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9424-9434: 日本滞在記 2022年11月15日(火)



No.4162 永遠の方へ_Toward Eternity


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1981, A Series of Flows

A series of flows are coming to me.

It caresses the cheek of my soul.

Groningen; 07:31, 11/15/2022


No.1982, Meditation

Meditation is not for evading reality.

But it encourages us to encounter reality.

Groningen; 07:34, 11/15/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の2曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9424. 今朝方の夢

9425. 批判的実在論と社会変革

9426. 批判的実在論を通じた日々の分析と考察

9427. ピーター·スローターダイクの3部作を読みながら

9428. 箏の稽古(42):1カ月ぶりの箏のオンラインレッスンを終えて

9429. 箏の稽古(43):アレンジの楽しさを知って

9430. 諦念的在り方の貫徹

9431. 批判的実在論と思弁論的実在論の観点/マネーの価値について

9432. 新自由主義的資本主義の性質について

9433.「左翼的心理療法」/明日は我が身として/アルペジオについて

9434. 広告過剰社会としての日本/日記の存在


9424. 今朝方の夢


時刻は午前6時半に近づいている。辺りはまだ真っ暗で、日の出を迎えるのはもうしばらく後になりそうだ。天気予報を確認すると、ここから数日間は雨の降る日が多い。昨日ジムに久しぶりに行って、自重トレーニングではなく、器具を使ったトレーニングに面白さを見出し、筋力が回復する明後日にまたジムに行きたいと思う。その時はもしかしたら雨かもしれない。今週の土曜日からグッと気温が下がり、土曜日に限っては最高気温が3度、最低気温が0度とのことなので相当に冷え込んでいる。ここから季節の変わり目なので体調には気をつけようと思う。


今朝方は2つほど夢を見ていた。夢の中で私は、以前オランダに住んでいた女性友達とある一軒家で話をしていた。その場には、彼女の夫と祖母と小さな男の子がいた。彼女が結婚していることに驚いただけではなく、彼女に子供がいることにも驚いたのだが、ひょっとしたらその子供は彼女の子供ではないのかもしれない。そのようなことを考えながら、それについては話題に触れずに静かにしていた。彼女と夫と祖母は、大事なカギが無いと少し慌てていた。どうやらそのカギは、金庫を開けるために必要なものらしい。その金庫の中には家族の財産が入っていて、その資産額は大きいため、3人は懸命にカギを探していた。カギがなかなか見つからなかったので、3人のムードは少し険悪なものになり、誰がカギを無くしたのかという責任の擦り付けが始まった。私は少し傍観した後に、割って入って仲裁した。するとそれが功を奏して、3人の責任の擦り付けは収まった。そこでふと、彼女の夫の祖母が投資口座を開設したいと突然述べた。その理由を聞こうと思ったが、祖母はどうしても開設したいという目をしていたので、私の方でそれを行うことにした。少し強圧的な夫と優しい祖母、そして笑顔なのだが何も口にしない男の子としばし同じ時間を過ごしていた。


次の夢の場面では、家の中で2人の女性友達とヨガのレッスンを行っていた。その場には先生はおらず、自分がインストラクター代わりにレッスンをしていた。しばらくレッスンをしていると、2人は突然その場からいなくなった。それに加えて、自分も夢を眺める者になった。すると、その家に数人の見知らぬ男女が現れ、何やら楽しげに話をしていた。すると、そのうちの1人が何かを察したらしかった。どうやら家に侵入者が近づいているようだった。その侵入者は拳銃を持っていて、精神的にもおかしくなっていることが彼の推察からわかった。侵入者が家に近づいて来た時、彼らは威嚇として庭で花火を何発も打ち上げた。その花火は見事だったが、侵入者は何も気にせず家に向かっていた。家にいた彼らは屋根に登っていて、侵入者が家に侵入したすきに逃げることを考えているようだった。ところが侵入者は屋根の上に人がいることに気づいてしまい、全員屋根から滑り落ちてしまって、そのうちの3人が侵入者に拳銃で撃たれた。そのうちの2人の女性は腹部を撃たれたらしく、1人の男性は脚を打たれたようだった。幸いにも3人とも即死ではなく、なんとか命を長らえていた。応急処置をきちんとすれば助かる3人を眺めながら夢から覚めていった。フローニンゲン:2022/11/15(火)06:39


9425. 批判的実在論と社会変革


構造的に種々の問題が山積みな日本。構造というのは単純に可視化されるような制度上の問題だけではなく、制度が生み出す目には見えない力が生み出すものも含まれる。また構造には文化的に醸成される目には見えない力の働きも指す。今、改めてロイ·バスカーの批判的実在論を経済学批判に適用した書籍を読み進めているのだが、批判的実在論が目指すのは、構造の変容を通じた人間解放であり、この理論に対する理解をより深めていくことを通じて、日本の構造的な問題に対して批判的実在論を適用する可能性がより見えてくるかもしれないと考えていた。どこかのタイミングで、オンラインゼミナールで批判的実在論を6回ぐらいの回を充てて探究したいものである。ケン·ウィルバー、そしてエドガー·モリンが提唱した2大メタ理論に並ぶもう1つのメタ理論である批判的実在論は、それら2つのメタ理論よりも社会科学との相性が良く、社会変革に向けた実践をより展開しやすい性質を持っているように思う。


ユーロなどの外貨や暗号資産以外にも日本円での一定量の資産があることを考えると、これ以上円が弱くなるのは個人的に嫌なことである。資産運用というのもまた世俗社会で生きるのであれば必要なことであり、それに際して保有通貨が極端に弱くなることはあまり好ましくない。円安は一つ日本の国力の低下を見事に示してくれる好例のように思え、ここで仮に危機意識が芽生えて何か変革に着手し出す動きが見られればと思うのだが、どうなのだろうか。先日のゼミナールのクラスの中で話題に挙がったように、日本人は変化を嫌い、周りが変化に向けて動き出したら一斉に動き出すというタイプ論的な性格を持つ。何かもう後戻りできない危機的な状況になって、それがティッピングポイントを超えてくれれば何か変化が起こるかもしれない。逆に言えば、誰しもが実感として危機を感じられるような相当に危機的な状況に陥らない限り何も変わらないとも言える。ここから趨勢を見守りながら、同時に自分が提示できる小さなアクションについては引き続き考えていこうと思う。フローニンゲン:2022/11/15(火)08:22


9426. 批判的実在論を通じた日々の分析と考察


大規模な社会変革に乗り出す前に、ミクロな変革を促す実験を絶えず行っていこうと思う。その1つの実験の場が今行っているオンラインゼミナールになるだろうか。そこには多様な専門性を持つ様々な方々がいて、クラスのダイナミズムは非常に興味深い。このダイナミズムの生成メカニズムと、存在論的にそのダイナミズムの所在と性質をより明らかにしていくところから始めたい。もっと言えば、ダイナミズムを生み出す構造の所在と性質、そしてその発生メカニズムを捉えていく必要があると言えるだろうか。ダイナミズムを存在論的に表層現象だと捉えるなら、まずはその所在と性質を明らかにして、そのダイナミズムを生み出している構造に目を向けていく。その構造は、存在論的にダイナミズムそのものよりも1つ深層的な場所に位置している。そうした構造の所在と性質、そして構造そのものを生み出している働きに目を向けていく。バスカーの批判的実在論においては、構造が存在論的階層構造の最上位に位置するため、構造を生み出しているものを考えることは難しいかもしれないが、それを「メタ構造」と捉えれば、それに眼差しを向けることは不可能ではないだろう。オンラインゼミナールがまずは大事な実験場になるかと思うが、人が複数集まる場所で絶えずダイナミズムとそれを生成する構造に目を向けてみようと思う。例えば、ジムやスーパーなど、人が集まる場所では人間関係を通じた何かしらの働きと構造があるのだから、それらを例にして色々と考察をしてみることは意味があるだろう。こうした地味な考察と思考実験の繰り返しが、大きな社会変革に向けた分析と実践をする上できっと役に立つはずだ。フローニンゲン:2022/11/15(火)08:29


9427. ピーター·スローターダイクの3部作を読みながら


今、ドイツの思想家のピーター·スローターダイクの3部作の第3巻を読み進めている。日本に一時帰国する前に第1巻を読み終えていて、今日手に取ったのが第2巻ではなくて第3巻だったので、そちらから読み進めることにした。第2巻も積読の山の隣にあったのだが、最初に手に取った方から読み進めることにした。スラヴォイ·ジジェクもスローターダイクの泡の概念を採用して現代社会の種々の現象を分析している。経済·金融におけるバブル現象だけではなく、その他の社会現象もまた形成され、そして弾ける泡のような性質を持っている。人間の細胞の形状からも人間そのものがまた泡のような存在である。その命の泡沫的な儚さを踏まえると、人間存在も社会現象も確かに泡のように捉えることできる。スローターダイクのコスモロジーでは、宇宙そのものが泡なのだ。意味論的な意味でのコスモロジーだけではなく、宇宙物理学においても宇宙のバブル構造を示す考え方がある。そのようなことを考えていると、時間や空間というのもまた泡のような性質を持っているのかもしれないという考えが芽生える。今この瞬間に感じている時間も形成されては弾けて消える泡のような性質がありそうだ。それでは空間における泡の性質はどのように考えることができるだろうか。時間と空間の密接な関係から、時間が泡のような性質を持っているのであれば、対応する空間も泡のような性質を持っていると言えるのだろうか。その繋がりはまだ明確ではない。第2巻でスローターダイクはグローバリゼーションについて取り上げているので、そのあたりに時間の観点のみならず空間の観点も出てくるだろう。スローターダイクが現代社会の時間と空間をどのように分析しているのか楽しみだ。今日はまず大著である第3巻と第2巻を優先的に読み進めていこう。フローニンゲン:2022/11/15(火)09:06


9428. 箏の稽古(42):1カ月ぶりの箏のオンラインレッスンを終えて


時刻は午前11時を迎えた。先ほど、箏のオンラインレッスンを終えた。冒頭に、先生と箏に関する雑談を10分ほど行っていた。そこでは、箏を日本に持って行き、外国に持って帰る大変さについて話題が挙がった。それは単純に重量や大きさの問題だけではなく、先生から言われてハッとしたのは、箏爪の象牙が持ち込み禁止のものに該当していたりするので、わざわざ申請しなければ行けない手間などがあるという話だった。今ではあまり象牙の箏爪はないそうだが、その点は自分にとって盲点であった。昔は、箏爪の指に巻き付ける部分が犬の皮だったりしたらしく、その他にも和楽器は結構動物の皮などを使っていて、動物愛護団体からの苦情などの問題もあるという話をしていた。今使っている文化箏に関して言えば、動物性のものはほとんどないように思えるので、日本に持ち帰ったり、外国に持って帰ることも申請なしで可能だと思われるが、改めて調べてみようと思う。


ジークンドーにおいてはロビン·ファーダー先生に師事していることをこれまで明記していきたが、そう言えば箏に関しては先生について明記していなかったように思う。今自分は、生田流師範の藤田良子先生に師事して箏の稽古を行っている。先生はいつも優しく、演奏上のポイントを的確に分かりやすく教えてくださるのでとても助かっている。今日のレッスンも学びがたくさんあり、レッスンが終わって先ほどまでの時間はそれを必死に書き出していた。今日のレッスンでは、テクニック集については触れることなく、『はじめての文化箏』の曲を取り上げていった。先生とのレッスンは基本的にこちら側が積極的に質問をしていく形で進行していく。端的には、自分なりに曲を演奏してみて、演奏が難しい箇所や弾き方が分かりにくいところを中心にして先生にそのポイントを教えていただく形で進んでいく。レッスンはZoomを用いて行っていて、Zoomが箏の音をうまく聞き取ってくれないことがあることや、音の伝達の時差があるので、レッスン中に一緒になって1曲を通して演奏することはしないようにしている。自分にとってはその進め方が一番学びが多い。自分1人で演奏する際に1曲を通して演奏すればいいのであり、演奏上において難所は局所的なものであるがゆえに、レッスンにおいてはそうした難所をどう演奏していけばいいのかに絞って取り上げさせてもらうことが一番自分の学びになっている。今日は久しぶりのレッスンだったということもあり、この1ヶ月間で積もっていた疑問点を全て先生に解消していただく機会を得ることができて本当に良かった。フローニンゲン:2022/11/15(火)11:12


9429. 箏の稽古(43):アレンジの楽しさを知って


本日2度目の夕方の箏の稽古に向けて、先ほどのオンラインレッスンの学びをより具体的に振り返っておきたいと思う。まずは「故郷」の2箏パートに関して、藤田先生から教えていただいたことの中で重要だったのは、音が連続的に上がっていく箇所で音が転ばないようにするための工夫だった。爪を寝かせてしまい、流すように演奏してしまうと音が転びやすく、音の粒を揃えながら転ばずして演奏するためには、爪を立てて1つ1つの音をしっかり出していくことが重要だと習った。こうした事柄も、ジークンドーと同じく意識の問題である。とにかく惰性で演奏していてはならないのだ。色々と意識的に稽古を積み重ねていくことによって、それがもはや意識せずともできるようになっていくことが肝要なのだ。つまり、何も意識しないでただやっている状態を継続させるのではなく、意識的に取り組んできたことが無意識にできるようになっていくことが重要なのであって、それこそまさにウィルバーの「前後の混同」に陥らないようにしていくことの大切さと同じ意味である。次に取り上げたベートーヴェンの「喜びの歌」に関して言えば、1箏パートと2箏パートを組み合わせてみる遊びをぜひ取り入れてみようと思う。特に2箏パートをもう少し引き込んでいったら、その遊びをどんどんと取り入れてみたい。この遊びに従事すればするだけ、演奏上における即興性と柔軟性が養われていくだろう。これは自分が音声ファイルを通じて学術的な事柄を話すことによって養われていった能力と近しいものがある。先生もおっしゃっていたように、プロの演奏家でも演奏会の場で完璧な演奏ができることはほとんどないらしく、ミスをミスのように見せない工夫を実現するためにも、日々こうした遊びを取り入れることによって即興性と柔軟性を鍛えていくことは重要だろう。「喜びの歌」に関してその他に新たな発見だったのは、「かけ押さえ」の箇所を演奏するための準備である。これまではその箇所がやって来てからかけ押さえをしようとしていたのだが、それだけ間が空いてしまうので、その問題をどうすればいいのかを先生に尋ねた。すると先生が、この曲においてはかけ押さえが一箇所しかないので、曲の最初から左手をかけ押さえのために準備しておくか、かけ押さえがやって来る行になったら速やかにそこに左手を添えておくと良いと教えてくださった。これはなるほどと思った。確かに最初から、あるいは該当箇所がやってくるよりも早い段階で左手を準備しておくと、速やかにかけ押さえができると思ったのである。これは左手を用いたピチカートの箇所においても同様である。すなわち、左手の準備を意識しておくことが、速やかな演奏を実現する上で重要なのだ。そこからは、「ジュピター」を取り上げた。この曲は1箏のメロディーが大変素晴らしいので、「喜びの歌」と同様に、2箏パートと1箏パートを入れ替えて弾くことを試してみたい。特に2箏パートにはアルペジオが満載なので、1箏パートのメロディーの中にアルペジオを入れていくとソロ演奏としての見栄え(聞き栄え)もよくなるはずである。今日のレッスンでは、色々と曲を自分なりアレンジしてみることの楽しさを学んだように思う。自分なりに編曲する楽しさは作曲実践を通じて知っていたが、演奏においてもそれは楽しいものなのだ。フローニンゲン:2022/11/15(火)11:31


9430. 諦念的在り方の貫徹


先日に書き留めていた日本人の集合的幻覚症状について、先ほどまた少し考えていた。多くの日本人は自国の弱体化と山積みの問題を直視しようとしない形での幻覚を患っている点に関して、ひとたびその幻覚から覚めて目覚めることに伴う絶望感の引き受けの問題について考えていた。端的には、集合的幻覚から目覚めて一度絶望感を感じると、おそらく生涯を閉じるまでその絶望感を感じ続けなければならないのだと思う。それぐらいにして日本は変わらない。部分的な問題がティッピングポイントを経て改革されていくことはあるだろうが、日本と日本人を根底から巣食う根深い問題については解決を諦めたほうがいいのではないかと思う。解決を諦めるというのは虚無的なものでは決してなく、言い換えるのであれば、楽観的なマインドを捨て、絶望を引き受け続けながら変革に乗り出していく諦念的在り方を貫徹するということである。その姿勢を自分は保持し続けていきたい。日本と日本人を取り巻く問題はあまりにも根が深すぎるものであり、この国に光が指し、人々が幸福な状態を全くもって想像できないのだが、それでもこの解決不可能な問題と絶えず寄り添っていくことが自分に求められていることなのではないかと思う。そのようなことを先ほど考えていた。


先ほど、スローターダイクの3部作の第3巻を読み終えた。ここからは第2巻に戻る形で3部作の中の最も大著な1000ページほどの書籍を読み進めていく。切りの良いところで仮眠を取り、仮眠から目覚めたら、プロテインを購入しに近所のショッピングモールに出かけてこようと思う。そこに向かう過程でも身体を鍛える意味で軽くジョギングをする。帰って来てからはジークンドーの稽古をしてまた読書をして、そこから夕方の箏の稽古をしようと思う。フローニンゲン:2022/11/15(火)12:37


9431. 批判的実在論と思弁論的実在論の観点/マネーの価値について


テクノロジーとマネーが持つ存在論的性質を精緻に分析していくにあたっては批判的実在論は効力を発揮するだろうし、テクノロジーとマネーが持つある種超越的な性質を精緻に分析していくにあたっては思弁論的実在論が効力を発揮するだろうということについて考えていた。両者の理論体系をそうした目的のもとに理解を深めていきたいと思う。


先ほど仮眠から目覚め、午後の読書を開始した。午後一番に読み始めたのは、マネーの内在性質に関する論文集である。その論文集を読みながら、改めてマネーが持つ多様な価値について考えていた。古典的には交換価値、使用価値、価値保存価値などを挙げることができるが、それ以外にもマネーを通じて序列化を図る序列価値やマネーによる顕示的な価値など実に多様な価値がマネーに内包されている。それらが互いに絡みあったり、コンテクストに応じて表に現れる価値が異なるところがマネーのカメレオン的特徴なのだと思う。ここからはマネーの多様な価値についてより整理をしていき、それぞれの性質を明確なものにしていき、日頃自分がマネーに触れる際にはどのような価値が表に出て来ているのか、それらの重み付けも含めて観察してみようと思う。また、マネーに関するディスコースを日々目にするたびに、そこで取り上げられているマネーの背後にある価値についても意識してみようと思う。そうすれば、マネーの価値に関してより理解が深まるはずであり、倒錯的な価値に自分が巻き込まれることから身を防ぐこともできるだろう。


経済学の泰斗ケインズは心理学について語り、精神分析学の泰斗フロイトは経済学について語っていた点を見落としてはならない。彼らがそれぞれ何を語っていたのかを改めて調査してみようと思う。とりわけマネーにまつわる精神分析学的な側面は自分の関心を強く引いている。引き続き関連書籍を読み進めていこう。このようにして複数の関心分野を横断的に探究していると、それぞれの領域に関する知識が徐々に醸成されてくる。それに加えて、領域相互間の関係性が見えて来て、思わぬ組み合わせ的な発想が芽生えることがある。とにかく焦らず、日々自分の関心分野の書籍を地味に読み進めていく楽しみがここにある。フローニンゲン:2022/11/15(火)14:17


9432. 新自由主義的資本主義の性質について


マーク·フィッシャーが残した分厚い書籍“K-Punk“を読み進めながら、改めて新自由主義的資本主義の性質について考えていた。それはよく言われるように、自己責任を原理として小さな政府を推奨し、福祉や公共サービスを縮小させ、グローバル化を前提にした経済政策の実施や公営事業の民営化を行うことを指すだけではなく、それらはある意味現象として現れているものであり、その背後にある性質について考えていた。計測可能性を重視して、とにかく効率性と生産性を高めようとする発想は背後にある性質だろうし、マーク·フィッシャーが述べるように、永続的な不安を人々に与える形で遂行されるシステムであるというのも背後にある性質だろう。日本は真の意味で新自由主義的資本主義を採用していないと述べる論客もいることから、彼らの言い分にもう少し耳を傾けてみて、同時に彼らが見落としているであろう新自由主義的資本主義の本質とそれが日本にどれだけ当てはまっているのかの度合いの分析を行っていこうと思う。


夕方にふと、先日宿泊していたフランクフルトのホテルで二重払いがあるような気がしたので調べてみた。チェックインの際にホテルの受付で、宿泊料を既に支払っている旨を伝えられたのだが、チェックアウトの時にまだ支払いが完了していないと言われ、そこで支払いをしたことが気になっていた。改めて調べてみたところ8月末の予約の段階で既に支払っていたので、すぐさまホテルに電話して返金処理をお願いした。クレジットカードの支払い履歴には、請求元の表示が異なっていたので、ホテル側も何か勘違いしたのかもしれない。こうしたことが起こるというのは今後の教訓になるだろう。今後は、インターネット予約の際に既に支払い済みなのかどうかをきちんとメモしておこうと思う。特にホテルで改めて支払いを要求された場合には、そのメモを確認したり、クレジットカードの履歴を調べることをきちんと行いたい。こうした小さな学びが本日の午後にあった。フローニンゲン:2022/11/15(火)16:57


9433.「左翼的心理療法」/明日は我が身として/アルペジオについて


今日もまた夜の時間がやって来た。暗闇が社会の暗部を照らす思考を可能にしてくれている。現代の大抵の社会において、うつ病を含めた精神病は重要な社会課題として存在している。抗うつ剤のような薬だけが対処療法なのではなく、結局のところサイコセラピーですら対処療法なのだということが最近よく思うことである。確かにサイコセラピーにおいては、単純に薬を処方するだけの治癒よりも根本的な治癒がなされる可能性がある。だが、その対象はあくまでもその個人である。結局のところ、精神病を患う個人を生み出す社会の病理が治癒され、そうした個人を生み出す社会の体質が変わらない限りは何をやっても対処療法なのである。そのようなことを考えていると、マーク·フィッシャーもほぼ同様の指摘をしていた。彼は、抗うつ剤やサイコセラピーを「左翼的心理療法」と名付けていた。結局それはマスを対象にした対処療法に過ぎないのである。そうしたことを考えてみると、ますます社会の構造的問題に目を向けることの重要性が浮かび上がる。そうした問題意識から今の自分は様々な研究と実践に乗り出しているのだ。


視点取得能力を発揮し、明日は我が身と考えながら、社会で目に映る人たちの生き様を見ていくことの大切さ。そうした発想がないから分断が生まれ、各種の社会問題が温存されたままなのではないだろうか。人間発達において視点取得能力はカギを握るのだが、それは社会の発達においてもカギとなるのだ。目の前の人が困っている状況に陥っている時、その人の姿が明日の我が身だとしたら何を思い、何を考え、どのような行動に出るだろうか。そうした視点取得ができて人間的な共感能力がわずかばかりでもあれば、きっとこれまでとは違うアクションに乗り出していくのではないだろうか。少なくとも背筋が正され、社会での振る舞いや在り方が変わるのではないかと思う。


そこから思考が箏の演奏に向かった。そう言えば、今日のレッスンの中で先生から、アルペジオの際には、龍角ではなくて、気持ち箏柱に近い柔らかい部分を演奏すると良いということを教えていただいた。明日からはその点を意識してアルペジオの練習をしよう。夕方に本日2度目の箏の稽古をしている際に、3和音のアルペジオを右手だけで演奏することを試してみたが、人差し指が中指よりも先に動こうとするのでなかなか手こずった。この奏法のコツを来週のレッスンの際に先生に尋ねてみよう。フローニンゲン:2022/11/15(火)19:44


9434. 広告過剰社会としての日本/日記の存在


日本からヨーロッパに戻って来て以降、いやより厳密にはオランダに戻って来て以降、闇夜がやたらと自分に気づきをもたらす。闇夜に光が差すというよりも、闇夜が光をもたらしているかのようにすら思える。そんな闇夜の中で、つい今し方、些細なことなのだが重要なことに気づいた。日本で電車に乗っている時に目につく過剰な広告。あれは一体何なのだろうか。日本社会は完全に広告社会に成り果ててしまっているのだろうか。そうしたところに品のなさと落ち着きのなさ、知性のなさと情報過多病理の有り様を見る。フランクフルトの列車でも、オランダの列車でも、日本の列車ほどに過剰な広告は目にしなかった。過剰広告を良しとし、それに何にも違和感を感じない日本社会の慣習をより社会学的·精神分析学的に見ていく必要がありそうである。


自分の内側から湧き上がる大切な感情や思考、そして感覚。それらに言葉を結びつけていく試みをやめたくはない。その継続が自己の感情·思考·感覚を強固に育む。言葉はその媒介物であり、促進剤なのだ。むしろ言葉がなければそれらの涵養は実現しないとさえ言えるかもしれない。言葉はそれほどまでに存在と密接に結びついていて、存在そのものを育む上で重要な役割を果たしている。


誰も読まないこの日記にありったけのことを書き綴っていくこと。ここに自分にとっての重要なことのほぼ全てが書かれている。これは自分という1人の人間存在の記録であり、記憶の集積である。いつかきっと、この日記が多くのことを自分に語ってくれるだろう。また、それは自分についても多くのことを語ってくれる。自分自身が自分について人前で何か語ることが野暮なほどに、ここに自分のほぼ全てが書き記されている。日々の日記はその役割を果たしてくれる。日記の総体が、自分の生きた全生命過程の集積的エネルギーを感じさせること。それがいつか社会に放射し、共有され、他者の生命を活気づけること。それだけを願っている自分がいる。静かな祈りを胸に、間も無く入浴と就寝に向かう。フローニンゲン:2022/11/15(火)20:32

 
 
 

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