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11300-11310: フローニンゲンからの便り 2023年11月13日(月)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11300. 今朝方の夢

11301. サイケデリクスに関する規制の歴史を振り返って

11302. リアリティ・スイッチとしてのサイケデリクス

11303. サイケデリクス科学を取り巻くパラダイムに自覚的であること

11304. サイケデリクスの耐性に関する考察/未知感と既知感の双方の洞察をもたらすシロシビン・セッション

11305. 志望動機書の最終ドラフトの完成に向けて/ポールの後の読書会のリーダーとして

11306. 「サイケデリック道具主義」「サイケデリック物質主義」「サイケデリックエリート主義」「サイケデリック還元主義」の罠

11307. 昨日のシロシビン・セッションでうまくいったこと

11308. 世界モデルとリアリティ/関心を引くサルビア·ディビノラム

11309. 志望動機書のレビュー依頼を終えて/学びを希求する人により学びをもたらすサイケデリクス

11310. 久しぶりのジムでのパーソナルトレーニングを終えて


11300. 今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えた。ボストン旅行から戻ってきて1週間ほどになる。ようやく昨日ぐらいから時差ボケが完全に解消されたようで、普段の起床時間になった。今朝方も以前と同じような時間帯に起床することができ、そして体調も万全の状態になっているので一安心である。昨日のシロシビン·セッションが時差ボケや体調の回復に寄与した可能性も十分にある。一昨日の段階で体調はほぼ良くなっていたが、それに付け加える形でもう一歩回復をさせてくれるような働きが昨日のセッションにはあったのではないかと思う。今は深く落ち着いた自分がここにいる。

セッション後の今朝方に見ていた夢を書き留めておきたい。まず覚えているのは、実際に通っていた中学校の体育館でバスケをしている場面である。どうやら部活の時間になったらしく、バスケ部のメンバーと一緒にまずはシュート練習をしていた。最初はゴール下からのシュート練習を始め、左斜めの方向からシュートを打っていった。その距離はミスをするような距離ではなかったはずだが、どういうわけか私はなかなかゴールが決められなかった。ボードにぶつけて入れてもいいし、直接ゴールに入れてもいい距離で、私はボードにあえてぶつける選択をしていたが、ぶつける角度の調節に苦戦していた。随分とシュート感覚が鈍ったものだなと思っていたところ、ある友人(SS)が私に助言をしてくれた。バスケの実力からすると、私が彼から助言を受けることは基本的にないはずなのだが、彼の助言に耳を傾け、少し趣向を変えてシュートを打ってみた。そうするとまずは1回ゴールに入り、そこからはボードに当てたり、直接ゴールに入れたりすることを色々と試した。こうして色々なことを試すのが自分らしさだなと思ったところで場面が変わった。

次に覚えているのは、実際に日本で通っていた大学の東キャンパスに向かって大きな通りを横断しようとする場面である。最初私は、小中高時代の友人(YU)と一緒に西キャンパスにいて、今から東キャンパスの生協に行って昼食を食べようということになっていた。キャンパス間の移動を私たちは自転車で行っていた。彼を自分の自転車に乗せて2人乗りで東キャンパスに向かった。大通りの横断歩道に差し掛かると、信号機が赤でその場で待つ必要があった。しかし、自転車のブレーキが掛からず、下手をすると道路に出てしまう可能性があったが、そこはうまく横断歩道あたりを旋回することによって回避した。晴れて青信号に変わると、そのままの勢いで東キャンパスに入って行った。すると、どうやら文化祭が近々行われるらしく、学生たちが楽しそうに色々と準備をしていた。東キャンパスの祭りは主に大学1年生が担うので、準備をしている彼らには若さと活気があった。祭りの準備のせいなのか、生協がどこにあるのかがわかりにくく、少し困った。学生たちが色々と準備をしている中、生協がある建物の中に入ると、そこが少し迷路のようになっていて、すでに準備されている出し物とごっちゃになって、建物内の様子がよくわからなかった。気がつくと、地下の居酒屋のような場所にたどり着いていた。そこにはビジネスパーソンたちの姿をちらほら見かけ、学生が使うようなお店ではないようだった。その店に入り、カウンター席に座ると、店長がサッとすぐに料理を持ってきてくれた。見ると、魚の刺身の盛り合わせでとても美味しそうだった。そこからうどんでも注文するかと思ったが、店長のみならず店員もいなくなっていて困った。後ろを振り返ると、美味しそうな味噌汁や卵料理などが置かれていて、どうやら後ろの食べ物は食べ放題のようだった。値段もわからず、注文の仕方もいまいちわからない中時間が過ぎ、もう店を出ようかと思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2023/11/13(月)06:01


11301. サイケデリクスに関する規制の歴史を振り返って


時刻は午前6時を迎えた。今はまだ辺りは真っ暗である。気温も4度と低く、暖房が自動で入っている音が聞こえてくる。昨日は天気が良かったが、今日は午後から雨が降るらしい。とは言え体調がもう万全の状態なので、今日はジムに行こうと思う。今日は2週間ぶりのパーソナルトレーニングとなる。ボストン旅行の週とボストンから帰ってきた翌日の月曜日を休んでいたので、2週間空いていた。いずれにせよ、久しぶりのパーソナルトレーニングが今からとても楽しみだ。

先ほど改めてサイケデリクスの歴史を振り返っていた。とりわけ規制の観点から歴史を紐解いてみると、絶えず各国の政府はサイケデリクスを取り締まろうとしてきたが、それは尽く失敗し、結局アンダーグラウンドに潜ってサイケデリクスはずっと活用されてきた。確かに、LSDやMDMAといった合成系のものに関しては一定程度の取り締りができたかもしれないが、結局のところそれらも派生物や紛い物がどんどんと生まれてしまい、何のための規制だったのかわからない状況になっている。天然系のサイケデリクスに目を映すと、そもそも自然界で勝手に生えてくるキノコやサボテンなど取り締りようが本来ないことに気づく。DMTに関してもコロラドリバーヒキガエルを含め、自然由来のものであるから、その生成元を立たない限り取り締まりは効力を発揮せず、自然界で次から次に生まれてくるそれらの存在を人間が取り締まるなど最初から無理な話だったのではないかと思えてくる。似たような観点を持っているサイケデリクス学者は多く、そもそもサイケデリクスは ハードドラッグとはやはり違った扱いで取り扱うべきだったのだ。それは「サイケデリック例外主義(psychedelic exceptionalism)」と呼ばれる考え方で、サイケデリクスと本当に危険なドラッグを分けて、サイケデリクスに対する優遇措置を与えるべきだったのだ。現在はようやくそのあたりの考え方が浸透してきた国もあるようで、アメリカのいくつかの州はその発想で、天然系のサイケデリクスをまずは脱犯罪化し、そして現在合法化の動きを進めている。正直なところ脱犯罪化では物足りず、合法化までさせないと、政府認可の企業が品質の高いサイケデリクスを製造·販売できないため、一刻も早くまずは天然系のサイケデリクスを合法化することが重要かと思う。オランダでは以前よりシロシビン·トリュフ(かつてはマッシュルーム)が合法化されており、それによって品質の高いものを管理·製造·販売することが可能になっている。このおかげでオランダのハードドラッグユーザーの数は低く抑えられており、これもまた立派なハームリダクション戦略の1つになっている。ここからも各国の規制の動きとその背後のロジックを追いかけていこう。フローニンゲン:2023/11/13(月)06:23


11302. リアリティ・スイッチとしてのサイケデリクス


呼吸法とアニマルフローの実践を行い、2階の両側の窓を開けて換気をした。気温は4度と低いが、逆に冷たい空気がとても心地良く感じた。換気をしながら朝のカカオドリンクを作っていた時に、現代人の病の根元の1つに慣習的なリアリティに固着していることが挙げられるように思われた。リアリティは本来多種多様であり、それぞれの人に固有のリアリティがあるはずなのだが、人々は己の固有のリアリティに気づくことができず、それを通じて生きることができていない。むしろ社会がこしらえた1つの巨大な慣習的リアリティの中で生きているのである。ゆえに窒息するぐらいに苦しく、各種の妬みや悩みが尽きないのである。低俗な煩悩もそこから生まれているように思える。

サイケデリクスはこの問題に対する1つの解決策になり得る。注意をしなければならないのは、サイケデリクスの摂取者が慣習的リアリティに引き戻されてしまうリスクや、本来は折り合いをつける必要もないような慣習的リアリティをうまく生きれなくなってしまうリスクなどがある。実際のところは、慣習的リアリティに従って生きる必要など全くなく、己に固有のリアリティの方向に突き抜けてしまえばいいのだが、中途半端にそれを行うことによってどちらのリアリティでもうまく生きられなくなってしまうというジレンマが発生する可能性があることは注意である。

いずれにせよ、サイケデリクスに造詣の深い神経生物学者かつ薬理学者のアンドリュー·ガリモアーが指摘するように、サイケデリクスはリアリティ・スイッチの機能を果たす。つまりサイケデリクスは、これまで信じてきたリアリティ(往々にして慣習的リアリティ)とは違うリアリティに参入することを促すのである。まるでテレビのスイッチが切り替わるかの如く、これまで生きてきた、そして見てきたリアリティとは全く違うリアリティを知覚することになる。ウィルバー の言葉で言えば、これもれっきとしたWaking Upとしての目覚めである。現代人がこれだけ異様なほど1つのリアリティに固執している姿を見ると、それは慣習的リアリティに対する強迫症的·神経症的な様子を呈しているように思えるほどだ。そんな状況に対してリアリティ・スイッチとしてのサイケデリクスの働きは注目に値する。もちろん言うまでもないが、人々を病理状態に貶める慣習的リアリティそのものも治癒·変容させていく必要がある。端的には、個人の実践においてはリアリティ・スイッチを行うことを通じた目覚めを実現させ、社会の実践においてはこの腐敗した慣習的リアリティを治癒·変容させることが重要になる。個人と集合の領域への双方の働きかけを忘れてはならない。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/11/13(月)06:56


11303. サイケデリクス科学を取り巻くパラダイムに自覚的であること


サイケデリクスに関する研究と実践における3つの顔。それは、サイケデリクス哲学者·科学者·神学者の顔になるだろう。サイケデリクス科学者と自らもまたサイケデリクスの恩恵を受ける摂取者の立場を合わせて考えてみた時に、やはり自分は古典的サイケデリクスと括られる一部のサイケデリクスに絞って摂取を継続させていくだろう。とりわけシロシビンとDMTが今のところの自分の実践摂取の軸となる。各種科学の発展とテクノロジーの発展によって新しいサイケデリクスがこれから続々と誕生するだろう。現在においても2等級、あるはさらに劣化した形ではあるが、LSDやMDMAの派生物がデザイナードラッグとして次々に誕生している。LSDやMDMAとは似ても似つかないような、どのような分子構造を持ち、どのような物質が含まれているのかわからないデザイナードラッグも枚挙に遑がない形で誕生している。基本的に自分のスタンスとして、新しいサイケデリクスに対しては極めて慎重な姿勢を貫きたい。うかつに手を出すことなく、その物質に関する研究の堆積を待つ。それが長期間の使用や時間を置いてどのような効果が現れるのかが明らかになるまでは、その物質には大きな危険が伴う。現在の一線級の科学者がどれだけ良いことを述べてもそれを鵜呑みにしない。基本的に彼らは今の科学のパラダイムに縛られているのであり、それによって研究仮説も研究アプローチも限定されたり、統計的な有意差が生まれるような実験デザインを採用したりすることも考えられる。そうした認識上·実験上の限界や盲点が絶えず付き纏っているのが科学なのである。それを踏まえた上で、いくつかの科学的パラダイムの変遷を受けてもなおリスクが顕在化せず、使用価値が担保されている古典的なサイケデリクスを摂取するというのは非常に理に適った安全な道なのではないかと思う。古典的なサイケデリクスを大切にするという点において、「サイケデリック保守主義」の態度を保持したい。今のシロシビンやDMTでさえ十分に強烈な治癒と変容の効果を持つのだから、それを超えるようなものが新たに作られたとしてもさほど魅力的ではない。むしろ現状のシロシビンやDMTを超えるような強度に人間の身体や脳、そして意識は耐えられるのだろうか。そんな疑問が生まれてくる。サイケデリクス科学者として、さらには哲学者として、現在の科学コミュニティーを常にマクロ的な視点で捉えながら、彼らが信奉しているパラダイムが何なのかを客体化していく努力を惜しまないようにしたい。また同時に自分もまた彼れらと同じ同時代人であるから、必ず何かしらのパラダイムに縛られる形で発想を展開させていることにも自覚的であるべきだろう。そして自らの信奉するパラダイムが何かについても絶えず対象化する試みを忘れたくはない。少なくともインテグラルな発想をすることを絶えず心掛け、ポストモダニズムではなくメタモダニズム的な発想をすることを肝に銘じておこう。 フローニンゲン:2023/11/13(月)07:27


11304. サイケデリクスの耐性に関する考察/

未知感と既知感の双方の洞察をもたらすシロシビン・セッション


時刻は午前7時半を迎え、今空が明るくなってきた。自宅の上空は曇っているが、遠くの空は少し晴れ間が見えていて、そこにスカイブルーの朝焼けが見える。

昨日の第19回のシロシビン・セッションから一夜が明けて、また改めて色々と振り返りを行なっている。少なくともここから数日間は引き続き振り返りが続くだろう。とりわけ言葉にする形での振り返りはそれくらいの期間は継続され、頭の中で振り返ることはシロシビンへの耐性が構築されている2週間は必ずや続くだろう。そして、重要な洞察についてはより長い時間をかけて振り返りをしていくことになるはずだ。それぐらいの学びをもたらしてくれるのがシロシビン・セッションなのである。LSDもシロシビンも連日摂取ができないように身体の中で2週間ほど耐性が構築されることが興味深い。これはDMTにはないことなのだ。シロシビンはまた時間を空けて摂取したいといつも思うが、翌日に摂取したいとは微塵も思わない。数日後にまた摂取することも、次の週末に摂取したいとも全く思わない。それだけ消化するのに時間がかかる学びをもたらしてくれるのがシロシビンなのであり、身体的にも精神的にも中毒症状がほぼないのがシロシビンなのである。同様のことはLSDにも当てはまる。さてここでDMTが身体内で耐性を構築しない理由についても考えてみることが重要かと思った。そもそもDMTはマイクログラムレベルではあるが、毎日私たちの体内で生成されている。DMTはまだ謎の多い物質で、それが身体の中でどのような役割を担っているのかはっきりしない点が多々あるし、脳下垂体や肺で生成されているという諸説もまた確証的な証拠はないようで、身体のどこでどのように生成されているのかも未解明である。いずれにせよ、DMTは身体の内側で生成される内因性の物質であるがゆえに耐性が構築されないのだろう。シロシビンもLSDも分子構造上は内因性のセロトニンと似ているが、全く同じものでないがゆえに、すなわち外因性の物質であるがゆえに身体内で耐性が構築されるのだろう。

そのようなことを考えていると夜明けが完全にやってきた。冬の冷たいそよ風が吹き、小鳥たちが空を待っている様子が目に入る。

シロシビン・セッションは毎回、畏怖を伴う驚愕の洞察が得られるのと同時に、それはもう知っていたという精通感覚を伴う洞察も得られる。この2種類の洞察はいつも大変興味深い。前者は驚くべき洞察であり、後者は親しみのある洞察なのだ。未知感と既知感の双方の洞察がふんだんにもたらされるのがシロシビン・セッションの特徴であり、これは他のサイケデリクスでも概ね共通している。昨日は随分と振り返りの日記を執筆していた。今後も書き留めて記録するという実践を継続したい。それはこの最大の学びの機会を十分に活かしたいという思いと、その学びを自分の内側で留めずに世界に共有したいという思いからである。基本的に振り返りは体験内容の描写と、さらに重要なこととしては自分がそこから何を汲み取り、何を考えたかの記述になるだろう。体験内容の描写は各種の理論や科学的な事実に基づく三人称的なものになりながらも、メインは一人称的な語りになるだろう。三人称的な語りは情報の提供にしかならず、一人称的な語りは授かった叡智の共有になる。また自らの存在は、決して情報から癒しや変容がもたらされるのではなく、叡智からそれらが実現すると弁えておくべきである。今のところは来月もまたどこかのタイミングでセッションを行おうと思う。年末のタイミングがいいか、少し早めにクリスマスあたりがいいのかを考えている。次はヴァルハラではなくホランディアというシロシビン·トリュフを摂取したい。摂取の仕方としては今回成功した方法を採用する。毎月1度、日曜日にゆっくり時間を取って、自己省察と世界省察の実践として、そして実存的·霊的実践としてのシロシビン・セッションを継続させていこう。フローニンゲン:2023/11/13(月)08:00


11305. 志望動機書の最終ドラフトの完成に向けて/ポールの後の読書会のリーダーとして


静謐さ。内外の静謐さを感じている。外の世界は静かで、内側もまた静寂さに包まれている。内外世界の一致。アートマンとブラフマンが一致するのと同じく、自分は常に深層的な自己と一致し、世界そのものと一致している。叡智世界との一致は、叡智の化身として生きることを可能にしてくれる。

もう少し日記を執筆して、言語海の波が穏やかになったら、ハーバード神学大学院(HDS)への提出書類の中で最重要な志望動機書(SOP)を執筆していこうと思う。すでにそのドラフトは完成していて、字数制限の1000字を少し越えているような状況なので、冗長な表現を削除したり、フレーズを1つの単語で言い換えられないかと考えたりすることを通じて字数制限内に収めたい。それが終わったら最初から最後まで音読をして、午後にHDSの世界の宗教研究センターの後援のもとに行われているサイケデリクスの読書会のリーダーであるポールにSOPの完成されたドラフトを送る。先日ポールとHDSのミーティングスペースで1時間ほど話をする中で、こちらからの要望ではなく、向こうからの有り難い申し出として自分のSOPをレビューしてくれることになった。ポール曰く、サイケデリクスに情熱を持っている人が1人でもHDSに来てくれるのは嬉しいとのことで、そのボランティア精神に感謝しながらレビューの依頼をしたい。ポールが所属するプログラムは牧師養成を念頭に置いた実践的なプログラムで、自分が出願するものとは若干異なる。自分が出願するのはより学術研究に焦点を当てたもので、期間は2年間だ。ポールが在籍するプログラムは3年間で、今年ポールは3年目の時間を過ごしている。なので仮に自分がHDSに進学できたとしても、学内でポールと顔を合わせることはないかもしれない。しかし、今後もお互いにサイケデリクスについて何かしらの関与をしていれば、きっと学内外の学会やワークショップなどで顔を合わす日が来るだろう。いずれにせよ、自分はポールが成功させた読書会を引き継ぎたいと思っている。彼が最初に灯した火を受け取り、その火を絶やさないようにしたい。世界の宗教研究センターでお会いしたラッセル·パウエル博士が述べるように、サイケデリクスに関する読書会は近年稀に見る盛況を呈しているとのことで、それを聞いて尚更この流れを途絶えさせてはならないと思った。元々ハーバードは、1960年代に「ハーバード・サイケデリック・クラブ」と称されるような研究集団がそこにいたのであり、そうした歴史的伝統を汲み取る形で、自らもまたその伝統の一員として、さらには伝統を継続させ、伝統を作る役割を担っていきたい。

自分はまだHDSにはないが、自分の熱意を買ってくれ、ポールが自分を読書会のグループのメーリングリストに入れてくれたので、定期的に活動の様子が伝わってくる。昨日もメンバー全員へのメールがあり、そのメールの中で今月末にMIT出版から出版されるサイケデリクスに関する良書へ言及があり、それを早速購入しようと思った。MIT出版は、科学·哲学の学術書として定評があり、これまでこの出版社から購入した本の中で期待を裏切られたことは一度もない。それくらいに信頼している出版社である。それ以外にもメールにはPDFで3つほど論文が添付されていて、それらのうちの2つはまだ読んだことのないものだったので、これから時間を作って目を通しておきたい。それにしてもこの読書会は本当に真剣な学術研究をサイケデリクスに対して行なっている。それに感銘を受け、自分がもしこの読書会のリーダーの役割を引き継いだ際には、どのような頻度でどんな学術書や論文をどのように扱うかを今から考えておきたい。それぐらいにワクワクさせてくれる読書会なのである。フローニンゲン:2023/11/13(月)08:16


11306. 「サイケデリック道具主義」「サイケデリック物質主義」

「サイケデリックエリート主義」「サイケデリック還元主義」の罠


昨日のシロシビンセッションを受けて、いくつかの注意点を考えていた。1つ目としては、サイケデリクスの摂取が自己目的化してしまい、自らの存在が道具と化してしまうという「サイケデリック道具主義(psychedelic instrumentalism)」に陥ることを防がなければなないという点だ。また、サイケデリクスを単なる物質的な道具とみなすような「サイケデリック物質主義(psychedelic materialism)」に陥ることも避けるべきである。さらに注意しなければならないのは、現在サイケデリクスを摂取できる環境が稀有であり、法規制を遵守しながらそれを享受できる人は希少であることから、サイケデリクスの摂取を通じて優越感や特別感を感じるような「サイケデリックエリート主義(psychedelic elitism)」に陥ることも避けなければならない。またそれはサイケデリクス体験を特別なものとみなし、そこから汲み取れる洞察に溺れてしまうことも意味する。確かにサイケデリクスは他の手段には真似できないほどの洞察をもたらすがゆえに、このサイケデリックエリート主義に陥らないようにすることはとりわけ重要かと思う。自らがそのような過ちを犯していないかを常に検証したいと思う。おそらく構成概念としてまだまだ種々の罠が存在しそうであるから、それに気づいた名付けをして書き留めておくことにする。パッと思いつくものとしては、ヨガを含めた特殊な身体操作や呼吸法などの実践を通じても変性意識状態に入れるのだが、よほどの達人でもない限り、サイケデリクスほどの深い変性意識状態に入ることはまず無理であり、他の実践とサイケデリクスを代替可能とみなす還元主義に陥ることも避けたい。これは2つのベクトルがあり、他の実践をサイケデリクスの摂取実践に置き換える方向性と、サイケデリクスの摂取実践を他の実践に置き換える方向性がある。しかしいずれも本質的には異なる実践であるから、それぞれに価値と限界を有している点を押さえ、双方の間で還元現象が起きないようにしなければならない。

そのようなことを考えながら、やはりここ最近の自分のシロシビン・セッションは、光の側面に関する体験や洞察が多く、闇の側面に関するそれが少ないように思える。これはシロシビンの内在性質なのだろうか、それとも自分の現状や現在の発達課題が影響しているのだろうか、はたまたそれら双方なのだろうかと考えていた。シロシビン·マッシュルームの宗教儀式への活用事例をもとにすると、シャーマンたちは摂取者をアンダーワールドの闇の世界に一度は誘い、摂取者の中には深い闇を見据える人もいることを考えてみたときに、シロシビンは本来光と闇の双方を私たちに知覚させてくれるものなのだ。そうなってくると、今の自分の心の有り様や発達課題が光の側面の現象や洞察を投げかけてくれていると解釈するのが自然かと思う。この流れはもうしばらく続くかもしれない。仮に闇の側面に関するワークを行いたければ、次回は闇の世界に深く入っていけるようなチベット密教のマントラ音楽を流してみよう。ただし、今から2回前の第17回の時にその音楽を流しても自分はあまり闇の世界に入っていくことはなく、闇の世界に足を踏み入れない形で深い洞察を得ていた。クリストファー·ベイシュ教授が20年をかけて73回の真剣なLSDセッションを行った体験レポートを読むと、ベイシュ教授の人生と意識の発達フェーズごとに光と闇の体験が面白いように顕現されているのを見ると、今の自分が置かれているフェーズにおいては光の側面を知覚するように仕向けられているのかもしれない。その成長ベクトルをいじることなく、世界から、この宇宙から与えられた課題と向き合うことを意識してこれからのセッションを組み立てていこう。フローニンゲン:2023/11/13(月)08:34


11307. 昨日のシロシビン・セッションでうまくいったこと


気がつけば、フレンチプレス1回分のコーヒーを飲み終わりそうである。今日はもう1回分、少し量を減らす形でコーヒーを淹れたい。春や夏の時期はすっきりした浅煎りのコーヒー豆を選んでいたが、冬の時期は深煎りが合う。その濃厚な香りと味に舌鼓を打ちながら、毎朝美味しいコーヒーを堪能している。

結局ここまでのところまだ読書をしておらず、志望動機書の加筆修正にも着手していない。しかしそれでいいのだ。自分にとって最も重要な実践は日記の執筆なのだから。日記の執筆は実践を超えている。だがあえて実践として括るのであれば、それはボディ、マインド、ソウル、スピリットを横断する最重要な実践である。それは実践を超え、自らのライフワークと化し、自らの存在と化している。日記の執筆は自分そのものなのだ。自分を映し出すそれというよりも自分の存在顕現なのである。あるいは自分の命そのものなのだ。それくらいに尊く、大切なものなのである。

もう1杯コーヒーを淹れる前に昨日のセッションの準備段階で成功したことを書き留めておく。これまではシロシビン·トリュフの何とも言えない香りと味が嫌で、トリュフを刻んだものをお湯で濾していた。それは香りや味が嫌いな人に広く推奨される摂取方法なのだが、それだと一物全体の発想からして、トリュフに含まれるシロシビンを含む数種類のサイコアクティブな物質を十分に摂取できないのではないかと思った。なので昨日は、シロシビン·トリュフを刻んで、カカオパウダーを白湯に溶かしたものに入れることで一物全体として摂取してみたところ、まるでカカオニブを食べているような感じで摂取できたすることは良かった点である。端的には味も香りもさほど気にならなかったのである。しかしそれでも摂取し終えた後には独特な味が舌に残っていたので、歯磨きをしっかり行った。それによって舌に嫌な感じが残らず、セッション中に気持ち悪くなることは一切なく、体験に没頭することができた。一昔前までは実際にトリュフをよく噛んで食べていたのだが、その際には包丁で刻むことを徹底しておらず、また食べた後に歯磨きをしていなかったので、歯の間に残っているトリュフの味が体験中に現れてきて、あまり気分の良いものではなく、体験中の自分の感情に否定的な影響を与え、それが開示される体験内容と体験そのものの質に影響を与えていたように思う。それ以外にも、1階の暗い寝室で湯たんぽを使って足先やお腹を温めながら、寒さによって体験が阻害されないような工夫をしたし、光を遮断する意味でアイマスクもかけた。それによって音楽世界に没入することがより容易になった。シロシビンの摂取前の準備と環境整備に関してはもうこれ以上工夫できないほどに良いものだった。今後も同様のことを行い、もしさらに良い環境設定ができるようであればそれも試してみよう。

12月の中旬に予定の次回のセッションも昨日と同じく午前11時前に準備を始め、11時からセッションを始められるようにする。そうすると元々摂取しない朝食のみならず昼食もスキップすることができ、丸1日のファスティングが自然に行えるし、体験をじっくり振り返る時間がある。 ファスティングによるデトックスが行え、かつ振り返りをじっくり行えるというのは素晴らしく、毎月1度はこうした日を設けるというのは優れた実践だろうし、精神生活と人生をより豊かにしてくれる秘訣かと思う。フローニンゲン:2023/11/13(月)08:49


11308. 世界モデルとリアリティ/関心を引くサルビア·ディビノラム


2杯目のモーニングコーヒーを淹れながら、リアリティについて考えていた。リアリティが各人固有で多種多様だというのはどういうことなのだろうという問いを改めて考えていた。すると、なるほど人は自らの固有の世界モデルを脳内および意識内で構築するのだと気づいた。すなわちリアリティとはどのような認識モデルかによって知覚されるものが異なるのだ。リアリティ全体は世界そのものとして全てを捉え切ることができないほどに無限の広さと深さを持っている。そんなリアリティに対して私たちは自らの脳内と意識内で認識モデルを生成することを通じてリアリティ全体から一部を切り取り、切り取ったリアリティに適応しているのである。私たちの脳の受容体や特定の部位が世界モデルを生成する役割を担っているのかもしれない。それはセロトニン受容体かもしれないし、オピオイド受容体かもしれない。また脳の部位を挙げてみれば、それらしきものが見つかるかもしれない。脳の部位のように広く取るのではなく、よりミクロに受容体に注目してみるのは面白いかと思う。受容体はまさに鍵と鍵穴の関係性を成していて、鍵穴の向こうは新たなリアリティであり得る。その受容体にどのような物質が鍵として引っ付くのかによって扉の向こうのリアリティは変わりえる。アンドリュー·ガリモアーが述べるところのサイケデリクスによるリアリティスイッチ効果とはまさにこういうことなのだろう。

私たちの脳はモデルビルダーとして機能していて、世界空間を創出する。その時に各種の受容体が果たす役割は大きく、受容体にどのような物質が鍵として引っ付くかも大きな意味を持つ。既存のリアリティを開示する鍵なのか、全く未知なるリアリティを開示させる特別な鍵なのか、鍵ごとに開示されるリアリティが異なるという説明はかなり妥当性がありそうである。この点については精神薬理学や神経科学の知見を参照する必要がある。

DMTも特殊なリアリティを開示するが、サルビア·ディビノラムなどもかなり特殊なリアリティを開示するようだ。サルビア·ディビノラムはあまり有名なサイケデリクスでないし、そもそもサイケデリクスに括られて語られることが少ない物質だが、それもまたれっきとしたサイコアクティブな物質であり、分類上は解離性サイケデリクス(dissociative psychedelics)に括ることができる。何やら他のサイケデリクスのような色彩豊かなリアリティではなく、白黒かつ現状のリアリティとは全くかけ離れたリアリティが開示されるようで関心を刺激する。摂取の機会は稀であろうが、関心のアンテナを張っておきたい物質である。そのようなことを考えながら2杯目のコーヒーを淹れ終え、今から集中して志望動機書の加筆修正に取り掛かりたい。フローニンゲン:2023/11/13(月)09:14


11309. 志望動機書のレビュー依頼を終えて/

学びを希求する人により学びをもたらすサイケデリクス


時刻は午後1時半を迎えた。あと1時間ほどしたらジムに向かおう。今は少し小雨が降っているようだが、思ったほどの雨量ではないので助かる。

午前中に無事にHDSに提出予定の志望動機書のドラフトの加筆修正が完了した。無事に制限字数内に収まり、仮眠前にHDSの学生であるポールに送り、レビューの依頼をした。ネイティブのレビューを受けられるというのは本当に有り難いし、そもそも第三者の客観的なフィードバックをもらえることが嬉しい。明日は、HDSのオンラインアプリケーションに必要な情報を入力していこうと思う。ライティングサンプルの最終ドラフトの作成はもう少し後にし、しばらく原稿を寝かせておく。

志望動機書の加筆修正以外には、情報理論の観点からサイケデリクスについて扱ったアンドリュー・ガリモアー書籍の再読をしていた。この書籍で採用されているように、意識とリアリティの生成メカニズムについて情報理論の観点からも理解を深めるていく。しかしそれは右側象限からのアプローチゆえに左上象限の心の哲学からのアプローチも忘れてはならない。自分はもうサイケデリクス哲学者と科学者であるという自己認識があるのだから、それら双方のアプローチを採用していくことを心掛ける。

サイケデリクスは学びの宝庫であり、とりわけ学びを希求する人により多くの真実と発見をもたらす。もちろんサイケデリクスは万民に開かれたものではあるのだが、学ぶ意欲の低い人にはそれ相応の事柄しか開示しないことがこれまでのセッション提供体験から見えてきたことである。おそらく今後しばらくは他者にサイケデリクス・セッションを提供することはないだろう。ここからはセルフセッションに磨きをかけていくことが最優先である。他者にサイケデリクスを提供することに関してはその道の専門家に任せる。そこはもう自分の領土にしないようにしたいという思いが今の自分の正直な気持ちである。この気持ちも何かのタイミングで変わるかもしれないが、とりあえずそのような気持ちがある。

昨日のセッションでは既製品のシロシビン·トリュフを用いたが、来月中旬に予定の次回のシロシビンセッションでは既製品ではなく、栽培キットで自分の手で育てたシロシビン·マッシュルームを活用になるだろう。先日栽培キットを開封し、今マッシュルームの頭が土から出るのを待っている。どのようなマッシュルームが育つのか今からとても楽しみである。彼の名前は「マッシュ」とし、マッシュの生育を見守り、立派に育ってくれることを願っている。フローニンゲン:2023/11/13(月)13:48


11310. 久しぶりのジムでのパーソナルトレーニングを終えて


時刻は間も無く午後5時を迎えようとしている。先ほどジムから帰ってきたのだが、夕方のフローニンゲンの美しさに思わず息を呑んだ。世界が新たな輝きを伴って知覚されるというのはサイケデリクス体験後によく起こることだが、まさにそれを実感した。文字通り世界が新鮮で固有の美を体現していると感じたのである。買い物がてら書籍の受け取りのために立ち寄った玩具屋では、馴染みの店員であるティムと笑顔で会話を交わし、人との交流の中にも美が顕現していた。今日受け取ったのは比較神秘主義に関する書籍とサイケデリクスの法規制に関するものだったかと思う。夕食後にその梱包を解くことが楽しみだ。

今日のジムでのパーソナルトレーニングはなかなかにタフだった。およそ2週間ジムでのトレーニングが空いたこともあり、普段はキツさをさほど感じない下半身のトレーニングでもキツさを感じた。確かにボストンのホテルのフィットネスセンターで1度ほど鍛えたが、その週の木曜日には体調を崩していたのでトレーニングができず、ボストンから戻ってきても静養に努めていた。それもあって今日のトレーニングはタフだった。不思議と、ウォーミングアップがてら行ったジークンドーのシャドースパーリングとシャトルランはいつも通りの感じであり、心肺機能の衰えはさほど感じなかった。昨日にシロシビン・セッションがあったわけだが、やはりシロシビンは翌日の身体にほぼ何も持ち越さないのがいい。今日のトレーニングのタフさはシロシビン・セッションのせいではなく、やはり2週間本格的なトレーニングが空いたからによるものだと思う。いずれにせよ、今日のトレーニングもエリーザとの会話を楽しみながら、そして今日ジムに届けられた新しいマシーンを早速色々と試してみるという実験的な試みもあって充実したものだった。ここからはもう年内に旅行することはなく、年明け以降も今のところ旅行の予定はない。仮にアメリカ行きが決まったら、その前にスイスに行ってユングの家とエラノス会議が長年開催されたアスコナに足を運ぶ旅行をしたいだけである。旅行に関しては当面はもう欧州でやり残したことはないと言えるほどにこの8年間で欧州を巡った。それも欧州からの一端の卒業を示唆しているように思える。

これまではジムでのトレーニングの翌日にはアクティブレストとして中央市場まで散歩がてら買い物に行っていたが、 フローニンゲンの冬はやはり寒く天気も安定s、人混みも避けたいので、自宅で午後にアニマルフローをするという週間を取り入れてみたいと思った。明日から早速その実践をしてみる。こうすることによって外に出ない分より研究に時間を当てることができるだろうし、それでいて気分転換がてらのアニマルフローの実践も行えてちょうどいいように思える。そうなってくると今後は書籍の受け取り以外には、月曜日と木曜日だけ外に出て、後の日は家に籠もって探究に勤しみたいと思う。そんんな形でこれからの冬を過ごす。おそらく外に唯一である月曜日と木曜日の輝きが増すであろう。 フローニンゲン:2023/11/13(月)17:06

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