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11406-11412: フローニンゲンからの便り 2023年11月25日(土)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11406. シロシビン・マッシュルームの栽培キットの変化に気付いて

11407. キノコの頭の数に嬉しい驚きを感じて/今朝方の夢

11408. 文明に吹くそよ風/ロイ・バスカーの書籍/自得

11409. 欧米の大学での終身雇用の道

11410. 自分の目の前に広がる無限の可能性と道

11411. サイケデリック哲学者ニーチェへの関心の高まり

11412. いつまでも内側にある童心/時と私たち


11406. シロシビン・マッシュルームの栽培キットの変化に気付いて


時刻は午前6時半を迎えた。先日木曜日のジムでのトレーニングで色々と新しい試みをしたことによってか、身体の筋肉痛がいつもより多く、その回復に向かった身体が働いてくれている。昨日は午後9時過ぎにはもう就寝していたが、今朝方はゆったりと午前6時過ぎに目覚めた。目覚めてシャワーを浴び、2階に上がって水を飲んでいたところ、シロシビン·マッシュルームの栽培キットに目をやると、嬉しいことにようやく1つマッシュルームの頭が明確に出ているのに気づいた。栽培キットを覆うビニール袋の外からなので、ひょっとしたらそれ以外にも頭が出ているかもしれない。記録がてら書き留めておくと、明確に頭が出たとわかった今日は、栽培キットを開封してから15日経った日であった。説明書には10日から20日ほどで頭が出てくるとのことだったので、確かに説明書通りの結果になった。同時に10日で頭が出る場合というのはどのような場合なのかと考えた。栽培を促進する方法でもあるのだろうか。1つ考えられるのは、栽培キットを最初開封して地面の菌を活性化させるためにぬるま湯を5分間ほど浸すのだが、説明書には5分ほどとあるが、Youtubeなどの動画ではもっと時間をかけている場合もあるし、中には1日ぐらいぬるま湯を浸している場合もある。説明書には1日放置することは避けるべきと書いてあったが、おそらく最初のステップのここを工夫すればもう少し栽培速度が上がるのかもしれない。次回の栽培の際にはその点を意識してみよう。

無事に栽培キットの地面からマッシュルームの頭が出て来たので、ここからは朝昼晩の3回にかけて新鮮な空気を栽培キットに入れるのと同時に、霧吹きでキット内の湿度を十分にすることを心掛ける。早速後ほど、アニマルフローを終え、朝のカカオドリンクを作るタイミングで空気の入れ替えと水分補給を栽培キットにしたいと思う。その際には他の菌が入らないようにビニール手袋をして注意しながら作業を行おう。おそらくここからは一気にマッシュルームが育ってくるのではないかと思うので、そのつもりで育てていき、もう数日経ったら改めて乾燥方法について調べたい。今のところはオーブンをうまく活用して乾燥させることを考えている。オーブンの温度と時間は決定的に大事な情報なのでそれを押さえておきたいのと、そもそも収穫するときにどのようにマッシュルームを刈り取るのか、その注意点も含めて調べておこう。フローニンゲン:2023/11/25(土)06:55


11407. キノコの頭の数に嬉しい驚きを感じて/今朝方の夢


時刻は午前7時半を迎えた。今の気温は5度であり、今日は8度まで気温が上がる。昼前から昼過ぎにかけて少し雨が降るようだが、午後からは天気が回復し、晴れ間が見えるようだ。今夜は隣人たちとのピザパーティーがあるので、それに必要なものを含めて午後に近所のオーガニックスーパーに立ち寄り、その足で玩具屋にも立ち寄って書籍を受け取って来たいと思う。

先ほどシロシビン·マッシュルームの栽培キットを覆うビニール袋を開けて中を覗いてみたところ、嬉しいことにキノコの頭は1つだけではなく、6つぐらいぽこぽこと地中から顔を出していた。それを見て嬉しくなり、可愛らしいキノコの頭を見ながら優しく声をかけるかのように新鮮な空気を入れ、霧吹きで湿度を高くするようにした。ここからは昼食前と寝る前に空気の入れ替えと霧吹きをかけることを行いたい。愛情を持って育てたキノコを次回のシロシビン·セッションで摂取できそうなので、その楽しみもある。

今朝方の夢をいつものように振り返ってみたところ、今朝方はビジュアルとしての情報量は多いが、いずれも断片的な記憶に変わりつつあることに気づいた。取り急ぎ、覚えていることを書き留めておこう。

夢の中で私は、日本の見慣れない町の郊外にいた。県としては中規模の県で、郊外の人口は程よく、人が多過ぎず少な過ぎずの印象を受けた。中規模の県の町は国道が結構立派だったりすることが多く、その町もそうだった。私は見知らぬその土地の散策を楽しんでいた。しばらく散策を続けていると、宿泊先のホテルに戻って来た。ホテルの自室に戻ると、なんとそこに2体の女性の人工知能ロボットがいた。見た目はもう人間と同じで区別がつかなかったのだが、彼女たちが自らが人工知能ロボットだと述べ、その証拠に身体が機械化されていることを見せてくれた。人工知能ロボットと面と向かってじっくり話す機会はなかなかないと思ったので、この機会とばかりに彼女たちに色々と話を聞いた。すると日常会話においては全く普通の会話がそこでなされ、人工知能だから特別だということは何もなかった。こちらに合わせて会話をしてくれているのかなと思い、そこからは少し込み入った学術的な話をしようと思ったところ、いつの間にか彼女たちは部屋からいなくなっていた。

すると今度は自分の部屋に、小中学校時代の背の高い友人(YK)がいた。彼はベッドの上に横たわっていて、寛いでいた。彼は本当に背が高かったので、縦のベッドに縦に寝るのではなく、横に寝ていたので脚の半分以上が外にはみ出していた。彼がなぜ自分の部屋のベッドに寝ているのかについては尋ねることをせず、普通に彼に話しかけた。すると彼は夢の世界の中にいるようで、驚いたことに、彼は夢の世界からこちらに話しかけ、会話が成立したのである。そこからはしばらく彼との会話を楽しんだ。

それ以外にも、見知らぬ建物のトイレに駆け込む場面があった。確かそのトイレも何かの宿泊施設だったのではないかと思う。宿泊施設の自室のトイレではなく、宿泊客全員が使える供用トイレの個室に駆け込んで用を足そうとしていた場面があった。その時に焦ってしまったがゆえに少しトラブルが生じたが、その問題も速やかに解決案が思いつき、その問題の解決をしたところで場面が変わったのを覚えている。フローニンゲン:2023/11/25(土)07:51


11408. 文明に吹くそよ風/ロイ・バスカーの書籍/自得


土曜日の朝の世界に青空が広がっている。それを目撃しながら心が踊る自分がいる。青空が自分の心にフィードバックして来て、それが心を踊らせているのだ。天気予報では昼前から昼過ぎにかけて雨が降るようだが、今こうして土曜日の朝に青空を眺められていることに感謝したい。それは心を撫でるようにして佇んでいる。ただただ美しい青空がそこにある。

文明に吹くそよ風。現代の文明の表層には荒々しい風が舞っているように思えるが、深層的には文明は優しい風も吹かせることが本来できるはずである。現代という時代はただデーモニッシュな文明に私たちが仕立て上げてしまっただけである。本来文明もまた宇宙の観点からすれば、ファーマコンなのだ。それは良薬と毒薬の陰陽の側面を持っていて、現代という時代はその毒薬が勢力を増している時代なのだ。文明に再びそよ風を吹かせること。そこに向かって自分は自らの取り組みを日々前に進めていく。

一昨日より、ロイ·バスカーの“The Philosophy of MetaReality”という書籍を読み返している。今回が3回目の読書となる。本書は自分にとって、ケン·ウィルバーの“The Simple Feeling of Being”と同じだけ繰り返し読みたい書籍だと改めて思った。何なら最初から最後まで音読をするか、手書きで1度筆写したい程である。ひょっとしたら後者を行う必要があるかもしれない。バスカーの言葉で綴られた言葉を一言一句写経し、彼の言葉の体系を自分の内側に取り入れて真に定着されること。そのステップを挟まずしてバスカーのメタリアリティーの思想及び批判的実在論の要諦を掴むのは難しいのではないかと思う。今日は午前中にゼミナールの第56回目のクラスがあるが、それまでの時間、そしてゼミナールが終わってから夜のピザパーティーまでの時間はバスカーの書籍とピーター·ショステッドの書籍を読み返すことに時間を充てたい。

昨日、自らの真実と真理を自得する必要性について考えていた。サイケデリクスの摂取体験はそれを可能にする最良の機会を提供してくれる。内側で開示される内的真理を知覚したり、外面世界に関する外的真理の知覚をもたらす働きがサイケデリクスにはあり、そうした直接体験を通じて自らはその真理を自得する。自分の直接体験でそれを得るという意味での「自得」なのである。きっとそれは内外の真理に限らず、知識も叡智も己の体験や主観性に紐付けて自得していく必要があるのだろう。自得を可能にしてくれる自らの直接体験と主観性の重要性に改めて立ち止まって深く考えさせられる次第だ。フローニンゲン:2023/11/25(土)08:32


11409. 欧米の大学での終身雇用の道


ここのところ、大学機関に所属して、教授として研究を進めていく道を真剣に検討し始めている。その選択肢と機会が目の前に迫って来ているような気がするのである。これはこれまでの自分にはなかった選択肢と機会である。というのもこれまでの自分は学術機関に所属することを良しとせず、自由気ままに在野で研究を進めていくことに意義と価値を見出していたからだ。そもそも学術機関のような組織の中で仕事をすることは自分には全く向いていないし、その能力は人並み以下である。そうした特性や能力は限りになくゼロに近く、組織には2度と所属したくないとずっと思っていた。大学院への留学であれば、それは確かに所属に括られるかもしれないが、それはあくまで学生としての所属してであり、大学に雇われて所属するのとはわけが違う。学生として所属する場合には、今の状況と対して変わらず、自由気ままに研究を進めていく余地が多分にあるし、組織に果たす責任はほとんどない。一方、欧米の場合、博士課程から実質上は大学側に雇われ、給料を得る立場になるため、そこではもう単なる学生ではなく、一研究者としての責任と組織に対して果たす役割が明確なものになる。これまでの自分はそれに窮屈さを感じていた。ところが最近は、サイケデリクスという自分の人生を大きく変え、一生の研究テーマになる存在と深層的な出会いがあったことを受け、サイケデリクスに関してであれば組織に所属することになってもそれを厭わず、むしろ喜んでその責任と役割を受けて自らの研究に従事できるのではないかと思ったのである。

自分の性分として、世界の様々な場所に住みながら、絶えず環境的にも新しい刺激を得たいと思っているので、世界の大学を転々としながら、世界の様々な風物と人たちと出会い、交流しながらライフワークとしての研究を進めていきたいという思いがある。おそらくそれが一番自分の性に合っているのだろう。しかし一方で、大学教授としての終身雇用にも関心があり、それはある特定の大学から自分が死ぬまでそこに所属して研究することが保証された仕組みで、経済的な安定性もさることながら、自分が研究できる場所が一生確保されているというのは魅力的に映る。だがこの場合には、世界の大学を転々とすることは難しいだろう。1年間か2年間ぐらいであれば大学を移って研究することも可能なのかもしれないが、そのあたりは制度をきちんと調べておきたいと思う。また複数の大学で終身雇用の権利を得ることなどもできるのかを調べておきたい。いよいよ本格的に自分が博士課程に行き、大学教授としての役割をこの社会の中で担う日が近づいているように思う。これまでその道を歩まなかったのは、サイケデリクスを通じてその道を歩むためだったのだろう。サイケデリクスが自分を長く待ってくれていたことに感謝したいし、自分もまた自らの意志でその道を歩まなかったことに感謝したい。それは自分の意志への感謝である。今から欧米の大学での終身雇用の仕組みと権利の取得プロセスについて少し調べてみよう。フローニンゲン:2023/11/25(土)08:44


11410. 自分の目の前に広がる無限の可能性と道


欧米の大学で終身雇用される条件を調べてみたところ、名門大学ではもちろん博士号が必要になるが、上位大学以外であれば修士号からもその道が開かれていることを知った。また、ある大学で終身雇用の権利を得ると、他の大学でも終身雇用の権利を得られる場合もあるとのことで、それであれば自分が理想とする生き方の世界の様々な場所に住み、その土地の大学で研究を続けるということも可能になるのではないかと思った。欧米の名門大学の博士過程というのは基本的にはその大学で働くことを意味するので、現時点での理想としてはサイケデリクスに関して2つぐらいは異なる大学で博士課程を取得したい。例えば、1つ目の博士号は宗教学·神学の観点からサイケデリクスを研究する形で博士号を取得し、2つ目の博士号は哲学の観点からサイケデリクスを研究する形で博士号を取得するといった具合に。1つ目の博士号はアメリカで取得することを真剣に考え始めているが、2つ目は欧州のどこかの大学で取得するか、イギリスで取得することを考え始めている。これまでイギリスには住んだことはなく、旅行で何回か足を運んだぐらいなのだが、そう言えば旅行以外でもケンブリッジ大学にプログラミング言語のRと統計学の集中コースを受講しに行ったことを思い出した。その時のケンブリッジ大学での体験はとても印象的で、真冬ではあったが、ケンブリッジ大学近郊の雰囲気は学術的で落ち着きがあって大変好感を抱いたのを覚えている。まだオックスフォード大学には一度も足を運んだことはなく、ケンブリッジ大学はどちらかというと自然科学が強い印象で、オックスフォードももちろん自然科学は強いが、ケンブリッジと比べるとそれは少し弱いように思え、逆にケンブリッジよりも社会科学や人文学が強いように思える。それは両者の大学の出版社の出版物を見ていても明らかである。オックスフォードにもサイケデリクスの研究部隊がいるので、オックスフォード大学もぜひ一度籍を置いて研究したい大学である。その他には、イギリス南西部のエクセターにある名門大学エクセター大学にも関心がある。ここにはサイケデリック哲学者のピーター·ショステッドがいて、彼が主導的な役割を担って、今現在サイケデリック哲学の大学院レベルのプログラムを構築中なのである。ショステッドは外見こそ風格があるが、自分と5歳か6歳ぐらいしか歳が変わらず、世代的には同じと括ってもいいように思う。彼の書籍や彼の一連の動画や音声を視聴する中で、彼に博士論文の指導教官の1人になってもらう形でエクセター大学でサイケデリック哲学の博士号を取得することも選択肢に入れている。今現在、エクセター大学には学位取得プログラムではなく、ある分野で修士号を取得した人を対象にしたサイケデリクスに関する半期かそこからのプログラムがすでにあり、それが今後は修士過程や博士過程の正式なプログラムになってくれることを期待する。これまで自分が好んでいなかった大学に所属するという道を改めて検討してみると、こうして様々な可能性がそこに存在し、自分の前には無限の可能性が広がっていることに気づかされる。そうした可能性を大切にしながら、目下自分がやるべきことは博士課程の進学にせよ、終身雇用の道にせよ、両者の道を歩むに際して必要となる論文執筆能力とティーチング能力を高めていくことである。前者に関しては日々英語で学術的な事柄を書き続けるということをリサーチノートを取りながら小さく絶えず実践していき、後者に関しては英語のスピーキング能力をさらに高めていく鍛錬を日々怠らないようにしたい。そうすれば自分は無限の可能性の中に開かれた何らかの道の上を充実感と幸福感を持って歩めるだろう。フローニンゲン:2023/11/25(土)09:05


11411. サイケデリック哲学者ニーチェへの関心の高まり


明るい空の下に小雨が降り、それを眺めながらニーチェへ思いを馳せている。ニーチェは本格的なサイケデリック哲学者の1人で、実に様々なサイコアクティブな物質を使用していた。それは元々はニーチェが父から譲り受けた病気の治癒から始まった習慣だが、ニーチェは小さい頃から死ぬまで何かしらのサイコアクティブな物質を摂取することを通じて哲学的な仕事に従事した。もちろん現代の科学からすれば、ニーチェが摂取してものの大半は中毒性があったり、心身への影響が強く、危険なものばかりであった。しかしニーチェは、カンナビス(大麻)を摂取していたフランスの詩人シャルル=ピエール·ボードレールに影響を受けてカンナビスも摂取していたと言われるーー「カンナビスを摂取して自由を求める人がいるように、自分はワーグナーを必要とする」などという言葉を残しているので、さほどカナンビスを好んでいたわけではないこともわかるーー。今現在カンナビスは、その医療効果を含めて注目されていて、ニーチェが摂取したものの中には注目するべき物質も含まれる。またニーチェの指摘として洞察が深いのは、「ヨーロッパ人における毒はアルコールである」と述べていたことである。若きニーチェはアルコール飲料に手を出して大量にそれを摂取していたらしいが、ある時からアルコールの害悪に気づき、アルコールの問題を指摘するようになった。いずれにせよ、ニーチェは自身の病気の治癒のためにサイコアクティブな物質を摂取し続けただけではなく、それらの物質がもたらす特殊な意識状態が自身の哲学的思索を前に進める上で不可欠のものと気づいていたのである。「エレウシスの秘儀」に参加していたかつてのソクラテス、プラトン、アリストテレスのように、ディオニソス的な意識状態に入って哲学的思索を深めるためにニーチェは生涯にわたってサイコアクティブな物質を摂取し続けた。最終的に害悪のある物質も摂取していたために、ニーチェは短い生涯で幕を閉じるが、その間にはまさにサイコアクティブな物質によって人間的知性を超えていき、自らが提唱した超人のような人間になる形で人間知性の限界に挑んでいったことが印象的である。

こうしたニーチェの功績と生き方を含めて、ますますニーチェに関心を持ってきた。ニーチェが療養の地として選んだスイスのシルス·マリアにはやはり足を運んでみなければならない。そこにあるニーチェの記念館に足を運び、その記念館近くのホテルに宿泊する形で、ニーチェが生きていた場所を感じながら自分もあれこれと思索を巡らせてみたいと思う。冬が終わり、春を迎えた頃、ひょっとしたらヨーロッパ旅行の最後になるかもしれない次回の旅行はスイスのシルス·マリアと神秘主義に関する学会が長年開催されていたスイスのアスコナに行くことにしたい。フローニンゲン:2023/11/25(土)14:00


11412. いつまでも内側にある童心/時と私たち


昼前と昼過ぎにぱらついていた雨は止み、今穏やかなフローニンゲンの冬空を眺めている。先ほど、今夜のピザパーティーに向けて必要な買い出しをしてきたのだが、道中のひんやりとした空気は心地良く、清々しい散歩を楽しむことができた。ここから気温がさらに低くなり、最高気温でさえもマイナスになってくる日も出てくるだろうが、凍てつく寒さもまた自分の存在の芯を温めるという不思議な力があることに気づく。その力の恩恵に授かれる日も近い。

オーガニックスーパーで購入したのはバイオダイナミクス農法で作られたビーツジュースで、それは隣人のサハルの息子のフィンのためと自分のために購入したものだ。おそらく後の参加者はピザと共にワインを楽しむであろう。自分はニーチェと同じくアルコールの害悪を知っているので、アルコールよりも圧倒的に害悪の少ないサイケデリクスこそ摂取するが、アルコールはもはや摂取しない。それは今後も徹底したいと思う。

買い物だけではなく、その足で玩具屋で書籍の受け取りをしてきた。今日は合計で6冊ほど書籍を受け取った。書籍の梱包の箱が邪魔だったので、途中のノーダープラントソン公園で梱包を開けた。その時にふと、公園のベンチで学術書の梱包をこうして紐解いていることもまたいつか良き思い出になるのだろうと思った。自分の足で書籍を取りに行き、自分の手で書籍の梱包を開ける楽しみ。季節はサンクスギビングを終え、クリスマスを控えており、続々と届けられる学術書は自分にとってのクリスマスプレゼントのようであり、童心に戻ったかのような気持ちで毎回新たな書籍を受け取っている。梱包を開けた先に飛び出す書籍を眺めた時の喜び。こうした喜びを含め、自分の中にある探究の根源である童心をいつまでも持ち続けたいと思う。

私たちは時の中にいるのか、それとも時は私たちの中にいるのか。それともそのどちらもか。時と私たちとの関係についてぼんやりと考えていた。サイケデリック体験を振り返ってみると興味深いことに、体験の初期フェーズにおいては私たちは時の中にいるかのように知覚される。まさに時が存在する世界の中で、ある意味時に限定される形で私たちが存在しているかのようなのだ。ところが体験が深まってきてピークフェーズに入ると、時の感覚は消失し、私たちが時の中にいるというよりも時が私たちの中にいるという感覚を体験することがある。そこではこれまでの時と私たちとの関係が逆転するのである。アインシュタインの理論とは違う形で時が相対的なものであることをそれは示しているように思える。物理学を突き詰めて世界を探究するのと同じように、サイケデリクスを思索手段として活用しながら哲学を突き詰めて世界を広く深く探究していく道が確かにあるという実感で満たされている。フローニンゲン:2023/11/25(土)16:03

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