9415-9423: 日本滞在記 2022年11月14日(月)
- yoheikatowwp
- 2022年11月17日
- 読了時間: 17分

No.4158 深まりの過程_A Process of Deepening
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1978, A Dream of Greenness
A dream of greenness is manifested in the morning.
That is why the world is purely green.
Groningen; 10:42, 11/14/2022
No.1979, A Collective Hallucination
Modern people suffer from a collective hallucination.
Yet, they do not notice it.
This is one of the modern tragedies.
Groningen; 11:41, 11/14/2022
No.1980, Sauna
Taking a sauna enables me to go to heaven.
It has magical power.
Groningen; 17:07, 11/14/2022
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本日の2曲
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タイトル一覧
9415. 長い睡眠/今日の計画
9416. 今朝方の夢
9417. 待つこと/ビジネス書の可能性
9418. 日本人が患っている幻覚症状
9419. 箏の稽古(41):日々の稽古の意識
9420. 器具を用いた筋力トレーニング/塩サウナ
9421. 無限の闇と光としての存在
9422. 違和感/発達を希求した批判
9423. 意味の発見と形成から/真の豊かさとは?/叫ぶ魂
9415. 長い睡眠/今日の計画
時刻は午前9時を迎えた。昨日と同様に、今朝も結構長い睡眠を取っていた。就寝したのは午後10時前なのだが、そこから午前8時半ぐらいまで寝ていた。時差ボケはもうすっかり回復しているはずなのだが、深層的な部分でもう少し適応に時間がかかるのかもしれない。それに加えて、起きている最中には大量の書物を読んでいることもあって、そこで得られた事柄を整理するために長い睡眠が必要になっているのかもしれない。
今日からまた新たな週を迎えた。今週は箏のオンラインレッスンとジークンドーのプライベートレッスンがある。それら2つはとても楽しみなイベントであり、先生に師事したレッスンがあることによって、日々の稽古が捗る側面がある。それはきっと学術研究でも同じなのではないかと最近思う。この数年間は在野の研究者として誰にも師事することなく研究を日々続けてきたが、その限界を感じているのも確かだ。その限界を乗り越え、研究をさらに1段も2段も深いものにしていくために、来年から学術機関に戻ることができたら幸いである。
今日の計画としては、午後にジムに行き、そこでジークンドーの稽古をした後に筋力トレーニングをすることを計画している。今日からは、ジムに置いてあるいくつかの器具を用いてみようと思う。武術の妨げにならない筋力を獲得するべくトレーニングメニューに少し変化を加えたい。こうした新たな試みのきっかけを与えてくれたのが今回の旅であった。トレーニングの後のサウナも楽しみなのだが、函館のホテルで塩サウナというものに入り、古い皮脂や毛穴の汚れを落とすことに効果があると実感したので、今日サウナに2回目に入る際には、持参する食塩をひとつまみ汚れの気になる箇所に乗せてサウナに入ろうと思う。これらがジムに関する計画である。学術研究に関しては、今日も積極的にテクノロジー哲学と思弁論的実在論に関する書籍を読み進めていこうと思う。明日からは資本主義やマネー哲学に関する書籍も読書の中に入ってくるような予感がしている。今は机や地面に積まれた書籍を上から順番にランダムに読み進めているような形である。そのおかげか、思わぬ組み合わせで探究を進めていけそうだという実感がある。例えば、思弁論的実在論の観点からテクノロジーを見るというのはまさにその例である。思弁論的実在論と批判的実在論の比較もそうだ。このように、今探究上における新たな組み合わせが生まれ始めていることを嬉しく思う。フローニンゲン:2022/11/14(月)09:19
9416. 今朝方の夢
今日は晴れの予報だったはずだが、朝から霧が出ている。改めて天気予報を確認したところ、もうしばらく霧がかかっている状態が続き、そこから快晴になるようだ。午後からは雲1つない晴れ間に見舞われるようなので何よりだ。ジムに向かう最中はさぞかし気持ち良いだろう。
今朝方の夢を今静かに思い出している。夢の中で私は、知人の画家とそのプロデューサー、そして付き人の女性と4人でサッカー観戦をしようとしていた。ちょうどリーグの開幕戦が行われるらしく、幸運にも4人分のチケットを入手したので、その4人で試合を見ることになった。3人はすでに特等席に座っていて、私はまだスタジアムの個室で準備をしていた。個室の窓から選手が華々しく入場する姿が見えて、間も無く試合開始だと思って準備を急いだ。すると意識と身体の双方がどこかに飛んで、薄暗い街の中に自分はいた。古びた建物に吸い込まれるようにして入っていき、そこの地下1階の部屋の扉を開けた。すると、街の鬱蒼とした感じとは裏腹に、その部屋はとても明るく、楽しげな雰囲気の中で宴会が行われていた。見ると、先ほどスタジアムで一緒だった3人がそこにいて、楽しげに飲み食いをしていた。私は画家の知人に声を掛け、彼女とそこでしばらく話をした。すると、私の肩を叩く人がいて、そちらの方を見ると、1人の女性が立っていて、この飲み会の請求書を自分に渡した。金額を見ると76万円と表示されていて、随分と高いなと思った。その内訳を知りたいとその女性に述べると、内訳を見せてくれた。すると、2人の知人に対する金額がほとんどを占めていた。彼ら2人を呼んだことによる請求がなされていて、今回の飲み会では別に彼らにスピーチをしてもらったわけでも、講演をしてもらったわけでも、何かサービスを提供してもらったわけでもないので、彼らへの支払いを取り消してもらおうと思った。これは直接自分が彼らに伝える必要があると思ったので、彼らのところに行ってそれを伝えると、2人は快くこちらの要望に応じてくれた。というよりも、彼ら自身が2人のサービス料金がチャージされていると知らなかったのである。不明なことはきちんと確認し、交渉するべきものはきちんと交渉することの大切さを改めて学んだような気がした。するとまたしても自分の意識と身体が瞬間移動して、同じ鬱蒼とした街の中の別の建物に自分はいた。そこの3階のフロアをうろうろしていると、そこには動物病院のようなものが1つやっているだけで、あとはもぬけの殻だった。2階に降りたところ、そこで高校時代の女性友達に出会い、彼女から飲み会に誘われた。いつ飲み会があるのか尋ねたら、今夜とのことだった。意外と急だなと思ったが、それ以外の候補日は今のところないとのことだったので、とりあえず飲み会に参加することにした。すると、彼女の方から周りの友人にも声を掛けてほしいとお願いされた。もちろん協力すると述べて、その場を後にしようとしたら、彼女は飲み会の集金も担当しているらしく、お金をその場で集める際に、月額30,000円のサブスクリプションも勧めてきた。何のサブスクリプションかよくわからず、とりあえずそれはいったん保留にしてもらう形でその場を後にした。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/11/14(月)10:15
9417. 待つこと/ビジネス書の可能性
2階の書斎の窓から見える景色は、1ヶ月前とはすっかり変わった。紅葉の進んだ木々が見えるし、中にはもう裸になっている木々もある。そして、目の前の元々馬小屋だった車庫の上に敷き詰められた土には草が生え始めている。オーナーのフレディさん曰く、来年の春にはそこに花が現れるだろうということだった。それが今から待ち遠しい。こうやって毎日を静かな気持ちで観想的に過ごしていると、気づかぬうちにその日がやって来るだろう。自身の発達もまたそのようにして起こる。それを起こそうとすることほど馬鹿らしいことはない。今、地中でゆっくりと芽を出そうとしている花に対して、誰が今この瞬間に花を咲かせようと強要するだろうか。その試みは早晩失敗するに決まっているのだ。教育においてそのような野蛮なことが平気で行われていることに驚く。それは子供の教育だけではなく、成人の教育においてもそうだ。本質的な変容には時間がかかるのだ。然るべき時間を要する本質的な発達において、待つことほど重要なことはない。
先ほどふと、読者数の多いビジネス書の可能性について考えていた。これまでの自分の書籍は、基本的にビジネスパーソンを対象にしてきたし、今回の新しい書籍もまたそうだ。今後もその路線で行く方が良いのではないかと思ったのは、小室直樹先生がビジネス書なのだが骨太な学術書を多数世に送り出していたことによる。小室先生の書籍は、ビジネス書なのだが骨太な学術書、あるいは逆に学術書なのだが骨太なビジネス書の形式を取っていたと言えるのではないかと思う。自分はそこに、ビジネス書なのだが学術書かつ文学書としての側面も付け加えたいと思う。その試みは欲張りだろうか。だが、真善美の均衡が崩れた現代社会の中で、その試みに従事することはとても重要なことのように思える。今回の書籍が出版された後に次にいつ書籍を執筆するのかわからないが、今後も読者層の広いビジネスパーソン向けに、ビジネス書なのだが学術書でもあって文学書でもあるような書籍を執筆していきたいと思った次第である。フローニンゲン:2022/11/14(月)11:25
9418. 日本人が患っている幻覚症状
日本滞在中にいつも感じる違和感を1つ突き止めた。それは日本人が集合規模の幻覚症状の中にいるということである。自分自身が逆に何か幻覚的な症状の中にいるかもしれない可能性も考えたが、その可能性を精査してみてもそちらの可能性は薄く、やはり日本人の側が幻覚症状を患っている可能性の方が濃厚になった。昨夜書き留めていた地獄の話もまさにこれに繋がる。外部環境として地獄の状況の中で平然としていられるのは、幻覚を知覚していて、感覚的に麻痺しているとしか思えないのである。外部環境を覚めた目で見ると、それがいかに地獄的·壊滅的かわかるはずなのだが、そうした覚めた目で取り巻く状況を見ることができないという点に幻覚症状を見て取ることができる。日本人がそうした症状の中にいることに対して、いつも自分はやるせなさと憤りを感じていたのだと先ほどようやく気づいた。同時にそうした目で日本人と日本を見ている人がほとんどいないということにある種の孤独さを感じていたことも隠すことはできない。だが、そんな孤独感などはどうでもよく、それは小さな自我がもたらす取るに足らない感情である。そのようなことを思ったが、そうした形でその孤独感を排除してしまうこともまた自我の画策かもしれず、その感情と向き合わずに蔑ろにしてしまうことは、自己の健全な発達を阻害してしまうかもしれないと考え直している。いずれにせよ、それは自分個人でまずは向き合う問題であり、もう1つの集合規模の問題により意識を向けていこう。日本人が患っている集合規模での奇妙な幻覚症状にどのように着手するか。そこに探究と実践の焦点を当てていこう。フローニンゲン:2022/11/14(月)11:39
9419. 箏の稽古(41):日々の稽古の意識
今からジムに行ってこようと思う。ジムに行く前に、先ほどまで箏の稽古をしていた。ここ最近は1日に2回に分けて箏の稽古をしている。母が午前と午後に分けてピアノの練習をしていることに影響を受け、試しに2回に分けて稽古をしてみると、1回1回の集中力が上がり、長くだらだらと練習をするよりもずっと学習効率が良いことに気づいた。先ほどは、テクニック集の曲を5曲ほど練習していた。いつもそれらの曲から稽古をするのが日課になっている。これは指先を動かす練習になるだけではなく、きっと一流の演奏家であれば、こうした課題曲ですら芸術的に演奏できるのだろうと思った。今の自分がそれを行うのが難しかったとしても、少なくともそのような意識で取り組みたい。すなわち、どんな曲を演奏するにせよ、1音1音を大切にして、そこに自分の感性や芸術性が滲み出すように演奏したいということである。おそらくその意識がなければ、練習曲の練習は単なる練習になってしまうだろう。それではダメなのだ。そうした練習曲すら自分の芸術的感性を育む場であり、また同時にそれを表現する場なのだ。そのような意識で練習曲を演奏してみると、響きが変わる。そこには自分を癒すなんとも言えない深い音があり、まずはそれを日々味わうことから練習を始めたい。ジムから帰ってきて少し読書をして、また箏の稽古をしようと思う。その時にはテクニック集の曲ではなく、実際の楽曲を扱うのだが、その時にも全く同様の意識で稽古に取り組みたいものだ。フローニンゲン:2022/11/14(月)14:21
9420. 器具を用いた筋力トレーニング/塩サウナ
時刻は午後5時を迎えた。つい今し方、ジムから戻ってきた。ジムにはおよそ1時間半ぐらいいて、ジークンドーの稽古をした後にじっくりと筋力トレーニングを行った。今日から器具を使ったのだが、ジムに置いているTechnogymの器具が予想以上に良く、楽しくトレーニングができた。何が良かったのかというと、部位ごとに器具が細かく分かれていて、普段の自重トレーニングで見逃していた部位を丹念に鍛えることができたことである。筋力トレーニングをして興味深いのは、トレーニング後にシャワーを浴びてサウナから出た後に自分の裸を見ると、すぐにその効果が現れていることである。筋力と血管の双方が鍛えられているためか、目で見て分かる効果が出ていることもまたトレーニングの動機付けになる。トレーニングをしながら、器具を使うトレーニングを単にグロスボディの鍛錬としては惜しいため、呼吸と合わせてサトルボディを鍛えていくことを意識してトレーニングをしていた。目に見える筋力だけではなく、身体感覚そのものを鍛えていくサトルボディの鍛錬として、今後も器具を上手く使いながらトレーニングをしていきたいと思う。器具を用いる初心者であることから、最初は重さを軽いものとして、大体どの部位も35kgから40kgぐらいの負荷量がちょうどいいように感じた。今後トレーニングを継続していくと、その負荷量も上がっていくだろう。ブルース·リーがジークンドーの稽古と合わせてどのように筋力トレーニングを行っていたのかも、手元の書籍を参照して調べてみようと思う。
トレーニング後のサウナもまた格別であった。器具を使って様々な部位を念入りに鍛えたことによって、発汗作用が増していて、そのおかげでサウナではいつも以上に発汗が促されていたように思う。函館のホテルの塩サウナから着想を得て、スーパーで購入した食塩を持参し、2ラウンド目のサウナの際に塩を鼻の上や頬あたりに軽く乗せてサウナに入り、汗が滲み出てきたら優しく肌に染み込ませていった。これで随分と皮脂と汚れが落ち、今後もサウナに入る際には同じことを継続してみようと思う。今日のジムでのトレーニングとサウナは個人的に大満足であった。フローニンゲン:2022/11/14(月)17:15
9421. 無限の闇と光としての存在
危ない夜がやって来ている感じがする。しかもその夜はますます長くなっている。ここから始まる長き冬の時代はとにかく夜が長い。この物理的な夜の長さに比例して、精神的な夜の長さも長くなるのではないかという予感がある。このところ、夜に妙なことを考えている。いや、きっとそれは自分に大切なことなのだ。実存的·霊的課題と紐付く事柄を考えている自分がいる。それは個人的な問題に留まるのではなく、日本の問題や、文明そのものの問題と結びついている。夕方に考えていたのだが、文明の諸課題と日本の個別具体的な諸課題の双方を考えていき、それぞれに対して自分なりの処方箋を提示することは自分に課せられた役目である。その思いが日々増している。文明の諸課題と日本の個別具体的な諸課題は、根底では繋がるところがありながらも、やはり日本の諸課題は文化的·歴史的な特性があるがゆえに個別に深掘りしていかなければならない。
辺りはもう真っ暗で、窓の外からは闇しか見えない。闇しか見えないことの喜び。そこに喜びを見出せなければならないのだ。闇、闇、闇。闇の向こうの闇。そのまた向こうの闇。無限の闇。それらに自己が包まれていることへの喜び。無限の闇の中で自己は光となって輝く。あるいは、元来の輝きをそこで初めて気づく。そんな気づきをもたらしてくれるのが無限の闇なのではないだろうか。
夕方ジムから帰ってきたら、自宅のドアの前に小さな黒猫がいた。日本に一時帰国している最中に生まれた子猫だろうか、とても小さく、目が汚れなき輝きを放っていた。あの子猫がどのように日々生きているのかが気になった。飼い主はいるのだろうか。野良猫だった場合に、食事や寝床はどうしているのだろうか。そんなことが気になっていた。この世界に投げ出されているという観点において、あの黒猫と自分は変わらない。自分もまたこの世界に投げ出された1つの命である。その命を無限の闇を照らす光として最後まで生きるということ。その誓いもまた自己の存在に光をもたらしている。フローニンゲン:2022/11/14(月)19:52
9422. 違和感/発達を希求した批判
虚偽的で、欺瞞的な人生を生きている人々への違和感。日本にいた時にその感情が募っていた。日本から帰ってきた今においてもその感情が依然として残っている。本当に大切なことを見ようとせずに、自己と他者を偽りながら生きる虚飾的な人生を送る人々への気持ち悪さの感情。この感情の正当性について考えながら、この感情に共感してくれる人がどれほどいるのだろうかという点についても考える。人々は眠っていて、幻覚的人生を単純反復的に過ごす形で人生の時間を費やしていく。死の瞬間においてすらその幻覚から醒めない人が多数なのだ。そのように考えてみると、多くの人間は結局のところ、言葉を持たない動物とほぼ同様の生き方をしていると言えるのではないかと思う。言葉を獲得したことが動物との直接的な線引きにならないのはそのことが見事に指し示している。もっと言えば、動物の方がむしろ、虚偽的·欺瞞的な形ではなく、本能に従う形で日々を生きているという点において、もっとずっと清々しい。清々しさのかけらもなく、重苦しく、陰惨なのが多くの人間の人生なのではないか。そのような考えがやって来た。
少し時間を置いて再び日記の執筆に戻って来てみると、結局このところ自分が行っていることは、自己批判を通じた他者批判であって、他者批判を通じた自己批判なのだということだ。しかもその目的は、自己と他者の発達を希求したものであることが見えてくる。他者を批判するためだけに他者批判をするというのは馬鹿と自己中心的人間が行うことであって、自己を批判するためだけに自己批判をするというのもまた馬鹿と自虐的な人間が行うことなのだと思う。少なくとも自分はそうした形で自己と他者を批判しない。自己と他者が今よりも深い生を獲得できるようにするためにそうした批判を行うのだ。これは引き続き行い続けなければならないことのように思う。馬鹿と自己中心的人間及び自虐的な人間が溢れる中で、そうした発達を希求した健全な批判を行い続けることを自らに課していこう。そう思ったら、何も見えない闇夜が気持ち明るくなったように思えた。フローニンゲン:2022/11/14(月)20:20
9423. 意味の発見と形成から/真の豊かさとは?/叫ぶ魂
意味の発見と形成にこれまでの人生があったとするならば、これからの人生はどんな時期になるのだろうか。また、どんな時期にするべきなのだろうか。発見と形成された意味を実践へと昇華させ、この世界に関与していく時期がこれからの人生なのかもしれない。何か人生の季節が終わりを告げたような感じがする。それをもたらしたのは、今回の日本への一時帰国だったことは間違いなさそうだ。これまで蓄積していた何かが1つのまとまりとして自己の外に形となって弾き出されたのである。それがこれからの人生の方向性を示す指標になるとは思っても見なかったことである。
過酷さだけではなく、日々の生活には確かな豊かさがある。自己をこうして落ち着いて眺められる時間的な余裕と落ち着き。魂はその分だけ豊かになるのだ。現代人は本当の豊かさとは何かをもっと真剣に考えるべきではないだろうか。彼らがそれについて真剣に考えるためには何が必要なのだろうか。きっとここで書いているようなメッセージは彼らの心には響かない。ヨガの世界では、病気と苦難は先生であると言われるが、偽物の豊かさに浸っている現代人は病気と苦難に直面しなければ、真の豊かさとは何かを考えることはないのかもしれない。そうした荒治療の方法しか術はないように思える。その点に関して言えば、この絶望的な社会状況は吉である。むしろその状況はもっと悪化する方が望ましいかもしれないという見方も成り立つ。だが、それでも人々が目覚めない可能性もある。ニーチェ的な観点で言えば、大衆はやはり下等生物的存在に過ぎないのだろうか。病気と苦難に直面しても目覚めが起きない可能性があることは辛いものであり、心が痛む。
魂が叫びたい時にはその叫びに任せるのが賢明である。その叫びを抑圧しようとするから現代人は頭がおかしくなるのである。同時に、そうした抑圧が魂の発達を妨げるのだ。とにかく魂には叫びたいように叫ばせること。その邪魔をしないことだけに意識を払う。ここ数日間は魂がよく叫んでいる。その叫びを理性を媒介させ、日本語に媒介させたものがここで形になっているに過ぎない。魂はきっと叫びたいだけ叫んだら、また落ち着きを取り戻して然るべき場所に向かって歩みを進めていくはずである。今はとにかく魂が叫びたいように叫ばせ、それを言葉の形に残しておくことだけに専心すればいい。それをやらないから魂が窒息してしまうのだ。魂は叫ぶ存在である。スピリットはその叫びを包み込む存在である。絶対的な安心感をもたらすスピリットがいるのだから、叫ぶことを本質に持つ魂には叫びたいだけ叫ばせることが大切なのだ。魂の叫びをもっと聞きたい。そう思っていると、もう就寝準備の時間がやって来た。このところは寝室に向かうのが早い。今夜の夢の中でも魂は叫んでくれるだろうか。それに密かに期待しよう。フローニンゲン:2022/11/14(月)20:53
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