No.4216 朝の熱望_Morning Aspiration
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.2069, Morning Solace
Morning solace opens a door.
An affectionate ambience is inside of it.
Groningen; 07:22, 12/23/2022
No.2070, An Ironic Paradox of Transhumanism
Transhumanists aspire to overcome death.
Once we conquer death, it couldn't be experienced anymore.
Death would be precious but unattainable then.
In response to this fact, transhumanists may start to pursue the way to experience death, even though we can never experience death at that time.
This can be called a “transhumanist paradox.”
Groningen; 09:13, 12/23/2022
No.2071, Radical Immortality
Transhumanists are exploring a way to attain immortality such as uploading our minds to computers.
But there is still a physical limitation of the method in that computer servers can be broken down.
Why don’t transhumanists look for a way to upload or transform our minds to oxygen or nitrogen in the air?
Or a much more radical way could be to upload or transform our minds to dark matter in the universe.
If we accomplish it, we could say that radical immortality is actualized.
Groningen; 09:19, 12/23/2022
No.2072, Blissful Moment
A blissful moment is not rare.
It is omnipresent.
Thus, there is no blissful moment but blissful moments.
Groningen; 13:00, 12/23/2022
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本日の2曲
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タイトル一覧
9635. 今朝方の夢
9636. テクノロジーと道徳/情報と実存
9637. トランスヒューマニズムと宗教的救済論
9638. トランスヒューマニズムの皮肉なパラドックス
9639. 死の意味と意義の見つめ直し/魂と意識の意味するものへの探究に向けて
9635. 今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えようとしている。今朝もまた静けさに包まれた世界が目の前に広がっている。どうやら今は霧が出ているようで、気温は7度である。ここから午前9時にかけて6度まで気温が下がり、そこから日中にかけて気温が7度にまた戻る。不思議なことに、夕方にはまた6度になって、そこから夜の時間帯にはまた7度になるというジグザグの気温だ。
いよいよ来週の火曜日から年末年始の旅行が始まる。旅行の開始に伴って、買い物における食べ物の購入量を計算し始めた。昨日6個入りの卵を購入し、旅までの日数を考えると少し個数が多いので、筋力トレーニングをした翌日の今朝は、茹で卵を作って食べようと思う。プロテインとリンゴに加えて、卵を食べて栄養を補給する。
いつものように今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、大学時代のゼミの友人(AT)と、日本のある観光地を巡っていた。そこは雰囲気としては京都のように思えたが、具体的な場所は定かではなかった。しばらく友人と歩いていると、友人はどこかに消え、気づけばある一軒家の中にいた。その家は通りに面した家で、自分がどうやってその家に来たのかを思い出していた。すると、ポプラ並木を歩いているときに、自転車専用車道から高校生風の青年がイヤホンを付けて、イヤホンから流れてくる英単語やフレーズを口ずさんで自分の横を通り過ぎていき、彼の後を無意識的に追っていると、この家に到着したのだということを思い出した。その家はどうやら個人塾のようで、塾の中には塾について紹介するパンフレットが置いてあった。1つを手に取って眺めてみると、その塾では統計学に強みがあるようだった。パンフレットが置かれている入り口付近からさらに奥に入っていくと、3人の生徒が部屋に入ろうとしていて、その部屋には先生がいた。私はすぐにその場を立ち去ろうと思って引き返そうとすると、部屋の中にいた先生が私に気づき、声を掛けて来た。先生は女性の方で、中学生ぐらいの女の子の子供がいるようだった。先生は親切そうな人で、せっかく来たのだから少し授業を見学でもしていったらどうかと述べてくれた。どんな授業がなされているのか気になったので、その言葉に甘えて授業の見学をしようと思った。もう一度控室のような場所に行き、そこでパンフレットを眺めてみると、夢の場面が変わった。
今朝方はその他にも、自分の体重を測る夢を見ていた。私の横には、宇宙関係の仕事をしている知人の女性がいて、彼女に自分の体重を報告していた。ここのところ筋力トレーニングをしていたため、体重も適正になっているかと思いきや、体重計にいざ乗ってみると、とても軽かった。奇妙なことに、何度か乗り直すと、その度に体重が軽くなっていった。最終的には40kg台の表示が出て、それはあまりにも軽すぎだと思って、体重計が故障しているのではないかと疑ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/12/23(金)06:04
9636. テクノロジーと道徳/情報と実存
朝の静けさに包まれながら、昨日のテクノロジー哲学の講座について振り返っている。昨日は1つ、テクノロジーと道徳性の話題が再び取り上げられた。そこでは、テクノロジーに道徳的な意識ないし知性が芽生えるのかというテーマや、サイボーグやロボットなどを道徳的に扱う対象として見做すのかどうかというテーマが話題に上がった。前者に関して言えば、人間と同じような道徳的な意識や知性ではなかったとしても、それと同様の働きをする意識や知性のようなものならAIは獲得できてしまうだろう。そして、そこで下される道徳的な判断は、人間の判断を超えるものになり得る。このテーマは、AIが裁判官となって判決を下すAI裁判の動きにも繋がるものだ。そこでAIが道徳的な主体となり、道徳的な判断を下す存在となる。すでにアメリカのある州では、AI裁判に関する実験的な試みがなされていると聞いた。どのような道徳意思に基づいてテクノロジーを開発していくかだけではなく、道徳を取り巻くそれらのような問題があり、引き続きそれらのテーマに対して考察を深めていきたい。クラスの中で話題に挙がった、カズオ·イシグロの『クララとお日様』という作品では、ロボットが人間以上に道徳的な振る舞いを見せ、主人公の子供がロボットから情操教育を受ける姿が描かれている。モラルに欠けた人間の教師よりも、道徳的な知性の発達しているロボットから道徳教育を受ける日もやって来るのかもしれない。
その他には、神道的な世界観として、八百万的な神の思想から、モノに魂が宿るという発想についても印象に残っている。以前のクラスでも、つくも神の話題が挙がったが、針供養や人形寺など、モノに魂が宿っているという発想からモノを大切に扱うという文化が日本には強くありそうだ。また、情報の存在論というテーマも話題となり、それについてはロイ·バスカーの批判的実在論を活用すると見通しが良くなるのではないかと思う。つまり情報には少なくとも3つの階層があって、下位構造から順に、経験世界、現実世界、実在世界と呼ばれる階層のそれぞれに固有の情報の在り方があると考えることができそうだ。情報には実存性があるのかどうかというテーマも話題に挙がった。これは実存性というものをどのように考えるかによって考えが異なって来そうだが、仮に情報に実存性がなかったとしても、ChatGPTというAIツールによって、それによって生成される情報を見た人に、まるであたかもそこにその人がいるかのような実存感覚を与えることなら可能であるように思う。まさにそこには情報の受け手に対する実存的な因果力が存在していると言えるかもしれない。実際のその人以上にその人らしい応答をする形でメッセージを生成することが可能になって来ると、情報と実存というテーマの重要性はさらに増すだろう。日本文化に浸透しているモノに魂が宿るという発想からすると、情報に魂が宿るという考え方はあっても不思議ではない。むしろスピリットの現れとしての情報という見方ができるはずだ。フローニンゲン:2022/12/23(金)06:33
9637. トランスヒューマニズムと宗教的救済論
先ほど、昨日のテクノロジー哲学の講座を受けて、補足の音声ファイルをさらに1つ作った。そこでは、早朝に書き留めていた情報と実存に関するテーマを主に話した。20分強の音声ファイルを作った後に、トランスヒューマニズムに関する書籍を読み始めた。そのときに、自分の今後しばらくの立ち位置としては、ナイーブなトランスヒューマニストに対しては、彼らの考え方の盲点を指摘し、依然として旧態依然とした発想でトランスヒューマニズムの思想を受け付けない人たちに対しては、彼らが少しでも既存の思考の枠組みや価値観から外に出られるような働きかけをしていこうと思った。そうすることが両者に対しての健全な働きかけであろうし、トランスヒューマニズムの思想運動が正しく社会に受け入れられていく下地を形成し、その運動がおかしな方向にいかないことを予防することにつながるのだと思う。
トランスヒューマニズムと宗教的救済論(soteriology)を絡めた論文を読み進めていると、各種宗教においては、とりわけ仏教においては、人間の苦の根元に人間の欲望を見出していくのだが、欲望に対するトランスヒューマニストたちのアプローチは興味深い。2つの明確な方向性としては、欲望を満たすか、欲望を完全に根絶する方法である。欲望を完全に満たすことは難しく、欲望を完全に根絶することも今の現実では難しいが、トランスヒューマニストたちはそれらはどちらも可能であるとする。科学と最先端のテクノロジーを導入して、欲望を完全に満たす路線と欲望を完全に根絶する路線の双方にも進むことができるという発想を彼らは取っている。後者に関して言えば、例えば『リベリオン(2002)』という映画では、感情を抑止する薬が存在していて、それと同じく精神薬理学的な発展により、欲望を完全に押さえ込む薬が登場しても何らおかしなことではない。もちろん、それらの開発上の倫理と使用上の倫理は依然として残るが、技術的にはそうしたことは可能になるのではないかと思う。トランスヒューマニストの多くは無神論者かつ無宗教者だが、興味深いことに、例えばキリスト教やイスラム教においては、欲望の完成は、神に近しい存在として朽ち果てることのない身体を伴って天国に行くことで実現されると考える。仏教においては、悟りの境地を開くことによて、幻想的な欲望に囚われずに自由になれるという意味での欲望の根絶が成就できると考える。こうしたところにも、宗教思想とトランスヒューマニズムの関係性を見る。この点については引き続き関心を持って探究していこうと思う。フローニンゲン:2022/12/23(金)08:33
9638. トランスヒューマニズムの皮肉なパラドックス
キリスト教においても内在的に死を忌避しようとする発想があるのと同じく、神道においても死は穢れとみなす発想がある。こうした発想に注目をしてみると、必ずや各宗教の思想はトランスヒューマニズムに接続していく道があることが見えて来る。
トランスヒューマニストのメタナラティブを追っていると、その核には人間存在の限界の克服があり、それは生物学的、認知的、心理的な限界の克服として形となり、最終的には死の超克がある。ここで不思議なことに、トランスヒューマニストが死の克服を目指そうとすればするほどに、死という現象の意義や価値のようなものが逆に自分にとっては明らかになって来る。今は死が不可避な現象であり、それによって自分の人生が終焉を迎えるという意味で否定的に捉えられている節があるが、ひとたび不老不死が実現されると、死という現象の希少価値が上がる。そうすると、あれだけ忌避していた死に対して、今度は逆に死への憧れの念を醸成することになりはしないだろうかと考えさせられる。それこそ個体意識がダークマターに溶け込んだ形で存在できるようになると、宇宙全体が消滅しない限りは本当に不死が実現される。その時にはもはや死というものが不可能になってしまう。人間とは不思議なもので、まさに絶えず自己を超越していく性質を持っていて、きっと経験不可能になってしまった死を今度は何としてでも体験する方向に人類は向かっていくのかもしれない。その時にはもう人間は人類と呼べるような存在ではないかと思うが、いずれにせよ、人間は絶えず限界を抱えながらその限界を越えていこうとする存在であり、超克したはずのものが思わぬ形で超克出来ないものを新たに生み出し、人間はまたその超克に向けて奔走するということを繰り返すように宿命づけられているのかもしれない。それはトランスヒューマニズムの皮肉なパラドックスである。フローニンゲン:2022/12/23(金)09:06
9639. 死の意味と意義の見つめ直し/魂と意識の意味するものへの探究に向けて
時刻は午後3時半に近づいている。今日は曇りがちで、太陽の光を拝むことはできない。そんな中、今日もまたトランスヒューマニズムに関する学術書を読み進めている。手持ちの書籍をまずは全て読み替え意思定期、トランスヒューマニズムに関する体系的な学術書を選定し、それをもとに特別講座を開講することを検討したいと思う。
来年仮に神学大学院に進学したら、やはり世界の様々な宗教思想について食わず嫌いをせずに学び直してみようと思う。それらの宗教思想において死や老いという現象がどのように捉えられているのかをつぶさに見ていく。今のところ、生命倫理の観点では各宗教からトランスヒューマニズムに対する強い問題提起が投げかけられているが、こと死や老いという捉え方に関して眺めると、意外と各宗教とトランスヒューマニズムが考えていることは似ている。
もし仮にトランスヒューマニズムの思想運動に対抗していくのであれば、死の意味と意義を見つめ直し、少なくとも死を忌避の対象とみなすことから脱却し、少なくとも自然な死に限っては祝福するべき対象とみなすところまで実存的·霊的に発達した見方を獲得していかなければなるまい。今のところは、死が克服された状態における効用と死という現象がもたらす効用を考えた時、やはり前者に軍配が上がる。
午後にクローンの問題に関する映画を見ながら、神学的な観点から魂の意味するものをより考えていき、哲学的な観点から意識の意味するものをより考えていく必要が大いにあることについて考えていた。魂とはなんぞやという問題と、意識とはなんぞやという問題に対して、明瞭かつ分厚い語りができるようになる必要がある。前者に関しては引き続き神学に関する学術書を読んでいくことと、その中でも特に神道の霊魂観を習得していこうと思う。後者に関しては、心の哲学に関する学術書を丹念に読み返していこうと思う。そんな方向性を改めて見出していた。フローニンゲン:2022/12/23(金)15:26
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