No.3930 朝の精霊_A Morning Spirit
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1717, A Flower Garden
Morning light is oily this morning.
Hidden words show up in front of me.
The world is a flower garden.
Groningen; 09:02, 8/17/2022
No.1718, Effortlessness
My spontaneity arises effortlessly.
My humor arises effortlessly.
My creativity arises effortlessly.
My potentiality arises effortlessly.
Everything is effortless and natural.
Groningen; 09:17, 8/17/2022
No.1719, A Catfish of Morning Light
A morning air is very refreshing.
A catfish of morning light showed up.
It’s enjoying swimming in the morning air.
Groningen; 09:50, 8/17/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8933. 今朝方の夢
8934. 人間関係構築方法の癖/ゴルトベルク変奏曲のアリアの演奏に向かって/一橋大学の歴史学の精神を体現して
8935. 原発建設とテクノロジー哲学
8936. 現代社会を覆う種々の神話の構造分析に向けて:ロラン·バルトの“Mythologies”を読みながら
8937. 夏の終わりを感じながら
8938. 箏の稽古(3):調弦を終えて
8933. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。今、空にはうっすらとした雲がかかっていて、気温は17度と涼しい。昨日が夏らしい日の最後であり、今日からは秋を感じさせてくれるような日が続く。今日の最高気温は23度で、正午過ぎからは激しい雨が降るようだ。先日は雨の予報が外れたが、今日はどうやら本当に雨が降りそうな気配がある。今日降る雨は、夏の終わりを告るものになるだろう。明日からは、気温が上がったとしても25度ぐらいまでだ。秋の涼しさを楽しみながら、自分は毎日自らの取り組みに邁進していこうと思う。
今朝方は、蜘蛛が現れる夢を見ていた。先日も蜘蛛が現れる夢を見ていたように思う。その蜘蛛は何かこちらに危害を加えてくるようなものではなく、ただ大人しくじっとしていた。部屋の片隅に佇む蜘蛛をぼんやり眺めていて、気がつくと蜘蛛と同じ世界にいるような感覚がした。ドリームディクショナリーを確認すると、蜘蛛は部外者の感情を示唆していると書かれていた。さて、何かアウトサイダーな感じを最近しているだろうか。そうした感情はずっと自分の中にあるような気がするし、それが自分の活動の源泉にあるように思う。また蜘蛛は、女性性の象徴でもあるそうだ。それは、自己破壊的な衝動から自分を守ってくれる働きをするらしい。確かに、内在的に自分には強い自己破壊的な衝動があるように思え、そこから自分を守ってくれる働きが内側に流れているのはよくわかる。それで言えば、箏というのはやはり女性の演奏者が多い楽器であるため、箏の演奏を自分が始めたことは、自分の中の女性性の発露や女性性を高めようとする内側の働きによるものかもしれないと思った。
今朝方はその他にも、見知らぬ旅館に宿泊している夢を見ていた。朝食ができるのを待っている間に大浴場に行って風呂にでも入ろうかと思った。大浴場に向かうと、綺麗に掃除はされていたが、湯を張っている最中のようであり、もうしばらく時間がかかりそうであった。露天風呂は朝は閉まっていて、大浴場の中の大きな浴槽に浸かりたいと思った。大浴場の窓の外には、うっすらと暗い朝の世界が広がっていた。まだ太陽が昇っておらず、電気もほとんどついていない状態だったので、大浴場に電気を灯すと外から丸見えなのではないかと少し心配した。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/8/17(水)07:31
8934. 人間関係構築方法の癖/ゴルトベルク変奏曲のアリアの演奏に向かって/
一橋大学の歴史学の精神を体現して
今朝はさほど風はないのだが、2階の窓を開けていると、とてもひんやりした風が部屋に流れ込んでくる。昨日までは気温が高い日が続いていたこともあり、2階の気温も上がっていて、今は外気との差によって、冷たい空気が部屋に流れ込んできていることが大変心地良い。
昨日、リープラジャパンさんの内面探求ワークのIFDの2回目のセッションを終えた。ちょうど数日前に両親と3歳までのエピソードについて色々と話を聞いていたこともあり、それらをセッションの中でも共有した。昨日のセッションを振り返ってみると、人間関係の構築の仕方に関する自分の癖をもう少し丁寧に探求してみようと思った。幼少期から今にかけて、確かに自分は広く多くの人に心を開きながらも、友人関係を結ぶのはごく少数の人たちであった。門戸を広げるのだが、結局門の中に入れるのはごく少数の人であるという人間関係の構築の癖が見えてくる。その背後にある幼少期の頃の体験を含め、何がそのような人間関係の構築方法を形作ったのかをさらに掘り下げていこう。
今日もまた時間を取って箏の稽古をしたい。今は指の動かし方を含め、基礎的なことを習得していく時期だが、同封されていた説明書の中にある「さくら」を練習したり、自分が弾きたい思い出のJ-POPの曲などを早く練習したいと思う。以前にそうした曲の楽譜は購入しているので、あとは楽譜を読み解きながら練習を開始するだけだ。将来的には、クラシック音楽の曲も箏で演奏してみたい。例えば、バッハのゴルトベルク変奏曲のアリアを演奏できるようになることは1つの目標である。バッハの曲には弾きたいと思うものがたくさんあり、その他にも自分の好きな作曲家の思い入れのある曲を箏で演奏できるようになろう。そこに向けての鍛錬は怠らない。それもまたジークンドーの鍛錬と同じく、楽しさと喜びに満たされた形で行っていく。
この1週間以内に、改めて自分が卒業した一橋大学の歴史学の系譜を辿っていた。母校にはとりわけ経済の観点から歴史を辿っていく学派があり、その特徴として、異端的であるということが自分の関心を引く。例えば、旧帝国大学にある正当な歴史学が扱わないようなテーマやトピックに切り込んでいくことが特徴として挙げられる。こうした異端な領野に切れ込んでいくというのは、自分の精神そのものを表しているように思う。先日購入した和書は、随分と一橋の関係者の書籍が多かった。彼らの書籍を読むことを通じて、歴史学的なものの見方を養い、それを自分の研究に活かしていきたい。フローニンゲン:2022/8/17(水)07:50
8935. 原発建設とテクノロジー哲学
地元における原発の建設について先日考えていたことに引き続き、今朝方も上関原発の建設について考えていた。いや、それは原発建設全般に関係することでもあり、さらに拡張させれば、人間がテクノロジーとどのように付き合うのかという問題に触れたものでもある。自分がテクノロジーの探究に向かったのは、地元における上関原発の建設が無意識の層で深く関係しているように思う。古くはハイデガーが指摘しているように、テクノロジーは人間の手を離れて活動する性質を持つ。端的には、人間がテクノロジーを完全に制御することなどできず、テクノロジーがまるで独自の意思を持っているかのような形で動き始め、テクノロジーが暴走してしまうリスクをゼロにすることはできない。とりわけ原発の建設に際しては、テクノロジーが何からの環境要因や内在要因において暴走しうるということを深く自覚しなければならないように思う。当然ながら、リスク分析やリスク対策は細心の注意を払って入念に行っているのだろうが、仮にそれを行ったとしても、テクノロジーは人間の理性を超える形で誤作動や暴走してしまう可能性があるのである。ハイデガーの古典的なテクノロジー批判に立ち返りながら、様々なテクノロジー哲学者の論考を参照することを通じて、原発の問題や、ソーシャルメディアやメタバースなどの現代のテクノロジーの構造的問題について考察を深めていきたい。
早朝の天気予報から変化があり、今、少し小雨が降ってきた。当初の予定では正午過ぎから雨が降る予定だったが、午前8時半を迎えた今においてすでに雨が降り始めている。空には雨雲のようなものが見えないので、雨が風で運ばれてきたのではないかと思う。土砂降りでは決してなく、とても静かに雨が滴っていて、その音がとても心地良い。それでは今から朝の動的ストレッチをし、そこからいつものように創作活動を行い、読書に勤しむ。今日は昼前にアントレプレナーファクトリーさんとの定例の打ち合わせがあり、正午過ぎからは旅を取り上げたオンラインセミナーがある。今日もセミナー後には補足の音声ファイルを作成しよう。昨日、親友のメルヴィンにラップの影響を受けたので、音声ファイルの作成もある種のラップ的な表現行為のように思えてくる。全てを喜びの感情に包まれた形で楽しみながら従事していくこと。今日もまたそのような1日になるだろう。フローニンゲン:2022/8/17(水)08:26
8936. 現代社会を覆う種々の神話の構造分析に向けて:
ロラン·バルトの“Mythologies”を読みながら
バルト三国を訪れて以降、そしてスウェーデンを訪れて以降、エストニアの作曲家アルヴォ·ペルトのピアノ曲やスウェーデンのピアノ曲を聴いてばかりだったが、今朝からは再びバッハに戻ってきた。今、グレン·グールドが演奏するバッハのピアノ曲集に耳を傾けている。ここからしばらくは、バッハの音楽共に読書をしていくことになるかと思う。
今朝方に日本の近世の経済思想史に関する和書を読み終え、そこからはロラン·バルトの“Mythologies”という書籍を読み始めた。今回の書籍の一括注文では、精神分析の観点から資本主義を見ていくだけではなく、記号論的な観点からも同種の試みをしたいと思っており、バルトのこの1冊はその目的のために購入した。今朝方書き留めていた原発の問題にせよ、現代社会にはいくつもの神話が存在している。それは宗教的な神話とは異なるものだが、その構造も性質も実にそれと似ている。原発の安全神話などはまさに宗教的な神話と変わらない構造と性質を持っている。現代に跋扈する種々の神話を特定し、それを分析することをこれからより強く意識してみたいと思う。バルトはソシュールの言語学を用いて神話の構造分析をしている。自分の場合は、パースの言語学を用いてそれを行っていきたい。言語というのはそもそも、意味伝達を完全に行うことができないという性質を不可避に持っているため、言葉を積み重ねれば積み重ねるほどに、必然的に意味の溝が生まれる。神話の誕生には、そうした言葉の限界性が多分に関係しているし、逆に言えば、神話は言葉の意味の溝を覆う大きなナラティブとして機能しているとも言える。神話というのもある種の良薬かつ毒薬にもなり得るようなものであり、神話がおかしな機能を私たちにもたらすのは、私たちが意味の溝に無自覚となり、それに囚われることによって歪な意味を汲み取ったり、生成したりすることと関係しているように思える。原発の安全神話もまさにそのような類の事例だろう。経済成長神話というのも同様である。数日前に読んだナラティブ経済学に関する書籍と併せて、引き続き、現代社会に蔓延っている種々の神話を分析するために、記号論的観点と精神分析学的観点の修養に努めたい。
バルトの論考を追っていると、どうやらバルトは神話の毒薬的側面に注目し、それが現代人の思考と行動にどのような影響を与えているのかを分析していることがわかる。神話による制約から解放されるために、バルトは詩的言語の重要性を説いている。ビョンチョル·ハンもまた言語の遊戯的性質に注目し、詩的言語の大切さを指摘しているので、このあたりにハンとバルトの共通性を見る。どうやら私たちは、言語によって自らを制約する一方で、言語によって自らを解放するという矛盾的生き物のようだ。前者は言語の神話的性質により、後者は言語の詩的性質による。もちろん、言語の神話的性質を良薬として活用するのであれば、それは私たちを解放させることにつながるかもしれない。しかし、神話というのはどこまでいっても集合的なものであり、個人の解放をもたらすのは、やはりその人に根付いた詩的言語の力を用いなければならないのかもしれない。フローニンゲン:2022/8/17(水)10:24
8937. 夏の終わりを感じながら
時刻は午後5時を迎えようとしている。天気予報では正午過ぎから雷を伴う雨が降るはずだったが、その予報はいい意味で裏切られ、この時間帯まで雨が降っていない。一応今の降水確率を確認してみたところ、降水確率が93%となっているので、いつ雷が伴う雨が降り始めておかしくないだろう。
つい先ほどまで、正午過ぎから行われた旅のセミナーに関する音声ファイルを作成していた。今日のセミナーの振り返りとして8本ほど音声ファイルを作成し、明日にまた書籍の紹介を含めてもう少し音声ファイルを作成していきたい。それらの書籍は旅とは直接関係ないが、せっかくセミナーに参加してくださった皆さまには、関心をさらに広げ、今後の学習や実践に活きてくるような知識を共有したいという思いで、明日はここ数日以内に読んだ何冊かの書籍を紹介しようと思う。本日のセミナーの中で、自分の日々の日記を読んでくださっている方がいると知って大変恐縮に思うのと同時に、嬉しさも込み上がった。この日記はあくまでも自分の人生における活動の軌跡を書き留めるためのものなのだが、それでもこの日記を参照してくれている方がいることを知って、私的な日記にも社会的な意義があるのかもしれないと思った。
そのようなことを思って日記を執筆する筆を置き、箏の稽古をして夕食を食べて今に至る。冒頭で書き留めていたことに関係して、夕食の準備をし始めるぐらいから雨が降り始め、雷が伴う強い雨が降ってきた。それは夏の終わりを告げ、秋に向かうことを知らせるような雨だった。今もなお強い雨が降っていて、雨音を聞きながらこの日記を書き留めている。雨の中、PostNLとDHLの配達員が門の前にやってきて、電話をしてくれ、書籍を届けてくれた。セミナーの最中にも一度書籍の受け取りをし、今日はかなり大量に書籍を受け取った。おそらく昨日と同様に35冊ぐらいの書籍を受け取ったのではないかと思う。これから梱包を解き、いつように届けられた日付を書籍の中に書き込んでいく。書籍が届けられた日というのは自分にとってその書籍との出会いの日でもあり、記念日なのだ。同様に、書籍を読み始めた日や書籍を読み終えた日についても書籍の最初と最後に書き込みをするようにしている。また、読書をその日に中断した場合には、そこまでの箇所の日付を書き込んでおいて、そこにしおりを入れるようにしている。そのように、自分の本は記録だらけなのである。記録するというのは、自分がこの世界に存在していたという証であり、自分がこの世界と交流していたという証でもある。記録は記憶とも結びつき、記憶というのは長らく自分の探究テーマの1つになっている。書斎の部屋にはグレン·グールドの演奏するバッハのピアノ曲が響き渡り、少し開けた窓からは雨音が聞こえてくる。この何気ない1つの瞬間もまたここに記録され、自分の大切な記憶として刻まれていく。フローニンゲン:2022/8/17(水)19:30
8938. 箏の稽古(3):調弦を終えて
雨の勇ましさに心を打たれる。雨は何を考え、何を感じながらこの地上にやって来ているのだろうか。雨の気持ちになりながら、激しく降りしきる雨を眺めている。夏の暑さを運び去ってくれる雨に感謝しながら、同時に夏の死を感じる。夏という季節が死に、新たな秋という季節が誕生する。四季というのもまた死と再生を繰り返していることを知っていただろうか。一度たりとも同じ夏はなく、一度たりとも同じ秋はない。春夏秋冬、いつもそれはただ一回限りの現象として立ち現れる。そこには固有の命があるのだ。
今日の夕方の箏の稽古は大変有意義なものだった。稽古そのものが有意義だったというよりも、初めて楽器のチューニングというものを自分で行い、音が合ってくることに無情の喜びを感じていた。そもそもこの2日間は音程が合っていない状態で「さくら」などを弾いていて、自分でも何かおかしいなと思っていたのだが、音程をそのまま放っておきたいと思うぐらいに、とにかく箏を自分の指で弾いて音を出すことが楽しかったのである。音程などどうでもよく、原始人が道具を使って音を立てて喜ぶのと同じような感覚で、とにかく自分の動作によって音がこの世界に生まれ落ちることが楽しかったのである。この喜びは、調弦後にはきっともう味わうことができないかもしれない。だが、この気持ちこそ初心なのであり、初心をいつまでも忘れず、1音に1つの命が宿るという思いで、新たな音が誕生することを常に驚きを持って迎え入れたい。そしてそれに純粋な喜びを感じ続けたい。
今日は、文化箏を購入したZEN-ONのYoutube動画を見ながら、スマホにダウンロードしたチューニングアプリを使って調弦をしていった。その方法として、箏の右端の口前と呼ばれる部分のカバーを外し、そこにある13本の弦に対応したピンを付属部品のT字ハンドルを1つ1つ差し込んで音程を合わせていった。「G平調子」に全ての弦の音程を合わせて行く際に、1つ1つ正しい音が弦から弾き出されることに喜びを感じていた。この2日間は、音程の外れた薄気味悪い「さくら」を弾いていたので、調弦を終えた明日からは気持ちよく音が出せそうだ。もう1つ別の動画を見ながら、生田流における座り方についても学び、弦の弾き方の基本についても学んだ。この動画はもう少し繰り返し視聴し、こうした最低限の基礎的なことを押さえた上で、オンラインの箏のレッスンを受け始めてみようと思う。季節の緩やかな進行と共に、日々の緩やかな探究の深まりと共に、ジークンドーの鍛錬も箏の演奏もゆっくりと深まっていくのを実感する。こうした小さな変化の積み重なりになんとも言えない至福さを感じる。自分を取り巻く世界は至福さの権化であるかのようだ。フローニンゲン:2022/8/17(水)19:43
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