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10574-10578: フローニンゲンからの便り 2023年7月7日(木)



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タイトル一覧

10574. 今朝方の夢

10575. 今朝方の夢の続き

10576. 箏の稽古(77):第23回目のレッスンを終えて

10577. 植物の力の恩恵に預かって

10578. 今を生きるために書くこと/大学院レベルの高度な専門教育と何かしらのサイコアクティブな物質の摂取の必要性


10574. 今朝方の夢


時刻は午前8時半を迎えた。今朝は早朝から雲ひとつない晴天に恵まれており、朝日の輝きが本当に眩しい。光に満ち満ちた朝の中で、創作活動やこうして日記を綴っていられることに静かな幸福感を感じる。小鳥たちも世界を祝福していて、重い思いに鳴き声を上げている。


今日から明日にかけては気温がかなり上がり、今日も日中は27度ほどになると予報が出ている。雲がひとつもない状況のようなので、このような状況の場合には下手をするともう少し気温が上がるかもしれないと予想している。今の気温は17度と涼しいが、ここからゆっくりと気温が上がっていく。今日は午後に中央市場に出かけてこようと思うが、ちょうど市場から帰ってくるぐらいの午後4時あたりが最も気温が高くなっているようだ。明日もまた雲ひとつない快晴に恵まれるらしく、明日の最高気温は31度という予報が出ている。明日は今日よりもさらに暑そうなので心しておこう。窓を早朝から少しばかり開けておき、絶えず風が少し入ってくるようにしておけば、暑さをなんとか防げるだろう。日曜日も気温は高めだが、雲があるようで、午後からは雷を伴う雨が降るようなのでそこから気温が下がっていく。月曜日以降はまた涼しい日々が続くようなので何よりである。


今朝方の夢を振り返ってみると、今朝方は海にボートで出かけて行き、釣りをしている場面があった。ボートに一緒に乗っていたのは父だったように思う。印象的だったのは、海が真っ暗だったことである。あまりにも海が暗いので、その先に何があるのがわからず、少しばかり恐怖心のようなものを感じていた。しかし、父がそばにいたということもあり、しばらくボートで海の上を動いていると恐怖心は無くなった。そこからは釣りに集中することになった。海は真っ暗だったが、自分にはどこに魚がいるかが分かったし、魚がどのような動きをしているかも手に取るように分かっていた。その能力を使って、魚がいる場所にルアーを投げ入れると、早速当たりがあった。魚を釣り上げてみると、その魚な人面魚のように不気味な見た目をしていたので、少しぎょっとした。その魚は家に持ち帰ることをせず、その場で逃すことにした。そのような場面があった。


今日もまたいつものように翻訳作業を中心にし、毎日のノルマの翻訳量をこなしたら、そこからは学術書の読解とそれについて解説した音声ファイルを作成していく。ここのところはそれが楽しみとなり、ゼミナールのコンテンツも順調に増えている。それ以外にも今日は、午前11時から箏のレッスンがあり、それも楽しみである。箏についても焦ることなく、ゆっくりと芸のレベルを高めていければと思う。何事も着実に焦ることなく進むことが重要である。フローニンゲン:2023/7/7(金)08:56


10575. 今朝方の夢の続き


時刻は午前9時半を迎えた。光に満ち満ちた朝の世界が目の前に広がっている。自分の身体も底から喜びをあらわにしていて、エネルギーが満ち満ちている。昨日のジムでの筋力トレーニングのおかげもあってか、言葉を生み出す実存的エネルギーも増大しているようだ。グロスボディを鍛えることがどれほど大事なことを身を持って知る。身体の涵養が心や精神の涵養を促す。身体の涵養なくしてそれは実現し得ないということを心しておく必要がある。


今から翻訳作業に取り掛かろうと思うが、今朝方の夢の続きを思い出したのでそれについて書き留めておきたい。夢の中で私は、見慣れない外国の町にいた。そこは西ヨーロッパのどこかの国で、町は港に近く、港の近くは特に賑わっていた。私は喧騒を避けて散歩をしていた。町中に路面電車が走っていて、そのレトロな作りに見惚れていた。中には最新の路面電車も走っていたが、大抵は歴史を感じさせるものだった。


しばらく街を歩いているとふと、私はあるツアーに参加してここにやって来たことを思い出した。ツアーの開始は港付近の広いバス停で、そこでバスを降りて観光を始めたことを思い出した。そして、ツアーから帰るためには午後6時にバス停に戻らなければならないことをはたと思い出したのである。時計を確認するとまだ午後に入ったばかりだったので、集合時間まで余裕があった。引き続き街を歩いていると、一巡したようで、港近くのお土産屋が集まっている場所にやって来た。そこに木造建築の一軒家があって、私は何かに導かれるようにその家の中に入っていった。2階に上がると、そこに部屋があり、中に入った。すると、本棚に大学受験用の参考書や問題集がずらりと並んでいた。よくよくみると、数学の参考書や問題集が多かったが、数学IIBまでのものしかなかったので、この部屋の主人は文系の難関大志望者なのだろうと思った。気がつくと、私の横に私よりも少し年上の小柄な日本人男性が立っていた。どうやらこの部屋の主人は、大学時代の女性友達のようで、その男性は彼女の兄のようだった。彼女は東京の名門女子校出身で、元々時頭が良いだけではなく、努力して大学に入ったようだった。私は彼女のお兄さんと少し話をした。実は私は再び母校に入学するために、昨年に受験をしていて、結果は僅差で不合格になったことを伝えた。不思議なことに私はすでに大人だったが、私の友人たちはまだ高校生で、彼らも軒並み不合格になっていたことである。やはり母校に入学するためには数学が鍵を握り、受験数学の感覚をだいぶ失ってしまっていたことに不合格の原因があるように思えた。母校の学士課程に再度入学できなかったのは残念だが、私はすでに4つ目の修士号を取得するべく、ベルリンの大学から合格通知をもらっていたので、そちらの大学に進学するつもりでいた。それを彼女の兄に伝えると、海外で4つも修士号を取得するというのは珍しいと驚いていた。


彼女の兄と話を終え、バス乗り場の様子を確認しておこうと思ってそちらに向かうと、そう言えば、行きのバス停で見知らぬ老女に劇のチケットを無料で渡されたことを思い出した。せっかくなので、大学時代のその友人と一緒に劇でも見に行こうと思ったが、渡されたチケットと家の鍵などを封筒に一式入れて、それをバス停の縁石の上に置いたままにしていたことを思い出した。誰か親切な人が近くの店に届け出てくれていることを願ったが、チケットや鍵などが抜き取られている可能性もあると思って心配になった。しかし、チケットや家の鍵ぐらいの被害であればまだマシかと思った。家の鍵をまた新しいものに変えてもらえばいいだけだし、チケットも元々貰い物だったので、心配するのはやめようと思った。そのような夢を見ていたのを覚えている。フローニンゲン:2023/7/7(金)09:55


10576. 箏の稽古(77):第23回目のレッスンを終えて


時刻は間も無く正午を迎えようとしている。つい今し方、箏のオンラインレッスンを終えた。今日のレッスンは第23回目のレッスンとなる。毎週末に行っているオンラインゼミナールの数は今週末で37回目を迎え、着実に回数が重なっており、箏のレッスンも着実な積み重ねを見せている。また明後日のジークンドーのプライベートレッスンもまた17回目の回数を迎え、全ての実践が着実に蓄積を見せていることを嬉しく思う。


今日のレッスンでは、楽譜上で音を伸ばす記号の演奏の仕方の工夫を教わったことが一番印象に残っている。とりわけ四分音符での音を伸ばす記号がある場合には、左手で対象の弦を少し揺らしたり、弦を摘んで上下に動かすことによって音を伸ばす工夫をしてみたい。これまで押し手や左手のピチカートがない時には左手が手持ち無沙汰になってしまうように感じていたので、今後は音を伸ばす記号がある際には、うまく左手を使って音色を伸ばすような工夫を心掛けていこう。ただしその際には、ゆり色や押し手のような響きにならないように注意したい。あくまでも音を伸ばすことだけに意識を向ける。


それ以外に先生から得たフィードバックとしては、トレモロの際に右手の3の指が真っ直ぐに観客の方に向かっているとのことだったので、その不格好さを防ぐために、3の指を丸めることに気をつけたい。これは以前にも指摘されていたように思うので、今後は特に気をつけたいと思う。


今日からは新たに美空ひばりさんの『川の流れのように』と『愛燦燦』を取り上げることになった。上記の音を伸ばす工夫を含め、これらの2つの曲から学べることは多くありそうなので、今日から楽しんでそれらの曲の練習に励みたいと思う。他の人が作ってくれた名曲を練習しながら、即興演奏のためのアイデアと技術を拡張させていく。課題曲の練習と共に、そうした練習から得られたことを絶えず即興演奏の実験に活かしていきたい。フローニンゲン:2023/7/7(金)12:02


10577. 植物の力の恩恵に預かって


時刻は午後4時を迎えた。先ほど中央市場に散歩がてら向かい、買い物から帰ってきたところである。オーナーのフレディさんが車庫の改良に向けてせっせと働いている姿が見える。今日は結構気温が上がっていて、今も雲ひとつない空のもと、28度ほどの気温に達しているので、フレディさんも暑いのではないかと思う。旅から帰ってきたときに気づいたが、家の脇の雑草が結構伸びているので、来週の涼しい日を見計らって雑草の掃除をしておきたいと思う。この季節は生命力が強いので、雑草も発育するのが早い。


買い物からの帰り道にノーダープラントソン公園に立ち寄って、大きな木に手をかざし、エネルギーを分けてもらっていた。この公園にはどれほどの樹齢を持っているのか想像もつかないほどに大きなきが何本もあって、通りに面している大きな木に手をかけて、その木と会話をするかのようにしてエネルギーを分け与えてもらっていた。植物には不思議な作用をもたらす物質が含まれているものが多くあり、植物のたくましい生命力を眺めていると、きっと人間よりも生命力が豊かなのではないかと思わずにはいられない。そうしたことから、手が触れられるぐらいの距離に木があれば、積極的に木に触れて交流をしたいと思う。


今日は金曜日ということもあって、市場にはバイオダイナミクス農法の出店が出ていた。そこで1週間分のサツマイモとリンゴを購入した。今日は玉ねぎがないようだったので、玉ねぎはオーガニック野菜の専門店で購入した。今保存しているジャガイモを使い切ったら、ジャガイモも毎週金曜日にバイオダイナミクス農法のその出店で購入したいと思う。日々の食生活は野菜や果物を中心にし、タンパク質も卵を除けば、豆腐や納豆などの植物性のものから摂取するように心掛けている。それは兎にも角にも直感的に、生命の歴史の長い植物の方が生命力が強そうだからだという理由に基づいている。フローニンゲン:2023/7/7(金)16:19


10578. 今を生きるために書くこと/大学院レベルの高度な専門教育と何かしらの

サイコアクティブな物質の摂取の必要性


鳩がホーホーと鳴き声を上げている。カラスが夕方の空に向かって力強い鳴き声を上げた。


自己は絶えず現在にいて、現在の中で行為をなす。一つの呼吸もまた現在という時の中で起こる。絶え間ない今という感覚。自己は絶えず今という感覚と共に今にある。逆に言えば、自己は今以外には本来存在し得ないのではないかと思う。自己は過去や未来にあるのではなく、永遠の今に生き続けるのである。トランスヒューマンではなくヒューマンの時代においては死という現象が存在する。死を迎えるときにも自己はそれを現在として通過していく。死というのもまた今という時間の中で通り過ぎていく現象なのだ。


それではこの書くという行為はどうだろう。それもまた今の表れである。書くこと以上に生々しく今が現れるものはないのではないか。絵画や音楽、それから詩もまた今を書くという営みなのだ。この一連の日記は今というその瞬間の現在の只中にある自分の言葉が形になったものである。自分は今というこの瞬間に留まり、今を生きるために書いているのだということが強く了解される。


そう言えば今日は午後に仮眠を取っている最中に、日本だけではないが、世界のこの体たらく振りが各分野のリーダー層に大きな責任があるのであれば、彼らの教育をどのようにすればいいのだろうかと考えていた。少なくともその分野で修士号を1つか2つぐらい取得するほどの知識と技術を身につけていくことを1つの素養にし、同時にそれに加えて彼らの世界観はあまりにも未熟で陳腐なものなので、サイコアクティブな物質をどこかのタイミングで接触することを強制させる必要があるのではないかと考えていた。前者についてはすんなりと受け入れられたとしても、後者は少し物議を醸すかもしれない。だが後者の考えに物議を醸すという行為そのものがその人間の世界観の未熟さと陳腐さを表しているように思う。結局彼もまたサイケデリックヴァージンであり、それらの効能に対する体験的な理解がないがゆえに反論しているのだろうし、それが慣習的な世界観から見たら禁止されるものだという強固な認識によるものだろう。いずれにせよ、政治·経済·教育、その他ありとあらゆる分野におけるリーダー層たちの知識·技術·世界観の未熟さと陳腐さに諸悪の根源があるのではないかと思いながら仮眠の世界の中に入っていたのを覚えている。改めてこの考えについて再考しているが、自分の考え方は変わらない。政治家·官僚·経営者·教師などなど、彼らに大学院レベルの高度な専門教育と何かしらのサイコアクティブな物質の摂取による意識変容の体験が必須であるという考え方は変わらないどころか、今後ますますその考えを強めるだろう。フローニンゲン:2023/7/7(金)20:18

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