化された喜びはあるだろうが、実はその背後にはさらに目には見えない超越が存在しているのである。主体を客体化させる試みに従事しているときに、自分はその点をすっかり見落としていたということにも気付かされた。これからは絶えず超越を見据えた形で主体を客体化させる試みに従事していこうと思ったところで場面が変わった。


もう1つ覚えているのは、土でできたサッカーグラウンドでサッカーをしていた場面である。そこでは小中学校の仲の良かったメンバーだけではなく、なんと現役のサッカー日本代表の選手たちもその場にいて、紅白戦は大いに盛り上がった。私はある有名なボランチの選手と同じチームにいて、自分はその選手の一列前でプレーしていた。ところが試合の展開の中でチームが前がかりとなり、後ろの選手が希薄になっているとディフェンダーの選手から指摘を受け、自分が一列下がることにした。そこでそのボランチの選手と組む形となり、実際に近くでプレーしてみるとなんとプレーがしやすいことかと驚いた。さすが現役の日本代表だと感銘を受けながら残りの時間も楽しみながら試合をしていた。そのような夢を見ていた。


前者の夢については、実はもう少し気づきのインパクトが大きかったように思う。確かにテーマとしては、主体、客体、超越であっているのだが、夢の中で得られていたあの深い洞察とは少し何か違うように感じる。夢ではもっと重要な事柄を発見できていたように思うので、それが何だったかをもう少し内省してみたいと思う。フローニンゲン:2023/12/7(木)04:53


11528. 常に既に超越的な存在としての私たち/テクノロジーとサイケデリクス  


―私たちはみな、自分が知る以上の何者かである―カール・ヤスパース


時刻は間も無く午前5時を迎えようとしている。先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、そこで出てきた超越に関するテーマがまだ自分の頭の中に残っている。ヤスパースが述べたように、私たちは絶えず自分が知る何者が以上の存在であり、それもまた私たちの内側にある超越性を示しているように思える。そして昨日酩酊欲と絡めて自己超越欲求が実はどの発達段階においても内在していることを指摘していたことも思い出される。そうなってくると私たちは常に超越性を内在し、超越を志向するという欲求を持ち、そして実際に絶えず超越運動に従事している存在なのだということが見えてくる。私たちは最初からどこまでいっても超越的な存在だったのである。これと先日のシロシビン・セッションで得られた宇宙論的な洞察とはどう絡んでくるだろうか。それについてはまたゆっくりと考えてみよう。

昨日は、テクノロジーとサイケデリクスの未来について思いを馳せ、ここからまたテクノロジー哲学についても学びを深めていこうと思った。そもそもサイケデリクスをサイコスピリチャルテクノロジーの1つだと捉えると、テクノロジー哲学の観点が生きて来ると思ったのである。テクノロジー哲学とサイケデリック哲学の探究を進めながら、いつの日かそれらが交差し、自分の中で統合されていく日がやって来るのではないかと思う。まずはそれぞれを独立した形で探究しながら、それでいて頭の中で絶えずそれらを交流させることを意識しておく。汎心論的な考えをテクノロジーに採用した場合、テクノロジーにも心のような働きをするものを認めることになり、テクノロジーの集積はひょっとしたら巨大な集合意識を形成している可能性がある。それが人間をテクノロジーの発展に駆り立てている側面もひょっとしたらあるのではないだろうか。地球の至るところにあるテクノロジーが仮に心のようなものを持っていたとしたら、という前提で考えてみると、それらが集合意識を形成して人間や社会に対して働きかけを行なっている可能性が見えてきたり、その他にも色々と考えたりすることができるだろう。サイケデリクスに直接関係する学術書や論文を読むだけではサイケデリクスという分野の研究と実践は必ずどこかで頭打ちになる。それを既にわかっている自分がいて、この分野の研究と実践をとにかく豊かなものにしていきたいという思いで、テクノロジー哲学を含め、様々な学問分野を佳境させていく試みに絶えず従事したい。今日から再びテクノロジー哲学の書籍の再読を始め、そこからは思弁的実在論やオブジェクト指向存在論の書籍も再読していこうと思う。いつか本当に日々の読書が身を結ぶ日がやって来るはずだ。フローニンゲン:2023/12/7(木)05:08


11529.テクノロジカル・エクスタシー/「器官なき身体」が示す身体の潜在欲望


早朝よりテクノロジー哲学の観点からサイケデリクスを紐解くための読書を進めている。その中でフランスの思想家のジャック・エラルが、私たちはテクノロジーに対してエクスタシーを感じているという指摘がなされていた。確かに私たちはテクノロジーという対象そのものに対して、その使用に対して、そしてその発展に対して恍惚感をどこかで感じている存在だと言えるかもしれない。昨日は酩酊欲についてよく考えていた、テクノロジーが遍くところに存在している現代社会を生きる私たちは、テクノロジーを通じてエクスタシーを感じ、テクノロジーを通じて恍惚感を満たしているのかもしれない。果たしてそれがどこまで満たしてくれるのかは定かではないが。


恍惚感というのはやはり感じるものであるから身体性が重要になると思うのだが、そこでドゥルーズとガタリが提唱した「器官なき身体」という言葉を思い出す。サイケデリック体験中において、デフォルトモードネットワークの解体に加えてセイリエンスモードネットワークの解体が起こると、それは身体をある意味手放す現象として生じる。そこでは道元が言うような「身心脱落」という現象が起こり、それがマインドを超えた次元、別名ソウルの次元に体験者を誘っていくのだが、そこでも確かにグロスボディは物理世界に残り続けている。それではそのときにグロスボディはどのような働きをしているのだろうかと気になった。おそらくソウル以上の次元を体験するというのはある意味臨死体験的な側面があり、身体の諸器官は通常の活動を停止させる。もちろん心臓は動いているし、器官そのものは駆動をしているのだが、諸器官を駆動させる根底の動機が変化する、ないしは諸器官の活動のモードが変化するような知覚体験がある。これはひょっとしたら、「器官なき身体」が示すような、身体には諸器官が物理世界で活動するグロスボディとしての側面だけではなく、諸器官の活動を離れた次元で身体が何かに対して欲望を持ち、それを満たすために動き出す側面があるのではないかと思ったのである。その欲望とはまさに身体そのものが超越を求め、ソウルの次元に向かっていくことなのではないかと思った。いずれにせよ、サイケデリック体験中においては、諸器官が通常の目的とは異なる目的を持ち、その目的の実現に向けて普段見せない変性的な活動を見せるように思えるのだ。この点についても今後のセッションを通じてさらに考察を深めていきたい。フローニンゲン:2023/12/7(木)06:53


11530. 胎児の頃の夢


胎児は夢を見るのだろうか。そのことについてふと考えていた。動物もまた夢を見ている可能性があるという話を聞いたことがあり、動物たちにも記憶があり、意識があるはずだからきっと夢を見ているのではないかと思う。かつて愛犬が寝ている様子を観察していた時に、愛犬が独り言を述べるかのような仕草を見せたことがあるので、きっと動物もまた夢を見ているのではないかと思う。それでは昆虫はどうなのだろう。昆虫も記憶に類するものや意識に類するものがありそうで、彼らが睡眠という行動を取るのであれば、彼らもまた夢を見ている可能性がある。それでは植物や菌類たちは夢を見るのだろうかと問いが続いていく。汎心論的な考えを採用し、それを意識的なものだけではなく記憶的なものにまで拡張させると、ひょっとしたら遍く存在が夢を見ているのかもしれない。睡眠を必要としない生命体は夢を見ない可能性がもちろんあるし、意識と記憶と夢の関係性についても吟味しないといけないが、この宇宙は絶え間ない創造と夢で構成され、そして創造と夢で運動し続けているのではないかと思った次第だ。これもまた自分のコスモロジーを発展させていく際に大事なテーマになるかと思う。


胎児は夢を見るのかという問いに戻って来ると、きっと胎児も母親のお腹の中で毎晩何かしらの夢を見ているのではないかと思う。その夢の内容が気になるのだ。胎児一般ではなく、自分が胎児だった頃に見ていた夢をなんとか思い出せないかという強い関心がある。LSDサイコセラピーの泰斗であるスタニスラフ・グロフが提唱したBPMモデルの考え方に基づけば、胎児の時に見ていた記憶を思い出すことが、出生時のトラウマ形成の前の段階の無意識層にある豊かな治癒力を回復させることにつながるのではないかという仮説がある。ここで活用したいのは自らの意志力とサイケデリクスである。とりわけシロシビン・マッシュルームを活用して、次回からのセッションでは、自らの胎児だった頃の夢の内容を想起することに意志力を発揮してみたいと思う。おそらくそれは思っているほど不可能なことでないだろう。なぜなら私たちは退行催眠や前世療法を通じて、前世の記憶を思い出すことができるぐらいなのだから。自分が胎児だったときに見ていた夢。日々毎日夢日記を綴り続けていたのは、きっと胎児の頃の夢を思い出す下準備だったのかもしれないと思えて来る。次回のシロシビン・セッションでは胎児の頃に見ていた夢を何かしら思い出すことができたら幸いである。フローニンゲン:2023/12/7(木)07:22


11531. テクノロジーとサイケデリクスの包摂関係の見直し


夜明けを迎える前の真っ暗闇の中で、テクノロジーとサイケデリクスとの関係性について考えている。そのテーマに基づく読書を始めてみると、色々と刺激と洞察が得られていて、備忘録がてら先ほど考えていたことを書き留めておきたい。


そもそもテクノロジーとサイケデリクスの包摂関係はどうなっているのかと考えを巡らせてみたときに、今日の今日まで自分はサイケデリクスをサイコスピリチャルテクノロジーと捉えていたことから分かるように、サイケデリクスはテクノロジーの一種だと考えていたように思う。しかし、その包摂関係が実は逆だったらどうかと考えてみたのである。すなわち、サイケデリクスがテクノロジーに含まれるのではなく、テクノロジーがサイケデリクスに含まれると考えてみたのだ。その背景には、ハイデガーがテクノロジーの本質を“Entbergung”と定義していたことに関係している。それは“revealing”あるいは“disclosing”、すなわち「顕現させる」という意味を持つ。もともとイギリスの精神科医のハンフリー・オスモンドが命名したサイケデリクスという言葉の語源は、まさに“mind-revealing”にあるのだ。テクノロジーにもマインドのようなものの存在を認めるという汎心論的な考え方を採用してみると、テクノロジーもまた人間の手を媒介せずとも自らが自らの可能性を顕現させたり、知性を発露させていくというような「顕現運動(revealing movement)」を行なっているように見えて来る。それを踏まえると、確かにテクノロジーがサイケデリクスに含まれるとまで述べてしまうのはかなり大胆な分類になってしまうが、少なくともテクノロジーの内在的な顕現作用を考慮すると、テクノロジーはサイケデリック的であると言えなくもないのではないかと思う。


当然テクノロジーには多様な種類があり、規模感も異なるので、そのあたりの精査も必要だが、これまで自分が思っていた包摂関係を見つめ直してみるとまた色々と気づきや発見があるのではないかと思う。ブレインテックやスピリチャルテックのようなものでなくても、テレビやスマホですら私たちの脳に働きかけ、変性意識に誘う力を持っているのだから、やはりテクノロジーはサイケデリック的な性質を内在させているように思えて来る。またテクノロジーを利用しているときにそれを対象化することなくそれと一体化しているというのは、広義において言えばテクノロジーと私たちが非二元的関係性をその瞬間に築いていると言えるかもしれないと考えていた。テクノロジーとサイケデリクスを絡めた考察は実に面白い。引き続きこのテーマについて探究をし、考察を深めていくことが、来たるハイテク社会とサイケデリック社会に何かしらの貢献をすることにつながっていくのではないかと思う。フローニンゲン:2023/12/7(木)07:41


11532. サイケデリック体験と宇宙論


香港のテクノロジー哲学者ユク・ホイは、多様なテクノロジーの機能的差異や美的差異だけではなく、存在論的な差異と宇宙論的な差異に注目をしてテクノロジーの内在性質を明らかにしている。この着眼点は大変素晴らしく、この着眼点をサイケデリック体験の研究に適用してみたいと思った。つまり、サイケデリック体験が持つ機能的差異や美的差異だけではなく、存在論的な差異と宇宙論的な差異を明らかにしてみようという試みである。ホイは、テクノロジーはその国の文化が持つ宇宙論に大きな影響を受けていると指摘しており、それこそ日本人である自分はサイケデリック体験において、日本の文化が持つとりわけ仏教と神道の宇宙論に間違いなく影響を受けていると感じる。純粋に仏教と神道の宇宙論を精査していくことに加えて、それらの宗教が混交して生まれた日本的宇宙論の性質も紐解き、それと絡めて自身のサイケデリック体験を解き明かしていきたい。そのためには日本思想について習熟し、日本の神話にも精通しておく必要があるだろう。前者は哲学の領域として、後者は神話学の領域として区分されるだろうが、それらの区分を大切にしながらも、それらの相互連関を意識した探究に取り掛かる。仏教と神道の宇宙論が自分のサイケデリック体験にどのような影響を与え、その影響がどのような体験内容として現れているのか。日本的な宇宙論が自分のサイケデリック体験にどのような影響を与え、その影響がどのような体験内容として現れているのか。それらの問いには必ず自分なりに答えていきたいと思う。それを通じて、日本人が今後サイケデリクスを摂取するようになった際の体験上の見取り図を提供することにつなげていきたい。


仏教の宇宙論、神道の宇宙論、日本的宇宙論の存在論的階層構造を明らかにすることが最初に着手したい事柄で、毎回のシロシビン・セッションがそれらの宇宙論の存在論的階層構造のどこに位置づけられるのかをプロットしていきたい。宇宙論の存在論的階層構造とは言い換えれば、それぞれの宇宙論が持つ意識の構造理論であり、それはすでにウィルバーのインテグラルの中で素描がなされているので、あとはそれぞれの存在論的階層構造をウィルバーの一般化とは逆方向で個別化させる形で具体的な特徴を明確にしていきたい。毎回の自分の体験は宇宙論の中でどこに位置づけられるのか。今それに最大の関心を寄せている。フローニンゲン:2023/12/7(木)10:29


11533.自己改善のためではなく、社会病理の超克のためのサイケデリクスの活用の重要性


時刻は午前11時を迎えた。今日は素晴らしい天気に恵まれ、早朝より晴れ渡る空を拝むことができている。夜が明けて来たときに気づいたのは、地面を覆っていた雪が溶けていたことである。車庫の上にはまだ雪が積もっているが、地面の雪は溶けてくれたので今日の午後にジムに行く際に煩わしさを感じなくて済むだろう。先ほどパーソナルトレーナーのエリーザから連絡があった。何やら体調を崩してしまったらしく、大事を取ってもらうために今日のパーソナルトレーニングは来週に延期にすることにした。なので今日は自主トレーニングに励みたいと思う。ジムに行く前に、ここ最近は特に心を温めてくれているゆえに重宝しているモーニングコーヒーの豆を購入しにコーヒー屋に立ち寄りたいと思う。


早朝からここまで一体何冊の書籍を読み進めてきたのかわからないが、テクノロジー哲学者のマーク・クーケルバーグの“Self-improvement: Technologies of the soul in the age of artificial intelligence”という書籍の再読を先ほど始めた。クーケルバーグがこの書籍で展開するロジックは、そっくりそのままサイケデリクスに伴う社会の構造的病理に対して当てはめることができる。クーケルバーグは、なぜテクノロジーが私たちの魂を癒すことができず、AIは私たちをより良い人間になぜしてくれないのかを本書を通じて説明する。現在のテクノロジー礼賛の風潮は、自己改善(self-improvement)の欲望に突き動かされており、その欲望は抑圧された社会環境の現れであるとクーケルバーグは指摘する。私たちは自らに働きかける前に、社会に対して働きかけていかなければならず、そのときに確かにテクノロジーは重要な役割を果たすというのがクーケルバーグのロジックである。一連のロジックはまさにサイケデリクスにまつわる現在の流行と付随する、あるいは隠れた社会病理に適用することが可能である。むしろこのロジックは積極的に採用しなけれならないだろう。とりわけサイケデリクスは現在、精神疾患の治癒の目的や、生産性・創造性の向上目的などで一部のエリートたちの間で活用されている。そこでは精神疾患目的であろうが変容目的であろうが、自己改善が目的になっている。クーケルバーグが指摘するように、サイケデリクスを活用しても社会そのものが改善されていかなければ、その個人が仮に深層的な治癒や変容を得たとしても、根本的な問題は温存されたままとなる。仮に現在のサイケデリクスムーブメントに伴う自己改善動機を客体化し、その問題を指摘しなければ、精神疾患を生み、自己変容に躍起になる現代人を大量生産する社会病理の構造的問題は温存され続け、それは事態の深刻化を生みかねない。むしろサイケデリクスの治癒や変容効果を手放しに礼賛すればするだけ、社会の構造的病理はますます背後に隠れていく。この問題の解決においては、クーケルバーグがテクノロジーそのものを否定しているわけではなく、それをうまく活用しながら自己改善に躍起になる社会の構造的問題に働きかけようとしたのと同じく、サイケデリクスをうまく活用しながら個人の治癒や変容のためだけではなく、社会の構造的病理に働きかけようとする意思と実践が強く求められるだろう。自己実現を含め、自己をより良い存在にしていこうとする自己改善ゲームがグローバル規模で展開されている現代社会の中で、サイケデリクスをいかなる目的のもと、どのような問題に対して活用していくかは決定的に重要な事柄だと思う。フローニンゲン:2023/12/7(木)11:21


11534. ボディの鍛錬の方法に応じた集中力の鍛錬の方法


時刻はゆっくりと午後4時半を迎えようとしている。今、辺りが暗くなり始め、闇夜の足音が聞こえて来る。


先ほど今日のジムでのトレーニングを終えて自宅に帰ってきた。ここ最近は有酸素運動をトレーニングの最後に積極的に取り入れていることもあり、自宅に帰ってきてシャワーを浴びると体がとてもポカポカする。有酸素運動を終えた直後はこの寒さの中にあっても随分と汗をかいていて、この時期は普通に生活をしていると汗をかきにくいので運動で良い汗を流すことはリフレッシュにもなるし、デトックスにもなって大変素晴らしい。


本来は木曜日の今日はパーソナルトレーニングの日なのだが、パーソナルトレーナーのエリーザの体調が優れず、今日は自主トレーニングをした。自主トレーニングの際には最後の有酸素運動の時間を気持ち多めに取るために、器具を用いたトレーニングの時間は少し短めにしている。とは言え1人でトレーニングをする場合には黙って黙々とトレーニングをすることになるので、こなすメニューの数自体はパーソナルトレーニングの時と同じか、もしかしたら少し多いぐらいかもしれない。基本的に筋力トレーニングはパーソナルトレーニングの時にしっかりとメニューをこなしていき、自主トレーニングの時にはパーソナルトレーニングでカバーしていない部位を鍛えるようにしている。以前はパーソナルトレーニングの時と自主トレーニングのメニューを同じようなものにしていたが、そうすると鍛えられる部位に偏りが出たり、筋回復がうまく行えなかったりするので、今は両者のトレーニングが調和関係にあって実に望ましい状態だ。


次回に向けての工夫としては、ローイングマシンを終えてランニングマシンを最後使う際に、トレーニングの中で脹脛の筋肉を鍛えている場合、ランニングの最初の時に少し脹脛が吊りそうになるので、脹脛に特化したトレーニングはあえてしないでおこうと思う。仮にトレーニングをしたとしても、走る前によく脹脛を伸ばすようにしておきたい。少なくともランニングマシンを使えば脹脛も鍛えることができるであろうから、あえて脹脛に集中してそこを追い込むようにして鍛える必要はあまりないかもしれない。次回のトレーニングの際にはそれに注意しようと思う。その他に最近うまくいき始めているのは、トレーニング中の集中力の高まりである。無酸素運動としての筋力トレーニングの際にはインターバルの時間に短い時間で一気に集中力を高めるような瞑想をしている。インターバルの開始と共に目を閉じて、ボディスキャンをしたり、第三の眼辺りに意識を集中するように心がけている。これを継続さていけば、まさに瞬発的な筋力を一気に発揮できるように、瞬発的な集中力が必要な際にそれを一気に発揮できるようになってくるだろう。そして有酸素運動の際には持続的な集中力の涵養を目指している。ローイングマシンを使う際には目を閉じて、持続力のある集中力を高める瞑想をしている。ランニングマシンを使っている最中には目を開けておく必要があるので、そこでは呼吸を数えたり、外の景色のどこかに狙いを定めて、その一点を見つめるようにしている。目を開けている場合は外部環境の変化に意識が奪われがちなので、それもまた良い鍛錬の機会を与えてくれているように思う。このようにボディにおける筋力の発揮の仕方によって、すなわち瞬発的に筋力を発揮するのか持続的に発揮するのかによって、マインドにおける集中力の発揮の仕方も異なり、ボディの鍛錬の方法に応じて集中力の鍛錬の方法も変えていこうと思う。この点もこれから引き続き意識していく。フローニンゲン:2023/12/7(木)16:31

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