No.4170 光の毛玉_A Ball of Wool of Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1983, Morning Aspiration
Morning aspiration stimulates the soul.
The aspiration ignites my existence fully.
Groningen; 08:05, 11/16/2022
No.1984, Morning Honey
My soul enjoys eating morning honey.
It is the healthiest nutrition for my soul.
Groningen; 08:22, 11/16/2022
No.1985, A Mild Atmosphere
The self is being embraced by a mild atmosphere in the afternoon.
It relaxes completely in the oceanic moment.
Groningen; 12:53, 11/16/2022
No.1986, Spiritual Experiences
Any spiritual experiences are not only noetic but also somatic.
Our body is the springboard for all spiritual experiences.
Groningen; 14:31, 11/16/2022
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本日の2曲
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タイトル一覧
9435. 移民局からの連絡を受けて/今週末のTOEFL試験について
9436. 電気自動車の普及に関して
9437. 今朝方の夢
9438. カルチュラルスタディーズの書籍を読んで
9439. 鍛錬の調和/パーソナルトレーナーの検討
9440. 反復と差異による充実感/記憶のフラッシュバックとデジャブ
9441. 地道さ/社会構造と因果力
9442. リアルの捉え方/精神病患者と小児の収容された島としての日本
9435. 移民局からの連絡を受けて/今週末のTOEFL試験について
時刻は午前7時を迎えた。日の出までまだまだ時間がある。真っ暗な世界の中に静かな雨音が聞こえてくる。どうやら今日は昼前まで雨のようだ。天気予報を見ると、昨日の予報と少し変化があって、明後日の最低気温はマイナス1度となり、明々後日はマイナス2度になるという予報が出ている。いよいよ冬の本格的な到来だ。
昨日、郵便受けを確認したところ、移民局から通知が届けられた。無事に永住権の審査を開始したとのことだったが、永住権の発行に向けてパスポートのコピーを取ってもらう必要があり、それに加えて、新しく指紋を採取することになった。その都合上、来週の水曜日の午後にズヴォレの移民局に行くことにした。既にその予約を完了させた。移民局に行くこともまた良い息抜きになるだろう。
こうした用事に加えて、今週の土曜日にはTOEFLの試験がある。神学大学院の出願に向けて、7ヶ月前に一度TOEFLを受け、その時に必要なスコアを既に取得したのだが、そこから英会話アプリのELSAを毎日随分と使い込んでいて、その成果を確かめるために再度TOEFLを受験することにした。前回は結局スピーキングセクションで過去最高点を出すことができず、それ以降、スピーキングに特化して自分の発音を今一度見つめ直していたので、その成果が出るかどうかを確かめに行く。別にその成果がスコアとして現れなくても、自分の実感として、随分と自分の発音の盲点を見つけることができたし、発音の矯正を実現させることができたと思っている。今回TOEFLを受験しておけば、仮に神学大学院に行ってさらにもう1つ修士号を取得することになった場合の出願に今回のスコアを活用することができる。TOEFLは2年間でスコアの期限が切れてしまうので、このようにしてこまめに試験を受けなければならないのが厄介だが、逆に言えば、定期的にTOEFLを通じて自分の英語力を確認することができるという肯定的な側面もある。今回はほぼ何も対策をしていない状態であえて受験しようと思っているが、それでも明日は感覚慣らしのために、一通り各セクションの問題に触れておこうと思う。前回はリーディングとリスニングで慎重に問題を解き過ぎていたために、時間一杯での回答となったことを鑑みて、今回は大胆にさっさと問題を解いていこうと思う。フローニンゲン:2022/11/16(水)07:17
9436. 電気自動車の普及に関して
色々なところで日本の劣等性が顕在化しているのがわかる。電気自動車の事例を本日調べてみたのだが、そこにも日本の退廃ぶりが見て取れる。ノルウェーは2025年までにガソリン車の販売を段階的に廃止していく方針を打ち出している。アメリカにおいては、ニューヨーク州やカリフォルニア州で期間はノルウェーよりも長いが、2035年を目処に同様のことを実現させようとしている。地球環境を考えてみた場合、この潮流は望ましいことであり、この流れに完全に出遅れているのが日本である。技術的にそれが不可能ということではなく、日本人のメンタリティに大きな問題があることが調査を通じてわかって来た。電気自動車の普及一つ取ってみても、そこにフラクタルに日本人の悪しきメンタリティが垣間見れる。他の社会·経済·政治事象における変革を実現しようと思うと、最終的に日本人のメンタリティの問題が露わになる。この問題についても、先日のゼミナールで取り上げたティッピングポイントの考え方が通用するのだろうか。おそらく通用するのだろうが、それにしても日本の変革はいつも手遅れになってからでしか行われないことに憤りを感じる。本来は、日産が電気自動車の普及に向けて尽力していたはずなのだが、結局それもいっときの現象で尻窄みしてしまった。起きつつある変革を早期に潰してしまうこともまた日本の悪しき特性の一つだろうか。電気自動車の問題はテクノロジー哲学の観点からも考察を深めることができる。やはり日本人固有のメンタリティを緻密に分析することは今後も行っていきたいことであるし、メンタリティそのものを変えることは難しかったとしても、何らかの実践的処方箋や行動の経路を示すことによって変革を促していきたいところである。フローニンゲン:2022/11/16(水)08:41
9437. 今朝方の夢
時刻は午前9時にゆっくり近づいている。今は雨が止んでいて、雨粒が木々の枝から滴り落ちしている姿が見える。そう言えば、今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、書き留めておきたい。
夢の中で私は、今欧州にいるのか日本にいるのかの区別がつかなくなって困っていた。目を開けるとそこは機内で、今その飛行機が日本に向かっているのか、欧州に向かっているのかわからなかった。さてどちらだろうと再び目を瞑ったところ、次に目を開けた時には欧州に戻って来ていた。そう思ったらどうやらそこは日本のようで、近くにいた日本人の女性にここは日本かどうかを確認した。その女性は私を見て少し笑っていたが、その女性曰く、そこは日本のようだったので、自分に言い聞かせるようにして自分は日本にいるのだと思い込ませた。すると、数日前まで日本にいて、昨日は欧州にいて、今日は日本にいるというのはどうも変ではないかと思った。するとそこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、夜の飲み会に参加していた。そこは女性に接客してもらう店であり、店内は音楽が流れることもなく、静かで好印象を持った。アルコールは普段から控えているので、その店でもアルコールを飲むことなく、烏龍茶をもらった。隣に座った店の女性とあるテーマに関して真面目な話をし始めた。しばらく話を続けていると、再び夢の場面が変わった。
最後の夢の場面では、見慣れない街を歩いている自分がいた。その街は迷路のような作りになっていたが、さほど難しい迷路ではなく、目印を見つけて歩けば、目的地に比較的簡単に辿り着けるようになっていた。街の雰囲気は薄黄色く、淡い感じが漂っていた。建物の作りはオランダ的であり、どこか親しみがある感じがしていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/11/16(水)08:52
9438. カルチュラルスタディーズの書籍を読んで
文化を語ることによって社会を分析するカルチュラルスタディーズに関するルートリッジ出版から出版されている論文集を読みながら、日本の社会で起こっている現象を観察しながらも、その現象の奥にあるものを見通すための理論を学ぶ上で、継続的にカルチュラルスタディーズの書籍を読んでいこうと思う。社会·文化理論に関する“Routledge Handbook of Social and Cultural Theory”という書籍は、どこかのタイミングでゼミナールで扱って、じっくり学びたいものである。社会·文化現象をより深く見通すための見立ての道具としての理論的枠組みを数多く獲得できる。こうした書籍を丹念に読み進めながら、個別具体的な社会·文化現象をつぶさに観察していくことを忘れないようにする。自分の性向として、抽象的な理論的枠組みを好む傾向にあるので、その傾向を踏まえて、この社会で起こっている個別具体的な社会·文化現象を観察していくことを意識的に行う。そうすることによって、理論と具体的な事象との行き来が実現され、事象に対する有効な処方箋の提示に繋がっていくであろうから。
上述の書籍を読み終えた後、ここのところ一気呵成に探究を進めている思弁論的実在論に関して、“The Speculative Turn”という論文集を読み進めている。この論文集には、思弁論的実在論に影響を与えた第一線級の学者の論文が掲載されていて、それらを読み進めながら、先ほど言及したように、自分はつくづくこうした抽象的な世界で構築される思想に惹きつけられる傾向があるのだと思った。この冬に探究したいことはたくさんあるが、積読書籍の初読を全て終えたら、思弁論的実在論に関する一連の書籍を精読していこうと思う。批判的実在論に関しては昨年そのような試みをしたことによって、随分と理解が深まった。今年は思弁論的実在論に関する書籍の精読をし、それが落ち着いた頃に批判的実在論についても改めて書籍を読み返していきたいと思う。こうした読書に加えて、社会·文化理論についても自分の引き出しを広げていく読書を実行し、日本に山積みの個別具体的な問題に対して自分にできる関与の道を作っていこうと思う。フローニンゲン:2022/11/16(水)09:52
9439. 鍛錬の調和/パーソナルトレーナーの検討
午前と午後の2回に分けてジークンドーと箏の稽古をすることが習慣となり、それらの実践の間に読書をするという日々が続いている。これはとても良い流れであり、こうした自宅での実践探究活動と合わせて、週に2回、月曜日と木曜日はジムに行って、筋力トレーニングに励んでからサウナに入って癒しを得ている。ジムに行くことの良さは、そうでもないとスーパーに買い物に行くぐらいしか外に出ないことであり、ジムの良さはそこに集まる人たちのエネルギーが良いものであるということにもある。そこで何気ないコミュニケーションが生まれることによって思わぬ発見があるし、オンラインゼミナールや仕事上でのオンラインミーティングを除いたら、人との会話もそれくらいしか普段ない。リアルなコミュケーションの唯一の場がジムにおける見知らぬ人との挨拶であったり、何気ない会話だったりするのだ。明日もまたジムに行こうと思うが、相手の雰囲気を見て、相手のトレーニングの邪魔にならない限り、見知らぬ人と毎回少し会話をしてみるということをしてみたい。性別や年齢を問わず、ちょっとした会話を楽しむようにしてみよう。そうした場としてジムがある。
ふと、ジムでのトレーニングにおいてもパーソナルトレーナーをつけてみようかと思った。というのも、ジークンドーにせよ、箏にせよ、先生に師事することによって、その学習実践効果が自分一人で実践するときのそれを遥かに上回っているからである。もう1つは、先日ジムの各種器具や機械を使ってみたときに、果たして正しくそれが使えているのか不明であったし、自分にあった負荷量がどれくらいないのかも直感的に判断するしかなく、プロのトレーナーの目を通して最適な負荷量を指摘してもらったり、器具や機械の正しい使い方を教えてもらう必要があるように思えたのだ。明日にジムに行った際に、パーソナルトレーニングについて少し尋ねてみようと思う。週に1度パーソナルトレーナーに色々と教えてもらいながらトレーニングをし、もう1日はその教えを復習しながら自分一人でトレーニングするということを試してみたい。自力の道と他力の道の双方を活用することが自分の人生の中にようやく色濃く現れ始めたことを喜ぼう。フローニンゲン:2022/11/16(水)11:24
9440. 反復と差異による充実感/記憶のフラッシュバックとデジャブ
気がつけば今日もこんな時間になっていた。この日記を執筆し終えたら、夕食の準備に取り掛かろう。今日もよく学術書を読んでいた。合計で7冊ぐらいの学術書の初読を終えたのではないかと思う。1ヶ月間の日本での生活を経て、英語に飢えていた自分がいたこともあって、洋書の学術書の吸収が目覚ましい。乾いた大地に水がどんどんと吸い込まれていくかのような吸収力を感じる。
日々は学術研究と種々の実践と創作活動がもたらす反復と差異から構成されている。反復と差異。それがこの人生に変化と彩りをもたらしてくれている。
午前中に換気をしたところ、そこでふと、スウェーデンのマルメに訪れた記憶が突然蘇って来た。ふと目を閉じるとマルメの景色が浮かび上がって来て、最初はその景色をヨーテボリのものと混同しそうになった。しかし記憶を呼び覚ましてみると、すぐにそれがマルメの景色であると判明したのである。最近は、ヴィジュアル記憶がより鮮明さを増している。それが夢にも影響を与えているし、日常生活においてもビジュアル記憶が鮮明になることで記憶力が増しているように感じられる。これも意識開発の一つの現れだろうか。
午後に、通っているジムに連絡をして、パーソナルトレーナーをつけてもらうための方法について教えてもらった。時折受け付けで見かけるエリーザはとても話しやすくて明るく、彼女はパーソナルトレーナーもしているとのことだったので、できれば彼女にパーソナルトレーナーになってもらおうと思っている。この間受け付けで話をした時に、彼女はジムでの仕事だけではなく、ホテルでも働いているとのことであり、ジムでの仕事をホテルでの仕事を掛け持ちしているようだった。そのため、ジムにいつ勤務しているのかを確認して、彼女の出勤日に合わせてジムに通う必要があるかもしれない。今のところは月曜日と木曜日にジムに行くことにしていて、そのスケジュールが一番自分の都合に合っている。ジムに連絡した時にふと、以前どこかでその光景を見たことがあったような気がしてデジャブの感覚に襲われた。その時には、誰かが家の扉をノックして、トレーナーの選別に関して自分に助言していたようなイメージがあった。こうしたデジャブ感に襲われるのもここ最近は時々ある。これも自分の内的感覚の何かしらの変化が理由となっているのだろうか。いずれにせよ、日々こうして興味深い現象が自分に起こることは見ていて面白い。そこに人間存在の奥深さを見て取ることができる。フローニンゲン:2022/11/16(水)17:28
9441. 地道さ/社会構造と因果力
夕食後、メールを確認した後に、再び読書を始めた。これから入浴までの時間を使って読書をし、その過程の中で湧き上がって来た考えや閃いたことをまた日記に書き留めておこうと思う。先ほどから、“The Nature of Capital: Marx after Foucault”という書籍を読み始めた。これは資本の内在性質について考察している書籍なのだが、“Foucault after Marx”ではなく、人物を反転させて“Marx after Foucault”としている点が興味深い。この書籍を読んでいると、マルクスやフーコーだけではなく、ロイ·バスカーについても言及がある。そこでふと、ここ最近読んでいる本の中では、これまで自分が触れて来た様々な哲学者の名前が頻繁に登場し、彼らの思想の影響力を感じることが多くなっていることに気づいた。思弁論的実在論に関する書籍を読んでいる時や批判的実在論に関する書籍を読んでいる時には、当然ながらそれらの理論に関心があるからこそ、それらの理論に多大な影響を与えている思想家の名前や考え方にたびたび出くわすわけだが、そうした遭遇を重ねるごとに、徐々にではあるが彼らの思想が自分の内側に体現されていくのを感じる。最も身になるのは良書の精読だと思うが、多読にも意味があるとするならば、こうした多様なコンテクストにおける思想家との出会いを通じた理解の漸次的深まりにあると言えるかもしれない。引き続き前述の書籍を読みながら、様々な思想家の考え方に異なるコンテクストで触れていこう。こうした地道な読書を地味に続けていく。地道なことを苦もなく楽しくできるところに自分の特性がある。
少し読書を進めたところで、バスカーの批判的実在論において、社会構造というのは個人のアクションを決定するものではなく、アクションを媒介するものであって、個人のアクションを促進したり、制約する働きをするという記述に注目した。社会構造とはすなわち、直接的に人間の行動を特定のものに当てはめるようなものではなく、ある特定の行動に誘ったり、そこに向けて抑圧的に働くような媒介物なのである。フーコーにおいても力、とりわけ権力というのは重要な概念だが、批判的実在論においても、力というのは因果力として重要な意味を持つ。そこでは細かく3つの因果力が定義されていて、それらについて今から読解を進めていこうと思う。フローニンゲン:2022/11/16(水)19:59
9442. リアルの捉え方/精神病患者と小児の収容された島としての日本
資本というのは、社会において細胞のような存在として生きている。資本がリアルであるのは、私たちがそれを見ることができるからではない。むしろ、資本が因果力を持つからである。これは批判的実在論を用いた資本のリアル性の考え方である。このように考えてみると、資本のみならず、因果力を持つものをリアルと捉える発想が自然と芽生えて来る。その発想を持ってこの現実世界を眺めてみると、これまで見落としていたリアルなものが見つかるかもしれない。資本の例が示すように、それがリアルかどうかは、目に見えるかどうかに関係なく、そこに因果力があるかどうかが重要なのである。顕微鏡で見えないような微視的な物質の存在がリアルなものとして捉えられるのも同様の論理による。宗教における神というのもそうした存在だろう。この論点については自分の関心事項でもあるので、批判的実在論を宗教の神概念に適応した書籍を改めて読み返しておこう。
夜になるとどうしてこうも厳しい考えが芽生えるのだろう。それは自分の内面の何に由来するものなのか。心理的な影の何を投影したものなのか。こうした影の問題を一旦脇に置いてみて、一個人の中に芽生える一つの考えに部分的な真理を見出してみる。そうした前提条件を置いた上で述べると、今し方芽生えたのは、日本という小さな列島が精神病患者の集まる極東の島であるというイメージだ。それは直観的に知覚されたイメージである。各界ののリーダーの情けない有様と、それに何の疑問も抱かず声を上げない大多数の国民の体たらくぶりを見るにつけ、一国全体として精神病を患っていて、日本という国土がそうした人間を収容するための小さな島に思えて来る。日本という母国を愛する日本人としての自分の中にそうした視覚的イメージが直観的に現れることの意味について考える。そしてそのイメージの部分真理性についても考えなければならない。低い精神性と知性、小さな器の気違いじみた人間が蠢く島国のイメージは、きっと本質的で深層的な何かを言い表している。他者の視線に怯えてコロコロと意見を変えたり、意見を黙殺したり、責任転嫁を図ること等々を踏まえて言えば、精神病患者の収容島であるだけではなく、無数の小児の収容された島だと日本を見た方がいいかもしれない。深層的な内面の発達を取り扱う成人発達理論というものが少しずつ人口に膾炙しつつある我が国において、結局それが日本人の本質的な発達に何ら貢献していないことに憤りを感じる。こうした憤りの感情が生まれる1つの要因として、日本という国を強く愛しているということがあるだろうか。その点は確かである。フローニンゲン:2022/11/16(水)20:34
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