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11321-11329: フローニンゲンからの便り 2023年11月15日(水)



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タイトル一覧

11321. 今朝方の夢

11322. サイケデリクス・セッションを提供する側と受ける側に求められること

11323. 意味:それは無限の可能性

11324. 意味と世界/場と自己

11325. 今朝方の夢の続き

11326. サイケデリック·ルネサンスの最初の年に起こった3つのイベント

11327. 意味の解釈器と培養器としての概念や理論/「サイケデリック保守主義」の在り方

11328. サイケデリック・セッションの頻度について/サイケデリクスがもたらす現象学的超越体験を科学的に扱う3つの手順

11329. 欲望の普遍化/シロシビン・トリュフの比較/リアリティ空間の相異について


11321. 今朝方の夢


     時刻は間も無く午前6時を迎える。今この瞬間は暖房が入っておらず、室温が20.5度に安定している。目の前に見えるのは真っ暗な闇の世界。内側の世界に見えるのは闇を歓迎する心。どうやら今は晴れているようだが、今日もまた午前中から夕方にかけて雨が降るらしい。幸いにも明日と明後日は晴れのようなので、明日にジムに行く際には清々しさを感じられるに違いない。フローニンゲンもそろそろグッと寒さが厳しくなってくる頃になって来た。今年の寒さはまた自分の心身を鍛えてくれるであろう。

     今朝方に見ていた夢をまず振り返ろう。シロシビン·セッションが夢に対して何か変化を与えているかと問われると、それはわからない。きっと間違いなくシロシビンが無意識の奥深くに影響を与えていることは間違い無いだろうが、その変化は認識するにはあまりに微細である。こうした微細なものをまだ捉えられない自分がいるが、今後セッションを重ねていき、絶えず夢日記を執筆していれば、自ずと変化に気づくだろう。そう、長く歩みを進めて振り返ってみたときに変化は初めて変化として認識できるのだから。

     夢の中で私は、同年代のある有名なプローゲーマーの方が客室乗務員を務める国内線に乗っていた。搭乗券を持って急いで機内に乗り込むと、そこには若者や学生の姿がちらほら見えた。どうやら自分が購入したチケットは最も下のクラスのようだったので、経済的にゆとりのない人たちがそこにいて、雰囲気もどこか刺々しかった。自由席とのことだったので、どこかいい席はないかと探していたところ、良さそうな席を1つ見つけたが、他にも席があるかなと思ったので色々と探した。しかし、良さそうな席は見つからず、最初に見つけた席に座りに行こうとしたら、もうそこには別の人がいた。困ったなと思っていたところ、客室乗務員を務めるそのプロゲーマーの方が声をかけてくれた。事情を説明すると、今回初めてこの航空会社を使うに際して最上級クラスを見て欲しいとのことだったので、最上級クラスにその場でアップグレードしてもらうことにした。その料金として30,100円ほどかかったが、それは大した金額ではなく、アップグレードをしてもらって最上級クラスのある3階に上がった。すると、飛行機ではなくまるでホテルの中のような広さが上の階にはあって驚いた。そこにはホテルの式典会場ぐらいありそうなスペースがあり、食べ放題·飲み放題のビュッフェがあった。最上級クラスの数人の客たちは先ほどのクラスの乗客と違って品があり、落ち着きもあった。彼らがゆったりと食事を摂っている姿を横目に、まずは自分の席に向かった。私は客室乗務員のその方に、その方が思う一番良い席を選んでもらうことにしていたので、彼がどんな席を選んだのかとても楽しみだった。席に到着すると、席から見える景色を確認することも、席の広さを確認することもなく、すぐさま食事が提供されている場所に向かった。お腹が空いていたのと、これは国内線なので、目的地までの到着はあっという間であるから、早めに食事を済ませておかないと思ったのである。ゆっくり食事を摂る時間があるかということや、機内でゆっくり時間を過ごせるかということに少し心配になりながらも、自分の気持ちは昂っていた。そこから、改めて高いサービスを受けることの自分なりの価値を感じた。フローニンゲン:2023/11/15(水)06:11


11322. サイケデリクス・セッションを提供する側と受ける側に求められること


先ほどまで止まっていた暖房が自動で入り始めた。暖房の音を聞きながら、そして目の前に広がる真っ暗闇を眺めながら朝の考え事をしていた。その中でシロシビンを含めたサイケデリック·セッションを提供することの難しさについて考えていた。確かにサイケデリクスは人々に学びの機会を提供してくれ、それが治癒や変容につながる大きな可能性を秘めている。しかし、提供する側と提供を受ける側の双方で様々な条件を満たしていないと、提供を受ける側の治癒と変容がうまく進まないか、何も変わらないことが起こり得る。人は簡単に変われるようでいて、変わるのが難しい生き物なのだ。発達心理学者のロバート·キーガンが指摘するように、私たちは心の免疫機能を携えており、変化を拒む性質がある。心の表層では変化を望んでおきながら、心の深層では変化を拒絶し、現状維持を好む生き物なのだ。誰しも慣れ親しんだ環境は心地良く、新たな環境にはたじろぐものである。進化論的にも生物進化の過程で未知なる環境に乗り出していくというのは生命の危機を内包していたと思われるので、私たちのDNAレベルでも変化を拒む性質が含まれているのだと思われる。しかし逆に言えば、生命の危機や進化することを本当に迫られた場合には、今の現状の環境を飛び出して新たな環境に向かっていくことが自然に行える場合もある。

そのようなことを考えながら、サイケデリクスの提供を受ける側のやはりマインドセットは非常に重要で、よく言われるようにシャドーワークを含む内面探求をどれだけ行って来たかも変化を実現する上での鍵を握るだろう。マインドセットに関してはオープンマインドという種類に加えて、セットするマインドの中身をどのようなものにするかはまた重要になる。そして、変化に対する自分なりの意味付けや変化を拒む自分もまた存在しているという認識のもとに、自己の心の免疫と向き合っていくような胆力や知識·技術も求められるのではないかと思う。逆に提供者側はこのあたりを中心に支援をしていけばいいということが見えてくる。端的には、その人の心の免疫機能の種類と性質をつぶさに見ていき、マインドセットの在り方を確認し、セッションに向けて望ましい状態を一緒に作っていくような協働作業に従事できるかどうかはセッション提供者側の必須の素養と思う。仮にサイケデリック·セラピーを提供するのであれば、提供するサイケデリクスに関する深い知識やセラピーの理論や技法に幅広く習熟しておくというのは言うまでもなく求められることだ。治癒よりも変容に焦点を当てたコーチにもほぼ似たようなことが当てはまる。提供するサイケデリクスに関する深い知識やコーチングの理論や技法を包括的に修めておく必要がある。

こうした条件を満たしてもなお変化するかどうかがわからない点を押さえておくことも重要だろう。変化というのはなかなかに厄介なものである。変化にも次元があり、起こる変化は表層的なものでいいのか、深層的なものである必要があるのか。変化の度合いに関するニーズを汲み取りながら、そのニーズに合致した変化をもたらすことができるかどうかは誰にもわからない側面がある。そもそもサイケデリクスの深層的な力は人智を超えたものがあるので、こちら側のニーズと関係しない変化をもたらすことの方が往々にして起きることなのだ。これらを総合的に考えながら、絶えずどうすれば最善のセッションを提供することができるのかを考え続けるということが、もしかしたら提供者側に求められる最も重要で、最も誠意ある姿勢なのかもしれない。フローニンゲン:2023/11/15(水)06:35


11323. 意味:それは無限の可能性


朝の呼吸法とアニマルフローの実践を終え、いつものようにホッと一息つかせてくれる温かいカカオドリンクを飲んでいる。それにはヘンプパウダーと小麦若葉のパウダーが入っていて、そこにオーガニックの蜂蜜を少し加え、甘さもあって朝に飲むにはうってつけのドリンクだ。それが朝の活動の源になっている。ブラックコーヒーには基本的にカロリーはほとんど含まれていないので、午前中に摂取する唯一のカロリーがこのドリンクである。そんなドリンクを飲みながら引き続きサイケデリクスがもたらす治癒と変容について考えていた。 

ヴィクトール·フランクルのロゴセラピーの観点と私たちは意味を構築する生き物であるという観点からすると、サイケデリクスが深層的な治癒と変容につながるかどうかはやはり意味の力が鍵を握るのではないかと思う。身体は外部からの物質によって病んだり傷ついたりするが、心や魂は物質によって傷つくのではなく、意味によって病んだり傷づいたりする。それを踏まえると、治癒と変容を脳内変化という物質的なものに還元してはならず、やはり意味に注目して関わっていくことが重要になると言えるだろう。もちろん、心や魂の治癒と変容において、その土台となる物質的な身体および脳は重要であるから、脳内現象について科学的な研究をすることは意味がある。そう、そこにも「意味」があるのだ。科学研究そのものも焦点は違えど意味の探究なのである。そうなってくると、この世界は意味で構築されていて、全ての探究や実践は意味に触れる行為なのだと見えてくる。

また、人間の意味世界は非常に複雑な構造を有しているので、その人が望む意味がサイケデリクスを通じて得られる保証はどこにもない点を押さえておくことも重要だろう。サイケデリクスの摂取を通じて、自分が望む治癒や変容にとって本当に必要な意味が得られる場合もあれば、今の自分の意味咀嚼力を遥かに超えた意味が降りかかってくる場合もある。その場合には、治癒や変容の効果は得られず、その意味に圧倒されてしまうこともある。逆にそれが現状の病を深めてしまうことさえあるという点には注意が必要である。このようなことを考えていると、つくづく私たちの生き死に意味が関わっているということが見えてくる。私たちの命は意味によって生かされているのだ。意味によって命が輝く場合もあれば、輝きが失せてしまう場合もあるのである。

現在隆盛を見せているサイケデリック·ルネサンスの中で、サイケデリクス研究が少し「科学主義(scientism)」に傾斜していることを危惧しているのはそのような理由によるのだ。意味に注目しなければならない。意味世界に分け入り、意味世界を紐解いていかなければならない。そして、サイケデリクスを提供する側は、提供を受ける側の意味世界をより良いものにしていくための意味変革者としての役割を担わなければならないのだ。あるいは、提供を受ける側とサイケデリクスとの間でなされる意味の交換を促進するべく、意味の架け橋になる必要があるのではないだろうか。

サイケデリクス研究者として自分が求めるのはとにかく意味である。研究テーマとしても実践としても、絶えずそれは意味に裏打ちされたものでなければならない。意味の探究は果てしない。意味は果てしない宇宙であり、果てしない宇宙は意味であるからだ。 逆に、意味は無限の可能性を持つことがそこからもわかる。結局自分は意味の探究を通じて無限の可能性を探究しているのだろう。誰しもに備わる無限の可能性、この宇宙の無限の可能性を信じ、それを全身全霊で探究している自分がいる。ダークブルーに変わり始めた闇の世界の中で、そのような意味を見出した自分がここにいる。ここでもまた新たな意味が自分の意味世界の土壌から芽を出したのである。フローニンゲン:2023/11/15(水)07:17


11324. 意味と世界/場と自己


時刻は午前7時半を迎え、ようやく辺りがうっすらと明るくなって来た。それによって初めて今この瞬間の外の世界の様子がわかってくる。意味というのは光なのであり、絶対無としてのこの世界を照らす光の道しるべなのだ。だからこそやはり私たちは意味を必要とするのである。現代社会が病理的なのは、意味に由来している。意味の病理と腐敗を根本から治癒していくこと。自分の取り組みの焦点は究極的にはそこにある。今この瞬間に聞こえて来た小鳥の鳴き声。欧州はサマータイムを終え、小鳥たちも目覚めの時間が少し遅くなったのだろうか。今ようやく1羽の小鳥が鳴き声を上げた。そんな1羽の小鳥の鳴き声から私たちがどのような意味を汲み取ることができるか。私たちは世界からそれを問われていることに気付いているだろうか。世界が私たちに絶えず投げかけている意味の1つにはそれがある。世界からの投げかけに虚心坦懐に耳を傾けること。そしてその投げかけの意味を自分なりでいいので汲み取ること。意味を汲み取って初めて世界と自分は繋がることができる。そうなのだ。意味とは世界と自分との媒介者なのであり、接着剤でもあるのだ。いやそれは交流剤と述べた方が適切だろうか。私たちは意味を通じて世界と交流することができる。逆に言えば、意味を喪失し、意味を汲み取れなくなった人間は世界と交流ができない。世界を他者と置き換えてみたときにも全く同じことが当てはまる。世界を動植物や地球環境と置き換えても全く同じである。意味に気づくこと。意味に目覚めること。それを忘れてはならないよ、と小鳥が鳴き声を通じて教えてくれている。小鳥は教師。世界は教師なのだ。教師と繋がること。そのためには意味が必要であり、意味を汲み取る力と意味を構築する力を養っていくこと。教育の出発はそれでいいのではないだろうか。

場。現在、サイケデリクス研究とその実践における場という器が着実に成長し、大きくなっているのを実感する。 広く学術世界を見渡しても、サイケデリクス研究が1つの分野を形成し、その場が日進月歩で拡大しているのがわかる。それに応じてこの分野に参入する研究者も増えていき、そこに研究エネルギーが蓄積されていき、優れた研究がどんどんと誕生している様子が見える。場にはエネルギーを蓄え、エネルギーを放出することを通じて新たなものを創造するという力があるのだ。そのような器としての場が存在している。自分個人のサイケデリクス研究に目を向けても同じことが言える。毎日コツコツと学習を進めることによって、自らのサイケデリクス研究という器に情報エネルギー(知的エネルギー)が集積していき、それがまた自分にエネルギーを与えてくれ、新たな洞察や発見をもたらしてくれる。サイケデリクスを自ら摂取するという実践においても同様だ。自分がサイケデリクスを摂取すればするほどに、そこに実践エネルギーが集まってくる。それがまた自分にフィードバックとして新たな実践エネルギーを与えてくれ、サイケデリクスを摂取するという実践を豊かなものにしてくれている。結局自己と場は不二不可分の関係にあり、相互に影響を与え合っていることがわかる。自己という存在そのものが場なのであり、場としての器である自己をこれからも日々の学びを通じてじっくり涵養していこう。そのようなことを考えさせてくれる朝だ。フローニンゲン:2023/11/15(水)07:43


11325. 今朝方の夢の続き


昨日は少し風が強い時間帯があったが、今朝は風もなくとても穏やかだ。平穏な朝の世界の中で、小鳥たちが癒しの音楽を奏でている。彼らの心地良い音楽に耳を傾けながら、今朝方の夢の続きを振り返っている。

夢の中で私は、高校1年生の時のクラスメートの家を訪問していた。彼の家は大きな通りに面していて、その通りは車の交通量が多かった。しかし車の騒音は気にならず、むしろ静かに感じるぐらいの雰囲気を放つような場所に彼の家があった。私は小中高時代の友人(YK)と一緒に彼の家を訪れていた。玄関のチャイムを押す前にふと、そう言えば小中高時代の別の友人(SS)と事前に打ち合わせしていたことを思い出した。彼と話し合っていたのは、彼がその友人の家に無断で侵入し、家に仕掛けをするというものである。それは別に盗聴器を仕掛けるとかそのようなことではなく、友人を驚かせ、喜ばせることを目的にしたものだった。一緒に家を訪問した友人はそのことについて知っていなかったので、私はその企画が失敗しないように色々と配慮して立ち振る舞う必要があった。友人の家のチャイムを鳴らすと、彼が出て来た。当初の予定通り、いったん彼を家の外に出してそこでしばらく話をしている間に、別の友人に家に進入してもらう必要があった。そのときに、外にいるもう1人の友人に気づかれないようにすることも大事だったので、私は家の主人である彼とその友人の2人の気を引くように話をする必要があった。無事に友人が侵入を完了したことを受け、そして作業が完遂したことを受けて3人で改めて家に入ることにした。そのときに、侵入した友人がまだ家の外に出ていないことに気付いたので、慌てて話題を見つけて2人の注意を引くことにした。そのときに咄嗟に出て来た話が椎茸の話であり、どういうわけか私は手土産として自分が育てた立派な椎茸をたくさん持って来ていた。家の主人である彼に見せると、彼は喜んで、夕方の日光に当てて天日干しにしようと述べた。それは良いアイデアだと賛同し、再び玄関から外に出て、天日干しをしている間に、家に進入していた彼は無事に外に出ることができた。それを確認してから3人で家に入った。そこからは夕食の準備をし始めた。天日干しをした椎茸をもとに椎茸ご飯を炊こうということになり、それは名案で食べるのが楽しみだった。料理をしている最中に、家に侵入した彼が車に乗って無事に外の大通りに出て行ったのを見てホッとした。

翌日、彼とはホテルのロビーで待ち合わせをし、侵入した結果を報告してもらうことになっていた。ロビーに到着すると、彼が現代音楽風の曲をパソコンで作曲していて、その様子を見せてもらった。確かに技術的には目を見張るものがあるが、そこに質的な深い美が体現されているかと言われると少し疑問だったが、彼の作曲を褒めるような言葉をかけた。すると突然、ある人気ユーチューバーが私たちに突撃取材を申し込んできた。あまりにも突然だったので一瞬面食らったが、その申し出を受けたところ、マエストロに関するクイズをいきなり出題され、その答えを考えていたところで夢の場面が変わった。この夢以外にも、アメリカの3人の俳優が武術の技を互いに繰り出して戦っている場面があった。それは喧嘩のようなものではなく、お互いの技術を高めあうための交流会のようなものだった。それは時間としては短かったが、終わる頃には3人とも大量に汗をかいていて、こちらからは見えないプレッシャーや運動量があったのだと思った。フローニンゲン:2023/11/15(水)08:28


11326. サイケデリック·ルネサンスの最初の年に起こった3つのイベント


「サイケデリック·ルネサンス」という言葉を聞いて久しいが、そもそもその最初の年はどこにあたるのだろうかと考えていた。すると、昨日から再読を始めたマイケル·ポランの書籍の中にそれに該当する記述があった。知識は問いによって集まってくることを実感する。問いは磁石なのである。それは知的にも霊的にも。

サイケデリック·ルネサンスの最初の年は2006年に位置付けることができる。この年に世界で3つの互いに関係しないイベントが起こった。1つはこの年はLSDの発見者のアルバート·ホフマンの生誕100周年の年で、バーゼルで彼の生誕100周年を祝うイベントがあったのである。もう2つのイベントはどちらもアメリカで起こった。2つ目のイベントはワシントンDCの最高裁で起きたものである。それはブラジル土着のカトリック系宗教団体のウニオア·ドゥ·ヴェジタルが宗教目的でアヤワスカを使用することを認めるかどうかの裁判で、結論としては宗教的自由の下にそれが認められる判決が下されたというイベントだ。これは非常に大きなイベントで、自分もまたそのおかげでアメリカ留学中にアヤワスカを摂取することができたのである。さらには、この間ハーバード神学大学院に行って志願者たちと話をしていたときにもアヤワスカを摂取したことがある人が多いことに驚き、アメリカでのアヤワスカの普及の背後にこのイベントがあったのだと痛感する。そして3つ目のイベントは、メリーランド州のバルティモアで起こった。ここは世界屈指の医学部を擁するアメリカの名門大学ジョンズ·ホプキンス大学があり、そこのローランド·グリフィスがシロシビンが引き起こす神秘体験に関する論文を世に公開したことが3つ目のイベントである。このイベントが持つ意味もまた大きく、名門のジョンズ·ホプキンス大学がシロシビンに関する研究を行い、シロシビンの持つ意義や価値を示す科学論文が世に公開されたことによって、古典的なサイケデリクスとその他の危険なドラッグが初めて明確に線引きされる機会となったのである。それを受けてアメリカで薬事法を担当する“Food and Drug Administration(アメリカ食品医薬品局)”がサイケデリクスの医療的価値に注目し、規制の変革に向けた調査と準備をし始めたのである。この2006年の出来事をきっかけに、実際にアメリカでは少しずつ様々な州がサイケデリクスに関する規制を変えていったという歴史がある。2006年と言えばまだ自分が日本の大学に通っていた頃であり、その時の自分はサイケデリクスを取り巻く世界でこのような重要なイベントが起こっていることなど知る由もなかった。まさにそれらはロイ·バスカーが述べているように自分の経験世界の外にある現実世界で起きているイベントだったのだ。だが今はそれらのイベントが自分ごととして自らの経験世界の内側にあることに気づく。こうして自己の世界は絶えず拡張していくのだという実感。そのような実感が持てるのは日々の継続的な学びのおかげであり、サイケデリクスはとりわけ自らの世界を内外に無限に拡張させてくれる媒介者かつ教師として存在している。 フローニンゲン:2023/11/15(水)09:00


11327. 意味の解釈器と培養器としての概念や理論/「サイケデリック保守主義」の在り方


早朝より意味について考えている。とりわけそれがサイケデリック·セッションにもたらす意味について考えている。今のところ、サイケデリック·セッションがその人にとって真に意味のあるもの、すなわち治癒や変容を起こすかどうかにまさに意味が関与するということが見えて来ているが、体験者がいかにサイケデリクス体験から意味を汲み取るかの支援の1つの形として自分のサイケデリクス研究とその知見の共有があるのだと思った。端的には、概念や理論というのは意味解釈を促す枠組みになり得るのだ。それは意味を汲み取るための器としての役割を果たすと述べてもいい。もちろん1人1人の体験は究極的にはいかなる概念にも理論にも留まることのない無限の広さと深さを持っているのだが、体験者に概念や理論を提供することで、ブヨブヨとした無限の広さと深さを持つ意味に形を与え、その形から治癒と変容の効果を享受してもらうように支援できると思ったのである。自分がこうして日々サイケデリクスに関する学術書や学術論文を読み続けているのは、確かに自らの体験をより広く深く咀嚼するためではあるが、そうした個人的な目的を超えて、多くの人がサイケデリクス体験から広く深く意味を汲み取ることを実現してほしいという思いがあるのだと気付いた。概念や理論は意味を解釈するために有用であるという意味での解釈器としての役割に加え、また意味の培養器としての役割も果たす。言い換えれば、概念や理論を活用して体験を咀嚼することで、そこから汲み取られた意味がさらに豊かなものに育まれる可能性をもたらすのである。概念や理論は詰まるところ、意味を引き出す役割を果たすのと同時に、意味を育む役割も持っているのである。ゆえに自分は新たな概念や理論を生み出すことに人一倍執着しているのである。それは非常に肯定的な執着で、「使命的執着」あるいは「天命的執着」と呼べるかもしれない。

そのようなことを考えた後に、改めてサイケデリクスのその物質が誕生した歴史に敬意を表し、その物質に関する科学的研究の蓄積に敬意を表する意味で、古典的サイケデリクスを大切に扱う「サイケデリック保守主義(psychedelic conservatism)」の立場をしばらくは採用したいという思いを持っていた。そうした在り方を保持して問題が生じたら、その立場を修正すればいいのである。革命的な変化ではなく漸次的な変化を希求するのが保守の真髄であり、そうした変化を希求しないのは保守でもなんでもなく、単なる現状維持に過ぎない。サイケデリクスに関する諸々の事柄に対しては保守の真髄が体現されたサイケデリック保守主義の立場をしばらく取っていこう。こうした在り方は自らの政治信条とも深く繋がったものであり、自分の政治信条がどのようなものなのかを理解することの大切さを改めて思う。同時に今後は、他のサイケデリクス研究者がどのような政治信条を有しているかにも敏感になり、彼らの信条を理解した上で彼らの仕事を眺めたり、彼らと交流したりしていくことを心掛けていこうと思う。フローニンゲン:2023/11/15(水)09:38


11328. サイケデリック・セッションの頻度について/サイケデリクスがもたらす現象学的超越体験を科学的に扱う3つの手順


シロシビン·セッションを終えて3日目を迎えたところで、やはりこの実践は継続が物を言うと思った。これまでは不定期に思いついた時に、必要だと思った時にシロシビンを摂取していたが、それは逆に言えば実践と言うにはあまりに継続性のないものだった。そこで求められるのは体系的な実践であり、定期的にそれを摂取することが重要だと気付かされたのである。他の実践でも全く同じで、基本的に不定期に行うものを実践と呼ぶには忍びない。例えば筋力トレーニングを数ヶ月に1度行うというのは実践の名にあまりふさわしなくなく、それは単なる思いつきから生まれた行動に過ぎないとみなされても不思議ではない。確かにシロシビンを含めたサイケデリクスは大きなインパクトをもたらしうるものなので体系立てて定期的に摂取するのは難しいかもしれない。しかしそれは不可能ではなく、むしろ実行可能なことであるし、真剣にサイケデリクスについて探究し、自己と世界を深く探究していこうとする場合には不可欠なことだと思う。現在、3日目ということでシロシビンに対する耐性が体内で構築されている。自ら測定したことはないが、実証研究の結果からは一般的に2週間ほど体内で耐性が構築される。これは交差耐性があり、シロシビンを摂取した後にLSDを摂取しようとしてもダメであり、メスカリンを摂取しても同様のことが当てはまる。しかし例外はDMTであり、これはシロシビン、LSD、メスカリンとの交差耐性は確認されていない。そうしたことからも自分はDMTにも着目しているのだろう。今のところDMTは容易に入手できないが、仮に来年にボストンで生活することができれば、マサチューセッツ州はシロシビンやメスカリンに加えてDMTの合法化にも乗り出しているので、シロシビンを摂取して耐性がある期間にもDMTを用いた自己実験ができる可能性が高い。それはとても有り難いことであり、そうした場所に生活拠点をしばらく置きたいと思う。今のところは毎月1度はシロシビンを摂取してみようと思うが、ひょっとしたら2週間に1回ぐらいの集中的なペースでセッションを行っていく時期も実験的に設けてみるのもいいかもしれない。セッションの頻度については絶えず考えを巡らせておこう。

昨日、親友かつかかりつけの美容師であるメルヴィンとの対話をしていて、その時にメルヴィンが“You were there”という言葉を述べたのが印象的だった。この表現は実にしっくり来る。サイケデリクスの体験中、あちらのリアリティないしは超越的リアリティにいたことを指す言葉としてそれ以上の言葉はない。その言葉を聞いて、すぐにお互いに体験に関する合意がなされるあたりが興味深い。これはまさにウィルバーが科学の成立条件に挙げた3つ目の共同確認に該当する事柄である。ここから、サイケデリクスの現象学的超越体験も十分に科学の遡上に載せることができることがわかる。科学の成立条件の最初のフェーズは指示で、それはデータを集めるための実験の仕方を指示するもので、例えば「~というサイケデリクスを摂取せよ」というものである。次のデータの提示フェーズは、「そのサイケデリクスを摂取したら、~のようなデータや洞察が得られた」というものだ。そして最後のフェーズに、過去にその指示とデータ収集を行ったことのある人たち(グループやコミュニティ)と共に得られたデータや洞察を検証するというフェーズがある。それらを踏まえることが科学的な試みであり、逆に言えばこれらの手順を踏めば、対象は何であっても科学の対象になり得る。ウィルバーが霊性の科学を提唱しているのもそれゆえである。少なくともこの3つの手順に沿って、サイケデリクスがもたらす現象学的超越体験を科学的に扱っていくことをここから強く意識してみよう。フローニンゲン:2023/11/15(水)09:56


11329. 欲望の普遍化/シロシビン・トリュフの比較/リアリティ空間の相異について


個人的な思いを普遍化させること。それは欲望の普遍化とも言える。かつて仏陀は自らの欲望を大切にしていたのである。ある弟子がその理由について尋ねると、その答えとして返ってきたのは、「自分の欲望は宇宙全体を救うことだからだ」というものだった。これは欲望にも段階があり、深さがあることを示す好例であるし、より高次元の欲望を持つことの大切さを物語る逸話である。自分の欲望もまた否定することなしに、より高次元の欲望を持つことを大切に学びと実践を継続させていく。現在サイケデリクスに関する研究や実践の中で芽生えているのはまさに仏陀が抱えていた欲望と同じようなものになっている。

そうしたことを考えがら、3日前のシロシビン·セッションについて改めて振り返っていた。個人的な体験として、ヴァルハラよりもホランディアというシロシビン·トリュフの方が強力に思えて来たのである。特にサトル次元での働きかけにおいて随分と違いがあり、ホランディアの方が極彩色の幾何学模様を知覚させる力が強いように思える。今回のヴァルハラ体験ではサトル次元での知覚体験がほとんどなかったのが印象的である。一方で、哲学的·実存的·霊的な洞察に関してはやはりヴァルハラもかなりのものであることがわかった。次回はおそらく自分で育てたシロシビン·マッシュルームを摂取することになるであろうから、トリュフは少しお預けであり、仮に今後シロシビン·トリュフを摂取する機会があれば、その時にはホランディアを選びたい。12月のセッションまでにはシロシビン·マッシュルームの最初の収穫を終えているだろう。今回育てているのは地球上で現在見つかっている200種類のシロシビン·マッシュルームのうち、シロシビン含有量が最も高い品種の1つである“Psilocybe Azurescens”というものだ。それがどれだけ効力のあるものかは、摂取してみた後にヴァルハラとホランディアと比較してみたい。自分の体重、品種、そして乾燥なのか生なのかによって、服用量を計算できるウェブサイトを見つけたので、乾燥させたマッシュルームの量を計測して次回のセッションに臨みたい。

それともう1つ、アンドリュー·がりもあーのリアリティ·スイッチの概念を受けて、そして多様なリアリティ空間の理論を受けて、瞑想や呼吸法でアクセスできる高次元の空間とサイケデリクスでアクセスできる高次元の空間が必ずしも同じではない可能性があることに気づいた。今のところウィルバーの意識状態の理論だけを用いてしまうと、それらは一緒くたに括られる傾向があるが、ガリモアーの理論を活用すればそうではない可能性が十分にあることがわかる。もちろん瞑想や呼吸法によって分泌される脳内物質とそれが結びつく受容体の組み合わせと同じ刺激をもたらすある特定のサイケデリクスであれば、アクセスできる空間は同じか非常に近しい可能性があるが、そうでない場合にはリアリティの多様性とサイケデリクスの物質特性を考慮すると、異なるリアリティ階層ないしは空間にアクセスしうると考えた方が理にかなっていると思い始めた。この点については要調査が必要である。他の実践とサイケデリクスの摂取を比較する際に、脳内メカニズムへの注目と主観世界におけるリアリティの種類や性質の違いに意識を向けていきたいと思う。フローニンゲン:2023/11/15(水)11:26

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