No.4043 霊の響き_A Sound of Spirit
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1868, Music & Enlightenment
Music leads us to enlightenment.
In other words, without music, we cannot attain enlightenment.
Groningen; 06:27, 10/6/2022
No.1869, The Arrival of the Sacred
The sacred has arrived today for me.
The letter written by it provides me with profound insights into the world and myself.
Sheraton Amsterdam Airport Hotel; 19:21, 10/6/2022
下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。
本日の2曲
全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。
タイトル一覧
9203. フローニンゲンを出発する朝に/今朝方の夢
9204. 今朝方の印象的な夢
9205. 箏の稽古(40):進歩の実感
9206. フローニンゲン駅に停車する列車の中より
9207. 志望動機書を一気に書き上げて/バスカーの批判的実在論
9203. フローニンゲンを出発する朝に/今朝方の夢
時刻は午前4時半を迎えた。昨日はジムで運動をし、サウナで汗を流したこともあり、熟睡ができた。就寝時間もいつもより早く午後9時過ぎには就寝をしていたので、今朝は早く目覚めた。いよいよ今日はフローニンゲンを出発する。日本に向かうフライトは明日の正午だが、念のために空港近くのホテルに前泊することにし、今日は午後3時頃を目処に自宅を出発する。家全体に掃除機をかけ、荷造りが早めに終わっていれば、午後3時よりも早めに出発しようと思う。空港駅に到着したら、すぐにホテルに行くのではなく、空港の混雑具合を確認しようと思う。セキュリティーのラインがどうなっているかを覗きに行ってみる予定だ。混雑具合によって、明日の出発時間を決めたい。フライトそのものは正午のものだが、混雑によっては早めに空港に到着しておきたいと思う。セキュリティーを早めに抜けることができたら、いつものようにラウンジを利用したい。明日は、アムステルダムからヘルシンキに行き、そこで乗り換えて羽田に向かう。出国72時間前のPCR検査がなくなったのは有り難いが、どうやら機内ではマスクを着用しないといけないらしい。まだマスクを強制させられることに驚くが、話によると日本ではまだ街中でマスクをしている人がいるということを聞く。日本と欧州とでは状況が大違いである。
今朝方は、フローニンゲン大学でお世話になっていたルート·ハータイ教授と昼食を共にする夢を見ていた。ハータイ教授と私は、日本の定食屋でランチを一緒にすることにした。ちょうど私たちは日本にいて、ハータイ教授は日本が初めてのようだったので、案内も兼ねてその定食屋を選んだ。向かい合って座敷に座ると、ハータイ教授の後ろの壁に美味しそうなお粥の写真が貼られていた。私はそれを指差し、お粥が何かについて説明をした。すると、ハータイ教授はあまり関心がないのか、無表情で頷く程度だった。そこからお互いに注文をし、料理が届いて食べ始めてからも、あまり話が弾まず、気がつけばもう昼食を摂り終えていて、いつの間にかもうお互いに解散していた。そこで私は、ハータイ教授との話が弾まなかった理由について少し考えていた。そのような夢の場面があった。
さて、旅立ちの前の荷造りとして、今回はジャケットを持っていくだけで十分なのか、冬用のコートを持って行った方がいいのか悩んでいる。日本の気候を見る限りジャケット程度で十分だと思うが、欧州に帰ってきてフランクフルトに滞在している時が寒そうである。日本の滞在に関しても、東北や北海道に滞在している時にもジャケットは必ず必要のように思えるので、今回はやはりコートではなくジャケットを持参することにし、羽織れるカーディガンを持っていくことによって、寒い場合には着込むようにしたいと思う。フローニンゲン:2022/10/6(木)04:44
9204. 今朝方の印象的な夢
時刻はゆっくりと午前5時を迎えようとしている。先ほど今朝方の夢について1つ振り返っていたが、それ以上に記憶に残っている夢を見ていたので、それについても振り返っておきたい。夢の中で私は、サッカーの合宿に参加しようとしていた。それは小学校時代のサッカークラブのメンバーたちと一緒に参加するものだった。合宿所にはバスで向かうことになっていて、途中で観光地を巡る楽しみがあった。最初に到着した観光地では、どういうわけか脳外科手術を観察することになった。脳外科手術が一般公開されている変わった病院を訪れ、病院の手術室で行われている手術を観察していると、人の額があんなにも簡単に切り開かれることを驚いた。また、患者の態度も様々で、落ち着いて眠っている人もいれば、恐怖心に顔を歪めている人など様々だった。幾分ぞっとする手術の光景を見た後は、公園が豊かな美術館に出向いた。そこでは自由行動ができたので、仲の良い友人たちと一緒に館内を見て回った。ある部屋に入ると、そこには美術品は何も置いておらず、畳の部屋が広がっていた。そこに一歩踏み入れると、愛犬に似た小さなトイプードルが2匹現れた。2匹のトイプードルはとても小さく、掌に乗るぐらいの大きさだった。2匹のトイプードルの頭を撫でると、彼らは尻尾を振りながら隣の部屋に続く小さな穴の中に入っていった。壁に空いた穴から隣の部屋を覗くと、2匹のトイプードルは隣の部屋の欧米人の中年女性のところに行き、その女性と戯れていた。するとすぐに、再びこちらの部屋に2匹が戻ってきた。すると驚いたことに、彼女と何を話していたのかを2匹は記憶していて、彼らに触れると彼女との会話の内容が分かった。すごい能力を持っているなと2匹のことを感心し、再び彼らの頭を撫でると、2匹は喜んで尻尾を振った。そこで2匹と別れ、館内の続きを見ていこうと思った。もう友人たちはおらず、そこからは1人で館内を巡ることになった。すると、近くの若い男女たちがピアノの演奏を聴きたいと話していた。館内にはピアノはなかったが、突然元気の良い声が聞こえ、見ると若者数人がグランドピアノをどこからか持ってきて、1人の女性が演奏を始めた。その音色はとても美しく、館内全体に広がっていた。私は公園に続く窓を開けて、公園から流れてくる風を浴びながら、ピアノの音色を楽しんでいた。気がつけばもう集合の時間が迫っていることにハタと気づいた。集合は15:49と言われていて、急いで駐車場に向かう必要があった。美術館を後にして、公園内を走って横切っていると、大学時代のゼミの友人がいて、彼に声を掛けようと思ったが、今はいち早く駐車場に行かないといけなかったので、声を掛けることなく通り過ぎた。しかし、来る時はガイド役のコーチの後ろについていくだけだったので、駐車場の場所がわからなくなってしまい、相当に焦った。みんなは自分のことを待ってくれているようにも思ったが、集合時間を過ぎたらすぐに出発する可能性もあった。そこから私は空を飛んで急いで駐車場に向かった。車の走る車道を最初は低く飛んでいたが、それだと車にぶつかる可能性があったので、高度を上げ、そして速度も上げた。すると駐車場らしき場所を見つけたが、降り立ってみると、そこは大きな神社で、バスの姿はなかった。そこで私は友人に連絡しようと思い、携帯を取り出したところ、それがスマホではなく、昔使っていたガラケーであり、友人の番号がちゃんと保存されているか不安に思いながら携帯を開くと、友人の名前と紛らわしい名前がいくつかあって、友人の名前を正しく選んで電話をした。すると、友人とすぐに繋がり、まだバスは出発していないとのことだった。そこで私は、駐車場の住所を聞いた。しかし、スマホがないので住所を検索することができず、今いる神社の名前を教え、バスにそこまで来てもらおうと思った。だがそれも悪いような気がして、手元には宿泊用のタオルや着替えなど一式揃っていたので、近くの旅館にでも宿泊し、翌日自分1人で家に帰ろうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/10/6(木)05:05
9205. 箏の稽古(40):進歩の実感
時刻は午前11時半を迎えた。今朝は午前4時に起床し、そこからオンラインゼミナールのコンテンツの制作に取り掛かっていた。一時帰国前までに制作を終えようとしていた箇所を大きく上回る形でコンテンツが制作でき、ここで何も心残りなく日本に戻ることができる。コンテンツを切りがいいところまで作ったのちに、家全体に掃除機をかけ、トイレと浴槽を綺麗にした。それでもまだ時間があったので、荷造りを終えた。そこから今にかけては箏の練習をしていた。昨日のレッスンで先生に教えていただいたことをもとに稽古に励み、大きな進歩を実感した。とりわけ合わせ爪の奏法に関しては、2つの指を交差させるイメージで弦を弾くともう完全に同時に音が鳴るようになった。このようなコツがあるとは思ってもいなかったことであり、この指の使い方を身体に覚え込ませたいと思う。その他にも、トレモロが随分と上手くなってきていることを実感した。ジークンドーと同じく、肩の力を抜くことが肝要であり、これはアルペジオを行う際にも当てはまる大切な事柄だ。これまで集中的に「故郷」と「喜びの歌」を練習していて、もう2箏パートに完全に合わせて1箏パートが弾けるようになった。それぞれの2箏パートについても随分と進歩を見せている。特に「故郷」に関してはテンポもゆっくりのため、だいぶ上手くなってきた。「喜びの歌」の2箏パートはテクニック集にあるような指使いをするのだが、よくよく楽譜を分析してみると、全く同じパターンが3回繰り返されていることを発見し、楽譜の中にマーカーでそれらを囲って同じパターンであることを視覚的に見やすくした。そこからは小節を分けて練習した。まずはその主要モチーフの大きな塊を何度も練習してみると、不思議なことに、全体の演奏がとても行いやすくなった。このように、練習の仕方そのものにも進歩が見られることは喜ばしい限りだ。それをもたらしているのは、絶えず何かを学び取ろうとする気持ちを持って、練習そのものを楽しむ心があるからだと思う。嬉しさの感情と楽しさの感情は、学びの原動力であることを改めて強く実感する。フローニンゲン:2022/10/6(木)11:38
9206. フローニンゲン駅に停車する列車の中より
時刻は午後1時半を迎えた。今、フローニンゲン中央駅に停車している列車の中にいる。ロッテルダム行きのこの列車に乗り、アマースフォート駅まで行く、そこで乗り換えてスキポール空港駅に向かう。ここまでのところ帰国に向けて万事順調に進んでいる。帰って来てから綺麗な家で再び生活ができるように家全体を掃除した。また、忘れ物もないか入念にチェックし、帰国に向けて準備は万全である。やはり前泊をして正解だったと思う。仮に明日の朝に空港に向かっていたならば、スキポール空港の混雑問題のために余裕を持って家を出発しなければならず、その場合には朝の6時前には出発しておかなければならなかったはずである。そうなると、朝の起床は今日ぐらい早くする必要があり、ヘルシンキから日本までのフライトは行きは14時間ほど掛かるので、できるだけ移動時間を少なくすることが懸命だと思った。今回はひょっとしたら欧州から日本に帰る最後の機会かもしれず、それであれば尚更ゆったりとした旅にしたかった。それでは今から、神学大学院の出願に向けた志望動機書のドラフトを執筆しようと思う。出願書類は包括的に見られるが、この志望動機書が最も重要であることは確かだ。これまでの自分の取り組みの棚卸しとして、そして神学大学院以降の自分を想定しながら志望動機書を執筆することは、最良のリフレクションの機会になるだろう。
ドラフトの執筆に取り掛かる前にふと、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私は、ASローマの試合を観戦していた。チームには今のメンバーではなく、セリアAを優勝したときの往年のメンバーが揃っていて、プレーがとても華やかだった。そこには中田英寿氏の若かりし頃の姿があり、彼からのキラーパスをアルゼンチンのエースストライカーであったバティストゥータがもらって見事なゴールを決めた。その時のスタジアムの観戦は凄まじく、ローマのサポーターの情熱を肌で感じた。すると、気がつけばスタジアム近くの遺跡に自分はいて、遺跡の観光をしていた。遺跡に足を一歩踏み入れた時、意識が古の時空間に飛び、意識の時空間超越性を感じた。スキポール空港に向かう列車の中:2022/10/6(木)13:58
9207. 志望動機書を一気に書き上げて/バスカーの批判的実在論
今無事に乗り換えをし、スキポール空港に向かう列車の中にいる。先ほど1時間半以上の時間があったので、神学大学院に出願するための志望動機書のドラフトの執筆に取り掛かっていた。制限字数は1000字ほどであり、先ほど900字ほど一気に書き上げた。今夜と明日の空港のラウンジで執筆を続ければ、晴れてドラフトが完成しそうである。日本にいる間は基本的に原稿を寝かせるが、一度どこかのタイミングで寝かせたドラフトの加筆·修正を施そう。それにしても最近の自分の集中力は極めて高く、何をやっても高い集中力で一気に物事を進めていく力がある。それはきっと、学術的な研究だけではなく、武術や芸術の実践を行いながら、身体に良いものを食べてよく睡眠を取っていることと関係しているだろう。
先ほどプラットホームを歩きながら、ロイ·バスカーが提唱した批判的実在論について考えていた。批判的実在論の焦点は、実在世界とそれに関して私たちが形成する概念との間の関係にある。実在世界は、私たちが知り得ないものとして存在しているが、完全にそれを知り得ないのではなく、間接的にそれを知ることができる。実在世界は出来事を生み出すメカニズムを持っていて、出来事を通じてメカニズムを知ることを通じて実在世界の一端を間接的に知ることが可能となる。私たちが経験するのは出来事そのものではなく、出来事は何らかの理論ないしは概念を媒介にする形で知り得る対象となる。私たちは、実在世界だけではなく、経験世界そのものも直接全てを知ることなどできないのだ。もう1つ、バスカーの用語の中で、「認識論的誤謬(epistemic fallacy)」という概念がある。これは先日のラスキー博士との英語のセッションの中でも言及されていたものである。それは何を意味しているかというと、この世界に何が存在しているのかという問題を、私たちはこの世界で何を知りうるのかという問題に還元してしまうことを指す。この誤謬に陥らないようにしながら、自然科学者にせよ、社会科学者にせよ、彼らが行うべきことは、私たちが経験することや実際の出来事を生み出しているメカニズムを特定することである。メカニズムの記述が理論となり、理論は私たちの知識が可謬的(fallible)なものであるがゆえに、その理論が妥当なものとして存在している時点における最も真実性を内包したものであるということを念頭に置いておく必要がある。そのようなことを考えながらプラットホームを歩いていた。スキポール空港に向かう列車の中:2022/10/6(木)16:20
Comments