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8879-8884: フローニンゲンからの便り 2022年8月5日(金)



No.3900 地平線_A Horizon


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1691, The Most Precious Gift

One of the most precious gifts for us would be our awareness.

Keep your awareness mindful, and you will be blissful.

Groningen; 08:33, 8/5/2022


No.1692, The Deepest Realm of My Inner World

No winds and no waves.

It is the essence of the deepest realm of my inner world.

Groningen; 19:39, 8/5/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8879. 今朝方の夢

8880. テクノロジー本質主義の3つの特徴

8881. 関心対象のテクノロジー/テクノロジー実体主義の危険性

8882. プロセスとしての社会/フランクフルト学派の第四世代として

8883. テクノロジー思想における美学

8884. デカルトとパスカル


8879. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。今、ここ数日と同じく、鳩がホーホーと鳴き声を上げている。今はうっすらと空に雲がかかっていて、とても涼しい。今の気温は17度であり、日中は20度までしか気温が上がらない。今日から5日間は涼しい日々が続き、そこから2日間ほど最高気温が28度に達する日が続くが、以降もまた25度ぐらいにまで気温が下がる。今年の夏はどうやらとても過ごしやすいようだ。


今、静かな心で今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、小学校時代の女性友達と一緒に話をしていた。彼女は中学校に上がるときに別の中学校に入学したので、彼女とは久しぶりの再会であった。彼女と話をしていた場所は、彼女の家の近くであり、そこは昔と随分と変わっていた。そのあたりは小学校に通う際によく通っていたのだが、中学校に上がってからはその辺りを通ることがほとんどなかったので、その開発ぶりに驚かされたのである。随分と道路が整っていて、交通量も多いことに驚かされた。彼女にその驚きを伝えると、近くにこの辺りの歴史を伝える記念碑があるとのことなので、そこに案内してもらうことになった。ちょうどこれから会社に行く時間ではあったが、その前にその記念碑に立ち寄る時間が少々あった。記念碑に到着すると、そこには不思議な生き物がいた。最初私は、それを銅像かと思ったが、突然動き出し、生き物だと思った。その生き物は、猿と犬を合体させたような生き物で、1mぐらいの大きさがあったし、肉付きもよく、表情は穏やかなながらも動きから獰猛な性格を感じさせた。その生き物は鎖で繋がれていたのだが、あまり近寄らないようにという警告文が近くにあった。もの珍しそうにその生き物をしばらく眺めた後、記念碑の説明文を読み、その辺りの歴史を学んだ。彼女に教えてもらうまでは、この辺りの歴史について全く知らない状態だったので、記念碑まで案内してくれたことにお礼を述べた。記念碑がある場所を後にしようとすると、突然2人の少年が私に黙って近づいて来た。そして片方の少年が私に木刀を渡し、今から木刀で勝負しろと言わんばかりの雰囲気を出していた。彼は黙ったままだが、木刀を握って真剣な表情で構えたので、本当に勝負をするつもりなのだとわかってこちらも構えた。そしていざ勝負が始まると、最初の数打は、お互いの木刀を叩き合う形になったが、私は相手の木刀をとっさに掴み、動けなくなった相手を思いっきり木刀で叩いて勝利した。彼は木刀を掴むのはずるいと述べたが、真剣勝負な場において、木刀を掴むことも当然の手段だということを述べると、2人は黙ってその場を立ち去った。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/8/5(金)07:32


8880. テクノロジー本質主義の3つの特徴


昨日、ハッとさせられたことがある。改めて考えてみると、マネーはテクノロジーに他ならず、金融市場を含めたマネーシステムもまたテクノロジーの産物に他ならないという当たり前なのだが、見落としていた気づきがやって来た。テクノロジーとマネーはそのようにしてつながっていたのである。テクノロジーとしてのマネーという観点でマネーを見ていくことによって、また新しい気づきがあるだろう。


今日もまたテクノロジー哲学の書籍を旺盛に読み進めていこうと思う。アンドリュー·フィーンバーグのテクノロジー思想を建設的に批判する論文が集まった論文集を今読み進めていて、その中でフィーンバーグが、ハイデガーのテクノロジーに対する存在論的な理解は本質主義であるという批判に対しての建設的な批判が展開されている箇所を読んでいる。フィーンバーグは、ハイデガーのみならず、ジャック·エラル、アルバート·ボーグマン、そしてヨルゲン·ハーバマスもまたテクノロジー本質主義者(technological essentialist)であると批判している。テクノロジー本質主義は、3つの要素から成り立っている。1つ目は非歴史主義(ahistoricism)、2つ目は実体主義(substantivism)、3つ目は一次元主義(one-dimensionalism)である。1つ目の非歴史主義というのは、テクノロジーに関するある現象がまるで全ての歴史に通底する性質だとみなす考え方である。例えば、合理的な管理と効率性を追求するテクノロジーがあった場合に、その性質がテクノロジーの全歴史に通底するものだとみなしてしまうことなどが挙げられる。2つ目の実体主義は、テクノロジーの本質は私たちの理解を超えたところからやって来て、テクノロジーの本質はコントロール不可能であるとする考え方だ。フィーンバーグは、民主的な理性を通じてテクノロジーを有効的に活用することを通じた人間解放を理想に掲げているため、テクノロジーの本質は手に負えないものであるとする実体主義の考え方に反対している。最後の一次元主義というのは、マークーゼの「一次元的人間」や「一次元的社会」という言葉から由来するもので、全てのテクノロジーは共通の本質を示すという考え方だ。フィーンバーグは、テクノロジー本質主義が持つ上記の3つの要素を批判しているわけだが、テクノロジーには共通の本質がありそうだし、全ての歴史に通底している本質もありそうである。また、テクノロジーの本質の1つに、私たちの理解やコントロールが及ばない性質もありそうだということを考えてみると、今の自分はフィーンバーグが批判するテクノロジー本質主義者なのかもしれない。フィーンバーグの論考と格闘する形で引き続き文章を読み進めていこう。フローニンゲン:2022/8/5(金)09:06


8881. 関心対象のテクノロジー/テクノロジー実体主義の危険性


早朝に鳴いていた鳩はどこかに行き、その代わりに今は1羽の小鳥が鳴き声を上げている。書斎の窓からその鳴き声が聞こえて来て、心がとても落ち着いている。つい先ほど、いつものように朝のコーヒーを淹れた。コーヒー豆をコーヒーミルで挽きながら、このコーヒーミルもまた道具としてのテクノロジーだと思った。テクノロジー哲学の書籍を読んでいるとすぐに気づくように、テクノロジーの定義は実に多様である。研究者ごとに定義は異なり、彼らが研究対象としているテクノロジーも自ずから異なる。確かに自分は、コーヒーミルやスマホを含めた小さな道具としてのテクノロジーにも関心はあるが、それよりも、文明学との接続の観点で言えば、システムとしての大きなテクノロジーに関心があると言えるかもしれない。教育システム、金融システム、政治システムなどのテクノロジーにより強い関心がある。それらは目には見えないものであり、まさに水や空気のように遍満している捉え所のないものだ。そうしたものに自分は関心がある。昨日の日記で書き留めていたゲシュテルとしてのテクノロジーは、それらのシステムとしてのテクノロジーには当てはまるが、コーヒーミルのようなテクノロジーには当てはまらない。コーヒーミルが自分を生産に駆り立てるような力を発揮しているわけではなく、確かにアフォーダンス的な力は存在しているが、それはゲシュテルとして認識の枠組みとしての機能とはまた違う。このように、自分がどのようなテクノロジーを意識しているかによって、テクノロジー哲学者が述べるテクノロジーの性質が当てはまらない場合があることには改めて注意したいと思う。先ほど書き留めていたテクノロジー本質主義の発想も、それがどのようなテクノロジーを前提としているのかをきちんと把握したいと思う。その意識を持って読書を進めていこう。


テクノロジーの本質は私たちの理解を超えていて、テクノロジーは人間には管理不可能だとするテクノロジー実体主義の考え方は、部分的にその正しさを認めたとしても、フィーンバーグがその考えを否定したように、ある部分においては反対の見解を持って接しなければならないと思う。テクノロジー実体主義の考え方はともすれば、危険な宿命論に陥りかねないし、テクノロジー倫理を蔑ろにする可能性がある。テクノロジーに対して規範的な意識を持つことは、テクノロジーの暴走を牽制する上で非常に重要であるが、テクノロジー実体主義の考えを採用してしまうとそうした牽制機能がうまく働かなくなってしまう恐れがある。確かにテクノロジーには私たちの理性が及ばない性質や、コントロール不可能な性質を持っているが、そうだとしてもテクノロジー実体主義を全面的に肯定するのではなく、理解もコントロールも及ばないテクノロジーと私たちはどのように接していくべきなのかを絶えず考えていくことの大切さを思う。フローニンゲン:2022/8/5(金)09:47


8882. プロセスとしての社会/フランクフルト学派の第四世代として


穏やかなフローニンゲンの暮らしが存在している一方で、ロシアとウクライナは依然として戦争状態であり、今は台湾をめぐる中国とアメリカの緊張関係も生まれている。ちょうど本日、日本の排他的経済水域の中に中国からのミサイルが落ちたというニュースがあった。現代社会は混迷を極めている。社会は水の如く絶えずゆっくりと流れるプロセスのようである。社会は決して不変ではあり得ず、絶えず形を変えながら生きている生き物のようだ。何が起こるかわからない社会の中で、起こることを全て引き受ける逞ましい諦念を持たなければこの社会を生きていけないのかもしれない。そして、絶えず社会を超えた世界そのものへの眼差しを持っておくことの大切さも思う。社会を超えたところに世界が存在しているという理解があれば、この社会に絶望で打ちのめされる可能性は緩和されるのではないかと思うのだ。社会の中に閉じず、世界そのものに開かれながらにして、日々の生活の中で自己の殻や社会の枠組みを超えて世界そのものと一体となる体験を積むこと。それは生の慰めのようなものかもしれないが、その慰めがこの生を生きるに値するものにしてくれているように思えてならない。


現在、リープラジャパンさんの内面探求ワークであるIFDを通じて、自分の出自を振り返り、今の自分が形成されたプロセスを振り返っている。そんな折、今読書を進めているアンドリュー·フィーンバーグはフランクフルト学派の第一世代であるハーバート·マークーゼに師事し、私が指示していたオットー·ラスキー博士はまさにフランクフルト学派の提唱者であるテオドール·アドルノに師事していた。以前より、自分もフランクフルト学派の血を受け継いでいるとは思っていたが、ふと、自分は第何世代の考え方を持っているのかと気になった。歴史的·思想的な整理をしておくと、フランクフルト学派の第一世代は、社会科学のイデオロギーと化した道具的理性からの解放に関心があった。第二世代は、ハーバマスを筆頭として、コミュニケーションツールへ関心を持ち、それらを通じた道徳心の発達に関心があった。さらには、極端なナショナリズム、排外主義、そして科学技術的理性による生活圏の植民地化の問題にも関心があったのが第二世代である。そこから第三世代は、1968年に世界各地で起こった学生運動を経験し、本質主義や実体主義などの考え方を排除し、構成主義ないしは構築主義の考え方を持ちながら、相対主義、多文化主義、グローバリゼーションの問題に関心を持っている世代であると言えるだろう。それでいくと、学生運動を経験している世代よりもずっと後に生まれた自分は、フランクフルト学派の第四世代に該当するように思えて来たのである。ただし、第四世代の定義は誰か特定の学者が述べているわけでは決してなく、重要なこととして、この社会の病理に対して絶えず批判的な意識を持ち、そして実践を通じてそこに関与していこうとする態度を持っていることは他の世代と共通したものなのではないかと思う。フランクフルト学派の第四世代としての自覚を持ちながら、引き続き自分の仕事を前に進めていきたい。フローニンゲン:2022/8/5(金)10:35


8883. テクノロジー思想における美学


時刻はゆっくりと正午に向かいつつある。空には柔らかそうな入道雲がポツポツと浮かんでいて、ゆっくりと空を散歩している。今日はそよ風が豊かであり、木々が気持ち良さそうに揺れている。窓を開けると、涼しげな風が室内に入ってくる。


先ほどふと、マネーやテクノロジーの探究は文明学探究の傘下にあり、現代社会の喫緊の課題と向き合うためにあることを再確認した。同時に、神道を通じた言霊学の探究は、より時間軸の長い探究として取り組んでいこうとも思った。絶えず現代の課題に引きつけた探究をする一方で、さらに形而上性を高めた日本語の言語哲学的探究を進めていこうと思う。


途中まで書き留めていた日記に再び戻って来た。時刻は午後4時を間も無く迎える。今日はとても涼しく、うっすらとした雲が時折太陽を隠し、そのおかげもあって暑さが感じられないのだろう。風もあって、それはひんやりとした感じをもたらしてくれる。


マークーゼのテクノロジー思想においてどのように美学が関連付けられるのかは長らく曖昧なところがあったが、今日の読書を通じて、少しその輪郭がはっきりして来た。マークーゼのテクノロジー哲学における美学思想は、テクノロジーの機能美などを対象にしているというよりも、テクノロジーを通じて人間がこの世界をどのように感じられるのかという意味での美的感覚を扱っている。また、人間の内側の意味的世界と外部の世界との調和という意味での美をマークーゼは重視しているようであり、それは意味の喪失した一次元的社会への批判とつながる発想だと気づく。そうした発想を持つマークーゼに影響を受けたフィーンバーグもまたテクノロジーを人間解放の可能性を有するものだとみなしている。フィーンバーグの思想の核には、「技術的政治(technological politics)」という考えがあり、それと美学思想がどのように関連付けられるのかをこれからさらに探究していこうと思う。そのためには再度、マークーゼの“Eros and Civilization (1955)”を読み返しておこう。


テクノロジーに対する見立てはフランクフルト学派の世代によって随分と異なる。第一世代はとりわけテクノロジーに対して否定的な見方をしていて、マークーゼを例外として、随分とディストピア的な思想であった。マークーゼの思想を汲んだフィーンバーグは、テクノロジーの解放の力に注目し、それと民主主義を絡めて肯定的な見方を提示している。テクノロジーを取り巻くフランクフルト学派の思想の歴史についても少しばかり整理をしておいた方がいいように思える。この点もこれからの読書の着眼点にしよう。フローニンゲン:2022/8/5(金)15:57


8884. デカルトとパスカル


今日もずっと英文書籍を読み進めていたが、夕方に休憩がてら和書を読んだ。森有正先生の『デカルトとパスカル 』を久しぶりに読み返した。森先生を通じてデカルトとパスカルに接近し、この2人の偉大な思想家の思想と在り方は自分に大きな影響を与えている。とりわけデカルトが孤独と静寂を求めてオランダにやって来て、自身の思索的探究を大いに深めていった点に共感の念を持つ。いやそれ以上に重要なのは、デカルトはオランダで隠遁生活を送っていたのではなく、自身の思索を深められる環境の中で書物を世に送り出すことを通じて、世の福祉に貢献しようとする強い意志を持っていたことである。そこに最大の共感の念を持つ。またデカルトは、合理的な思考の持ち主だと世間ではよく言われるが、それは超合理的な側面を持ち合わせ、デカルトが神秘主義的な思想を持っていたことにも注目をしなければなるまい。デカルトが様々な学問領域を狩猟し、大学では取り上げないような書物まで自身で取り寄せて読み漁っていたこと、その中でも魔術的なものにまで関心を示していたことを忘れてはならない。デカルトの思想に関する世間一般の大きな誤解は、デカルトが主客二分の二元論を提唱したというところでデカルトの思想の理解が止まっているところだ。確かにデカルトは主体と客体を分けて考察を深めていったが、自身の霊的体験やそれに基づく神秘主義的な思想に立脚する形で、主体と客体は実は同一のものであるという超越的な一元論的発想を持っていたところを見落としてはならないように思う。その他にもデカルトに共感の念を持つのは、ある日の夜にやって来た啓示的体験と夢についての分析を絶えず行っていたことである。そうした啓示的体験を過去にしている自分と、毎日夢の分析をしている自分とデカルトが自然と重なる。


パスカルに対しても共感の念を持つ。とりわけパスカル が、人間が自分の真の姿に目覚め、それを自覚し、自身の存在に不可避に潜む矛盾を止揚しながら人間のあるべき真の在り方に向かっていくという考え方は、自分の規範意識と実践の志向性と合致するものがある。パスカルの徳と愛に関する一連の思索もまた注目に値する。久しぶりに和書を読むことを通じて、また新たな刺激が注入されたかのようである。先人から学ぶことはまだまだ多く、彼らから得られることは無尽蔵にある。フローニンゲン:2022/8/5(金)17:46

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