No.4154 阿蘇の精霊_A Spirit of Aso
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1974, A Glorious Journey
A glorious journey now started.
It follows an eternal path.
The journey will become everlasting.
Groningen; 10:19, 11/13/2022
No.1975, Trans-Ocean
I feel transoceanic.
My soul enjoys swimming in the trans-ocean.
Groningen; 11:17, 11/13/2022
No.1976, The World
The world emerges neither as a thing nor object.
It appears as meaningfulness.
Groningen; 14:44, 11/13/2022
No.1977, The Real and the Thinkable
The real and the thinkable are distinct.
The real is a partial of what we can think of.
At the same time, what we can think of can be the entire real.
Groningen; 15:50, 11/13/2022
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本日の2曲
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タイトル一覧
9407. 今朝方の夢
9408. 新鮮な空気/今朝方の夢の続き/新たな習慣
9409. 日本滞在を振り返って
9410. 進展する深層学習
9411. 稽古の小分け/批判的実在論と思弁論的実在論
9412. ラヴェルの家/年々悪化する日本
9413. 苦悶
9414. 書くこと
9407. 今朝方の夢
時刻は午前9時を迎えた。フローニンゲンに戻ってきてからの初めての日曜日は、穏やかな朝日に満ちて優しげである。今日は1日を通して天気が良く、明日も天気が良いようだ。明日は、フローニンゲンに帰ってきてから初めてのジムに行こうと思う。ジムでジークンドーの稽古と筋力トレーニングを行い、サウナに入って来ようと思う。実家に戻ったときに、父が使っている筋力トレーニング用の器具を使わせてもらい、自重トレーニングだけではなく、今後は無理のない範囲で器具を用いた筋力トレーニングをしてみようかと思った。明日から早速いくつかの器具を用いて筋力トレーニングをしたい。繰り返しになるが、武術の動きを阻害するような筋力はつけないようにし、適度な筋力をつけることに注意しよう。
今朝方は1つ夢を見ていた。昨日も夢を見ていたように、フローニンゲンの自宅に戻ってくると夢を見る確率が高くなっている。日本に一時帰国中やフランクフルトに滞在中は、まばらにしか夢を見ておらず、やはり自宅のベッドが最も寛げるのだろうか。あるいは旅の新たな刺激がたくさんあることが夢を見ることをむしろ防いでいたのかもしれない。そのようなことを思う。
夢の中で私は、大学時代に一人暮らしをしていたマンションの自室にいた。そこで女性の友人と話をしていた。すると、浴室から声が聞こえたのでそこに向かってみると、身長が186cmぐらいありそうな見知らぬ若い日本人男性が浴槽に浸かって寛いでいた。友人の彼女はどうやらその男性のことを知っているらしいが、少し嫌そうな顔をしていた。仕事上で付き合いがあるらしく、本来ならあまり付き合いたくないというオーラを彼女は発していた。するとどういうわけか、私たちは3人で一緒にお風呂に入ることになった。彼女はその男性に表面的に尽くそうとしていて、自分の髪の毛を洗った後、彼の身体を洗おうとした。すると気がつけば私は見知らぬ旅館街を歩いていた。雰囲気はとても穏やかで、時刻は昼下がりのようだった。旅館街を歩いていると、一軒の古本屋に到着した。そこで私はハッとして、何冊かの書籍を古本屋に出したいと思った。ちょうど自分はキャスターの付いた棚を持ち歩いていて、そこに書籍が何冊か入っていた。一番下の棚には、未開封のヨガのDVDが2枚ほどあり、それも売却することにした。それらのDVDの横には、呼吸法に関するDVDが1枚あって、それについては開封済みのようで、過去に一度見たことがあると思い出した。古本屋の店員は精神障害を持っているようで話をするのが少し難しかったが、何とかコミュニケーションを取って無事に全ての書籍とDVDを売却した。売却によって得られたお金は微々たるものだったが、それでまた新しい本が買えると思った。フローニンゲン:2022/11/13(日)09:16
9408. 新鮮な空気/今朝方の夢の続き/新たな習慣
永遠の旅に出かけていくかのような魂の挙動と躍動が感じられる。魂は嬉々としてその旅の始まりを喜んでいる。魂が躍動感を見せるのがわかるぐらいの良い天気が目の前に広がっている。早朝の動的ストレッチをしている際に、2階の両側の窓を開け、新鮮な空気を取り入れた。それはひんやりと冷たかったが、とても新鮮な空気であるためか、大変心地良かった。空気にも新鮮さがあるし、鮮度があるのだ。正直なところ、フランクフルトの中心部の空気はあまり綺麗ではなく、逆に空気の新鮮さに敏感になる体験を与えてもらったように思う。今自分が過ごしているフローニンゲンは、学術都市であり、町の機能や緑の多さから空気が比較的綺麗で有り難い。ある知人が以前富士山の中腹辺りで生活をしていて、やはり空気の綺麗さを述べていたのを思い出す。冬の寒さは厳しそうだが、富士山の中腹や麓での生活には憧れがある。日本で今後生活する自分の姿を想像できないがゆえに、おそらくその憧れが実現することはないかもしれないが、北欧の自然豊かで空気が綺麗な場所での生活はぜひ実現させたいところだ。
この時間帯になって今朝方の夢の続きを思い出した。確か夢の中で、見知らぬ街を彷徨っている場面があった。その街は白い霧に包まれていて、幻想的な雰囲気を持っていた。自分は何か目的地があってその街を歩いていたように思えるが、濃い霧のためか、自分がどこに向かって歩いているのか分からなくなりそうであった。その他にも何か別の夢を見ていたのではないかと思う。それについては静かに内省をしてみよう。
以前にも行なっていたが、昨日からふと、ヨガマットの上で読書をするようにし始めた。その方が身体に良さそうであり、ヨガマットの上で簡単なストレッチをしながら読書ができる。パソコンを置いた机を前にしていると、調べなくてもいいことを調べ出したりするという注意散漫な現象が起きやすいので、それを防ぐ意味でも、机から離れた場所で読書をするという習慣を形成してみたい。旅のおかげでリセットされる習慣があり、新たな習慣が形成されようとしている。そうしたこともまた旅の恩恵だと言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2022/11/13(日)10:28
9409. 日本滞在を振り返って
日本に1ヶ月いたときの総合的な感覚について少し振り返っている。母国である日本にいると、自分の心はどこか落ち着かず、ざわざわする感じがする。表面上の心身の寛ぎはあるのだが、深層部がどこかざわつく感じがするのは一体どういうわけなのだろうか。端的には、ここにいてはならないという気持ちに結実する感覚が深層部から湧き出てくる。それは激しく吹き上げてくるものというよりも、静かに滲み出してくる類のものである。1ヶ月間、どこか実存的孤独感と霊的孤独感に包まれるような形で時間を過ごしていたようにも思える。幸にして経済的にも時間的にも大きな自由を獲得した自己は、逆にそれゆえに社会に身を投げ入れる形で街を歩いていると、どこか寂寥感のようなものが芽生え、それに包まれてしまう。深層的な感覚に関しても、どこかもう日本が醸成する感覚とは相容れないような感じがしている。ただし、伊勢神宮を訪れたときには、そこは自分が自分自身として何にも囚われずに寛げる場所だと感じたのも確かである。伊勢の町ではなく、伊勢神宮の中においてそのように感じたことを考えてみると、日本の世俗社会そのものと相容れないながらも、日本が持つ聖なる空間には共鳴し、そこに寛げるという自己の性質を見て取る。だがこれは厄介である。それは生活拠点を日本に置くことは不可能であることを示しているように思えるからだ。そうなってくると、やはり旅を通じて日本の聖なる空間に触れることを行うしかないのだろうか。ところがこの旅というのも厄介で、身体を鍛え、体力も気力も充実している自分ですら、ヨーロッパから日本に帰るのは相当な負担を身体に与える。それは見えない形で着実に影響を及ぼしている。フライトをビジネスクラスにして機内のシートを倒して寝ていたとしても身体的な負担は必ずある。数年前から、日本に一時帰国するのもあと何年可能なのだろうかと考えるようになった。まだ30代半ばであるから、そのようなことを考えるのは早いと思うかもしれないが、長距離のフライトは寿命を縮めている側面が必ずあるように思える。時差ボケになってそれを解消することに伴う身体の負担を考えてみると、自分の身体能力を超えてあのような高速移動をすることそのものがやはりおかしなことなのだ。そうしたことから、いつからか船旅を通じてゆっくりと日本に戻る方法も考え始めた。ヨーロッパから片道で日本に行って、日本に長く滞在して再び片道でヨーロッパに帰れるような船旅のサービスはまだ見つかっていない。つらつらと余計なことを考えていたが、自分の深層的な感覚と日本の深層部の感覚との合致·不一致の問題については引き続き考えていく必要がありそうだ。フローニンゲン:2022/11/13(日)10:51
9410. 進展する深層学習
こんなこともあるのだ。1ヶ月寝かせておいた箏の演奏において、初日の最初の音出しこそ感覚を取り戻すための時間があったが、そこからは速やかに感覚が戻り、昨日に至っては、これまで苦戦していた2箏パートが速やかに演奏できるようになっていたことに驚く。ここからも、私たちの目には見えないところで学習効果·実践効果というのは私たちの深いところに浸透しているのだということがわかる。先ほどは仮眠から目覚めてすぐにジークンドーの稽古をした。グローインキックからコークスクリューフックのコンビネーションを練習した後に、改めてインバーテッドフックキックの練習をした。昨夜ちょうどロビンさんから連絡があり、来週の日曜日のレッスンを楽しみにしているというメッセージがあった。自分もまた来週のロビンさんとのプライベートレッスンはとても楽しみであり、ロビンさんにお土産を渡して、土産話をすることが今からとても楽しみである。ジークンドーの稽古の後には箏の稽古をした。テクニック集の数曲を準備運動がてら練習し、夕食前にまた稽古をする際にはいくつかの課題曲の2箏パートをメインにしたい。明後日のオンラインレッスンの際に先生に質問する箇所を明確にしておきたいと思う。この冬は、学術研究と並行して、心身を活性化させるジークンドーの稽古と、魂を慰め、癒す箏の稽古に没頭したい。学術·武術·芸術の三位一体は自分を根底から支えてくれるものとして存在している。この三位一体の実践をこれから長きに渡って継続していけば、自分の人生は日々深まりを見せ続けるに違いない。それはもう確信としてある。
午前中の学術研究の時間にふと、この冬は川面凡児全集を熟読していくことを決めた。川面神道神学を体系的に理解し、それをテクノロジーの問題やマネーの問題に適用できるまで理解を深めていく。午前中に読み進めていたのは、キリスト教の観点からテクノロジーを扱うテクノロジー神学の書籍であり、その読書を通じて改めて川面凡児の神道体系の理解へ動機付けられた。神道神学というのはあまり明瞭な体系が存在していない分、自分がこの人だと思った神道家の思想体系を習得していくのが良い方法なのではないかと思う。これから夕食前の箏の稽古までまた3時間ほど読書に没頭したいと思う。フローニンゲン:2022/11/13(日)14:22
9411. 稽古の小分け/批判的実在論と思弁論的実在論
たった今、本日2度目の箏の稽古と3度目のジークンドーの稽古を終えた。一度に長く稽古をするのではなく、小分けにして稽古を行うと集中力が高く保たれているし、学術研究の良い息抜きにもなってとてもいい。英単語を効率良く覚えていく際に小分けして集中して単語を覚えていくような形で、箏もジークンドーも小分けにして稽古をしたいと思う。
箏とジークンドーの稽古の前には、本日7冊目の書籍を読み進めていた。その中で、ロイ·バスカーの批判的実在論については随分と探究が進んだが、クァンタン·メイヤスーの思弁論的実在論についてはもっと時間をかけて探究してく必要があることについて考えていた。少し欲張りかもしれないが、神道神学の観点のみならず、テクノロジーやマネーを扱う際には批判的実在論や思弁論的実在論の観点も活用したい。また、これらの理論体系についてはオンラインゼミナールでどこかのタイミングで取り上げるのが良さそうだ。ゼミナールの受講生の方々と一緒に学んだ方が理解が圧倒的に深まるはずである。それらを取り上げる際の課題図書として最適なものはすでに頭の中にあり、あとはタイミングを見てゼミナールのコンテンツとして取り上げるだけである。
テクノロジーもマネーも私たちの社会に単に遍満しているだけではなく、それは夢遊病者のような形で絶えず蠢いて活動している点は注目に値するし、それを見逃すことはできない。私たちの気づかないところで動いているテクノロジーの性質に絶えず注目していこう。今、「私たち」という言葉を使ったが、この1人称複数の表現は、“our we”として使っているのか、それとも“your we”として使っているのかで随分意味合いが異なる。それについて指摘する政治哲学書を本日読んでいたことがきっかけとなり、この分断時代における人称表現が示唆していることにも注意深くなっていこうと思う。このように考えてみると、この社会で生きていくに際しては色々と注意深くあらねばならないことが見えてくる。とりわけ言語に関しては、そのコンテクストと使用方法に注意深くある必要があるし、言語以外においては感覚や感情に対しても注意深くある必要がある。結局のところ、言語や感覚·感情の搾取と改変を行っているのが社会の特性なのだから、それらに取り込まれないようにするためには、言葉や感覚·感情に絶えず気づきの意識を与えていくことが護身術になる。そのようなことを考えていると、辺りはもう随分と暗くなっていた。フローニンゲン:2022/11/13(日)17:08
9412. ラヴェルの家/年々悪化する日本
パリ郊外のラヴェルの家を見学しに行った時の記憶が突如として芽生えた。あの日は確か小雨の降る日で、駅からラヴェルの家までは長閑な景色が広がっていたのを覚えている。ラヴェルの家は小さな村落の中にあって、教会付近のレストランで昼食を摂ったのを覚えている。残念ながらその日はラヴェルの家が開いていなくて、結局外観だけを眺めて帰ったのだが、その時の記憶が妙に印象に残っている。その記憶が先ほどふと立ち現れた。このようにして過去の様々な記憶が突然現れたり、それらの記憶が交流をして新たなイメージや感覚を生成している様子を眺めることができる。人間の記憶は実に興味深い。
日本からヨーロッパに戻ってきてから、やはり日本に対して抱いていた印象について考えている。当初は、自分の内面の問題かと思っていたが、単純に内面の問題に還元することはできず、日本側の問題もあることに突如として気づいた。端的には、各種の指標が明らかにしているように、日本は年々悪くなっているということだ。最初この感覚は、日本の国の外で生活する者が抱きがちな欧米礼賛的な物の見方によるものかと思っていたが、どうやらそうではなく、本当に単純に日本が年々弱体化と悪化を進めているからだと気づいたのである。正直なところ、人間文明そのものが悪化し、病理的な症状を患っているように思えるのだが、その時々に生活している国と比較して、その悪化と病理化の速度が日本において速いため、日本に帰ると相当に違和感を覚えるのだろう。全てを自分の実存的問題·霊的問題として片付けようとしていた自分が馬鹿らしく思えてくるし、同時に定点観測的な毎回の一時帰国を通じて日本がますます悪くなってきている問題をなんとかしないといけないという気持ちになってくる。自分の魂と日本の魂が繋がっていることは確かであり、だからこそ日本の水面下で進行しているまずい状況に対して心を痛めている自分がいるのだろう。日本の通念的な悪化に対して何ができるだろうか。それについて本当に真剣に考えなければならない状況を迎えている。フローニンゲン:2022/11/13(日)19:37
9413. 苦悶
夕方に、低能な指導者が治める国で生活することはできないし、社会経済文化的に地獄のような環境で生活することはできないということから母国での生活を選択していない自分がいることについて考えていた。それは選択の問題と言ってしまえばそうかもしれないが、それを言うと、そのような選択ができるのは強者であると言われてしまいかねないことについても考えていた。だが、国の外に出ることなど少し考えれば誰でもできることなのではないかと思う。そこで問題になるのは言葉とカネの問題だと思うが、自分は英語が対して喋れない状態でアメリカに渡ったし、その時の自分は借金を背負って大学院に行った。言葉とカネを理由にすることはできない1つの反証事例として自分の例を持ち出すことはできないだろうか。言葉とカネ以上に重要なのは、心理的な問題だろうか。おそらく精神的な問題が一番大きいのかもしれない。いずれにせよ、なぜ無能な指導者が国を治める国で脳のうと生活できるのかは理解に苦しむし、確実に悪化している地獄のような暗い社会状況の中で日々生活を営むことをしようとすることも理解に苦しむ。地獄で生きなければならない義務などないはずである。そのようなことを思う自分は本心として何を思っているのだろうか。日本を地獄と見立てようとする自分の真意は何なのだろうか。日本には家族もいるし、親友もいるし、数多くの知人もいる。彼らの救済を希求しているというよりも、綺麗事無しに、全ての日本人の救済を願っている自分がいるようにも思えてくるし、日本という国土と文化そのものの救済を願っている自分がいるようにも思えてくる。その気持ちの裏返しとして、日本を生活がほぼ不可能な地獄と捉えている自分がいるのかもしれない。そうした理由以外にも、何かから自分を切り離そうとして自分自身の存在をなんとか保持しようとしている自分がいることにも気づく。その切り離しは、単に自己保存に繋がるだけではなく、切り離すという行為を通じて自己を別の高みに連れていこうとする衝動的な営みのようにも思えてくる。このあたりの現象はまだまだ言葉にするのが難しい。ただ1つだけ言えることは、日本の壊滅的な状況と日本人の実存的·霊的品格が毀損されゆく状況が自分の心を苦しめ、活動に向けて魂に火をつけているということだ。フローニンゲン:2022/11/13(日)19:54
9414. 書くこと
ここにこのようにしてこの文章があることは、この文章を生み出した自分の思念や感情が確かに存在していたという証拠なのである。一連の日記は、自分が感じたことや考えたことの存在論的な意味を持っていたのである。日記は単に認識論的な産物なのではなく、そこには紛れもなく存在論が関与していたのだ。それは精神的な存在論のみならず、自分の実存性や霊性の存在論的現れでもある。書くという営みはそれほどまでに尊く、価値のあることなのだ。
またこの一連の日記は、自分が納得するような説明を試みているために他者が読むことなどほぼ想定していないが、それでも自分を納得させるというのは結局のところ普遍的な説明を要求するものであるから、この日記は必然的に普遍性をできるだけ持たそうとする形で執筆されているという側面がある。書くことは究極的に個別的なものでありながら、同時に普遍的なものでもあるというのはそのあたりの事情によるのではないかと思う。
その他にも、書くことを通じて後々になって初めて明瞭な形をもたらすものがあることを考えると、尚更書くことに取り憑かれるという側面もある。書く素材は基本的にその瞬間に浮かんだ考えや感情なのだが、結局それらを書き留めることによってしか、後々にまとまった形を生み出せないことに気づいている。その他にも、書くことにはまだまだ魅力と意義がある。自分にとって書くことは存在することに他ならず、それは存在を克明なものに彫刻する試みであり、存在を深めていくための営みなのだ。フローニンゲン:2022/11/13(日)20:26
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