No.3907 砂浜の思い出_A Memory of a Sandy Beach
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1695, A Beautiful Sunday Morning
A beautiful Sunday morning is shining at this moment.
I’ll pick up my friend from Japan at Schiphol airport.
We will enjoy a short trip in the Netherlands for 4 days.
Groningen Central Station; 09:19, 8/7/2022
No.1696, A Dramatic Moment
A dramatic moment happens all the time.
Even now, I can see and feel it.
Every moment is dramatic to some extent.
Groningen Central Station; 09:20, 8/7/2022
No.1697, A Unique Memory
I’ll arrive at Schiphol airport soon.
I noticed that the seat I’m sitting on right now has a unique memory.
Interesting enough, however small it is, a place has its own memory and continues to accumulate it.
On a Train for Schiphol airport; 11:35, 8/7/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8890. 今日からのオランダ国内旅行に向けて
8891. 今朝方の夢
8892. 教会の鐘の音を聞きながら/中庸的な在り方/同期する自己
8893. 政治学的なものへの関心/透明化する社会の中で
8894. 規律社会から能力社会への移行とマクロな暴力からミクロな暴力への移行
8895. 消費記号論/座席の記憶
8890. 今日からのオランダ国内旅行に向けて
時刻は午前6時を迎えた。今、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。先ほどは、近所の教会の鐘の音が聞こえてきた。こんなに早い時間から鐘の音が聞こえてくるとは思ってもみなかったが、今日な日曜日なので礼拝を知らせる鐘だったのだろうか。今この瞬間の空は、朝焼けがうっすらと出ていてとても美しい。日の出の時間が最も早い時期はすでに過ぎているが、それでも朝6時の段階では辺りはもう随分と明るい。今の気温は9度と大変肌寒いが、日中は21度まで上がる。今日は雲ひとつない快晴のようであり、知人の嶋内さんがオランダにやって来ることを祝福しているかのようだ。今日から2日3日で滞在するオッテローの気候も抜群に良い。暑過ぎず、それでいて肌寒くもないというちょうどいい気温だ。オッテローはフローニンゲンよりも2度ほど気温が高く、今日は24度まで気温が上がるそうだ。
今日の計画として、正午にスキポール空港に嶋内さんを迎えに行くことになっているので、自宅は9時前に出発しようと思う。フローニンゲン北駅から中央駅にまず向かい。旅の際にはいつも利用している中央駅のカフェでコーヒーを購入し、そこで少し寛いでから、列車にコーヒーを持ち込む形で乗車する。そこからは2時間半ほど列車に揺られてスキポール空港駅に到着する。今この日記を書いている瞬間に、嶋内さんがちょうど空港に到着されたタイミングだろうか。当初は午後1時過ぎに到着される予定だったが、フライトの変更に伴い、午前6時15分に空港に到着されることになった。こちらも迎えに行く時間を2時間ほど早めたが、それでも嶋内さんには空港に随分と長い間待ってもらうことになる。スキポール空港からオッテローまでは、まず電車でユトレヒト中央駅に行き、そこからアペルドーンという町に行く。オッテローまでは色々と経路があるのだが、今回はアペルドーンを経由した方が一番乗り換えが少なく、そして所要時間が短いのでこの経路を選択した。アペルドーンの駅を降りて、そこからオッテローまではバスで行ける。アペルドーンという町に訪れるのは今回が初めてなので、バスがやって来るまでは駅周辺の雰囲気を楽しもうと思う。ホテルには午後3時頃に到着できそうなので、すぐにチェックインできそうで何よりである。今日からの嶋内さんとのオランダ国内旅行を大いに楽しみたい。フローニンゲン:2022/8/7(日)06:16
8891. 今朝方の夢
オランダ国内旅行に出かける前に、今、洗濯物を洗っている。洗濯機が朝から懸命に動いてくれている音が2階の書斎にも聞こえて来る。この間スウェーデン旅行から帰ってきたばかりだが、今の自分は旅を相当に欲しているらしく、また次の旅に出かけたいという思いが沸々と湧いて来ている。今日からはオランダ国内旅行だが、今の自分の内側の様子を眺めていると、来月の初旬に、やはりアイスランドとアイルランドに訪問しようと思う。それが日本への一時帰国前の最後の旅になるだろう。日本に戻るのは10月の初旬なので、文字通り、1ヶ月に1回のペースで国外に旅行に出かけている。旅の刺激が自分の探究や実践に大きな影響を与えているところを見ると、今回の国内旅行もまた何か自分の変化を促すきっかけになるのではないかと思う。
今朝方は印象的な夢を見ていた。最初に見ていたのは、沼地のような場所にいたことである。そこで私は、友人とバス釣りをしようとしていた。沼地に到着してすぐに、友人が奇妙な生き物を見つけた。それは人間の声を発する生き物で、見た目がとても特徴的だった。目が1つしかなく、額のところに大きな目が1つだけ付いていた。体の大きさは60cmぐらいだろうか。生物種の分類としては、両生類のようであった。なので沼の中を泳ぐこともできるし、陸に上がることもできた。その生き物は人間の言葉を喋ってから沼の奥の方へと消えていった。友人がスマホでその生き物について調べてみると、どうやらその生き物は食べられるようであり、珍味のようだった。特にその辺りの地元の人はその生き物を食べることを好んでいて、帰り際にその生き物に出会ったことについて地元の人に述べると、捕まえておけばよかったのにと言われた。しかし私は、あの1つ目の生き物をどうしても食べる気にはなれなかった。見た目もそうだが、人間の言葉を話すところもまた食べる気にさせなかったと言える。
次の夢の場面では、今日からオランダにやって来る嶋内さんが登場していた。嶋内さんと私は、自分が過ごした小学校時代の地元を歩いていて、普賢寺という寺の周りに生えている山菜を取りながら、それをどこかで調理したいと思っていた。近くに山口大学の附属小学校があることに気づき、そこの調理室を使わせてもらうと思った。学校に到着し、調理室に入ると、そこは器具が豊富だったので、山菜をうまく調理できそうだと思った。まずはゴーヤのような食材から調理しようと思った。嶋内さんはそれは苦そうだと述べたが、実はそれは茹でなくても生で食べても甘味があり、そのことを伝えた。すると嶋内さんもそれを食べてみて、予想外の美味しさに驚いていた。そこからは先ほど取った様々な山菜を調理していくことにした。調理が終わる頃には、近くで夏祭りの花火が上がるらしく、波止場の方に出かけてみようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/8/7(日)06:37
8892. 教会の鐘の音を聞きながら/中庸的な在り方/同期する自己
時刻は午前9時半を迎えた。今、フローニンゲン中央駅のプラットホーム3bに止まっているデン·ハーグ行きの列車に乗っている。旅行の際にスキポール空港に行くときにはいつもこの列車に乗っているので、この列車に乗ると、これから旅が始まるのだという気持ちになる。今回は国外旅行ではなく、オランダ国内旅行だが、旅に向けた気持ちはいつも新鮮で新しい。そして、旅に固有の高揚感がある。
フローニンゲン北駅に先ほどいたときに、午前9時を知らせる鐘の音が聞こえて来た。早朝にも鐘の音が聞こえて来て、これは日曜日に恒例のことなのだろうかと考えた。これまでは日曜日の朝に鐘の音を聞くことはあまりなかったように思えるが、単にそれは自分が意識していなかっただけなのだろうか。いずれにせよ、フローニンゲン北駅で、ほぼ無人のプラットホームの上で教会の鐘の音を聞いたとき、エストニアの作曲家アルヴォ·ペルトのティンティナブリ様式の曲を思い出した。今日はとても涼しいが、朝日は燦然と輝いていたので、鐘の音を聞きながら静かな活力が自分の内側から湧き上がって来るのを感じた。
開放的であることは開放過多に傾きがちであり、閉鎖的であることは閉鎖過多に傾きがちとなる。どちらでもないあり方。能動でも受動でもない在り方に自分の無限の可能性を見出す。開かれながらにして閉じたり、閉じながらにして開かれること。そうした在り方を可能にしてくれる中庸的な在り方に今の自分はいる。
これから始まる旅は、現代の時間の問題を克服したものとして実現されるはずである。現代の時間の問題は、ビョンチョル·ハンが指摘するように、加速だけではなく同期できないことが問題なのだ。同期不全が跋扈し、それでいて絶えず何かに追われている状態にあるのが現代人の特徴である。そうした特徴を克服した在り方で今日からの旅は過ごされていく。絶えず自分は自分自身と同期し、自然そのもの、世界そのもののと同期しながら今ここに在り続ける。フローニンゲン中央駅:2022/8/7(日)09:45
8893. 政治学的なものへの関心/透明化する社会の中で
列車が動き出し、スキポール空港駅に向かい始めた。今日は日曜日であるからか、普段よりも世界の雰囲気がまろやかである。とても穏やかな雰囲気が世界に溶け出していて、世界は輝きを顕現させている。
このところは政治学的な書物を読むことが多く、テクノロジー哲学者のアンドリュー·フィーンバーグの書籍を読んでいても、民主主義とテクノロジーを絡めた話がよく出て来る。ここで改めて、政治学に関する書籍を集中的に読んでいきたいと思う。そういう時期に差し掛かっているようなのだ。現代の民主主義はよく言われるように、その基盤から溶解し始めている。対話と討議の基盤を失い、ビックデータによる民主主義が横行し始めている。ビッグデータによる民主主義というのも、今この瞬間は望ましい方向に機能していないが、フィーンバーグの言う民主的理性を適用していけば、ビッグデータによる民主主義にも政治的な活路を見出せるかもしれない。とかく自分はテオドール·アドルノやマックス·ホルクハイマー、さらにはハイデガーのように、テクノロジーに対してディストピアのビジョンを知覚しやすいので、その態度はテクノロジーに対する建設的な批判を加える基盤でありながらも、テクノロジーの価値や良薬の側面についても見つめていかなければならないだろう。ビッグデータによる民主主義の実現においてもそうである。
列車に揺られながら、ビョンチョル·ハンの論考を思い出している。ますます透明化していくこの社会。当然ながら、汚職や不祥事の撲滅につながる情報の透明化は重要だが、ハンが指摘するように、透明化がイデオロギーと化し、私たちの生活のありとあらゆるところにそのイデオロギーが侵食して来ることは避けなければならない。イデオロギーが物神化され、それが全体主義的に展開されるとなると、それこそ私たちの生はより一層空虚なものになってしまう。秘匿性があるからこその生の意味があることを忘れてはいけない。
透明化していく社会の中にあって、重要なことはハンが述べているように、否定性を大切にすることだ。発達理論と絡めれば、自我の境界線を明確に定めておくことの大切さを思う。もちろん、最終的には自我の境界線を自ら乗り越えながら世界そのものと交感していくことが理想だが、その前段階として、境界線を作為的に溶解させようとする透明化のイデオロギーには断固として抵抗していかなければならない。境界線が溶解させられることは、さらなるナルシシズムを個人に助長させる。歪んだ自己愛を持つ人間がこれ以上社会に増えてしまうことは、共同体のさらなる崩壊を加速させてしまう。そのような懸念事項が脳裏をかすめたところで、列車はアッセンに到着した。スキポール空港に向かう列車の中:2022/8/7(日)10:03
8894. 規律社会から能力社会への移行とマクロな暴力からミクロな暴力への移行
ハンは暴力の歴史を歴史学的かつ系譜学的に探究する中で、現代は、規律社会から能力社会への移行と、マクロな暴力からミクロな暴力への移行が起こっていると指摘する。ハンの指摘通りの点は多々あるが、当然ながら現代においても、フーコー的な意味での規律社会的側面は、学校や工場や軍隊の中に残っているし、マクロな暴力の構造も依然として温存されている。重要なことは、そうした移行にグラデーションがあり、分布として能力社会的側面やミクロな暴力の側面が強くなり始めていると理解した方がいいだろう。
確かにハンが指摘するように、明示的な形で「~するな」「~すべき」という規律社会固有の制限は減少して来ている。自分個人に当てはめて考えてみると、そうした命令的言葉によって自分の行動が制限されることはほとんどなくなった。日本においてはコロナの際に、自主規制という形で国民の行動が制限されたが、それもまた要請事項としての呼びかけであり、明示的な形で行動を規制したわけではない。そこにも否定性よりも肯定性が勢力を握り始めている様子を見る。
マクロな暴力に話を戻してみると、それは戦争における敵·味方図式や加害者·被害者図式として現れるような暴力である。今現在、ロシアとウクライナは依然として戦争状態であり、台湾を巡ってアメリカと中国もまた緊張状態にある。そうした現象を見ていると、当然ながらこの社会にはマクロな暴力も依然として残っている。だが、ハンが指摘するように、現代社会には、それと同様に、あるいはそれ以上に厄介な形での暴力が存在している。それは暴力を振るう主体が不明確であり、匿名の主体が振るう暴力である。マクロな暴力は、明確な境界線を引き、境界線の外を暴力の対象とする。一方で、ミクロな暴力においては明確な境界線はなく、その暴力は自分自身に向けられる。まさに、肯定性を過度に奨励する能力社会においては、自己を駆り立て、自己を搾取する形で、自らが暴力を振るう加害者でもあり、被害者でもあるという形での暴力を振るうことになる。自分が自分に対して暴力を振るっているゆえに、暴力の主体は自分そのものであってもそれに気づくことが難しくなっているのである。
列車は途中駅のズヴォレに向かっている。ズヴォレは移民局でよくお世話になっている町だ。8月を迎えた段階で、オランダ永住権と欧州永住権の取得の資格を得た。当初の予定では9月に申請しようと思っていたが、10月は丸々日本に一時帰国しているので、11月の初旬にオランダに戻って来てからその申請をしようかと思う。一応、申請から受け取りまでの期間がどれくらいかかるのかを調べてみる。申請から受理までの時間がさほどかからないのであれば、日本に帰国する前に申請を終えてもいいかもしれない。スキポール空港に向かう列車の中:2022/8/7(日)10:22
8895. 消費記号論/座席の記憶
列車は途中駅のズヴォレに到着した。スキポール空港まではもう1時間ほどである。今日は本当に天気に恵まれ、爽快な青空が広がっている。平坦なオランダの国土を走る列車から、どこまでも青く澄み渡る空が見える。
ボードリヤールが指摘するように、現代人は飽くなき記号の差異化を通じて際限のない消費活動に勤しんでいる。記号の差異化を求めるのは、自我が自らの存在を定位するためと、発達の本質にある差異化によるところが大きいだろう。そこに消費を煽る社会的な精神やシステムが介入して来ると、人々はますます無自覚的に記号としての消費に従事する。ボードリヤールの消費の記号論を参照していると、改めてソシュールよりもチャールズ·サンダース·パースの記号論を用いてテクノロジーやマネーの内在性質について分析したいという思いになる。このあたりは、記号論を社会現象に適用した先人のアプローチを参考にして、同時にパースの記号論についての理解をさらに深めながら、テクノロジーやマネーに対してその記号論を自分なりに適用していこうと思う。
消費は記号が生み出す神話であると述べたボードリヤール。記号的差異化でしか自己のアイデンティティを保てないというのはやはり病理的であり、記号が生み出す神話としての消費活動は、その際限のなさと自己搾取的な側面も併せて考えると、ひどく暴力的に映る。
もう30分ほどで列車はスキポール空港に到着する。今停車した駅で、近くに座っていた初老の女性が下車した。そしてすぐさま、その席に新たに乗車した若い女性が座った。その光景を見たとき、その席の眼差しが自分の内側で立ち現れた。先ほどまでは初老の女性が座っていたという記憶をその座席は持っていて、今度はその記憶に上書きされる形で若い女性が座るという新たな記憶が加わった。このように、その座席は人知れず記憶を蓄えていく。今自分が座っている席も、きっと固有の記憶があるのだろう。それは自分の知らないところで、色々な人に座られるという経験を経て積み重なっていく記憶である。このように小さな場所であっても、そこに固有の記憶が存在していることは見過ごすこのとできない世界事象のように思える。スキポール空港に向かう列車の中:2022/8/7(日)11:31
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