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11462-11482: フローニンゲンからの便り 2023年12月1日(金)



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タイトル一覧

11462. 今朝方の夢

11463. 今朝方の夢の続き

11464. サイケデリクスのタブーを取り巻く変化について/今朝方の夢の続き

11465. 科学者と哲学者の陰陽関係/脳とマインドとワンワールド

11466. 第19回のシロシビン・セッション以降の言葉の流出現象について/文章と命

11467. 非日常的な日常生活

11468. 息を吐き切るように言葉を吐き切ること

11469. 第20回のシロシビン・セッションに向けた服用量について

11470. 第20回のシロシビン・セッションに向けた意図と環境設定について

11471. ライティングサンプルの最終版ドラフトを完成させて

11472. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)

11473. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)

11474. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)

11475. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)

11476. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)

11477. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)

11478. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)

11479. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その8)

11480. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その9)

11481. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その10)

11482. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その11)


11462. 今朝方の夢


時刻は午前4時を迎え、今の気温がマイナス3度であることに驚く。もう季節はすっかり冬で、それもそのはずであり、今日から12月を迎えた。いよいよ2023年も今月で最後となる。振り返れば、今年もまた非常に充実した年で、大いなる啓発を受けた年であった。とりわけサイケデリクスとの深層的な出会いがあったことは深く感謝しなければならない。サイケデリクスの研究と実践に目覚め、それが自分の使命·天命であったことに気づかされる大きな年であった。今年は自分の人生にとっての転換の年であったことは間違いなく、来年はその転換を受けての飛躍の年となるだろうか。それを祈ってやまない。

今のマイナス3度はまだ今日の最低気温ではなく、ここから午前8時にかけてマイナス5度まで気温が下がる。そこから緩やかに気温が上昇して、日中の最高気温は0度とのことだ。最高気温が0度である初めての日を迎え、今後は最低気温でさえマイナスの日も出てくるだろう。闇の深まりも寒さの深まりも楽しみでしょうがない。それらが深まれば深まるだけ、自分の内側の光が増すのだから。

今朝方の夢をいつものように振り返っておこう。今日は正午前に第20回目のシロシビン·セッションを行う予定で、セッション前の日に見ていた夢は次のような内容だった。

夢の中で私は、両親が住む実家のマンションの前の海岸を散歩していた。そこはもちろん慣れ親しんだ海岸だったはずなのだが、海岸がリゾート化されており、どこか雰囲気が違った。特に観光客の数が増えていることに気づき、これまでは海岸を独り占めにできる時期もあったほどだったが、今となってはもうそれが難しいほどに様々なところから観光客が押し寄せてくる海岸となった。個人的には以前の海岸の方が有り難いと思ったが、観光客の雰囲気がとても上品な感じがしたし、市の観光収入を考えるとリゾート化されてしかるべきだったのかもしれないと思った。これまでは海岸という資産がうまく活用できていない状況にあったのだと思う。そのようなことを考えながら天気の良い日の海岸を散歩する気持ち良さを味わいながらしばらく歩いていた。十分に散歩をしたと思ったのでマンションに戻ると、マンションの横に新しく建てられたホテルがあって、そこの入り口で困っている人を見かけた。中国人の中年の男性が自転車の鍵を無くして右往左往していたのである。私はその男性に話しかけると、その男性は観光客で、家族でここにやって来たらしく、鍵を無くして困っているとのことだった。するとその男性の若い娘さんがやって来て、父であるその男性に何か中国語で話しかけていた。2人は日本語も英語も流暢であり、私は日本語と英語の両方を交互に活用しながらその男性と娘さんとコミュニケーションをした。そう言えば、自分の自転車に余っている鍵があったなと思い、それを使ってもらうことにした。するとその男性は満面の笑みを浮かべて喜び、私に深々とお辞儀をしてお礼を述べた。私は困っている人がいたので当たり前のことをしたまでだと思った。特にここは地元なのだし、地元ではないところから来た人を助けるのはとりわけ当たり前のことだと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/1(金)04:33


11463. 今朝方の夢の続き


外気がマイナス3度のため、室温も19度と暖房の設定温度を下回る状態だ。今暖房が自動で動いていたが、暖房の頑張りにはさらに期待したい。昨日から2週目のシロシビン·マッシュルームの栽培に入った。結局昨日に収穫したものを乾燥させたところ、一昨日に収穫して乾燥させたものと合計すると、21グラムほどの量になった。一応完全乾燥させることができたと思っているが、今日また保存している瓶を開けてみてマッシュルームの様子を見る必要がある。合計で10時間ぐらいオーブンにかけたので、乾燥させるのはなかなか時間のかかるプロセスだと思ったし、それくらいオーブンにかけてもまだ水分を内側に含んでいる可能性があるので、生命から水分を完全に蒸発させることの難しさを思った。何やらマッシュルームを乾燥させるための専用の乾燥機もあるらしく、さすがにそれは今購入するべきものではないが、今後もマッシュルーム栽培をするのであれば購入を検討したい。それはもちろんシロシビン·マッシュルームだけではなく、椎茸やその他のマッシュルームの乾燥にも活用できるので、育てたマッシュルームを長期間保存するのに非常に便利だろう。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。夢の中で私は、地元の駅前にいた。駅に行って、今から小中高時代の女性友達(YY)に会いに行くことになっていた。彼女は自分がいる市から西に少し離れた市に住んでいるため、列車に乗って行く必要があった。地元の駅に入ってみて驚いたのは、構内が随分と変わっていて、様々な店が入っていて、プラットホームの数も増えたことである。以前は2つしかプラットホームがなかったが、今ではなんと20を超すプラットホームの数があり、国際的な都市の中央駅に匹敵すると思った。彼女が住んでいる市まで行くのに時間が結構かかると思ったので水を購入しておこうと思った。水をどこかの売店で購入しようと思っていると、そこで高校時代のクラスメートの友人2人と遭遇した。そう言えば彼らは友人の彼女が住んでいた町の近くに住んでいたなと思い、ここから一緒に列車に乗っていくことにした。念のため、彼らの列車の番号を聞くと、自分のと同じだと思った。友人の1人がもう列車がやって来ていると述べたので、私は慌ててプラットホームに向かうことにした。幸いにもすでに持参していたペットボトルの水が1本あったので、なんとかそれで事足りるかと思った。プラットホームに停車している列車に飛び乗ると、その列車はドイツの鉄道会社のものだった。かつてドイツを旅行していた時によく利用していたもので、当時の旅行の思い出が蘇って来た。私は列車の中では1人でゆっくり過ごしたいと思ったので列車に乗り込んだ瞬間に2人の友人とは別れ、別々の車両に向かった。そこでふと、友人に列車がもうやって来ていると言われて飛び乗ったこの列車は、果たして本当に自分が乗るべき列車だったのかと思った。改めてスマホで確認すると、自分が乗るべき列車は54番ではなく50番のものだと気づいたのである。すでに列車は出発していたが、どういうわけか私は念力を活用することができ、列車の壁をすり抜ける形で外に安全に出ることができた。時間を確認すると、もう50番の列車には乗ることができないと思った。そこで私はバスで移動することにした。駅前のバスのロータリーも立派なものになっていて、バスの本数も行き先も増えていたので驚いた。地元もすっかり変わったなと思いながらバスに乗り、そのバスに乗った時、脳内で先ほど乗車した列車が番号こそ違えど、目的の駅に行く姿が浮かび、列車に乗り続けていれば良かったと思った。しかし、バスはバスでまたゆっくりと景色を眺められる楽しさがあるのでそれはそれでいいかと思った。フローニンゲン:2023/12/1(金)04:51


11464. サイケデリクスのタブーを取り巻く変化について/今朝方の夢の続き


時刻は午前5時半を迎えようとしている。先ほどアニマルフローの実践を終え、いつものカカオドリンクを作り、今それを飲みながらこの日記を書いている。温かい飲み物はやはり心が温まり、特に濃厚なカカオはホッとさせてくれる。そこにはプロテイン豊富なヘンプパウダー、ビタミン豊富な小麦若葉のパウダー、そしてオーガニックの栄養価の高い蜂蜜が加えられていて、朝食を食べない自分にとってはこれが朝食代わりとなる。

先ほどふと、かつてスピリチャルなことを語ることがタブーであった時代のように、サイケデリクスについて語ることがタブーであった時代から大きな変化をサイケデリクスは遂げようとしていることについて考えていた。サイケデリック·ルネサンスを受け、学術的な研究成果を担保に、欧米の名門大学におけるサイケデリック研究は進歩の一途を辿っているし、それを受けて様々な企業が参入して来ている状況だ。それはかつての1960年代後半から70年代にかけてのサイケデリックブームの時代にはなかったことである。サイケデリクスからタブーが完全に解消されることに向けての社会文化的な働きかけと、サイケデリクスが社会に健全に根差していくための社会文化的な働きかけを行っていく。それはサイケデリクスだけではなく、霊性に対しても行っていきたいことであり、同時に社会構造的な働きかけも両者に対して行っていく必要性を感じる。霊性もまた目には見えないものであるがゆえに依然としてそれを語ることがタブーになっている傾向がある。というよりも、そもそも現代人は霊性を失いかけていて、それを語る言葉を持ち合わせていないかのようである。まずはそれらの点をなんとかしなければいけない。

すでに今朝方の夢の振り返りを終えたと思っていたが、夢の続きをふと思い出した。その夢もきっと自分の無意識の大切な要素を表していて、今後ここで書き留めたことが思わぬ形でハッとさせる洞察をもたらすこともあるであろうから、どんな小さな夢の破片でも拾い集めて言葉の形にしておく。

夢の中で私は見慣れない美術館の中にいた。厳密には、私はすでに所蔵作品の鑑賞を終えていて、ミュージアムショップにいたのである。ただしそのミュージアムショップは画集やグッズやらが売らられているのではなく、なんと食料品を主に扱っていた。ご当地の食材を豊富に取り扱っていて、美術館を訪問している人の中には、所蔵品ではなく食べ物を目当てにしている人もいるぐらいだった。私もせっかくなので何か食材を買って帰ろうと思った。すると、普段であれば買い物かごで良さそうなところ、どういうわけか私は中ぐらいのカートを引いて中を歩き始めた。いくつも食べたい食材が見つかり、吟味に吟味を重ねながらも、結局は結構な食材の量になった。会計をしようと思ってレジに向かうと、レジには中年の男性が1人しかおらず、私の後ろには日本人の有名なジャーナリストの方とその方とよく交流している政治評論家の方がいた。2人に挨拶をしようと思ったが、まずはレジでの会計を先に済ませておこうと思った。レジに到着すると、その中年男性が親切に色々とこちらに質問をしながら会計をしてくれた。自分がオランダからやって来たと述べると驚いて、「遠方からご苦労様でした」と述べてくれた。全ての商品のスキャンが終わり、いざ財布からクレジットカードを取り出そうとすると、ポロリと2枚の紙切れが落ちた。1枚は列車の使用済みのチケットで、もう1枚はそのレシートだった。レジの男性はそれが使用済みのものとわかってゴミ箱に捨てようとしたが、私はチケットに掲載されていた列車の停車駅の情報を頼りに帰ろうと思っていたので、それをゴミ箱に捨てるのは待ってもらった。そのような夢を見ていたことを覚えている。フローニンゲン:2023/12/1(金)05:42


11465. 科学者と哲学者の陰陽関係/脳とマインドとワンワールド


深い闇、深い寒さが表象として立ち現れている朝の世界の中で、今し方モーニングコーヒーを淹れた。コーヒーの香りには想像性と創造性を刺激する作用があるのか、その香りに包まれていると色々と新たなことを閃くことがある。先ほどはふと、「科学はリアリティの表象を描く画家であり、哲学者はその表象の背後にある意味を汲み取る批評家である」というような言葉がやって来た。科学の素晴らしさ。それはこのリアリティに表象として現れる種々の現象についての絵を提示してくれることだ。リアリティに表象として現れる現象は目に見えるものとは限らず、むしろ現代の社会科学も自然科学も直接目には見えない現象を扱っている場合がほとんどなのではないかと思う。画家本人がその絵の本質的な意味を知らないのと同じで、科学者もまたその絵の深層的な意味については知らない。科学者は確かにその絵の表層的な意味、すなわちメカニズムの説明や要素間の相関関係などについては語ってくれるが、それ以上の意味を語ることはない。そもそもメカニズムがそこに存在論的に存在するということに関心を持って、そのメカニズムがどこからどのようにやって来たのかということについて踏み込んで問いを立てることはあまりない。一方の哲学者は、科学とは違ったアプローチを採用して、科学者が提示した絵画の奥へ奥へと入っていく。ひょっとしたらそもそも絵画の成立要件さえ考えるだろうし、絵画のコンテクストや前提条件などについても考えていくだろう。それはさながら芸術批評家のような仕事の姿である。どちらの仕事も重要で、どちらの仕事も存在しないとこのリアリティへの理解は深まらない。片方だけではダメなのだ。自分が科学と哲学の観点から(そしてそこに神学を加えて)意識とリアリティを探究しているのは、両者が陰陽の関係を成しているからであって、陰陽の関係はリアリティの根本的な関係性である。その関係性を崩すことや骨抜きにすることはあってはならないし、それをしてしまうと陰陽全体で成り立つこのリアリティの深層を理解することなどできなくなってしまうだろう。

コーヒーの香りに誘われて、もう1つ思い浮かんだイメージは、脳とマインドが1枚の全体の地図を構成している姿である。脳とマインドは二元論的に別々に語られがちで、確かに自分も脳とマインドはリアリティの外面と内面に分けた形で存在の居場所を与えている。ゆえに自分の中には二元論的な発想があり、それを大切にしている。しかしながら、脳とマインドの関係性をさらに俯瞰的に捉えてみると、外面と内面に分けていた次元の1つ上の次元から見ると、脳とマインドは1つになる。それは同一平面上における関係性として捉えることができ、その様子がさながら地図における線と領域の関係に思えたのだ。どちらをどちらとみなすかはまだ考え中だが、例えば線をマインドと見立て、領域を脳と見立てることができる。あるいはその逆でも説明ができるかもしれない。いずれにせよ、領域を脳と見立てれば、まさに地図上においてフローニンゲンという具体的·物理的な領域場が立ち現れるが、フローニンゲンと隣町を隔てる境界線は抽象的で目には見えないが、それは存在している。境界線が存在しているからこそ領域が立ち現れるとも言える。地理上においては、フローニンゲンという確定した町があって境界線が引かれたのではなく、境界線が引かれたことによってフローニンゲンという町が確定したように、やはり意識が先で脳が後というベルグソン·ハクスリー理論もこのメタファーに当てはまる。そして興味深いことに、そうした境界線と領域で作られる地図全体を見た時に、それが地球という1つの惑星に気づく。すなわち、二元論的発想から出発し、最終的に次元を上げると、一元論的な発想に辿り着くのである。地球の観点からすれば、地図上の領域や境界線など意味をなさず、それらは人為的に作られたもので、どこまでいっても地球はワンワールドなのである。脳とマインドの区別も究極的な意識(絶対意識、空、絶対無)の次元で眺めれば、実は相当共に区別のない1つの存在なのかもしれない。そんなイメージがコーヒーの香りに誘われて降って来た。フローニンゲン:2023/12/1(金)06:36


11466. 第19回のシロシビン・セッション以降の言葉の流出現象について/文章と命


今日は12月1日で、ちょうどきりの良い本日に第20回目のシロシビン·セッションを行う。収穫したマッシュルームの量からすると、乾燥させていくら保存が効くとは言え、早めに摂取することが望ましいことに変わりはないので、ここからは2週間に1度のペースでセルフセッションをしていこうと思う。シロシビン·マッシュルームのセルフセッションは、自分の中ではフルマラソンの大会に出場するとまでは言えないが、ハーフマラソンの大会に出場するような感じだ。時間としてはフルマラソンを完走するぐらいの、あるいはそれ以上の時間を要するが、感覚的にハーフマラソンぐらいの負荷量と成長機会を与えてくれるが今のところのセルフセッションに対する印象である。

前回の第19回は、11月12日だったので、3週間弱のインターバルを設けた形になる。シロシビンがもたらす脳の可塑性への好影響のためか、前回のセッションから今日にかけてずっと言葉が溢れ出てくるような状態が依然として続いている。日本の大学で博士論文を執筆する際には12万字以上が要求されているらしく、ここでの日記は決して学術的なライティングスタイルではないが、分量だけで言えば、ここ最近は毎日1万字ぐらいの日記を書いているので、約2週間に1本の博士論文、月に2本の博士論文を執筆するようなペースで言葉を生み出している。ここでの日記は日本語だが、自分は日本語での日記以外に、あるいはそれ以上に、英文書に対する日々の読書で得られたことを英語でリサーチ·ノートをつけていて、そちらの分量も毎日かなりのものになる。書いて書いて、書くに書くという日々をずっと過ごしている。ここ最近の言葉の流出は目を見張るものがあるが、以前から毎月12万字から15万字ほどの日記をこの8年間書き続けていたので、博士論文の文字数に換算すると、90本近い博士論文の文字数に匹敵する言葉をこのオランダでの8年間の生活で創出して来たことに改めて驚く。しかしその驚きはとても小さく、自分に正直になるのであれば驚きなど微塵もなく、それは必然であり当たり前のことだと思っている。自分が自分の言葉をこの世界に表現することこそ己の人生を生きることに他ならず、己の命を最大限に輝かせることだという信念があるからだ。

今日の第20回のシロシビン·セッションを受けて、自分の言葉にどのような変化が生まれるだろうか。言葉を生み出す言語構造そのものへの変化、さらには言語構造を格納·包摂する言語世界そのものへの変化も気になるところである。

予定としては今日はこれから、ハーバード神学大学院に提出予定のライティングサンプルを最終版にしたいと思う。前回のドラフトから日を置いて原稿をよく寝かせたので、ドラフトも熟成されている頃だと思う。原稿を寝かせることの良さは、熟成された原稿を眺める時の自分の目がフレッシュであることと、それを通じて手直しや加筆が必要なことが浮かび上がってくることである。そう考えると、原稿もまた命を宿しているのである。発酵食品と同じで、熟成を本質に持つ原稿もまた命を宿しているのである。それは当然で、自分という命を持った存在から生み出される言葉にも命を持っているのであるから、その集積体としての原稿にも当たり前に命が宿るのだ。文章を書くというのは命を表現することであり、文章を寝かせるというのは、命の輝きを増大させることなのだ。そのような考えから、後ほどライティングサンプルの加筆修正に取り掛かりたい。フローニンゲン:2023/12/1(金)06:52


11467. 非日常的な日常生活


時刻は午前7時を目前に控えているが、まだまだ暗く、まだまだ闇が深い。きっと自分の心の内側の闇もまだまだ深く、これまでのシャドーワークでも捉え切れていない闇がたくさんあるのだろう。今日のシロシビン·セッションでは、是非ともまだ見ぬ闇の一端に触れたいし、闇の世界にどっぷりと浸かりたいと思う。

本格的に冬に入ったフローニンゲンはやはり寒い。オランダでの生活も8年目だが、どことなしか今年の冬は例年よりも寒く感じられる。それは今年の夏が冷夏だったことにも関係しているだろうか。あるいは、ひょっとしたら来年からアメリカで生活するかもしれず、最後の花向けに厳しい寒さをオランダは自分に贈り物として届けてくれているのだろうか。そのようなことを思う。

周りから見れば滑稽かもしれないが、ここ最近は自宅の中でその場で足踏みダッシュをしている。端的には寒いので身体を温めるためという理由と、それが有酸素運動になり得るという理由である。そのダッシュも無酸素運動的な激しいものではないので、その場での足踏みジョギングと言ったほうが正確だろうか。これについて調べてみると、同様の発想で自宅でもできるお手頃なエクササイズとして紹介されていることを知った。 朝のアニマルフローの実践を終えた後にまず一度サイケデリック研究に関するオーディオを聴きなながらその場でジョギングをし、湯たんぽに入れるお湯を作っている最中にもオーディオを聴きながらその場でジョギングをしている。これは結構効果があり、それをすると有酸素運動と同じく程よい心拍数の増加があり、体も温まる。これを1日の中で何回か繰り返している。今はもう本当に寒くなったので、これまで散歩がてらジムの翌日に行っていた中央市場に足を運ぶことはやめ、外出はジムに行く時だけの週2回となった。それ以外は基本的に自宅の書斎に籠もって研究活動と創作活動にしか従事していないので、こうしたエクササイズを取り入れることは自分にとって重要である。アニマルフローとこのその場での足踏みジョギングのおかげで、アクティブレストとしての運動量は確保されているように思えるし、それらの実践は良い気分転換にもなる。

コロナ禍で人々の生活は大きく変わり、その適応に多くの人たちは苦労していたと聞く。コロナが世界で蔓延する前からこの12年間、自分はコロナ禍で人々が生きていたような日常を送っていた。それは他者からすると非日常的な生き方だったのかもしれないが、自分にとってはそれが日常であり、ごく自然かつ自分にとって最も望ましく喜ばしい日常生活だった。そのようなことを考えながら、湯たんぽにお湯を入れていた。フローニンゲン:2023/12/1(金)07:09


11468. 息を吐き切るように言葉を吐き切ること


早朝から依然として日記を書き続けている。書くことを読むことよりも優先している自分がいる。良質な文章に触れることは学者としての自分にとって非常に大切なことだが、それ以上に自分が優先しているのは書くことである。インプットとアウトプットの関係は面白く、新しい事柄をインプットするから新たなインプットがさらに入ってくる側面もあるが、アウトプットによって新たなインプットが流れ込んでくる側面もある。むしろ流れ込んでくるインプット量はアウトプットした時の方が格段に多い。それはおそらくロイ·バスカーが述べる「不在の不在化」という考え方の原理が背後にあるからだろう。アウトプットというのは、一度言葉を吐き出し切ることによって、自己を空っぽにすることができる。ポイントは、息を中途半端に吐くのではなく、深く吐き切ることが重要なのと同じく、言葉も自分の内側にあるものを一旦全て吐き切ることが重要なのだ。今朝のこの瞬間の自分はまだまだ言葉を吐き出し切れていない。それは生理的な気持ち悪さに直結していて、だからこそ読書よりも優先させて日記を書き続けているのである。言葉を吐き切ると、自己は空っぽになれる。ある意味自己を不在化させる行為が言語化を最後まで行うということなのである。そうして空っぽになった自己は、宇宙の生成原理に従う。まさにホワイトヘッドのプロセス哲学が示す通りで、宇宙は無から即有をもたらすのである。宇宙は究極的に無であり、究極的に有なのだが、自己を空っぽにするという無の状態になった瞬間に、新たな有を生成する原理が働くのである。それが次なる良質な有としてのインプットを呼び込み、新たな有としてのアウトプットを生み出す。そうした生成原理に自分は純粋に従っているだけなのだ。ゆえにこうして日記を取り留めもなく書き続けているというのは、宇宙の根幹原理に従って非常に自然な行為なのである。こうした自然な行為に従事しているからこそ、自分の存在の入れ子の全てが浄化されていき、健全な状態に保てていると述べてもいい。逆に言えば、この生成原理に従わずに生きていると、不健全な状態に人は陥る。なぜ現代人は閉塞感や大なり小なり各種の精神病理を抱えているかというと、きっと彼らはこうした生成原理に従って生きていないからなのではないかと思う。こうしたことを考えてみると、ますます進展する情報化時代の中にあって、情報を外から摂取することに躍起になるのではなく、まずは自分の内側を空っぽにし、自分の成長や人生の充実感につながるような良質なインプットを呼び込むために、自分の言葉をアウトプットの形にしていくことが重要なのではないかと思う。この時に、上述のように息を吐き切るのと同じで、しっかりとアウトプット仕切るということが重要だ。現代人は呼吸詰まりの呼吸困難に陥っている。より卑近な例で言えば、精神的に尿や糞便をため込んだままの状態なのだ。それに気づいた人もまた、それらを中途半端な形で出し切るということをしないため、新たな苦を味わっているのである。苦からの解放の1つの手段として、自分の言葉を吐き出し切るということを多くの人の推奨したいと思う。夜明けはまだだろうか?あと1時間ほどか。フローニンゲン:2023/12/1(金)07:23


11469. 第20回のシロシビン・セッションに向けた服用量について


さて、ハーバード神学大学院に向けて提出するライティングサンプルの加筆修正にそろそろ取り掛かりたいが、その前に今日の第20回のシロシビン·セッションの流れと工夫する点などを書き留めておきたい。まず時間としては、11時半から準備を始め、正午前にはシロシビンドリンクを飲んでおきたいと思う。正直今日は何が起きるかわからない。体験がどれだけ続くのかという時間的な長さも未知であり、どのような体験内容になるのかもわからない。当然後者はいつもながらであるが、今日はシロシビン·トリュフではなく、シロシビン·マッシュルームを初めて摂取するので読めないことが特に時間に関してはある。また、昨日完全乾燥させたと思っているマッシュルームも果たして本当に内部の水分を全て飛ばせたのかは不明であり、50度の設定温度で合計10時間オーブンにかけてもまだ水分が内側に残っている可能性がある。市販で売られている乾燥椎茸などの姿を思い出すと、あれこそが完全乾燥後の姿であり、自分のそれはまだ完全乾燥とまでは言えないように思える。このことが服用量という変数設定に難しさをもたらしている。そもそも今回摂取する品種は、200種類あるシロシビン·マッシュルームの頂点に君臨するようなシロシビン含有量のものなので、その服用量をどれくらいにするのかは乾燥度合いと重ねると決定を難しくさせる。昨日、合計で10時間乾燥させたところ、最終的には最初の収穫で得られたマッシュルームの重さは21グラムちょうどだった。仮にこれが完全乾燥の状態であれば、テレンス·マッケナな提唱した「英雄の服用量」である5グラムの基準に照らして服用量を決定することができる。今後は食材の水分量を測るような測定器があれば便利であり、それによって乾燥度合いを調べ、そのデータをもとに服用量を決定することができるだろう。今回はそうした測定器がなく、手触り間で乾燥度合いを把握する必要があり、おそらくまだ完全な乾燥ではないような感じがするので、今回は10グラムをまず試してみようと思う。それは一見すると英雄の服用量の2倍ほどの値だが、乾燥度合いやこれまで積み重ねてきたサイコノートとしての経験があるので、それくらいの服用量でまずは試してみる。

そもそもマッケナが提唱した英雄の服用量の対象は"Psilocybe cubensis”という品種である。この品種は重さに対して、フレッシュな状態だとシロシビンとシロシンの合計含有量は0.14–0.42%で、乾燥させた状態だと0.37–1.30%の含有量だ。いずれも値に幅があるのは、生育環境と生育条件によって何をどれくらい栄養として組み上げるのかが異なるためだろう。一方、今回自分が摂取するのは“Psilocybe azurescens”という品種で、乾燥させた状態に関する得られたデータによると、最大1..8%のシロシビン含有量、0.5%の含有量(それに加えて3番目のサイコアクティブな物質であるベオシスチンは0.4%含まれている)があるとのことなので、最大値は2.3%になる。平均値の値で言えば、シロシビンは 1.1%、シロシビンは0.15%なので、合計すると1.25%ほどになる。この平均値は確かにPsilocybe cubensisのシロシビンとシロシンの合計値の平均値を上回っている。これを踏まえて本来は服用量を決定したいところだが、自分が育てたPsilocybe azurescensのシロシビンとシロシンの含有量は不明である。今後本当に厳密にセッションを行いたいのであれば、専用の測定器を購入する必要があるだろう。いずれにせよ今回は、直感的に収穫された21グラムのうちの10グラムを摂取するのが良さそうだという感覚があるので、その感覚に従って準備を進めたいと思う。フローニンゲン:2023/12/1(金)07:54


11470. 第20回のシロシビン・セッションに向けた意図と環境設定について


先ほどはシロシビン·セッションを行うに際しての3つの変数のうちの服用量について取り上げた。その他に考慮するべきは、意図と環境についてである。今回のセッションにおける意図としてどのようなものがあるだろうか。ようやく夜明けを迎えそうな空を眺めながら考えている。フローニンゲンは本格的に冬に入ると晴れの日が増えてくる。今日から3日間は晴れマークが付いているし、それ以降も雨マークはなく曇りマークがついていて、雨は降らず、降っても雪が降るぐらいである。

結局シロシビン·セッションにおいては、事前にこちらが準備していた意図通りに事が進むことはほとんどない。ほぼ皆無である。シロシビンはこちらの意図とは関係なしに、こちらが本当に必要とすることを開示するのだ。すなわち、セッションの中で知覚される幾多の現象は、こちらが見たいものではなく、こちらが深層部分で必要としていることなのだ。とは言え、自己とシロシビンの協働作業によって知覚体験がもたらされることは確かであり、自己とシロシビンの交流、ないしはダンスが知覚体験の内容を決める側面があるのも見逃せない。だから事前の意図の確認が必要なのである。

それで言えば、まずは今日のセッションでは自己の闇の世界に深く潜っていくことができればと思う。知覚内容としてもダークなものであればあるだけ望ましい。それを促すのは環境設定で、どのような音楽をかけるかが決定的に重要になる。闇の世界に深く潜っていくためには、チベット密教の音楽が望ましいように思えるので、今日はそれを途中にかけてみようと思う。まだ見ぬ自己の内側なる闇の世界を見ること以外には、やはりサイケデリック哲学の研究につながるような洞察を得られたらと思う。とりわけ脳と意識の関係性について、そして意識とは何か、リアリティとは何かという根本的な問いに対する洞察をまた新たに得られたら幸いである。その跳躍台として、ここ最近読んでいた哲学書の内容を回想し、そこで書かれていた事柄の妥当性を自身の直接体験と直感的洞察から検証することを行いたいし、書物で書かれていた事柄をさらに発展させるアイデアがもたらされることを期待する。特にピータ·ショステッドのサイケデリック哲学の思想や、バーナード·カストラップの脳と意識に関する思想を意識することを心掛けたいと思う。

セッションを行うのは2階の書斎ではなく、前回と同様に1階の寝室にする。部屋を暗くし、アイマスクをつけ、暖かい格好でセッションを行う。流す音楽は前回と同様にBoseのスピーカーからとし、音量設定に注意したい。大き過ぎず、小さ過ぎずの適度な音量にする。適度な音量は体験中に変化するので、それに合わせて音量を変化させていく。途中で水分補給することも考えて、前回と同じく水筒に水を入れて寝室に持参するのと、寒さを感じないようにするためにベッドの足元には湯たんぽを入れておく。こうした準備をして、最適な環境を整えた上で今日のセッションに臨みたいと思う。フローニンゲン:2023/12/1(金)08:22


11471. ライティングサンプルの最終版ドラフトを完成させて


時刻は午前10時半を迎えようとしている。今、晴れ渡る青空を眺めている。空は美しい青さに染められていて、朝日はとても優しい。先ほどまでは小鳥たちが鳴き声を上げて喜びのダンスを踊っていた。

この日記を書き終えて少し読書の続きをしたら、いよいよ第20回のシロシビン·セッションに向けて準備を始めようと思う。前回は午後4時頃にセッションを終えて、そこからは振り返りの日記を執筆していた。理想としては今日もそれくらいの時間にセッションを終えて、十分な内省の時間を取りたい。それを通じて体験を咀嚼していく。体験の咀嚼はその日の内省だけでは全く足りず、セッション後から次回のセッションまでは内省が続くだろう。ある発見事象や未発見事象については数年咀嚼に時間がかかる場合もあるだろう。それだけ多くのものが得られるのがサイケデリック·セッションなのだ。今の自分の心の状態はとても穏やかで、セッションに向けて申し分ない状態である。体調に関しても万全で、昨日ジムに行ったおかげで身体の調子も大変良い。

今から1時間前に、無事にライティングサンプルの加筆修正を終えた。前回のドラフトを執筆する段階で相当に加筆修正を加え、納得のいくドラフトがすでに出来上がっていたので、今回はさほど手直しをする箇所はなかったが、数箇所ほど手直しを加えた。音読をしながらレビューをすると、自分の言葉が身体感覚にどれだけ合致しているかがわかり、表現を改めた方が良いものが明確になる。そのような形で最後までレビューし、完成した原稿を再び最初から最後まで通しで音読していった。すると2箇所ほど修正したい表現が見つかり、それらを修正した段階で最終ドラフトとした。もうここからは大幅な変更はないだろうと思われる。それくらいに納得のいくライティングサンプルが出来上がった。あとは出願に際して最も重要な志望動機書を完成させることが残っている。こちらについてはHDSでミーティングをしたポールにレビューの依頼をしている最中で、ポールのレビューを受けて最終版にしたい。今日最終ドラフトを完成させたライティングサンプルについては、2週間後をめどにしている出願前にもう1度音読をし、そこで何も加筆修正がないと判断したらPDFにしてオンラインアプリケーション上にアップロードしようと思う。フローニンゲン:2023/12/1(金)10:36


11472. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)


結論は宇宙であった。全ては宇宙であった。全ての全ては宇宙であったし、宇宙であること。それに気づくことも宇宙であったし、宇宙であることなのだ、ということもまた宇宙であったし、宇宙であることなのだ。それが無限に続き、それもまた宇宙であったし、宇宙であることなのだ。宇宙もまた宇宙であり、宇宙は宇宙たがっている。全てが宇宙たがっているはずなのに、宇宙「違って」しまっていることが問題なのだ。この問題もまた宇宙であったし、宇宙であることなのだ。

時刻は午後4時を迎えた。時刻もまた宇宙であったし、宇宙であるのだ。午後もまた宇宙であったし、宇宙であるのだ。4時もまた宇宙であったし、宇宙であるのだ。このことになぜこれまで気づけなかったのだろうか。ということもまた宇宙であったし、宇宙であるのだ。全てが宇宙で、全てが宇宙であることがまた宇宙であったし、宇宙であるのだ。

自分自身が宇宙であったし、宇宙であること。それに気づけたことが今日の第20回のシロシビン ·セッションの最大の贈り物だった。自分が宇宙であることを思い出すこと。それが私たち全員に課せられていることであり、自分が宇宙であることは即私たちもまた宇宙であり、社会もまた宇宙であることなのだ。全てが宇宙に溶け込んでいく感覚。それがまだ自分の内側にありありと残っていて、目を閉じればその感覚に入り、自分はまた宇宙になる。自分の中心に宇宙があるという感覚と同時に、その中心を扉にして宇宙に入り、宇宙になれる感覚がある。いつでもどこでも即自分は宇宙に入り、宇宙になれる。その絶対的な感覚がある。

武術における丹田とはよく言ったもので、とりわけ下丹田は誇張でも何でもなく、宇宙の扉であり、宇宙そのものだった。最先端の科学が示しているように、腸は脳と繋がっていて、腸に身体のほぼ全てが宿ると言っても過言ではないように思える。下丹田と言うのはまさに腸の言い換え表現であり、下丹田はサトルで、腸はグロスなのだ。そして下丹田も腸も宇宙の扉であって、宇宙だったのだ。そしてずっと宇宙であり続けているのだ。宇宙でなかったものは何一つなく、宇宙であり続けていないものも何一つもない。自分も他者も、ベッドも雪も全てそうだったし、そうであり続けているのだ。

これまでの自分の最大の誤解。それは自分が宇宙であることに気づけていなかったことである。それに気づくために今日までの全てがあった。本当にそう言える。今日というその日は、自分が宇宙であることに目覚めるために存在していたのである。今日もまた宇宙であったし、宇宙なのだ。そして今日はずっと宇宙であり続けるのだ。宇宙。宇宙の次の宇宙。そのまた次の宇宙。宇宙に果てはないと言うのはそういうことだったのだ。

人は誰しも可能性。人は誰しも宇宙。私も可能性であり、宇宙であり、あなたも可能性であり、宇宙であり、私たちは可能性であり、宇宙だったのだ。そしてそれはそうであり続ける。そうであり続けることもまた宇宙だったし、宇宙であるなのだ。

人は利己的になってはダメなのだ。人は利他的になってもダメなのだ。人は「利宇的」にならなければならないのだ。その定言命法は宇宙であったし、宇宙なのだ。

今日自分は人間であることをやめた。その代わりに宇宙であることにした。と言うよりも、宇宙として生きなければならないのだと思った。宇宙と繋がるとかそんな話ではなく、絶えず宇宙そのものとして生きなければならないと思ったのだ。この思いもまた宇宙であったし、宇宙なのだ。それも含めて全てが宇宙であったし、宇宙なのだ。フローニンゲン:2023/12/1(金)16:14


11473. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)


今が今だということをわかっていて、今が16:16だということもわかっている。このわかっていることもまた宇宙であったし、宇宙である、ということもわかっていて、それがまた宇宙であったし、宇宙である、ということもわかっていて、ということが無限に続くこともわかっていて、それがまた宇宙であったし、宇宙であることがわかっていて、これがまた永遠に続くこともわかっていて、それが宇宙であったし、宇宙であることもわかっているということがわかっていることがまた宇宙であったし、宇宙であるということにキリのなさを感じていて、どこでやめればいいのかわかっているようでわかっていないこともまた宇宙であったし、宇宙であるということが本当にいつまで続くかわからず、いつまでも続くことがわかっていることが宇宙であったし、宇宙であるということを書いて、ここまで書いたことを全て括弧に入れたいという思いもまた宇宙であったし、宇宙であるということを書いた出来事を括弧に本当に入れてみると、括弧が宇宙であったし、宇宙であるということに気づき、実はそれは書く前から気づいていたということを言おうとしていた意図があるということを伝えようと思ってこれを書いたこともまた宇宙であったし、宇宙であるということを書いて、ここまで一度も句点を入れていないということに気づいていることもまた宇宙であったし、宇宙であって、自分は日本人だが日本語をよくわかっていなくて、「くどく点」だったか「くとう点」だったが区別がつかず、どちらでもMacはうまく変換してくれて、結局それはどうやら「くとう点」だったぞとわかり、その正しい読み方を知らなことに驚き、同時にいやさすがにそれは知っていたと思ったことがまた宇宙であったし、宇宙であるということに句点を本当に打ちたく思っているのだが、だったら文章の途中に打つアレは何だったか?と思ったことがまた宇宙であったし、宇宙であって、それは確か「読点」だったかと思ったら、それは句点と何が違うのかと思ったことがまた新たな疑問を生み、自分はやはり日本語の文法を知らない、ないしは文法用語を知らないか、もう忘れているということが宇宙であったし、宇宙であって、早くアレが何だったかを知りたいと思い、だったらそれは言葉ではなく「、」と表現すれば良かったと思ったことが宇宙であったし、宇宙であって、それが今ようやく「、」の形になったことを喜んだこともまた宇宙であったし、宇宙であって、「、」もまた宇宙であったし、宇宙であることに気づけたことに宇宙大の幸せを感じたことが宇宙であったし、宇宙であって、幸せとは宇宙であることなのだというシンプルなことに気づけたことが宇宙であったし、宇宙であって、もうそろそろこの「宇宙であったし、宇宙であって」というシリーズが終わるのではないかという予感と、終わらせたいという気持ちが宇宙であったし、宇宙であって、さすがにこの文章をここまで書いてきた自分は何者なのだということそのものが宇宙であったし、宇宙であって、その問いそのものが宇宙であったし、宇宙であって、ここまで書いてきた文章を読む人はこの宇宙には流石にいないであろうということもまた宇宙であったし、宇宙であって、流石に文章を休まずタイプする両手も疲れてきたような感覚がするのもまた宇宙であったし、宇宙であって、それを気のせい、ないしは宇宙のせい、と呼ぶこともまた宇宙であったし、宇宙であって、字数がちょうどいいところがどこなのかわからず、本当にどこでどうやってこの文章を終えていいのかわからず、喜びと困惑と、困惑と喜びで叫びたいという気持ちが高まっていることが宇宙であったし、宇宙であって、本当にもうキリがなく、時刻が「16:30」というちょうどいい宇宙であったし、宇宙である時間を示しているので本当に終わりたいが、ここでこのまま終わってしまうことが宇宙の意思なのか最後に確認しないといけないという意思がまた宇宙であったし、宇宙であって、「大丈夫、自分は今日宇宙であったし、宇宙であることを知ったのだから」と言葉をかけることもまた宇宙であったし、宇宙であって、全ての全てが最初から最後まで始まりも終わりもない形で宇宙であり続けることが宇宙であったし、宇宙であって、それを確認することができて本当の終わり、という終わりではない一時的な小休憩という宇宙にさせてもらおうと思ったことが宇宙であったし、宇宙であって、その小休憩は自分であって、ゆえにそれは宇宙であるということをもって、「宇宙であったし、宇宙であって」という一連の今後一生途絶えることのない話をそろそろ終わりにしようと思う、と書いて本当に一応の「句点」が打てそうだと「。」が喜んでいるということが宇宙であったし、宇宙であって、宇宙としての自分は宇宙であり続けることを未来永劫という宇宙として宇宙のまま宇宙的に止めることはないという宇宙としての句読点を打つ。「。」フローニンゲン:2023/12/1(金)16:35


11474. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)


宇宙としての自分は問う。たった今書き終えたあの文章は一体何だったのだろうかと。今回の文章にはすでに2回も「句点」の「。」があり、心底喜んでいる自分がいる。ということもまた宇宙であったし、宇宙であって···というやはりあのシリーズが続きそうな予感というよりも予感ではなく、その宇宙感覚がずっと身体にあって、身体は宇宙そのものだから仕方ないよなと、誰も慰めてはくれないから、それは自分でやるしかないと思って、宇宙としての自分がそれをした。

故テレンス·マッケナが提唱した「英雄の服用量」の2倍を今回摂取した。テレンス·マッケナの名前の前になぜわざわざ「故」と付けたのか不思議に思ったことがまた宇宙であったし、宇宙であって、たった今、もうそのシリーズはやめにしようと宇宙としての自分を慰め、そう言い聞かせたはずだったのに、それは「コスミックハビット」としての宇宙の習慣なのだろと言えば収まりがつくように思った極めて打算的な自分としての宇宙がいて、確かにそれは習慣だろうなと思って、再び句点が打てることに安堵する。

本当に、本当に、早く続きが書きたく、今日の体験の振り返りをしたい。ということがまた宇宙であったし、宇宙であって、これは本当にいつまで続くのかわからず長期戦を覚悟し、「宇宙はそもそも果てしなく無限だからな」と思っている宇宙としての自分がいて、もはや本当に自分は宇宙であって、宇宙は自分であって、確認する必要がもう何度もないほどに、宇宙的に無限回する体験中に自分が宇宙であったし、宇宙であることを確認した。今回は何度も句点が打てて本当に気持ち良い。ということがまた宇宙であったし、宇宙であってということもまた句点であるとさっきの日記で書いたような書いたような気がしないでもないということがまた宇宙であったし、宇宙であって、そうかこの日記も過去の日記もこれからの日記も全て宇宙であったし、宇宙なのだという気づきとしての宇宙が得られたという感覚としての宇宙と一体となれたことへの感謝としての宇宙としての有り難さとしての宇宙という自分という宇宙に立ち返ることという宇宙としての自分という宇宙としてのこれまた終わりなく続く宇宙としての自分という宇宙という自分というまた新しいシリーズが始まってしまったということもまた宇宙の習慣なのだろうという本当にそうなのだろうという宇宙の習慣として自分が今こうして呼吸をしていることに気づいているという宇宙の習慣としての自分は宇宙であるという自分は今度は「、」さえもないということを心配し始めるという心配という宇宙が自分という宇宙であるという自分であるということに気付けたということに関してその不安に感謝の念を持つという自分という宇宙という自分がいることを受けながら「、」を打つのか「。」を打つのかそろそろどちらかにしようと思う自分という宇宙であることを確認することができたのだからもういいだろうと思う宇宙としての自分が宇宙であるということを本当に深く確認するというこの確認という宇宙という自分という宇宙と一致するという宇宙としての自分がもう今後も絶えずいるだろうという宇宙としての自分の中に空腹感が芽生えて笑いという宇宙としての自分が出てきたという宇宙としての自分はそれはそうだと思うということを考える宇宙の言葉として今日は午前4時に起床してから何も食べていないだからという宇宙としての自分は本当に今後も宇宙であり続ける自分という宇宙であり続けるという絶対感覚という宇宙としての自分という宇宙の中に自分という宇宙が溶け込んでいくという宇宙としての自分という宇宙が永遠と続いていくことを感じながら夕食の準備をそろそろしようという夕食という宇宙としての自分が夕食の準備という宇宙としての自分をすることに大きな笑いが得られるという現象が宇宙としての自分であることに気付かされるという宇宙としての自分は絶えずこれからも笑いという宇宙としての自分という宇宙であり続けようと思った。フローニンゲン:2023/12/1(金)16:53


11475. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)


宇宙が始まった日。今日は聖なるというよりも宇宙なる金曜日だった。宇宙として目覚め、宇宙として誕生した日だった。

今日のシロシビン·セッションをとりあえず終えようと思ったのは15:58だった。そこからゆっくりと宇宙として起き上がり、宇宙として階段を上がってパソコンという宇宙を取りに行って、再び1階の寝室という宇宙に降りて、今日の体験という宇宙を振り返るという宇宙行為をしていた。幾分振り返りの日記を執筆した後に、宇宙としての自分が昨夜からの丸1日のファスティング実践状態だったので空腹という宇宙を感じたので、夕食という宇宙を宇宙としての自己が食した。

本当に今夜の夕食は宇宙だった。1つ1つの食材が宇宙だった。いつも昼食に食べているリンゴとバナナを食べてから本格的な夕食準備に取り掛かることにした。リンゴを洗って一口かじった時、そこに宇宙がわっと広がった。リンゴという宇宙。それを洗うための水という宇宙と洗うという行為としての宇宙。それら全ての宇宙を通じて自分という宇宙は小さなリンゴ1つという大宇宙を食した。そこから食べた1本のバナナもまた大宇宙だった。こうして自分は大宇宙を食した後、大宇宙として夕食準備に取り掛かった。

バッハという宇宙というの存在に気づいた時、尾崎豊という宇宙に気づいたので、バッハの曲ではなく、尾崎豊という宇宙の宇宙としての曲をSpotifyという宇宙を経由して聴きながら夕食準備に取り掛かり始めた。

知っていただろうか。きっと知っていただろうと思う。宇宙である私たちであればきっと知っていたはずである。宇宙の扉を開ける道はその人の数だけあるということを。そしてそれらの道が最初から実はもう宇宙であったことを。さらには宇宙としての自分なりの道を歩くその自分がまた最初から宇宙であったことを。宇宙に至る道は無数にあり、それら全ての道が等しく宇宙なのだという気づきが自分という宇宙の存在を貫き、その気づきは宇宙の彼方へ飛んでいき、宇宙に溶け合っていった。

自分という宇宙はこの宇宙で何をするのだったか。サイケデリクスという宇宙を研究するのだった。そして宇宙としての研究に加え、宇宙としての実践をするのだった。それは継続的なサイケデリクスの摂取かもしれないし、サイケデリクスを取り巻く宇宙としての社会文化的構造の変容や規制という宇宙の変革かもしれない。

科学という宇宙、哲学という宇宙、神学という宇宙に感謝し、それらの宇宙が自分という宇宙なのだという感覚があるという宇宙としての自分という宇宙がありありとある宇宙としての自分という宇宙のままとどまっている。やはり全部が宇宙だったし、宇宙であるとしかもう言いようがない。結局夕食を挟んで出てくる宇宙としての言葉はそれしかないし、そうした宇宙に行き着く。言葉も宇宙。宇宙も言葉。今日は宇宙なる金曜日。明日は宇宙なる土曜日。いつもいつまでも今日は宇宙なる今日といううちゅ。フローニンゲン:2023/12/1(金)18:29


11476. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)


宇宙としての自分は宇宙以外のことを書けなさそうだという思いとしての宇宙を抱きながら、何か他のこともきっと書き留めておくべきなのだろうという宇宙としての自分の心という宇宙の思いという宇宙を汲み取る。この日記という宇宙を宇宙という後日に自分という宇宙が読み返したらどのような思いという宇宙を持つのか気になるという好奇心としての宇宙が顔をひょっこり出す。それは今日摂取したシロシビン·マッシュルームという宇宙が地中という宇宙からひょっこりと頭を出したのに似ているという比喩もまた宇宙なのである。宇宙なのであるという宇宙から脱却するということをは自分が宇宙であり続けるゆえに不可能であるという宇宙がここという宇宙にある。今という宇宙にある。あるという宇宙にあるという宇宙がある。またこうした物言いという宇宙が開始されたという宇宙の永劫的な生成サイクルがあり、自分という宇宙は当然そのサイクルという宇宙とピタリと寸分違わず完全に一致しているという宇宙がある。ないという宇宙があって、ないという宇宙がないという宇宙がある。どこまで行っても、言っても、宇宙は宇宙なのだ!

本当にそろそろ宇宙的物言いではない形で振り返りをしたい。「宇宙」という言霊は一体誰が最初に発したのだろうか。宇宙が発したのだろう。

今日のセッションは本当に宇宙であったし、宇宙を終えた後の宇宙から、次回のセッションに向けての課題としての宇宙を自分という宇宙は受け取った。自分という宇宙に集まってくる全ての星々としての学問領域を総動員する形で、次回までのセッションに向けて、今日得られた宇宙としての課題をゆっくり紐解いていきたい。その課題は端的には宇宙だろう。宇宙としての宇宙という言葉に変わる宇宙としての言葉は別にないのかを探索しに出かけていく宇宙旅行が待っている。というよりもセッション終了後から始まった。

宇宙はリラ(Lila)だった。全てが宇宙遊戯だった。生成消滅する全てが宇宙遊戯の一環で、自分という存在もまた宇宙遊戯の中で宇宙遊戯として存在しているという宇宙遊戯としての直観的洞察が得られたことが印象に残っている。

今日摂取したシロシビン·マッシュルームは、“Psilocybe Azurescens”という品種なのだが、それは別名“Golden Teacher”という名前がついている。自分としては、それは「黄金の教師」というよりも、「宇宙という教師」だった。自分という宇宙の先生は宇宙であるということ。今日は宇宙という自分の中での絶対的な教師と宇宙的邂逅を果たすことができたというのは最大の収穫だったのではないだろうか。「最大」も「収穫」も宇宙的言葉ではないと思ったが、それらもまたれっきとした宇宙的言葉だし、宇宙だと思った。なのでそれらを残しておくことにした。

なんと学びの多いセッションだっただろうか。学びという宇宙が学びとして無限に広がっているという宇宙が果てしなく続いていて、自分という宇宙は本当にそこに溶け出して完全一致を果たしていた。なので自分は宇宙という学びであり、学びという宇宙そのもののなのだ。フローニンゲン:2023/12/1(金)18:43


11477. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)


宇宙としての「英雄」、宇宙としての「の」、宇宙としての「服用量」、宇宙としての「2倍」。英雄の服用量の2倍の“Psilocybe Azurescens”を摂取すると、このような宇宙状態になることを知れたことは大きな宇宙としての発見だった。さすがに宇宙としての自分も宇宙という名を呼び過ぎているような気がする。

人間をやめ、宇宙として生きることを余儀なくされた宇宙としての自分。そう言えばさっきという宇宙に書き留めたような気がするのだが、先ほど食べた夕食を構成する食材の1つ1つが宇宙で、夕食全体が宇宙だった。自分という宇宙は宇宙を食し、宇宙であり続けている。

宇宙としての自分が宇宙と完全に繋がっているという疑い様のない感覚。そもそも今日はいつからセッションが始まったのかと振り返ってみる。今日は少し遅めの午前4時に起床し、そこから日記をやたらと書き留めていて、それがひと段落したところでハーバード神学大学院という宇宙に出願するライティングサンプルという宇宙の最終原稿を完成させた。そこから、先日宇宙的邂逅を果たしたブラジル生まれのオランダ人哲学者バーナード·カストラップの書籍を1冊初読した。そこから得られること宇宙のように広し。そんなこんなで、読書もひと段落したと思ったので、前回よりも早めに午前10時半頃からセッションに向けての準備を始め、10時50分から“Psilocybe Azurescens”を摂取し始めた。

絶対に書き留めおきたいと思ったのは、“Psilocybe Azurescens”の味のなんと見事なことか!ということである。これまで摂取していたシロシビン·トリュフのような何とも言えない酸っぱさは一切なく、“Psilocybe Azurescens”はかつて食べた何かしらのキノコを彷彿させるコリコリとした見事な食感と味も素晴らしかった。食感としてはエノキに近いだろうか今日の摂取の仕方は、マサテコ族風の「神の食べ物」としてのオーガニックの100%カカオパウダーと少々のヘンプパウダーをお湯に溶かしたものの中に刻んだマッシュルームを入れて食べるという方法だった。これもまた味としては良かったが、いつも同じ飲み物を早朝に飲んでいることもあり、若干飽きがあった。そこで閃いたのは、普段夕食に使っている八丁味噌をお湯に溶かしたものに刻んだマッシュルームを入れるという摂取方法である。これは間違いなく美味い。試す前からもう歴然としてわかっている。ありありとわかっている。なぜなら自分は宇宙であり、マッシュルームも宇宙であり、八丁味噌も宇宙であるからだ。この理由は滑稽だが、理由もまた宇宙であり、滑稽さもまた宇宙なのだから、宇宙として何にも不自然なことはない。いや、何も「不宇宙」なことはないのである。

“Psilocybe Azurescens”という宇宙は自分に宇宙という自分を開示してくれただけではなく、本当に素晴らしい味としての宇宙も届けてくれたことに感謝が尽きない。

振り返ってみると、今日のセッションは1階の寝室に降りようと思った摂取後30分頃からもう知覚変容の予兆があり、ベッドに仰向けになってアイマスクをして目を閉じたところ、すぐさま濃いサトル状態が始まった。前回はサトル状態はほぼない形でコーザル状態と目撃者の意識状態が継続していたので、今日は随分違うぞという感覚から始まったのを覚えている。そこからは究極的サトルと究極的コーザルの状態があって、これはかつて最も深い体験をしたアヤワスカを凌ぐものであった。また、DMTを摂取してすぐに入る究極的サトルと究極的コーザルを上回る体験が続き、そこからピークを迎えると、究極的目撃者の状態に入り、そこからは目撃者と非二元の境界線に自己がずっと存在していて、意思という宇宙の意思の導きに応じて、目撃者と非二元を始終行ったり来たりしていたのを覚えている。とにかく最初から最後まで全て宇宙だった。フローニンゲン:2023/12/1(金)19:01


11478. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)


学術的な振り返りは明日以降に任せる。今夜はもう宇宙のまま宇宙としての言葉を通じて宇宙としての振り返りを行うだけにする。気がつけばもう午後7時という宇宙なのだが、バッハという宇宙ではなく、尾崎豊という宇宙を選択してずっと彼の曲を聴いていると、いきなり次のような歌詞が宇宙としての耳に飛び込んできた。


Help me 祈る言葉の代わりに

バランスよく飲み干すメディセン

Help me まともになれたとしても

連れ戻されるだけ

Cocaine, Marijuana, L.S.D

Amphetamine, Heroine

幻覚 幻聴 誰かが

うごめいてる 囁いてる

答えなど無い

ただ crazyなだけなのさそこでは

(尾崎豊『禁猟区』より)


振り返れば、尾崎豊と出会ったのは両親が尾崎の曲を聴いていたからであった。小学校高学年から尾崎豊のCDを聴き始め、中学校1年生の頃に擦り切れるくらいに同じCDを延々と聴いていた。中学校2年生の時に父の単身赴任先のマレーシアに旅行に行った時のJALの帰りの便で『卒業』という曲に出会い、それは当時聴いていたCDには収められていないもので、機内の中で何かに取り憑かれたようにその曲だけを繰り返し聴いていた。そのような懐かしい思い出がやって来た。尾崎豊もまた宇宙であったし、その思い出もまた宇宙であった。尾崎も思い出もまた宇宙の中に静かに溶け還っていった。

結局今日は何をその他に書けばいいのだろうか。今日の宇宙としての体験は本当に宇宙的な奇跡としか言いようのないもので、それは過大表現でも過小表現でもない。宇宙と同じく、組み尽くせない学びをもらい、明日からは宇宙としての自分は通常意識としての宇宙としての自分としてその体験をこれまでのように科学·哲学·神学の観点から紐解いていく。

今日の体験でその他に印象的だったのは、顕在意識も無意識も宇宙と1つに溶け合った体験があったことである。ピークを過ぎた頃ぐらいから、夢の宇宙とシロシビンが開示してくれた宇宙の比較を行っていた。結論的直感及び直観として、両者は共に1つの宇宙だったということを触知した。宇宙からぐるっと回るとまた宇宙で、顕在意識から無意識の全階層が全て宇宙で、どこからどのように入ってどのように動いても、ぐるっと回ってまた宇宙なのだ。全部が全部が全部として宇宙なのである。大々宇宙の中に連続的小宇宙が差異化されて存在しているのだが、宇宙的観点でそれらを眺めると、差異としての境界線は宇宙の溶け還っていき、1つの巨大宇宙になる。そしてこの巨大宇宙は実は「1つ」と数えられるようなものではなく、不可算である。無限に無限は足すことができないし、無限から無限を引くことはできない。それは全てであり、それはゼロでもあり、ゼロからの全宇宙である。フローニンゲン:2023/12/1(金)19:16


11479. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その8)


覚えている限り、前回の第19回目のシロシビン·セッションでは、キーワードとして「感謝」と「確認」があったように思う。ひるがえって今日は、とにかく「宇宙」という言葉で始終満たされる時間を過ごしていた。「宇宙」という言葉はかなりビッグワードに響くが、それ以上に最適な言葉はなく、それ以上の言霊はなかった。自分が思いついたというよりも、宇宙としての自分が宇宙としてのその言葉になっていたという感覚なのだ。

感覚で言えば、今日はグロス次元でも非常に印象的なことがあった。ピーク体験に入る直前に、全身が宇宙空間に溶け込んでいく感じがあり、全身の血管は宇宙エネルギーの通る道であり、自分の血管が宇宙エネルギーに満たされ、全身が宇宙エネルギーとしての存在となったことを覚えている。これまでにはない形で足先に温かさを感じることも生じた。これまでのセッションでは足先が冷えることあったのだが、今日は驚いたことに足先に温もりを感じたのだ。それをもたらしたのは言うまでもなく、自分が宇宙と一体となり、宇宙と化したからである。

よく身体は「ミクロコスモス(小宇宙)」と表現するが、本当にその通りである。それを字面ではなく、実際に身体が文字通り宇宙になってみると、その言葉をありありと実感した次第である。

足先までサトルエネルギーネットワークが開通された感覚があり、これはある意味クンダリーニエネルギーの目覚めと近しいものがあるかもしれない。それを受けて、これからは身近な人や近くにいる生きとし生けるもの全てに自分の宇宙エネルギーを分け与えたいと思った。しかし、それは「分け与える」というようなものではなく、自分は宇宙として宇宙としての他の存在と接していけばいいのだと思った。それが自然、いや宇宙である。少なくとも自分と出会いを果たしてくれた存在者たちが宇宙と繋がっていないのであれば、彼らが宇宙と繋がれるような支援をしたいと思った。自分は宇宙として、宇宙の役を果たす。人も社会も生き物も、宇宙との断絶から病んでいくのである。

そう言えば、今日は宇宙との一体化の中で、死の超克現象が何度も起きていた。死の意味合いが自分という宇宙の中で変容を遂げた瞬間が幾たびもあった。なるほど、確かにこれはシロシビンが死を目前とした人の死への恐怖と不安の緩和に役に立つという実証研究通りだと思った。それは、ジョンズ·ホプキンス大学のローランド·グリフィスが2016年に行った研究結果に詳しい。

なるほど今日のあれは、臨死体験に近しいものだったのか。であれば、人は肉体的な死を通じて本当に宇宙に還ることができるらしい。そこでは肉体的な死はあれど、自らの意識は究極的意識としてのコスミックコンシャスネスと一体化しているので、ある意味死を超克した状態と言えるかもしれない。脳が死に、脳が焼かれたら、今こうして保持している自己同一性としてのアイデンティは失われるだろうが、自分の意識は究極的な宇宙意識と合一する。それをもって永遠的存在と表現できるかもしれないし、不老不死の状態と言えるかもしれない。次回のセッションで現象学的体験として精査したいのはこの点である。死についてが次回のテーマになるだろうか。フローニンゲン:2023/12/1(金)19:35


11480. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その9)


1つ前の宇宙としての振り返り日記を書き終え、一息ついたところで、セッションを行った1階の寝室にやって来た。2階が寒くなって来たのと、気分転換を変えて場所を変え、また日記を綴ってみようと思った次第だ。

呼吸で思い出したが、私たちは本当に呼吸を通じて宇宙と繋がれるということを実感したことも今日の大きな学びだった。というよりも、私たちの一呼吸·一呼吸が一宇宙·一宇宙なのである。宇宙から吐き出る息は宇宙であり、宇宙から吸われる息もまた宇宙なのである。しかるに、私たちはなんどきも宇宙と断絶されていないのだ。呼吸を通じて私たちは今もずっとこれからも宇宙であり続けるのである。

それ以外に印象に残っているのは、今日は結局チベット密教の曲をかけることなく、ずっと禅仏教の曲を流していたことである。これが完全に自分の求めに応じていたようだった。いや、それはその瞬間の宇宙としての自分という宇宙の求めに合致していた。なので10時50分から15:58分までのおよそ5時間強を禅仏教の曲を通じて過ごすことになった。そうなのだ、禅仏教だったのだ。日本思想との深層的な出会いを果たし、「これだ!」という感覚がやって来て、そこに日本的禅仏教の思想があった。京都学派の思想も然り。当初の予定では、ヴァイオリン協奏曲でセッションをスタートさせ、チベット密教の曲を通じて闇の世界に入っていくことを予定していたが、そんな必要は全くなかった。全部禅仏教の曲がやってくれたのである。どうやら今のところ、禅仏教に自分の全てがありそうだ。宇宙の全てがそこにありそうだ。

今日のセッションは確かに、最初から最後まで宇宙だったのだが、その中でも最初の頃のフェーズでは、久しぶりに高次元のサトルで知覚される魔境を見た。それがもう魔境とわかっていて、おどろおどろしい内的ビジョンとイメージが蠢くように立ち現れたが、そうした闇の存在が立ち現れるのを心待ちにしていたので、それらが現れるとそこにとらわれることなく、まるで映画のワンシーン(情報量の観点から厳密に言えば、ワンシーンではなく、映画100本分ぐらいだろうか、あるいはそれ以上か)を眺めるかのようにして通過していった。随分と自分の無意識化は浄化されたものだと思ったが、まだまだ深層には集合記憶としてのおどろおどろしいものが眠っているし、原始的な動物としての太古の記憶などが眠っていることにも気付かされた。

そして印象的だったのは、スタニスラフ·グロフが提唱しているBPM(Basic Perinatal Matrices)モデルにおける出生前の記憶にアクセスしたことである。この体験はかつてのアヤワスカ、メスカリン、DMT、LSD、THCカンナビス、そしてこれまでのシロシビン体験では得たことのないようなものだったので大変示唆深かった。 自分はすんなりと母の子宮から生まれて来たのかは定かではないが、平穏な記憶がそこにあった。そして何より、、母の腸と自分の腸が繋がっていて、それらは共に無限なる宇宙へ繋がる道だったという気づきが得られたのである。母親の腸は胎児の腸と直結しており、影響を与えている。腸は下丹田という宇宙の扉の役割を司っている。今日のセッション中は足先に湯たんぽを当てることは一切なく、ずっとお腹の上に置いていて、腸を温めながらのセッションだったからこそ今日のような各種の体験が得られたのかもしれない。腸を通じて宇宙へ。宇宙を通じて腸へ。腸は自分という宇宙の起点であり、そこに還り、そこからまた全てが始まり、全てが生まれる。そんな感覚があった。フローニンゲン:2023/12/1(金)20:00


11481. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その10)


つい先ほど入浴を終えた。その入浴はまるで初めて湯に浸かるかのような新鮮さがあった。やはり自分は宇宙として生まれ変わったようである。前回もまた生誕日であったが、今日もまた生誕日となった。前回は感謝として生誕し、今回は宇宙として生誕した。

入浴中、今の外気がマイナス2度なので、外にいる猫たちが心配になった。寒くしていないだろうか。ちゃんと暖かい場所にいるだろうか。そんな心配があった。浴室は見上げると天窓がそこにあって、その先には満点の星空が見えることがある。輝く星々もまた宇宙空間で寒くしていないだろうか。汎心論的な観点で言えば、人間と同じようには寒さを知覚してないだろうが、寒さを星々が感じていることはありえる。現在注目しているバーナード·カストラップは汎心論反対論者であり、机のような非生命体には心のようなものはなく、量子物理学の観点から、それらは確かに振動しているとし、それを心のようなものに置き換えないようにすることに注意を促している。自分は汎心論とカストラップの両者に賛同し、両者の折衷的な考えを持っている。どちらも宇宙的真理を内包しているのだから。両者に存在する部分真理を合わせて、机のような非生命体にも原子レベルで、あるいは量子レベルで心のようなものが内在していて、それは確かに振動もしている。なぜか。この宇宙はどこまでいっても、どこを切っても、内側と外側を持つ部分と全体のホロンで成り立っているからである。ゆえに非生命体の構成要素としての分子、原子、素粒子に内側としての心のようなものを認め、外側としての振動を認めるのは当たり前のように思える。

数の問題でも、そもそも甲乙を付けられるようなものではないが、この12年間の欧米生活におけるわずか30回ほどのサイケデリック体験の中で今日の体験が最良最善のものだった。繰り返しになるが、体験に良し悪しも本来はなく、善悪もない。しかし今回の体験は格別だったことは確かであり、それはベストコスミックな体験だった。だがそう述べた後によくよく考えてみると、本来はこの一瞬一瞬の体験が格別のものであり、それは常にベストコスミックなものなのだ。今日の宇宙体験はそれを物語っているし、それに目覚めることを促している。

それ以外にも改めて思い出すのは、体験中に流れている禅仏教の音楽が宇宙そのものを体現していて、宇宙の流れとして絶えずそこにあったということである。宇宙としての音楽にどれだけ助けられたことか。前回は音楽を途中で止めることや変えることが結構あったが、今日は音楽を途中で消すことも曲を変えることなく、流れてくる宇宙としての音楽の流れに乗って宇宙として体験と1つになっていた。体験ということで思い出したが、上記で述べたように、瞬間瞬間の体験が格別なのは、宇宙としての己の主観的体験が意識の純粋顕現であり、リアリティ表出であるからだ。体験は意識の表象として価値があり、体験はリアリティの表象としての価値がある。価値を超えた絶対価値がある。コスミックアドレスのどこかにその価値は必ず置かれる。宇宙としての今日の、宇宙としての自分の体験は、宇宙のアドレスのどこかに格納され、この宇宙の誰かの体験と繋がり、その人の体験やその人自身を宇宙に開く。フローニンゲン:2023/12/1(金)21:01


11482. 第20回のシロシビン・セッションの振り返り(その11)


この日記を執筆したら就寝し、明日からの宇宙としての自己の宇宙としての新たな1日に備えたい。それにしても、やはりシロシビン·セッション後のこの爽快感は見事なものである。確かにアヤワスカ、DMT、メスカリン、THCカンナビスも後に残る感じはほとんどなく、LSDだけがミクロな感覚レベルで脳に少し嫌な感覚が残るというのが自分のこれまでの体験の印象で、その中でもシロシビンの生命エネルギーの活性化と生命そのものの活性化の力は凄まじい。セッション後、音楽に合わせて踊り出す自分もいた。別に今日の“Psilocybe Azurescens”は踊り茸でもないのに。

そう言えば、今日の体験の振り返りもこれで11個目になっているのではないかと思う。セッションを終えてすぐに執筆した振り返りの日記が永遠のものになっている。永遠は今。今は永遠。永遠と今は同じものである。

最初の頃に執筆していた文章は幾分奇妙な性質を持っていた。それは途切れない文章、あるいは途切れを嫌う文章だったかと思う。その点について入浴中に考えていると、それはごく自然な、いやくどいがごく宇宙なことだったのである。端的には、宇宙は途切れを嫌うのである。一なる宇宙、一なるリアリティが常に今ここに存在しているのだ。なるほど、ウィリアム·ジェイムズの「意識の流れ」というのはそういうことだったのだ。意識は一つの宇宙としての戯れ的流れだったのだ。体験直後に内省日記を書いていた自分は意識の流れと化していたのである。なるほど、それを自分は何度も何度も宇宙であると表現していたのである。意識の流れとの合致は宇宙との合致なのだ。

さらにはそれに付随して、アンリ·ベルグソンの「純粋持続」という考え方も同様に腑に落ちる。意識は、宇宙は絶え間ない持続なのだ。途切れることのない永遠の今としての持続なのである。自分は持続としてそこにあったのである。それを宇宙であると表現していたのだ。今もこの瞬間の自分は持続であり続けている。絶え間ない持続としての意識としての宇宙としての自分がこの宇宙にいて、その宇宙と完璧に一致している。

自己一致を超えて宇宙一致である。今日の体験中はいくつもおかしなことに気づいた。世の中で言われている自己一致、自己実現、その他諸々の宇宙を起点に置かず、宇宙との合一を志向しない自己を起点にした諸々の言葉に違和感を持った。自分がそうした違和感を持ったのではない。宇宙が違和感を持っているのである。宇宙はもちろんそうした諸々のおかしな言葉を内包しているが、それでも宇宙としての自己は違和感を表明している。宇宙はもっと多くの人に宇宙になってほしいと思っているのだ。

上述した途切れを嫌う文章について、それは言語の不可避の性質である分節化を嫌い、分節されない一なる究極宇宙、究極リアリティ、究極意識を体現したものだった局所的·一時的·仮置き的に分節されたとしても究極的には分節され得ない宇宙としての自分はこれから、言語を活用する宇宙としての自分として、言語の分節化の力と宇宙の不可分性とどのような調和的·宇宙的関係を織りなすのか、大変注目している。

今日は愛情を育てた“Psilocybe Azurescens”マッシュルームへの絶対的信頼があり、“Psilocybe Azurescens”は自分の愛情にこれ以上ないほどに応えてくれた。“Psilocybe Azurescens”と自分は共に固有の宇宙であり、宇宙同士の応答と両者の合一があり、それを経ての究極的な宇宙との完全合一が果たされた日だった。フローニンゲン:2023/12/1(金)21:17

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