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9230-9235: 日本滞在記 2022年10月11日(火)



No.4092 共鳴の輝き_Bright Resonance


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1883, The Difference

What's the difference between creating humans and making artifacts?

Probably, there is a huge difference between them.

Akarenga-kan Museum; 10:31, 10/11/2022


No.1884, Flowers

Wow, I haven’t realized that flowers on a tree are wonderful artworks of the God!

They represent the grace of the Creator.

Akita; 11:06, 10/11/2022


No.1885, The Mountain Voice

The mountain voice of the wind welcomes me very much.

It empowers and inspires me so deeply.

Hirata Atsutane’s Tomb in Akita; 12:51, 10/11/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の2曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9230.【日本滞在記】秋田滞在2日目の朝

9231.【日本滞在記】本質主義者のハイデガーのテクノロジー思想

9232.【日本滞在記】日本人的感覚の喪失を感じながら/テクノロジーと芸術との深い関係性

9233.【日本滞在記】秋田市立赤れんが郷土館と秋田県立美術館を訪れて

9234.【日本滞在記】生の証・生者の特権/花との交流

9235.【日本滞在記】過ぎゆかないもの/平田篤胤の墓を訪れて


9230.【日本滞在記】秋田滞在2日目の朝


時刻は午前7時半を迎えようとしている。一昨日の夜はとても寝付きがよく、時差ボケもすでに解消されたかと思ったが、昨日の夜は寝付きは良いものの、夜中に1度目が覚め、そこから少し眠れない時間が続いた。結果的には良く眠れたわけだが、まだ完全に時差ボケが解消されたとは言えないような状況である。おそらく今日方々を歩き回りながら観光すれば、今夜は熟睡できるだろう。そう期待する。


今日から秋田滞在の2日目である。今日はあと1時間後にレストランに行き、朝食を食べる。昨日チェックインした際に、朝食券を渡され、朝食会場に指定されたのは中華料理店だった。どうやらここでも朝食ビュッフェが楽しめるようなので、後ほどの朝食が楽しみだ。昨日は朝と夕方の2回に分けて自重トレーニングをしたこともあり、今朝は朝からお腹が空いている。今度の自重トレーニングは青森の滞在最終日か函館にいる時にしよう。


今、秋田の空に晴れ間が見え、朝日が差し込んできた。昨日は結構激しい雨が降っていて、歩くのには不便であった。今日も雨が降る時間帯があるとのことだが、昨日よりも雨脚は弱そうであり、夕方からは曇りになるので幸いだ。朝食を済ませて少し休憩をしてから、まずは秋田市立赤れんが郷土館に行く。そこからは秋田県立美術館と秋田市立千秋美術館の2つの美術館に足を運ぶ。そして今日を締め括る形で、平田篤胤之奥墓に行く。今回秋田に立ち寄った目的は、神道家の平田篤胤の墓に行くためだったので、今日その目的が達成される。平田篤胤の墓は秋田大学のすぐ近くなので、せっかくなので秋田大学も少し見学をしよう。さて、今日もまたどのような出会いがあるか楽しみである。秋田:2022/10/11(火)07:39


9231.【日本滞在記】本質主義者のハイデガーのテクノロジー思想


時刻は午前8時を迎えようとしている。ホテルの自室の窓からは、向こうに山が見える。秋田の自然は雄大だ。そして、目の前には教会が見える。教会の鐘がちょうど手が届きそうな場所にある。静かに進行していく雲を眺めながら、昨日読んでいた論文について振り返っている。いつもであれば夢について振り返るところだが、日本に一時帰国して依頼、今のところ一度も記憶に残る夢を見ていない。4日間連続で夢を見ないというのは本当に不思議だ。


昨日は、フーコーのテクノロジー哲学についての論文を読み進めていた。それについてはすでに色々と書き留めたが、やはり権力を1つのテクノロジーと捉え、権力発生装置もまたテクノロジーの産物であると捉えているところが特徴的である。さらには、4つのテクノロジー類型を提示したこともフーコーの貢献であり、それらの類型については丁寧に押さえておきたいと思う。昨日はその他にも、ハイデガーのテクノロジー哲学に関する論文も読んでいた。ハイデガーは本質主義者とも呼ばれ、その点については批判もあるが、テクノロジーに関する本質主義とは何かというと、テクノロジーとは何かと問う時に、そこで問われているのは個別具体的なテクノロジーではなく、テクノロジーの本質であって、それを重視するのが本質主義の意味だ。言い換えると、本質主義者は、個別具体的な様々なテクノロジーに通底する普遍的な性質を見ようとするのである。それでは、テクノロジーの本質とは何かというと、ハイデガーはそれを、現れに見て取る。テクノロジーは現れ、顕にするものなのだ。別の表現で言えば、テクノロジーはそれがあることによって初めて、また別の存在を生じさせ、同時に自ら自身の存在と機能を世界に現す働きを持っているのだ。重要なことは、ハイデガーはテクノロジーを単に目的の手段に捉えたのでもなければ、人間の行為としても捉えたのではない。その代わりに、真実を現成させるものとしてテクノロジーを捉えたのである。


テクノロジーに関する即非の論理というのも興味深い考え方だ。原初のテクノロジーである火を眺めてみた時に、燃焼している火と燃えている火それ自身は異なる。燃焼していると眺めているのは客体としての火だが、それは火そのものではない。燃焼とは火の性質ないしは機能であって、火そのものではないのだ。火は頑張っても火自らを燃やすことはできない。火の本質的存在は燃えているという状態を超越した何かなのである。この見方は実に興味深い。自分という存在の本質もまたそのようなものなのかもしれない。それは常に自分の機能的側面を超えていて、主体も客体も超えている。秋田:2022/10/11(火)08:07


9232.【日本滞在記】日本人的感覚の喪失を感じながら/

テクノロジーと芸術との深い関係性


時刻は午前10時を迎えようとしている。そろそろホテルを出発して、観光に出かけようと思う。先ほど、ホテル3階の中華料理店で朝食ブュッフェを食べた。中華料理店なので、まさか朝から中華ではないよなと思っていたが、その心配は杞憂に終わり、日本食と洋食の料理を摂ることができた。秋田名物の料理がいくつもあり、とても美味しかった。今日は食べることをしなかったきりたんぽ鍋を明日の朝に食べてみよう。


朝食を摂りながら、ぼんやりと窓の外に見える秋田駅を眺めながら、自分がますます日本人的な感覚を喪失していることについて考えていた。日本人としての感覚を全て取り去ることなどできず、その必要もないのだが、いつも日本に帰って来て抱くなんとも言えない寂寥感は、自己の日本人的感覚の喪失に由来するものだったのだとようやく分かった。今回の一時帰国では、そうした寂寥感はもはやほとんどないが、わずかに孤独感を伴う感覚があることは確かだ。それは自分がますます日本人的な感覚を喪失してしまうのではないかという実存的な不安に由来するものだったのだということが、欧米生活を10年送って来てようやく気づいたのである。自分が日本人でなくなることはないだろうが、日本人的な感覚はどこまで失われてしまうのだろうか。そして後に何が残るのだろうか。それについてふと考えてしまう自分がいた。


早朝に書き留めていたテクノロジー哲学に関する続きとして、テクノロジーの語源であるテクネーは、元々技術のことだけを指していたのではなく、真を美に変換して現し出すことを意味していたことを追記しておきたい。テクネーの語源が意味することは、テクノロジーの本質はもともと芸術の本質でもあるということだ。ここに、テクノロジーと芸術との間に横たわる深い関係性を見る。今から訪れる博物館と美術館では、両者のその深い繋がりを感じ取ることができるかもしれない。秋田:2022/10/11(火)09:57


9233.【日本滞在記】秋田市立赤れんが郷土館と秋田県立美術館を訪れて


時刻は午後3時を迎えた。つい先ほど観光を終えてホテルの自室に戻って来た。少し休憩がてらコーヒーを淹れて、今それを味わっている。幸いにも今日は嬉しい方向に天気予報が外れ、観光中は晴天に恵まれていた。朝食を摂っている時には雨が強く降っていたが、朝食を摂り終える頃には雨が止んでいて、そこからは傘を差す必要が一切無く、雲間から時折顔を覗かせる太陽の下に観光ができた。本日最初に訪れたのは、秋田市立赤れんが郷土館で、ここではルネサンス様式とバロック様式の双方で作られたレンガ館を楽しんだ。中の特別展示として、勝平得之記念館で、勝平の版画コレクションを堪能し、人間国宝関谷四郎の作品を堪能した。とりわけ、関谷氏の斬新かつ流麗な形を持つ作品たちには思わず見入ってしまった。その次に訪れたのは秋田県立美術館である。ここで一番印象に残っているのは、藤田嗣治(1886-1968)の「子供へのまなざし」と題された一連の作品と、巨大な壁画『秋田の行事』という作品だ。長らくパリで活動をした彼の生き様に関心を持ったこともあり、帰りにミュージアムショップで『藤田嗣治:作品と生涯』という書籍を購入した。秋田県立美術館を後にして、次に向かったのは秋田市立千秋美術館であった。残念ながらここは現在改築中のようで中に入れなかったが、その代わりに同じ建物の内に、秋田の芸術家を選りすぐって作品の発表の場とする美術展「アーツアーツ2022」が無料で開催されていて、中に入ってみた。すると、想像以上にどの作品も素晴らしく、色々と得るものがあった。物事の二面性を扱った作品を通して、物質の表裏は実は連続した表面であって、表裏を分ける境界線を作ることができないという解説文に何か触発された。それは物質的世界のみならず、精神世界における現象の表裏にも同様のことが当てはまるのではないかと思う。ある心的対象を眺めた時、それはまず片方の面が立ち現れ、視点を変えることによって裏の面を見ることができるが、実際には心的対象物の表裏も連続した表面で構成されているのではないかと思う。これは認識論的にももっと深く考察できるトピックかと思う。それは否定弁証法と接続させてみると、また面白い気づきが得られるかもしれない。ある面ではない反対側を見るというのは否定性に裏打ちされた思考法であり、反対側の面を見ることによって一つ次元の違うものが知覚されたら、それは否定弁証法的な現象だと言えるのかもしれない。秋田:2022/10/11(火)15:41


9234.【日本滞在記】生の証・生者の特権/花との交流


つい今し方仮眠から目覚めた。今日も観光で方々を歩いたので、今夜はぐっすり眠れそうだ。お風呂にゆっくり浸かって、旅の疲れを癒したい。今回秋田に来た目的は、平田篤胤之奥墓に行くことであった。そこに向かう道中は晴れていたので、散歩がとても気持ち良かった。平田篤胤の墓に行く途中に、秋田大学の構内を横切った。そこには秋田大学の学生たちの姿が見え、学生たちがとても可愛らしく見えた。そのように見えた自分を見て、自分も歳を重ねて来たのだということを実感した。外見の年齢や身体的な年齢は依然として若さを保っているように思えるが、精神的な次元で確かに年齢を積み重ねて来たことを実感させた瞬間であった。若い学生たちを見ていた時にふと、希望に満ちた彼らもまた何かしらの痛みや苦しみを抱える存在なのだと思った。そう、生きている人間は誰しもが痛みや苦しみを覚えるのだ。しかし、別の見方をしてみると、それは決して否定的なことではない。端的には、自分には痛みや苦しみが世の証のように思えるのである。果たして死人は痛みや苦しみを覚えるのだろうか。特定の宗教観を保持していなければ、そして合理的な思考を働かせれば、死人には少なくとも生者が抱えるような形での痛みや苦しみはないはずである。ということは、痛みや苦しみは生者のある種の特権であり、それは生きている証を指すのではないかと思ったのである。仮眠の最中にも同様の想念がやって来て、それを言葉の形にしておきたかった。


今日は風が強く、体幹を鍛えている自分でも少しよろけてしまうほどだった。2ヶ月前に知人の嶋内さんがオランダに訪問した時、普段の自分の歩行距離感覚で嶋内さんを付き合わせてしまい、笑ってしまうことが起こった。自分の中では片道30分ぐらいであればとても近いと感じるのだが、どうやら嶋内さんはその距離だったらタクシーを使うとのことで笑った。今日は合計で2時間ぐらい歩いていたのではないかと思う。そのおかげで、旅の最中は普段の自重トレーニングだけでは得られない形の足腰の強化が図られる。また、歩いている最中は方々を観察しながら歩き、色々な発見や刺激が得られ、思考も冴える。そう言えば、今日は道端に咲いていた美しい花に2回ほど目が止まった。花は自然における芸術作品、あるいは神による芸術作品なのだと思った。それは想像主の恩寵を具現化しているとしか思えない形で、オレンジ色の小さな花を眺めていると、幾分美的恍惚感がやって来た。思わず、「綺麗な花だね」と花に声を掛けている自分がいた。花には人間のような主観的な意識はないが、花には人間とは違った固有の主観性がある。自分の主観性と花の主観性は交流可能であり、人間が優しく声を掛けることによって花が笑顔になり、元気良く咲くという現象はその証左だろう。人間ではない全てのものたちとの交流できる喜びに賛歌を送りたい。秋田:2022/10/11(火)16:18


9235.【日本滞在記】過ぎゆかないもの/平田篤胤の墓を訪れて


秋田の夕暮れ時の空をホテルの自室から眺めている。今日はとても風が強い1日だった。今、上空の雲も足早に過ぎ去っている。雲の進行と同じく、自分の人生もまた着実に流れて行っているのだろうか。しかしながら、流れの外から流れそのものを見てみると、人生における流れとは絶えず常態的に進行しているものであるがゆえに、果たしてそれを流れていると形容していいものか迷う。確かにそこには連続的な変化が存在しているが、果たして人生は本当に過ぎゆくものなのだろうか。変化は過ぎゆく。しかし何か過ぎゆかないものがあるように思えてしかない。過ぎゆかないものがあるから過ぎゆくものがあるのではないだろうか。Aが成立するためには、その片割れとしてのNon-A(Aでないもの)が必要なのだ。人生における流れが成立するために必要な、流れでないものとは一体何であろう。人生の流れそのものを考察するよりも、流れでないものを発見する方向に思考の舵を切ってみたい。


風の呼び声。今日はそれを聞いた。どこで聞いたかというと、平田篤胤の墓の前で聞いた。秋田大学のキャンパスを横切って、少し歩くと、平田篤胤の墓の入り口に関する標識があり、そこから山の方に入っていった。山の中に足を踏み入れると、山というのは何か不思議な力を持っていることに即座に気づいた。そこが聖域のように感じられたのである。そして、もののけ(物の気)を感じるのと同時に、神聖な気を感じたのである。山の中では虫の鳴き声や鳥の鳴き声が聞こえて来て、そして通り抜ける強い風が木々の枝や葉を揺らし、大変耳に心地良かった。いやそれはかなり表面的な感想であって、実際のところは、背筋がゾクっとするような畏怖の念を自分は抱いていたのであった。そう言えば幼少時代に、自然の中に入って自然から畏怖の力を感じると、危うく失禁してしまいそうになることがよくあったことを懐かしく思い出した。自分はそうした自然神秘主義的な、そして自然交感体質を昔から持っているようであり、それは大人になった今も変わらない。そのようなことを考えながら山の歩道を登っていくと、視界の先に平田篤胤の墓が広がった。墓の前には小さな鳥居があり、そこを潜った。その時に、突然強風がやって来て、平田篤胤に歓待されたのか、あるいは山全体が自分を歓待してくれたのか、何か自分の奥底から有り難さの感覚が滲む出来事があった。その感覚にしばらく包まれた後、平田篤胤の墓の前で目を瞑り、手を合わせて願った。自分の願いは、神道に関する探究を世界のどこかでこれから本腰を入れて行い、世界に神道的な世界観を共有し、それを通じて日本に何かしらの形で貢献をすることであった。そのための支援を厚かましいながら、神道4大家の1人である平田篤胤にお願いした次第だ。その願いが届いてくれれば、それ以上に勝る喜びはない。秋田:2022/10/11(火)16:38

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