top of page

9539-9544: フローニンゲンからの便り 2022年12月5日(月)



No.4161 生命の花_A Flower of Life


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.2029, A Walk of the Season

The current season is enjoying a walk at will.

We should walk the same way every day.

Groningen; 11:13, 12/5/2022


No.2030, A Smooth Line

A smooth line appears in my epistemological world.

The line has a unique ontological aspect.

As I’m walking on the line, I can become new.

Groningen; 12:18, 12/5/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の2曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9539. 今日の計画/恐れと自己

9540. 様々なリアルな世界/非線形的に発想して生きること

9541. 書くことの新たな意義を見出して/成人発達理論とインテグラル理論の限界を補う批判的実在論と思弁的実在論

9542. 今朝方の夢

9543. 今朝方の夢の続き

9544. 毎日の小さな積み重ねの大切さ


9539. 今日の計画/恐れと自己


時刻は午前9時に近づきつつある。まだ完全に夜が明けておらず、うっすらと暗さが残っている。日の出の時間が本当に遅くなったものである。今日からまた新たな週を迎え、気分も新たに1日をスタートさせた。今日は月曜日ということもあり、ジムに行く日である。今のところ月曜日と木曜日にジムに行くことが習慣になっていて、木曜日にはパーソナルトレーナーについてもらって鍛えている。今日は自主的に筋力トレーニングを行なっていく。まずは準備運動がてらジークンドーの稽古をした後に、前回トレーナーのエリーザからもらった助言をもとにして筋力トレーニングに励む。十分に筋力トレーニングをした後にサウナに入って帰ってこようと思う。今日は日本がワールドカップでベスト8をかけた試合の日だが、ライブで見ることはできず、ジムに行くことを優先し、帰ってきてからハイライトで試合結果を確認しようと思う。テクノロジーの進化や社会認識の変化によって、ライブの価値というのもまた変化しているように思う。画面越しにライブで試合を見るのとハイライトで見るのとでは全く体験が異なるのに加えて、実際に試合会場でライブで試合を見るのと画面越しで見るのとはまた大きく体験が異なる。ここには身体性というものが鍵を握っているように思う。さらには、時空間の性質というものもまた大事な要素として挙げられるのではないかと思う。


昨日、大変興味深いことに、恐れは恐れ自身を恐れないことに気づいた。そこから、自己もまたそうあるべきだということについて考えていた。自己は自己自身に対してどれだけ自覚的になれるのだろうか。自己は自己についてどれだけ知ることができるのだろうか。そのような問いを掲げながら就寝に向かった。フローニンゲン:2022/12/5(月)08:59


9540. 様々なリアルな世界/非線形的に発想して生きること


時の静謐な流れの中で、静かに佇む自己は、小雨降る外の世界を眺めている。天気予報では、夕方に小雨が少し降るはずだったのではないだろうか。天気予報とは異なる形で世界が顕現していることについて考えている。天気予報が指し示す予報世界と現実世界が異なることがあるのは不思議であり、面白い。予報世界が虚構だと直ちに言えるわけではなく、予報世界もまた1つのリアルな世界を作っている。そして、物理的な現実世界もまた1つのリアルな世界である。2つのリアルな世界が交差することもあれば、交差せずに平行線を辿ることもある。この話は天気予報の世界と現実世界との関係だけではなく、他の色々な事柄にも適用できそうである。


学術探究をしていると、日々の認識世界が徐々に変わっていき、毎日がより豊かな生の実感に包まれるようになってきている。もちろん、どのような知識をどのような姿勢で学ぶかが決定的に重要になると思われるが、知というのはこのように、毎日をより豊かにしてくれる力がある。一見すると何に役に立つのか分からない知というのもまた、いつかどこかで思わぬ形で実践に繋がってくることがよくある。知と実践が今この瞬間に完全に一致しなかったとしても、それはどこかで非線形的な結びつきをすることがあるのだ。むしろ最初から線形的な結びつきを期待しすぎない方がいいのかもしれない。というのも、知そのものには無限の可能性があり、目の前に実践に無理に結びつけようとすると、知が本来持っている可能性が十分に発揮されないことが起こり得るからである。今の自分は、毎日の学びを緩やかに線形的に実践と結びつけようとさせる姿勢を持っていて、その背後に、今毎日学んでいる事柄はいずれもっと大きく想像の付かない形で豊かな実践を生み出すだろうと思っている。知と実践の線形的及び非線形的関係性についてさらに考えてみよう。今日の学びもまた、いつかどこかで思わぬ形で実り多い実践を生み出すに違いない。このこともまた人生のその他の諸々の事柄に当てはまることだ。現代人はあまりに線形的に物事を考えすぎるきらいがある。世界そのものが、そして思考そのものが本来は非線形的なものなのだから、非線形的に発想して生きるという姿勢を取り戻す必要があるのではないだろうか。フローニンゲン:2022/12/5(月)09:50


9541. 書くことの新たな意義を見出して/成人発達理論とインテグラル理論の限界を補う

批判的実在論と思弁的実在論


先ほど、朝のコーヒーを淹れた。コーヒーの香りはプルースト的に色々な記憶を蘇らせたり、思考を刺激する。コーヒーから良き刺激を受けている自分を見ながら、そうした刺激をもたらしてくれるコーヒーの存在へ感謝の念が湧き立つ。書くことを通じて、認識論的な物語を生成するだけではなく、そこには存在論的な物語が生成されていることに注目してみる。物語を認識論的な産物だと思っていると、それは物語の性質を片手落ちで捉えていることになる。物語には確かに存在論的な性質があり、物語には存在論的な階層構造がある。わかりやすいのは、物語の進展によって話が変わるたびに新たな存在階層の地平が切り開かれることである。こうしたことを意識して物語を読んでいる人がどれくらいいるのだろうか。例えば、今のこの瞬間に執筆されているこの日記もまた1つの物語であり、冒頭のコーヒーの話から物語の性質の話に移行した瞬間に、存在論的階層構造の変異が起こっていることに気づく。今は書かれたものについて言及したが、今度は書き手に視線を移してみると、物語の存在論的階層構造の転移に応じて、書き手もまた存在論的階層構造の転移を体験する点が極めて面白い。なるほど、書くこととは認識論的な展開及び転回をもたらすだけではなく、存在論的な展開及び転回をもたらすことだったのだ。ここにまた自分にとって書くことの新たな意義が見出された感じがする。


この話が生まれた背後には、そもそも今朝方に存在論の大切さについて考えていたことと関係しているかもしれない。存在論に関する深い理解は、実利的な面で言えば、問題解決に極めて役に立つ。世の中の問題解決がうまくいっていない1つの要因として、問題の所在を特定し損ねていることにあるのではないかと思う。そもそも問題が存在する階層構造というものが存在していて、そうした階層構造のどこに位置した問題を自分は解決しようとしているのか、さらには別の階層からその問題への影響にはどのようなものがあるかを考えていくことをしなければ、真の意味での問題解決に繋がらないように思う。これまで自分が専門としてきた成人発達理論もインテグラル理論も認識論に強く立脚しており、批判的実在論や思弁的実在論ほどに存在論についての分厚い語りはない。そこに成人発達理論とインテグラル理論の限界がある。確かに、インテグラル理論においては存在の階層構造(ボディ・マインド・ソウル・スピリット)、4象限モデル、8つのゾーンの枠組みがあるが、それらの存在論に関する洗練度合いは批判的実在論や思弁的実在論に劣る。そしてインテグラル理論の提唱者のウィルバー 自身が観念論系の哲学者の仕事を主に参照していて、存在論及び実在論に関する最先端の哲学的ディスコースを参照していないところからもそうした限界が生じるのは致し方ないように思う。逆に言えば、そうした限界を補強する意味で、批判的実在論や思弁的実在論などの存在論に関する分厚い語りをしている思想的枠組みを参照していけばいいのだ。そのようなことを今朝方考えていた。フローニンゲン:2022/12/5(月)10:13


9542. 今朝方の夢


時刻はゆっくりと午前11時に近づいている。今、白いカモメたちが近くにやってきて、車庫の上をゆったりと旋回している。その優雅な姿を眺めている。冬になると、白いカモメの色が他の季節とは違った形で映える。


そう言えば、今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、夢について振り返っておきたい。夢の振り返りが終わったら、今日もまた思弁的実在論の入門講座の開講に向けて音声コンテンツを作成していこうと思う。


夢の中で私は、小さなテストセンターでTOEFLの試験を受けていた。TOEFLはこれまで何度も受験しており、この間も受験したこともあって、TOEFLに対する慣れがある。今回受験しようと思った背後には、おそらくスコアメイキングの意味があったのだと思われるが、すでにもうこれ以上スコアメイキングができないほどの領域に達していたこともあり、真剣なのだがリラックスした気持ちで試験を受けていた。リーディングセクションを終え、リスニングセクションに進むと、そこで異変が起こった。これまでのリスニングセクションと形式が異なっていて、リスニングの内容と問いが格段に難しくなっていたのである。学術的な事柄を扱うことは共通しているが、そこで取り上げられる内容がさらに高度なものになっていて、専門知識がないと話が理解できないないようになっていた。そして問いに関しても、専門知識があることを前提としたものになっていて、これまでのTOEFLのリスニングとはまるっきり異なったものになっていることに驚いた。それでもこれまで学術的なトレーニングを随分と長く積んでいたこともあって、なんとか問題に回答していくことができた。小休憩を挟んでスピーキングセクションに入った時にも同様の異変を感じた。ここでもまた難易度が極度に上がっていたのである。これは一体どうしたものかと思いながら、1問目の回答を終えた。すると、試験が行われている部屋に小学生ぐらいの子供たちがたくさん入ってきて、同時に1人の中年男性が入ってきた。彼らはみんなアメリカ人のようだった。試験が行われている最中に部屋に入ってきた彼らは静かにしていたが、教師と思われる中年男性が私に話しかけてきた。私は試験中なので迷惑だなと思ったが、ちょうど問題の移行時間で、数秒ほど時間があったので、「今試験を受けている最中なので後にしてください」と少し強い口調で述べた。するとその男性は何も言わずに後ろに引き下がっていった。私はそこでふと、こんなに人が多い中でスピーキングの問題に回答し続けることはストレスだと思った。なので試験会場を変えてもらえるように試験監督に言いにいこうと思った。だが、その間にも試験が進行してしまっては元も子もないのでどうしたものかと思っていた。その中年男性にお願いして試験監督に相談してもらうか、何か良い手はないかと考えているところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/12/5(月)11:01


9543. 今朝方の夢の続き


朝のこの感じ。この感じを味わうこと。朝の世界に固有の存在感覚を味わうことが、自己の存在感覚を味わうことに重なっていく。こうした形で自己の存在を深めていく。どこまでも広く、どこまでも深く、存在はその存在感を増していく。


先ほど今朝方の夢について振り返っていた。実はもう1つ起床直前に見ていた夢があったことを思い出したので、それについても書き留めておこう。とにかく自分にとっては書くことが第一優先である。書くという生産的創造活動に従事した後に、その他の活動が本格的に始まる。書くことは生きること。書くことは存在を深めることなのだ。


夢の中で私は、見慣れない神社の中にいた。その神社は不思議な作りをしていて、中が迷宮のようになっていた。その神社には階層はないのだが、長く横に長屋的な造りをしていて、色々な部屋がそれぞれ迷路のようになっていた。私はそこで、日本の有名なアニメの主人公と一緒に追っ手から逃げていた。追っ手は部屋の中を歩くことしかできないが、私たちは宙に浮くことができた。それが唯一のアドバンテージであり、追っ手に捕まらないように宙に浮きながら迷路のような各部屋を次から次に進んでいった。途中でアニメの主人公と逸れてしまい、そこから私一人で先を進んで行った。それぞれの部屋には奥の壁の高いところに隣の部屋に抜けられる小窓のようなものがあり、そこを通って次の部屋に進んでいくことを繰り返していた。それぞれの部屋の雰囲気はどれも異なるが、共通していたのは和を感じさせる作りをしていたことである。ある畳の部屋に辿り着いた時、奥の壁に掛かっている掛け軸とその下に置かれていた壺に目を奪われた。ゆっくりとそれらを鑑賞したいという思いに駆られながらも、それをしていると追っ手に捕まってしまうと思われたので、次の部屋に進むことにした。すると、次の部屋にはその部屋を掃除している日本人の中年女性がいて、その女性に姿を見られるとまずいと思った私はすぐに身を隠した。ちょうど縁側のふすまが開いていたので、そこから外に出ていくことにした。そこから私は空を飛んで、神社を上空から眺めた。すると、その神社は長屋のような造りをしているだけではなく、本殿の方は縦にも高い階層を持っていることがわかった。それはまるで寺のようでもあった。そこから私は空を飛んで行った。もう追っ手のことなど考える必要はなく、気ままに空を飛んでいたところ、もっと高度を上げないと建物にぶつかりそうだったので高度を上げた。そこの街並みはバルセロナの街並みに似ていて、とても美しかったが、少しごみごみした感じもしていた。だがそうしたごみごみした感じもまたバルセロナらしくて好感を抱き、とにかく建物にぶつからないように高度を上げて空を飛ぶことにした。しかし、高度を上げようと念じると、どういうわけか水平方向に速度が増してしまい、高度を上げるのに手間取った。最終的には無事に高度を上げることができ、昼と夕方のちょうど中間にある太陽の光を全身に浴びて、そこからまた空を飛んで行った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/12/5(月)11:26


9544. 毎日の小さな積み重ねの大切さ


時刻は午後8時半を迎えた。先ほど、今日の箏の稽古を終えた。今日はジムに行っていたこともあり、夜の稽古となった。今日もまたテクニック集の第1巻を用いて、平調子の音を楽しみながら曲を演奏していった。ジークンドーの稽古でもそうだが、毎日の小さな積み重ねが本当に重要であることを身に染みて実感する。とりわけジークンドーや箏は身体を伴うので、小さな積み重ねによって身体の使い方が目に見える形で変わってくる様子を見ると、尚更そうした日々の小さな積み重ねの大切さを思う。これは知的次元の実践においても当てはまることである。ただし、知的実践の場合には身体に目に見えてその変化が現れることはあまりないので、小さな積み重ねを見落としがちであるが、工夫次第でその変化は可視化することができる。逆に言えば、そうした可視化の工夫をすることによって学習上の楽しみや喜びを増幅させていくことが実践上の鍵だと言えるように思う。明日は箏のオンラインレッスンがあり、ここ数日間で疑問に思っていた点を先生に尋ねてみようと思う。


今日を振り返ってみると、批判的実在論の入門講座の後に開講予定の思弁的実在論の入門講座に関するコンテンツを作成していて、ちょうど第1章に関する全ての音声ファイルの作成を終えた。取り扱う課題図書は思弁的実在論の入門と謳っているが、各セクションの問いが大学院レベルと言ってもいいほどになかなか手強く、逆に言えば、それらの問いと真剣に向き合えば、随分と力が付くのではないかと思う。自分でも改めて考えてみると難しい問いがいくつもあり、そうした問いについては自分も冷静になって後ほど考えてみたいと思う。明日からは第2章についての音声ファイルを作成していこうと思う。


さて、今日のジムでのトレーニングは、トレーナーのエリーザに付いてもらわない形で自主的に行った。上半身に関してはこれまでと同じ重たさで全ての器具をそれぞれ3セットまず行っていった。下半身に関しては少し重たさを変えてみて負荷を与えてみた。全ての器具を一巡する頃には1時間ぐらい経っていて、そこから最後の追い込みとして、大胸筋を含めて、上半身を鍛える器具をいくつか再び使ってトレーニングを終えた。ここ最近は月曜日と木曜日は必ずジムに行ってジークンドーの稽古と筋力トレーニングを行い、サウナに入っているのだが、他の人たちもジムに来る曜日が習慣になっているようで、月曜日と木曜日に顔を合わせる人は大抵同じである。時間に関してもみんな習慣にしているようで、同じ時間帯に顔を合わせる人も決まっている。人はみんな何かしらの習慣に従って生きている生き物であることがそこからも窺える。フローニンゲン:2022/12/5(月)20:47

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page