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9576-9581: フローニンゲンからの便り 2022年12月12日(月)



No.4218 精霊の放射_Reflection of Spirits


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.2043, A Small Galaxy

A small galaxy is manifested in front of my eyes.

It is shining like my spirit.

Groningen; 08:24, 12/12/2022


No.2044, A Parasitic Planet

A parasitic planet is orbiting us.

The planet is rapacious.

We need to protect ourselves and our planet.

Groningen; 13:11, 12/12/2022


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本日の2曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9576. 自己超越現象を体験して

9577. 今朝方の夢

9578. 社会学とテクノロジー哲学/箏の滑り止めを使い始めて

9579. ジャック・エラルとランドン・ウィナーのテクノロジー思想より

9580. 筋力トレーニングにおける発見

9581. 知的生態系の発達/音読の効能を実感して


9576. 自己超越現象を体験して


時刻は午前7時を迎えようとしている。辺りは闇と静けさに包まれている。今の気温は0度なのだが、これから午前10時までにかけてマイナス2度まで気温が下がる。そこから日中には0度まで気温が上がるが、それ以上の気温にはならない。夕方からまた気温が下がり、今夜はマイナス4度になるようだ。明日においては、最高気温がマイナス7度になる。ここ最近は湯たんぽが活躍を始め、それを使い始めたのは本当に突然だったので、気温の非線形的な変化を見る。ふとした時には違うフェーズに入っているというのは、まさに発達の本質であり、これからの自分においても気温の非線形的な変化と同じことが起こるかもしれない。


昨夜、久しぶりに自分が自分の外にいるような感覚があった。この感覚は時折やって来る。その時間帯は決まって夜であることが興味深い。しかも、就寝前の時間帯の場合がほとんどである。昨夜も、自分が自分の人生の外にいて、自らの人生を俯瞰的に眺めているような感覚があった。重要なことは、「自らの人生」というよりも、まるで他人の人生を眺めているかのように、完全なる客体化現象が起こっていた点である。これは毎回共通する。自分を単に俯瞰的に眺めるのであれば、それは日中でもできることである。というよりも、このように文章を書くことそのものが自己客体化の営みとして成立するため、自分を客体化することは困難ではない。だが、自分を自分ではない1人の人間として完全に客体化することは普通できないことである。そうしたことが可能になることが、この10年の中で時折やって来る。しかもその頻度は年々増し、客体化が行われる持続時間も長い。自分の中ではこの現象は、「自己超越現象」という括りをしている。これもまた発達過程の中で起こる必然的な現象なのだろうか。意識の状態としては、完全なる目撃者の意識状態である。瞑想などせずに、夜に突然この意識状態に入るようになった背後にはどのような要因があるのか気になるところだ。この体験が記憶に残るようになって来たのは、おそらく欧州に来てからなのではないかと思う。欧州での生活が1つの要因になっていると考えても問題ないかもしれない。


今日は気温は低いが、いつものように午後にはジムに行く。昨日のロビンさんとのプライベートレッスンで習ったことをまずは復習したい。鏡のある部屋で、スローモーションでゆっくりと自分の動きを観察していこう。ジークンドーの稽古が終わったら、今日も1時間ぐらい時間をかけて筋力トレーニングに励む。その後、サウナは前回考えていた通り、10分入って冷水を浴びるセットを3セット繰り返したいと思う。これまでの12分2セットと比較してどのような違いがあるのかも観察してみたいと思う。フローニンゲン:2022/12/12(月)07:05


9577. 今朝方の夢


夜明けがやって来るのはまだまだ先のようだ。そのように思っていても、ふとした時に夜明けがやって来ているというのは興味深い。人生とはそのようなものなのだろう。過度に渇望するのではなく、小さな希望の光を心に灯しておいて、あとは来るべきものの到来を静かに待つだけである。そうすれば、ふとした時にそれはしかるべきタイミングでやって来る。渇望を避け、希望を持ちながら静かに待望すること。それは人生の要諦の一つのようだ。


今朝方は起床前に1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、どこか懐かしさを感じさせるが、未だかつて訪れたことのない町にいた。そこは近未来的な雰囲気を持つ建物がありながらも、レトロな雰囲気を持つ飲食店が多くあった。そんな町で私は、マラソン大会に出場していた。それは市が運営するものではなく、その町のある中学校が運営しているものだった。季節は冬だったが、大して寒くなく、半袖半ズボンで走ることにした。私は、小中高時代の親友(SI)と一緒に走ることにし、彼と時折言葉を交わしながらコースを進んで行った。すると、コースの表示があるビルの中に入っていくことを示していて、その建物の中に入ると、誰もいないビルのフロアの真ん中に、横に細長いジャングルジムのようなものがあり、それを潜っていくことが求められた。それは大人が通り抜けるには結構狭く、進んでいくのが大変だったが、なんとか無事に抜けた。すると、出口付近のテーブルに、何かパンフレットが積み重ねられていた。その1つを手に取ると、インテグラル理論を個人の成長実践に応用したインテグラルライフプラクティスの冊子であることに気づき、1つもらって帰ることにした。しかし、ビルから出ると、いつの間にか手からそのパンフレットは消えていた。そこからも引き続き友人と一緒に走ることにしたのだが、コースが複雑で、少し道に迷ってしまった。脳内に突然伝言が届き、自分たちのように道に迷ってしまった人が続出したため、簡単なコースに変更になったと連絡があった。実は私たちはすでにゴールしているぐらいの距離を走っていて、迷っているがゆえに同じコースをすでに2回ほど回っていた。それが大きなタイムロスとなり、辺りにはランナーの姿がほとんど見えなかった。レトロな飲食店がある辺りに到着すると、そこで休憩を取ることにした。その時にはもうマラソンのことは頭になく、マラソン後の打ち上げのような感じで蕎麦屋に入った。テーブル席に案内されると、そこには小中学校時代の別の友人が2人(HS & MS)がいて、彼らと一緒に4人で蕎麦を食べた。4人のうち2人は暖かい蕎麦を注文し、私を含めて2人が冷たい蕎麦を注文した。蕎麦がやって来るまで話をしていると、後ろのテーブル席の声が仕切り越しに聞こえて来た。どうやらそこには、スペインで活躍するサッカー日本代表の若い選手がいて、彼が私生活の話をしていた。どういうわけか彼は私のことを知っていて、話の中で私の話題が少し出た。そこで仕切りを動かして彼に挨拶をしようと思ったが、彼のプライバシーを尊重して話しかけることはやめた。すると美味しそうな蕎麦が蕎麦つゆと共に届き、私たちは美味しくそれをいただいた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/12/12(月)07:26


9578. 社会学とテクノロジー哲学/箏の滑り止めを使い始めて


昨日に思弁的実在論の入門講座に関するコンテンツを全て作り終えたので、今日からはテクノロジー哲学の学術書を再び旺盛に読み返している。テクノロジーに関する形而上学的な性質の探究から経験論的転回をテクノロジー哲学が果たすと、社会学的な観点がテクノロジー哲学の領域に随分と入って来た。その筆頭はまさに、フランスの社会学者かつ人類学者のブルーノ·ラトゥアーである。科学的な発見事項は、実は発見されたものというよりも、社会的に構築されたものであるという見方を通じて、テクノロジーもまた社会的に構築された側面が多分にあることはすぐに気づくことである。むしろテクノロジーも科学的な発見事象と同じく、新たなテクノロジーが発見されるというよりも、社会的に構築されると述べてしまってもいいかもしれない。ラトゥアーのアクターネットワーク理論を活用すると、テクノロジーの発達は、意思·利害·関心を持ったアクターたちが集まったネットワークの活動によって実現されると言える。アクターネットワーク理論についてもより理解を深めたいと以前から考えていたこともあり、この理論についても入門講座を開講してもいいかもしれない。購入した全てのラトゥアーの書籍を読み返してみて、入門講座にふさわしいテキストを選定しよう。


もう少し読書を続けたら、息抜きがてら箏の稽古をしようと思う。そこでは、テクニック集に沿った練習と、即興演奏の双方を楽しむ。昨日、箏の滑り止めとして、陶器を包んでいたものを活用すると、見事に滑らなくなり、机の上でも問題なく演奏できるようになった。平調子にしてから、高音の左手のピチカートの際に、箏が机の上を滑ってしまう傾向があり、それについて先生に相談したところ、100円ショップなどで売っている滑り止めシートを活用することを勧めてもらったが、家の食器棚にしまっておいた陶器を包んでいたもので代用できて良かった。この滑り止めがあるおかげで、思い切った指遣いができるようになったのでとても有り難い。今週末にまた先生とのオンラインレッスンがあるのだが、次回からは少しずつ縦譜の読み方について教えてもらおうと思う。文化箏ではなく正規の箏では縦譜を用いるのだが、文化箏でも縦譜の演奏ができるので、縦譜を読めるようになることは演奏の幅を広げてくれる。縦譜が自由自在に読みこなせることになることもまた1つの楽しみとしてある。フローニンゲン:2022/12/12(月)09:33


9579. ジャック・エラルとランドン・ウィナーのテクノロジー思想より


以前より注目していたテクノロジー哲学者のジャック·エラルは神学者でもある。彼は19歳の時にマルクス主義者に転向し、22歳の時にプロテスタントに転向した。エラルの3部作はいずれも自分に大きな影響を与えていて、中でも第2部の“The Technological System (1980)”の内容を思い出している。本書を通じてエラルは、現代のテクノロジーは1つの全体を構成し、それを部分に分けて捉えることはもはや不可能になっていると指摘する。さらには、この巨大なテクノロジーシステムを通じて、人間は自律的な存在であることから地位を奪われていると指摘する。端的には、人間もまたその巨大なテクノロジーシステムの構成要素なのである。巨大なテクノロジーシステムの要素としての人間がテクノロジーをデザインし、コントロールしようとする姿は滑稽に映るが、まさに続く第3部の“The Technological Bluff (1990)”の中でエラルは、人間が過度にテクノロジーに期待を寄せる姿を欺瞞として指摘する。この指摘の後にエラルは、テクノロジーに関する倫理の考察を深めていく。しかもその背後には、彼が敬愛していたキルケゴールの実存的哲学の枠組みがある。このあたりについてはさらに読書を進めていこう。


エラルについて考え事をしている前には、アメリカのテクノロジー哲学者のランドン·ウィナーの研究に考えを巡らせていた。ウィナーは、“Do artifacts have politics?”という論文を通じて、テクノロジーが政治的なものか否か、テクノロジーに政治的なものが内包されているのか否かについて論じている。ウィナーの主張は、テクノロジーに関する2つの極端な立場を批判するところから始まる。1つには、技術的決定主義への批判である。技術的決定主義は、技術的な産物は必ず社会的な帰結ないしは影響をもたらすというものである。多くの場合には、技術的決定主義は、テクノロジーは社会に負の影響を不可避に与えるという発想を取ることが多い。ウィナーはこの主張に反対し、さらには社会的決定主義にも反論する。社会的決定主義においては、テクノロジーは中立的なものとして捉えられ、テクノロジーがもたらす良い影響や悪い影響は、テクノロジーそのものとは独立して、人間によって決定されるという考えを持つ。この論点は、まさに現在進行中のテクノロジー哲学の講座でも出て来たものである。ウィナーの議論の方向性として、テクノロジーを中立的なものとして捉えるのではなく、自律的なものとして捉え、テクノロジーはそれ自身として振る舞いを持つ一方で、人間や社会とのインタラクションを通じて、振る舞いを新たにする性質を持つという形で主張を進めていく。テクノロジーを中立的な存在ではなく、自律的な存在として捉えることによって、テクノロジーに関する道徳と倫理の重要性が浮かび上がって来る。それは前述のエラルの主張が辿った道と同じである。ここからはやはり道徳と倫理に注目してテクノロジーに関する探究を進めていく必要がありそうだ。フローニンゲン:2022/12/12(月)10:33


9580. 筋力トレーニングにおける発見


時刻は午後5時半を迎えた。今日は本当に寒い1日だったが、先ほどジムでは良い汗を流した。ジークンドーと筋力トレーニングの際にもじんわりと汗が滲み出ていて、サウナで思いっきり汗を流した。今日からサウナでは10分入って冷水を浴びるというセットを3セット繰り返し、2セットよりもサウナの効果を実感した。今後も1セットを長くするのではなく、10分のセットを3回繰り返していこうと思う。今日の筋力トレーニングでは、ジムで知り合いとなった男性の動きを見ていると大変勉強になった。その男性は相当に筋肉が付いていて、体は筋骨隆々である。大変興味深かったのは、彼が実際に述べていたように、あまり重たいものを使っていないことである。とりわけ前半においては、ものすごく軽い重さで体を動かしている姿が印象的だった。より微視的に観察してみると、彼は相当に意識を集中させていて、動かしている筋肉に意識を通しているようだった。それゆえに、小さな重さでもそれが筋肉にとって良い刺激となり、彼の筋肥大に貢献しているようだった。ここでも惰性でトレーニングすることがいかに無駄であり、意識的にトレーニングすることがどれだけ重要かが分かる。彼のトレーニング方法を見ながら、自分も重さを増やすのではなく、軽くでもいいので正しい動きを意識して、さらに刺激される箇所の部位を意識することを心掛けた。これは今後も心掛けたいことである。さらに気づきとしては、彼はあまりマシーンを使っておらず、ゴムバンドやダンベルをうまく活用して筋力を鍛えていることだ。これにはどのようなメカニズムがあるのだろう。そう言えば、パーソナルトレーナーのエリーザが、ダンベルなどを用いると複数の筋肉が鍛えられると述べていて、そういう理由から彼はあまり特定の部位だけを鍛えるマシーンを活用しないのかもしれない。彼以外にも、ジムの受付かつダンサーとして活動している男性のトレーニングを見ても、うまくゴムを活用していた。彼もまた筋肉質な体をしていて、ゴムバンドを活用すると、筋肉の伸縮に良い刺激が与えられるのかもしれない。それについて少し調べてみよう。また、トレーナーのエリーザに相談して、彼女からゴムバンドの使い方を教えてもらおうと思う。使い方を教えてもらったら、近くのスポーツショップでゴムバンドを購入し、それをジムに持参して活用しようと思う。またそれは旅行中や今後どこでも活用できるため便利である。フローニンゲン:2022/12/12(月)17:58


9581. 知的生態系の発達/音読の効能を実感して


今日も充実感と共に1日が終わりに近づいて来ている。先ほど、夕食後の箏の稽古を終えた。全ての学習と実践の要諦である意識の活用を意識する形で、箏の演奏に必要な神経回路を新たに開発することはとても面白い。箏の稽古によって開発された新たな知性は、他の学習や実践にも好影響を及ぼす。今、自分の知的生態系が多様性を増し、豊かな生態系システムが新たに構築されつつあるのを実感する。


今日は午前中に改めて、音読の効能について考えていた。音読は長いこと自分の習慣になっていて、今日も基本的には学術書を読んでいる全ての時間はずっと音読をしていた。やはり黙読よりも様々な感覚が刺激されることによって、音読によって入って来るものが随分と異なる。得られるものの量と質の双方がまるっきり異なることを実感する。音読によって脳に良い刺激が与えられていることは間違いなく、少なくとも前頭前野が活性化されているのを実感する。このあたりも日々音読中に前頭前野が活性化されているのを意識すると、さらにその活性化進むかもしれない。音読による記憶力増強の効果もよく言われることであり、このあたりも意識してみようかと思う。そうすれば、自分の記憶力はさらに高まるのではないかと思う。惰性で黙読していても時間の無駄であり、学習効果がないので、とにかく音読をしていく。もちろん自分が読みたい書物を対象にすることが重要であり、興味のないものを音読することもまた意味がない。明日も朝から夕食前まで音読をしていく。夕食後からは少しだけ書物の音読をするのに留め、そこからは脳を休めるような時間としたい。その際に、言語から離れられる箏の演奏は最適である。


身体を通じて獲得されたものとしての教養。それはふとした時に即興的に口から出て来たり、技術として発揮されたりする。教養というのは知識として単に静的に蓄えられているものではなく、実用的で動的なものなのだろう。まさに音読を通じて獲得されるのは、実用に足る動的な身体知なのではないかと思う。日々様々な学習や実践をしながら、それらについて新たな発見が常にあることは本当に喜ばしい。それは生きることの楽しさに直結している。明日の発見を待望しながら、今日もゆっくりと就寝に向かいたい。フローニンゲン:2022/12/12(月)20:29

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