No.4150 祝福の微笑み_A Smile of Bliss
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1971, A Celestial Marriage
The self and the world are now engaged.
A celestial marriage was consummated.
Groningen; 07:51, 11/12/2022
No.1972, Metamodern Perspectives
I see the world from metamodern perspectives.
I live in the world through metamodern perspectives.
Groningen; 08:31, 11/12/2022
No.1973, Just Here and Now
Everything is neither discovered nor created.
It is always here and now.
Groningen; 08:53, 11/12/2022
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本日の2曲
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タイトル一覧
9399. 最初の週末
9400. 今朝方の夢
9401. 学術·武術·芸術の三位一体の実践
9402. 経路依存性と“factiality”の原理
9403. 捗る読書とちょっとした工夫
9404. メタモダニズムという物語/闇夜の後の朝へ
9405. 闇夜と写像
9406. 実在そのもの・世界そのものへの眼差し/彼岸的な秩序の流れの中で/実存的・霊的浄化
9399. 最初の週末
時刻は午前6時を迎えた。フローニンゲンに戻ってきてからの最初の週末がやって来た。昨日は街の中心部に行き、散歩がてら色々と歩き回っていたので、フローニンゲンの街の雰囲気に徐々に同化していくような自分がいた。それは適応と言えるだろうか。適応は速やかに終わり、静かな感覚が内側に流れていたのを思い出す。
今この瞬間は辺りは真っ暗である。昨日も感じたが、日の入りが本当に早くなった。日本に一時帰国している最中に欧州ではサマータイムが終わり、これからますます日が短くなっていくだろう。日の出の時間もしばらく後になるかと思う。寒さに関して言えば、フローニンゲンも結構冷えている。最高気温が10度に行かない日も少しずつ出始めている。ここからは気温にも順応していく必要がありそうだ。
昨夜、京都で贈り物としていただいたお香を早速就寝前に炊いてみた。とても落ち着く香りが部屋中を充満し、その香りのおかげで入眠がいつも以上に速やかだったように思う。昨日立ち寄ったRITUALSでもお香を購入したので、しばらくお香ブームが自分の中で続きそうである。視覚や聴覚のみならず、嗅覚に関してもそれを通じて何を取り入れるのか、何を取り入れないのかを考えていくことは、生活の質を上げていくことに繋がるのではないかと思う。
今日は午前中に、オンラインゼミナールの第5回目のクラスがある。気がつけばもう第5回を迎えていたことに驚く。そして今日は、これまで扱って来たベーシックインカムについての話題を終える日である。全5回をかけてベーシックインカムを取り上げることによって、受講生の方々と共にベーシックインカムについて随分と多角的な理解ができたのではないかと思う。ゼミナールの良さは、取り上げるテーマについてだけ議論するのではなく、時に脱線をしながら人間の発達や社会の発達を考えていくことだと実感する。今日もそうした脱線話の中から実りある学びが実現するのではないかと期待する。今日もまた楽しみに満ち溢れた1日になりそうだ。フローニンゲン:2022/11/12(土)06:12
9400. 今朝方の夢
辺りはまだ真っ暗だが、小鳥の鳴き声が微かに聞こえて来た。こうした朝の静かさを味わいながら、再びフローニンゲンでの日常に帰っていく。ゆっくりと着実にフローニンゲンでの生活リズムを取り戻し、そして新たなリズムを確立していこうと思う。
今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、中学校時代の部活のメンバーと一緒にバスケの県大会に出場することになっていた。大会初日に対戦する相手は、県内のかなりの強豪校であった。その学校は昨年、県内3位の成績を収めていて、今年もその強さを保っているように思えた。大会会場に到着すると、そこはなんと体育館ではなく、ビルだった。ビルの中に試合会場があって、試合まではビルの各階にある部屋で寛ぐことができた。試合に向けて準備をしていると、どういうわけか女性が使うアイシャドウを塗っていたことに気づいた。鏡で自分の顔を見ると、普段とは違う目をしていることに思わず笑ってしまったが、アイシャドウを落とすのも面倒だったのでそのまま試合に出場することにした。試合開始の時間が迫って来たのでトイレに行こうと思ったところ、トイレの場所がわかりづらく、フロア内で少々迷ってしまった。すると、もう試合開始の時間が目前に迫って来て、トイレを急いで済ませてから部屋に戻って靴下を履こうとした。靴下は衝撃に強いスポーツ用のものにしようと考えていたが、部屋には普通の靴下しかなく、どうしようかと思った。すると母が現れ、後ほど応援に来てくれると述べた。とりあえず母には後から会場に来てもらうようにして、自分だけまずは会場に向かった。エレベーターに乗って会場に到着すると、2つ学年が上の先輩たちが応援に駆けつけてくれていた。先輩たちはベンチ裏ではなく、観客席の方に座っていて、こちらに声を掛けてくれていた。試合がいよいよ始まるときに、私は先発メンバーに伝えたいことがあった。今日が最後の試合になるかもしれず、試合終了のブザーが鳴るまで諦めずに全力を尽くすことをメンバーに誓った。これまでの試合では、自分が途中で試合を投げてしまうことがあり、キャプテンの自分がそのような有り様だと、それはすぐさまチームの士気を下げることにつながっていることを知っていた。今日はとにかく最後の最後まで戦い抜くことを誓い、試合開始直後にはとにかく自分でまずは得点を奪おうと思った。試合が開始され、自分にボールが回って来たところで夢から覚めた。その時に、これまでの試合の中でなぜ自分は味方にパスを回すことを優先し、自分で得点を決めることを優先しなかったのだろうと少し後悔している自分がいた。フローニンゲン:2022/11/12(土)06:29
9401. 学術·武術·芸術の三位一体の実践
さて、もう少ししたらオンラインゼミナールのクラスが始まる。クラスの前に、先ほど少しばかり箏の演奏をしていた。1ヶ月ぶりに昨日箏の稽古をしたのだが、やはりその音色には魅せられるものがある。脳に心地良く響く箏の音によって意識状態が変わり、まるで瞑想しているかのような状態に誘われる。箏の音は心と魂に深く染み渡っていき、箏の稽古はそのまま治癒と変容の実践となっている。先ほどの稽古では、テクニック集の曲を演奏していった。あと2つほど演奏していない曲があり、先ほど1つ新しく挑戦した。夕方にもう一度稽古する際には、最後の1曲も演奏してみたい。夕方の稽古の際には、課題曲として取り上げている曲の2箏パートを中心に演奏する。先日京都の「男着物の加藤商店」さんで購入させていただいた着物が届くのは1月とのことであり、着物が届いたら、着物を来て箏の演奏を誰かに聞かせたいと思う。ここからしばらくは箏の稽古により力を入れていきたい。
午前中に読書をしていた時にも思ったが、読書を続けて何時間もすると集中力が落ちてしまい、学習効率が落ちる。それを補うかのようにジークンドーや箏の稽古を取り入れると、読書がまた捗る。学術·武術·芸術の三位一体の実践をこれから毎日意識的に取り組んでいきたい。そうすれば、その三位一体の実践は巨大な円を作るだろう。その円は良縁を生み、自分をまだ見ぬ世界に連れて行ってくれる。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/11/12(土)09:54
9402. 経路依存性と“factiality”の原理
時刻はゆっくりと午後3時に近づいている。今朝方は霧がかかっていたが、この時間帯になると青空が見えていて、穏やかな午後の光が地上に差している。あと1時間半ぐらいは優しげな太陽の光を拝むことができるだろうか。
今日は午前中から昼前にかけて、オンラインゼミナールの第5回目のクラスがあった。クラスが終わり、補足の音声ファイルの中でも言及したのだが、自分にとってこのゼミナールは学習·実践上の最良のペースメーカーになっていて、学習·実践上の伴侶のような存在になっている。これまでの5回のクラスを通じて自分の中でミクロな成長·変化が起こっていることは確かであり、これを積み重ねていけば、メソ、そしてマクロな成長·変化が自分の中で起こるのだと思う。
今日のクラスの中で取り上げられた話題に関して印象に残っているのは、儒教的エートスは果たしてどこまでベーシックインカム導入の障壁になるのかという議論だった。この話題に関して先ほど読書をしていると、思弁論的実在論との接続がなされた。クァンタン·メイヤスーの“factiality”の原理に則れば、どんな物事も絶えずそれがそうではない可能性を内包しているのである。全ての人も全ての物事も、今の現状とは全く違った在り方が絶えず想定されるのである。その原理に則れば、これまでの日本人の思想·行動特性による経路依存性の問題に全てを還元するのではなく、“factiality”の原理から物事を見ていく必要があるだろう。ベーシックインカムという具体的な事例において言えば、日本人の儒教的メンタリティーがベーシックインカムという制度の導入を拒んでいると単に見るのではなく、何かをきっかけにして突如として日本人のベーシックインカムに対する考え方や行動が変わることが十分に起こり得ることについても念頭に置いておかなければならない。クラスの場では、日本人にとって馴染みのない祭りであるハロウィンがどのように日本社会で受容され、根付いていったのかという具体例や、離婚がこの30年ほどで何らおかしなことではなくなった事例が挙がった。そうしたところにも、経路依存性の観点だけでは語りきれない“factiality”の原理の一端を見る。フローニンゲン:2022/11/12(土)14:56
9403. 捗る読書とちょっとした工夫
時刻は午後5時を迎えようとしている。もうこの時間帯になると、辺りは随分と薄暗い。すっかりと秋も深まり、着実に冬に向かっているフローニンゲン。フローニンゲンに戻ってきてから本格的に学術研究を再開させ、今日は読書が随分と捗っている。思弁論的実在論に関する書籍を2冊読み終え、キルケゴールのテクノロジー思想に関する書籍を読んだ。そして今、バイオテクノロジーに伴うキリスト教倫理に関する書籍を読み進めている。夕食までは洋書を読み進めていき、夕食後には休憩がてら和書を読むような習慣を新たに確立していこうと思う。もちろん無理に夕食後に和書を読む必要はなく、むしろ引き続き洋書を読めるような力が残っているのであれば、引き続き洋書を読み進めていけばいい。和書はあくまでも息抜きとして読むようにする。確かに、川面凡児の全集や福田徳三の全集などは日本語であっても自分の研究に直接生きるものであるため、午前中や午後に読み進めていくことがあってもいい。だが忘れてはいけないのは、自分の研究を推し進めていく上で重要なのはやはり英語の文献であることだ。
小さなことではあるが、机に向かって椅子に座って本を読むのではなく、ヨガマットに座って本を読むことの方が身体への負荷がなく、読書に集中できることを改めて発見した。椅子に長時間座り続けることが体に良くなく、また集中力を奪うことはよく知られている。机に向かうと、机の上に置いているパソコンに必然的に意識が向かい、調べなくてもいいことを調べてしまうことがある。これもまた読書の妨げになる。なので机とパソコンから離れてヨガマットに座って読書をすると、かなり集中して読書に取り組めることに改めて気づいた。読書を通じて調べたいことがあれば、その時にパソコンに向かえばいいし、書き留めておきたいことがあれば、それは書籍の中に書き込むことを優先させ、まとまった文章の形で書き出したいと思えば、その時に初めてパソコンに向き合って文章を打ち込めばいい。こうしたちょっとした工夫が長い目で見れば、探究上の成果に大きな影響を与えるのではないかと思う。フローニンゲン:2022/11/12(土)17:04
9404. メタモダニズムという物語/闇夜の後の朝へ
感覚というのは指向性を持つ。人や対象に対して指向性を持つ感覚に注目していると、現在読み進めているメタモダニズムに関して思考が飛び移っていた。ポストモダニズムの物語に乗ることはもはや難しいのは自明な中、それに変わる物語として近年メタモダニズムという物語が生まれている。それも結局移り変わり、超克されていく物語なのだが、今のところ乗るのであればその物語だろうか。今の自分の意識段階にかろうじて共鳴するのがメタモダニズムという大きな物語のように思える。
それにしてもフローニンゲンに帰ってきてからめっきり冷え込みを感じる。今も暖房が自動で入っていて、外の暗さと相まって、もはや冬を感じる。これでもひょっとしたら例年よりも暖かいぐらいかもしれない。ここ最近はふとしたときに、オランダにやってきた最初の年のことを思い出す。最初の時のこの時期にハーグに日帰り観光に出掛けた思い出が懐かしい。あの日はもう冬用のジャケットだけではなく、手袋とマフラーを着用していた。それでも寒く、街中を歩いていると鼻水が自然と出ていたことを思い出す。このような懐古が自然に生じるのはなんなのだろうか。オランダでの生活が終焉に向かっていることの示唆なのだろうか。人は人生の終焉を迎える際に過去の記憶が走馬灯のように駆け巡ることがあると言われるが、それと似た現象が静かに自分の内側に起こっている。やはり来年はアメリカに行くのだろうか。世界に投げ出され、1人その巨大で深淵な宇宙に佇む自己。終わりなき探究は単なる逃避的慰めなのだろうか。そうではない形と意味をそこに見出したい。
数を数えることさえ馬鹿馬鹿しくなるほどに、今日はかなりの数の書籍を読み進めていた。今読み進めているのは7冊目になるだろうか。このように学術書をひたすら貪り返すように読み進める果てに何が待っているのだろうか。そこには虚無しかないのだろうか。虚無の向こう側の世界があるような気がしているし、そこから一筋の光だけが今自分の目の前に顕現しているように思えなくもない。自分が頼るべきはその光だけである。それがきっと実存的にも霊的にも深いこの闇夜に朝をもたらしてくれるように思うから。フローニンゲン:2022/11/12(土)19:49
9405. 闇夜と写像
7年という周期。神秘家のルドルフ·シュタイナーは、人間の発達を7年の周期で捉えた。自分もその周期に沿って発達を遂げているのかもしれないと思った。厄介なのは、あるいは注意しなければならないのは、7年の周期の前後の自分の姿は質的に全く異質でありながら、表面上の見かけは似ていることがあることだ。ケン·ウィルバーは、それらの混同を「前超(前後)の虚偽」という言葉を当てて戒めた。オランダでの生活も7年目を迎え、7年前の自分と今の自分はどこか似ていながらも質的には全く違う。先ほどふと、似ている側面に意識が奪われて少し困惑した。何が似ているかというと、実存的·霊的な闇夜に投げ出された感覚があることだ。7年前の自分は、その時の様子を真冬の匍匐前進と称して、とにかくゆっくりとその闇夜を進行していた。今の自分も何だかそんな闇夜の中にいるような気がしている。7年前と今の自分の違いを明らかにしておきたい。その作業を今静かに行なっている。
この7年間で獲得した知識や経験など吹けば飛ぶようなものかもしれない。だが、7年間確かに積み重ねてきたものがあるということ。それを無視して軽んじることはできないし、それはあってはならないことだと思う。結局人はそのようにしか進めないのだ。すなわち、日々その時の自分にできることに従事し、それを積み重ねていく形で歩んでいくしかないのである。積み重ねてきたことを全て否定することは歩みの土台そのものを骨抜きしてしまうことなのだ。あるいは、歩むための道そのものを撤去してしまうことに他ならない。どんな陳腐な土台でも、どんな陳腐な道だとしても、自分にあるのは自分の道しかないのである。これら一連の考えは、どこかから降ってきて、自分を励ますためにあるもののように映る。だがそこには何か一定の真理が内包されているように思える。少なくとも実存的·霊的闇夜を歩む者にはわずかばかりの心の支えになるような言葉なのかもしれない。窓の外にはとにかく暗い世界だけがある。そのように思えたが、遠くの人家にはうっすらと明かりが灯っている。その光景は、自分の魂と心の光景と写像関係にあるように思えてくる。フローニンゲン:2022/11/12(土)20:05
9406. 実在そのもの・世界そのものへの眼差し/彼岸的な秩序の流れの中で/
実存的・霊的浄化
ソシュールの記号論ではなく、パースの記号論を用いれば、案外簡単に相関主義の問題を乗り越えられるように思ったのだが、話はそう簡単ではないのだろうか。相関主義においては、世界は思考を媒介にして相関的に立ち現れるとするが、それはパースの記号論においては、“referent(sign)”としての世界と思考との関係を述べているだけであって、“object”としての世界そのものが存在しないことを証明するようなものでは決してないのではないだろうか。直観的に、世界は“referent”と“object”としての双方の形で存在しているのではないかと思う。“object”側の世界がなければ“referent”としての世界など生まれ得ないのではないだろうか。端的には、象徴しての世界とそれ自体としての世界の双方を把捉している自分の精神がある。そのようなことを考えていると、別にソシュールの記号論を用いても自分の問題意識を説明できるかと思ったが、やはりパースの記号論でなければならないと改めて思った。ソシュールの記号論では、“referent(sign)”がシニフィアン(言語記号の表現面)に対応していて、“interpretant”がシニフィエ(言語記号の内容面)に対応していて、“object(記号が示す実在そのもの)”がないからである。実在そのもの、世界そのものへの眼差しがこのところますます明瞭かつ鋭いものになっている。
現世的な秩序の流れだけではなく、彼岸的な秩序の流れの中で生きることはできないのだろうか。彼岸的な秩序の川あるいは海が存在しているのであれば、全存在をかけて飛び込みたい気持ちになる。
欧米での生活は11年目に入り、3年前の年末年始を過ごしたマルタ共和国の美術館で、ようやく初めてキリスト教世界の根底に流れている世界観とイマージュが感覚的に理解できるようなるという経験をした。ところが、その経験さえもまだ不十分なものだったのではないかと思えてくる。それはキリスト教的なものだけではなく、自分に馴染みのない宗教世界、いや広義には他者の内面世界に流れる自分には理解し難い、あるいは理解し得ない異質な世界観とイマージュが生起する内面世界に対しても当てはまるように思う。
今の自分は何を求めているのだろうか。自分の実存的感覚と相容れない世界の中に入って嘔吐することなのだろか。嘔吐を通じた実存的浄化、それはまた霊的浄化を意味し、自分はそれを求めているのだろうか。あぁ、今日は満月に近い月だったか。フローニンゲン:2022/11/12(土)20:32
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