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10335-10338: フローニンゲンからの便り 2023年5月13日(土)



No.4746 世界の驚き_A Surprise of the World


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本日の3曲


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タイトル一覧

10335. 倫理研究に関する構想/今朝方の夢

10336. 今朝方の夢の続き

10337. 生と死の認識論と存在論

10338. 松材の香りの中で/死生観の変容に向けて


10335. 倫理研究に関する構想/今朝方の夢


時刻は午前6時半を迎えた。静かな土曜日の朝の世界が目の前に広がっていて、小鳥たちの鳴き声がそこに美しさをさらに加えてくれている。今日は早朝から天気が良く、1日を通して晴れるようだ。今の気温は11度と肌寒いが、日中は20度にまで気温が達するようだ。


昨夜の就寝前に、宗教の倫理思想、西洋の倫理思想、東洋の倫理思想の架橋と包摂を目指した研究について考えていた。宗教の倫理思想に関しては最初は狭く、東洋の倫理思想と関連付けながら、仏教、儒教、神道の倫理思想を研究していき、その流れの中でも神道家の川面凡児の倫理思想は特に研究をしていきたい。東洋の倫理思想を日本的な倫理思想と狭めていくのであれば、やはり和辻哲郎の倫理思想は深く研究したいものだ。西洋の倫理思想については、それを宗教の倫理思想と絡めるのであれば当然ながらキリスト教の倫理思想を扱っていきたいが、哲学の領域からまずは着手していこうと思うため、英米系の倫理思想と独仏の大陸系の倫理思想に分けて探究を進めていこうと思う。このように大きな風呂敷を広げながらゆっくりと様々な角度から倫理思想を探究していくことについて考えていた。


そこから就寝に向かい、夢の世界に入っていった。今朝方の夢について書き留めておくと、起床直前の夢の中で、何かの本を探している場面があった。そこは学校の図書館とも言えるし、シンプルに書店のような場所だったとも言える。しかし1つ不思議だったのは、その場所を囲む場所が砂漠地帯だったことである。砂漠の一角にその図書館のような書店のような場所があった。本を探しながらあれこれと書籍を吟味している最中にも、窓の外の景色が目に入っていて、自分は砂漠の中で本を選んでいるのだという感覚があった。すると、頭の中に高校時代に流行っていたある男性ボーカルの歌が流れてきた。私はその音楽によって身体の内側のリズム感が刺激され、その曲のリズムに乗って少し体を動かしながら本を引き続き探していた。そのような場面があった。広大に広がる砂漠は、果てしない探究世界の領野だと言えるだろうか。そんな中にあって、自分が追い求めて手に取る書籍は、探究の渇きを癒すものなのかもしれない。自分はやはりまだまだ探究に飢えているようなのだ。しかも無意識的に、その領野が無限大に広がっているものだということも薄々わかっているようだ。探究の渇きを癒し、無限の探究領野に水を加えて沃野にできるように、今日もまた自分の取り組みを人知れず前に進めていこう。フローニンゲン:2023/5/13(土)06:36


10336. 今朝方の夢の続き


時刻は午前7時を迎えた。先ほど、今日のゼミナールのクラスに向けて、受講者の皆さんのコメントを読んでいると、いくつも秀逸な文章があった。それらの文章を読みながら、生と死に関する存在論的·認識論的問いの双方が生まれたことと、倫理の存在証明よりも、倫理の重要性や意味をいかに人々に納得してもらえるように語っていくかに力を入れていきたいということを考えていた。それを受けて、今朝方の夢にまた戻ってきた。先ほども夢について振り返っていたが、あの夢の前にはまた別の夢があった。


夢の中で私は、見慣れない宿泊施設に泊まっていた。どうやら小中学校の友人たちと一緒にそこに宿泊しているようで、ごく一部の友人たちと一緒にここにやって来たのではなく、学年全体で修学旅行のような形でやって来たようだった。その宿泊施設には大きなお風呂やスポーツジムもあり、さらには室内プールも立派なものがあった。私は1人で宿泊施設の中を散策していた。すると、学校の教室と瓜二つの部屋を見つけた。そこにおもむろに入って行くと、部屋には数人ほどの友人がいた。私は彼らのところに近づいて声を掛けた。すると、すれ違いざまに小柄な友人(YU)とぶつかってしまい、彼はその拍子で背後に転倒してしまった。私は彼にぶつかったことに気付いていたし、彼が転倒したことをわかっていたが、本当にちょっと足が触れただけだったので、彼が転倒したフリを悪ふざけに行ったのだと思った。なので私は教室から出ていき、また散策を開始した。しかし背後から、教室で何か騒いでいることが聞こえて来た。どうやら転倒した彼は本当に倒れてしまい、頭から出血をしてしまったそうだった。私は教室に戻ろうと思ったが、前に歩き始めてしまった足を止めることはできず、引き続き散策をすることにした。すると、右手に更衣室が見えたので、そこで着替えてお風呂にでも入ろうと思った。更衣室の扉を開けると、中がスチーム状態になっていて、そこはまるでミストサウナのようだった。そこで着替えようと思ったが、部屋のスチームで衣服が濡れてしまいそうでどうしたものかと思った。とりあえずすぐに服を脱ごうと思ったところ、いずれのロッカーにも鍵がなく、衣服が盗まれないか心配になった。幸いにも貴重品はなかったので、大丈夫かと思ったが、裸になってお風呂に入った後に衣服が盗まれて無くなっているのは嫌だなと思ったので、そこで着替えることをせず、更衣室を後にした。散策もひと段落したように思えたので、先ほど頭を地面にぶつけて出血した友人の様子を見に行こうと思った。彼は施設内の医療室にいて、ベッドの上で静かに寝ていた。横で看護していた友人に話を聞くと、彼は数針ほど頭を縫ったとのことだった。それほどまでに大きな怪我になっているとは思わず、私は静かに反省して、彼が目覚めたらまず一番に謝ろうと思った。それにしても、なぜ足が軽く触れただけで彼が後ろに吹き飛んでしまったのかはいまだに謎だった。フローニンゲン:2023/5/13(土)07:19


10337. 生と死の認識論と存在論


時刻は午後2時半を迎えた。今日は天気がとても良く、雲一つない見事な青空が広がっている。耳を澄ますと、小鳥たちの鳴き声も聞こえて来て、とても穏やかな土曜日の午後である。


今日のゼミナールのクラスは新たなテーマとして死生観を学び始めた。クラスの中で、生と死をどのように捉えるのかという認識論の話から、生と死はそもそも存在しているのかという存在論の話に及び、そして生と死というものがボディ、マインド、ソウル、スピリットといった様々な存在階層にまたがって存在しているという話になった。とりわけ後者の存在論においては、現実世界と夢の世界という存在階層も存在するし、ある個人だけ限ってみても現在·過去·未来という時間軸を加えるとさらに豊かな存在階層が見えてくる。生と死があるというのはどういうことなのかという存在論と、生と死を知るということに関する認識論をさらに磨いていきたい。


最近のクラスではChat GPTも活用することが時折あり、ある参加者の方がChat GPTに質問を投げ掛けてみたところ、次のような答えが返ってきたようだった。


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死生観については、人間社会が形成された当初から進化し続けてきたと言えます。特定の時点で全ての死生観が「出そろった」という訳ではなく、それぞれの文化や宗教、哲学が発展するごとに新たな死生観も生まれてきました。


また、新しい科学的な発見や技術の進化も死生観に影響を及ぼします。例えば、20世紀に入ってからの医学の発展により、臨死体験についての理解が深まったり、蘇生技術が進歩したことで死の定義自体が揺らぐようになりました。


21世紀に入ってからも、死生観は進化し続けています。具体的には、デジタル技術の進化により、人間の意識やパーソナリティをデジタル化する試み(デジタル不死とも呼ばれる)が進んでいます。これは、人間の「死」を物理的な体の死だけではなく、デジタルデータとしての存在の消失と捉え直す新たな視点を提供しています。


また、21世紀に入ってからの環境問題の深刻化は、人間だけでなく地球全体、あるいは生物全体の「死」についての考え方を変えるきっかけとなっています。これはエコロジカルな死生観とも言えるでしょう。


以上のように、死生観は時代とともに変化し続け、新たな科学的な発見や社会的な課題に対応して進化しています。

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この回答を元にすると、やはりテクノロジーの発達を受けて、トランスヒューマニズムの思想運動は死生観の進化に重要な影響を及ぼすであろうことが改めて見えてくるし、延命技術·蘇生技術·不老不死の技術を含め、それは生と死の認識論と存在論を大きく変えていくことになるだろうと予感している。

 

今日のクラスでは改めて、共同学習·共同実践及び、それを継続させる場としてのゼミナールの価値と意義を実感した。共同と継続というのは自分の中で今最も大切にしているもので、それを実現させてくれるゼミナールの場をこれからも大切にしていきたい。フローニンゲン:2023/5/13(土)14:40


10338. 松材の香りの中で/死生観の変容に向けて


時刻は午後7時を迎えた。今、夕方の穏やかな太陽の光が輝いている。ここ最近のオランダの日没は午後9時半頃なので、この時間帯はまだまだ明るい。本当にまだ夕方と形容していいぐらいだ。ここから夏に向かっていくにあたって、あと1時間ぐらいは日没の時間が伸びることになる。明るい時期の到来は間も無くだ。


今日は午後に、オーナーのフレディさんとペイトラさんが家の壁のペイントを新しくしてくれたのと、窓際に生えていて手の届かなかった草木を刈ってくれた。特に後者のおかげで、今後は虫が窓枠の隙間から入ってくるのがより減ってくるのではないかと思う。家のペイントを新たにする際に、松材を活用し、木材が腐敗しないように熱して燃やす技術を施したらしく、その香りが最初とても印象的だった。今でも部屋の中にその匂いが残っていて、最初はベーコンの香り、あるいはバーベーキューの香りのようだと思った。一応念のため、その香りについて確認した時に、松材に対してそのような技術加工を施したという話を聞いて一安心した。毒性のある香りではなく、自然な松の香りとひとたびわかると、この香りからも癒される。アロマセラピーにあるように、香りにも癒しの効果があるので、松の何とも言えない良い香りに数日間は包まれる恩恵を得た。おそらくこの香りも数日すれば落ち着くのではないかと思う。


この時間帯になって改めて今日のゼミナールのクラスについて振り返っている。今日のクラスを通じて、テクノロジーによって私たちの生と死の捉え方、つまり認識論が変化することによって、これまで見えなかった生と死の存在の側面が見えてくるという存在論上の変化も現れてくるだろうという予感が増している。実在世界に隠遁しているまだ知覚されえぬ生と死の存在の表情がこれからますます浮かび上がってくるだろう。しかしそれを知覚するためには、テクノロジーと生と死の関係性に対して強く問題意識を持っておかなければなかなか難しいかもしれない。まだ見ぬいかなる実在も、全ての人に平等にアクセスできる権利がありながらも、それにアクセスするためにはやはりこちら側の意思や努力が必要になる。


その他に、ここからの6回、そしてそこからさらに追加で6回ほど死生観を扱っていく中で、少しずつ自分の死生観の認識論と存在論をアップデートしていきたいと思う。今日のクラスの中でも話題に挙がったように、人間中心主義的な死生観を含んで超えていくことを通じて新たな死生観を発見してみたい。そのためには、先般学習していたクォンタン·メイヤスーの思弁的実在論やグラハム·ハーマンのオブジェクト指向存在論から死生観を捉えてみるということは引き続き行いたいものだ。最後に、今日のクラスの中で次回に向けたアクションプランとして、仮に違う死生観を持って人生を生きていたとしたら、その人生はどのようになっていたと想像されるか?仮に自分とは相入れないような宗教を信奉していて、その死生観に基づいていたら人生がどのようなものになっていたのか?という問いを自分でも考えてみたいと思う。その考えの一端を音声ファイルですでに共有したが、これはとても興味深い思考実験であるし、自分の人生と死生観との関係を見つめる上でもとても意味のある実践かと思う。フローニンゲン:2023/5/13(土)19:22


本日の自由詩(free verse)

No.2956, Non-attachment

Non-attachment is not so difficult to achieve.

One of the easiest ways is to become the world itself.

Groningen; 07:52, 5/13/2023


No.2957, Afternoon Happiness

I feel afternoon happiness at this moment.

The warmth is ineffable.

Groningen; 13:05, 5/13/2023


No.2958, Evening Brightness

I’m just grateful for evening brightness now.

It glorifies a new adventure of my soul.

Groningen; 18:56, 5/13/2023

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