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8871-8878: フローニンゲンからの便り 2022年8月4日(木)



No.3895 朝光の祝祭_A Festival of Morning Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1689, The Technological World

We are thrown into the world itself.

At the same time, we are thrown into the technological world.

Each of us is such a being.

Groningen; 11:57, 8/4/2022


No.1690, Human Liberation

Humans will be liberated someday.

How?

By giving up being human.

Groningen; 17:46, 8/4/2022


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8871. 今朝方の夢

8872. 今朝方の夢の続き

8873. 文化箏が無事に届くことに/今週末からのオランダ国内旅行への期待

8874. 課税システムへの関心/人類と文明の存続期間/テクノロジーを通じた解放

8875. テクノロジーの本質としての開示する力

8876. 死者が生者になること/日本語の内在性質に関する探究

8877. ジムで心地良い汗を流して

8878. 緑茶の愉しみ/民主的理性の産物としてのテクノロジー


8871. 今朝方の夢


時刻は午前8時を迎えた。今、鳩がホーホーと鳴く声が聞こえている。夏になってから、小鳥よりも鳩の鳴き声を聞く頻度が増えたような気がする。昨日は随分と気温が上がり、今日は昨日ほどではないが、それでも日中は27度まで気温が上がる。明日から4日間は再び20度を少し超えるぐらいの気温になるが、来週の水曜日からは再び最高気温が27度ほどになる。おそらくそこから8月の終わりまで気温が上がる日が続くような気がする。毎年数日間は30度を超える日が必ずあるので、この8月のどこかにそのような日がやって来るかと思われる。そうした日にはどこか涼しいところに出かけたい気分になるが、暑い日は数日間しかないことを考えると、その数日間を楽しむことを優先させようかと思う。


今朝方はいくつかの夢を見ていた。まず覚えているのは、片方がサッカーゴールで、もう片方が木でできたゴールのサッカーコートの中で行われている試合を観戦していたことである。片方のチームには小中学校時代の友人が何人か出場していたので、彼らを応援していた。試合が終盤に差し掛かり、均衡状態の中で、ある友人(TK)からのリスタートの早いスローインから、別の友人(YU)が針の穴を通すような見事なシュートを決めた。2人を含め、そちらのチームの選手たちは全員喜びを爆発させ、観戦している人たちも沸いたが、友人が放ったシュートはゴールとは認められなかった。どうやらゴールとして設定されている木よりも上にボールが通り抜けたため、ノーゴールととのことだった。私はそれを知って残念に思ったが、引き続き彼らを応援しようと思った。


次の夢の場面では、私は昔過ごしていた社宅のリビングにいた。そこにある若い男性の医者がやって来て、今から私の体を治療するという。何の治療かわからないまま、その医者の言う通りにしながら体を彼に預けた。しばらくすると、その医者がどういうわけか洋服越しに私の性器に触れ始めた。何の予告もなしに触れられたので、その瞬間は驚いたが、これも治療の一環かと思った。ところが、そこからはどうもその医者の触り方がおかしいことに気づき、私は寝ているふりをしていたとこから目覚め、その医者に何をしているのかと詰問した。すると、その医者は正当な治療を施していると主張したが、私は彼のことを信じることができず、その医者が訳のわからないことを言いながら再び治療を再開させようとしたので、私はかかとで蹴りを入れてその場から逃げようと思った。一度かかとで蹴るだけでは物足りず、その場から逃げる前に、その医者を完膚なきまでに叩きのめそうと思った。顔面や身体中に何回かかかと落としを喰らわすと、その医者はぐったりして瀕死の状態になった。それを見て私はもう大丈夫だろうと思ってその場を後にした。フローニンゲン:2022/8/4(木)08:33


8872. 今朝方の夢の続き


時刻はゆっくりと午前9時に向かっている。今日は27度まで気温が上がるようだが、今も部分的に雲があるように、雲が多い1日となるようだ。なので気温が27度まで上がったとしても、体感温度としてはさほど高くないのではないかと思う。今日は午後にジムに行こうと思っているので、ジムに向かう道中は気持ちよく感じられそうである。ジムでは、いつものようにジークンドーのトレーニングをするが、最初に丁寧にいくつかの動きを確認し、そこからは技を自由に組み合わせたインタバールトレーニングを何度か行おうと思う。それが終わったら、ジムの大きな部屋に移動し、そこで自重トレーニングを行いたい。ここ最近は鏡のある部屋でのジークンドーのトレーニングだけではなく、ジムで自重トレーニングも行うようになった。サウナにも入って良い汗をかいて自宅に戻ってこようと思う。


鳩のホーホーという鳴き声に心が癒されながら、今朝方の夢の続きを振り返っている。そう言えば、先ほど振り返っていた医者と対峙した夢の中で、その医者が私の呼吸が随分ゆっくりと穏やかであることを驚いていた。それは日々穏やかな呼吸をすることを意識して来たことの賜物であり、ゆったりとした呼吸が常態化していることによると思っていた。そのようなことを思い出しながら、さらに別の場面の記憶が蘇る。


夢の中で私は、欧州のどこかの国の駅にいた。そこは大きな駅であり、たくさんのプラットホームがあった。私はこれから13番のプラットホームから出発する列車に乗車することになっていた。プラットホームに到着すると、そこが水浸しであることに驚いた。どうやらここ最近の大雨によって、プラットホームが浸水してしまったらしいのだ。これではこのプラットホームから列車が出発するのは難しそうだなと思っていたら、近くの同じく波止場のように水が高くなっているプラットホームに列車が止まっていて、それらはどれも半分ほど水に浮いていた。そして、1つ列車はそのまま動き出し、プラットホームを出発した。その光景を見て、ひょっとしたら自分が乗車する列車も出発できるかもしれないと思った。しかし、構内アナウンスがあり、自分が乗車する列車は、プラットホームの0番に待機しているとのことだった。プラットホーム0番というのは臨時で設けられたものらしく、そこにはすでに何台か出発を待つ列車が待機していた。列車に無事に乗り込むと、そこにはとても綺麗で広い車内が広がっていた。高級感を感じさせる列車の中には、すでにまばらに人が乗車していた。そこで私は、小中学校時代の数名の友人と出会い、彼らと行動を共にすることにした。友人のうちの1人が先に列車の奥の車両で寛いでいるとのことだったので、彼を迎えにいくことにした。というのも、彼がいる車両よりも先頭車両の方が個室なので良いと思ったからである。友人の彼のところまでいき、先頭車両に引き返そうとしているところで最初の停車駅に止まった。どうやらそこは、哲学者のハンナ·アーレントのゆかりの地らしく、中学生ぐらいのインド人の集団がアーレントの記念館を訪れに行くようであり、彼らはそこで下車した。下車していく彼らの様子を眺めながら、今度自分もアーレントの記念館に行ってみようと思った。そこからは先頭車両まで立ち止まることなく歩いて行き、先頭車両の個室の扉を開けると、そこに設置されていた4つのベッドの全てに友人たちがすでにすやすやと眠っていたので、彼らを起こさないように、友人と私は隣の個室に行くことにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/8/4(木)09:07


8873. 文化箏が無事に届くことに/今週末からのオランダ国内旅行への期待


今朝方、とても嬉しい知らせが届いた。先日注文した文化箏がオランダに無事に発送されることになったのだ。以前箏を注文した際には、先日注文したゼンオンの「文化箏 羽衣」よりも一つ格上の文化箏を注文し、大きさはさほど変わらないが、それでも若干大きい物だったせいなのか何なのか、外国に送れないとのことだった。本当に微々たるサイズの違いのため、今回もオランダに発送されないかと半ば諦めの気持ちも混ざりながら注文したところ、来週の火曜日に箏が届くことになった。それと合わせて、20冊ほどの和書も到着する。欧米での11年目の生活が今月から始まり、振り返ってみると、和書を日本から取り寄せるというのはこれまでほとんどなく、それをようやく行い始めたのは昨年のことであった。欧米での10年目の生活の年に、英語の書籍だけではなく、和書も新たに購入して読みたいという思いが高まり、ようやく日本から和書を注文するようになったのである。確かに送料はかかるが、書籍の代金も送料も、書物から得られる知識の価値からすると全くもって微々たるものである。


今週末には、彼こと4年間ほどのお付き合いのあるアントレプレナーファクトリーの嶋内さんがオランダに来られる。二転三転して色々あったが、無事に日曜日に来られることになった。オランダ時間の正午過ぎにスキポール空港に到着するとのことであり、空港まで迎えに行く。そこから電車やバスに揺られ、クレラーミュラー美術館とデ·ホーヘ·フェルウェ国立公園のあるオッテローに向かう。そこで2泊3日ほど美術館や自然を楽しんだ後、フローニンゲンに行く。ちょうどフローニンゲンに行く日が火曜日であり、その翌日も嶋内さんと行動を共にすることになるのだが、嶋内さんにご協力いただく形で、近くのおもちゃ屋に届けられた箏と書籍を一緒に運んでもらえないかお願いしてみようと思う。客人にお願いするのは恐縮だが、嶋内さんがオランダに来られる日が変更になったことと、和書と箏が届く日が重なったことに何か意味があるかもしれない。クレラーミュラー美術館とデ·ホーヘ·フェルウェ国立公園に行くのは、ちょうど4年前の夏に訪れて以来なので、とても楽しみである。美術館の常設展や特別展示も楽しみであり、公園の入り口で無料で貸してもらえる自転車に乗って、嶋内さんとデ·ホーヘ·フェルウェ国立公園をサイクリングして楽しみたいと思う。4年前の夏はとても暑かったが、今回の訪問においてはそれほどの暑さでもないので、サイクリングはとても爽快に行えるのではないかと思う。色々と楽しみな国内旅行であり、きっと今回の旅行もまた良い思い出になるだろう。フローニンゲン:2022/8/4(木)10:42


8874. 課税システムへの関心/人類と文明の存続期間/テクノロジーを通じた解放


昨夜ふと、テクノロジーやマネーへの関心に付随して、課税システムについても関心が向かった。学問的には、会計学や経済学への関心と同じ観点で、税法に関しての関心が芽生えた。そう言えば、課税システムについて扱う体系立った学問はないのではないだろうか。法学の範囲の中に税法の取り扱いがあったりするぐらいで、税が名前に冠されている学問領域はないのではないかと思う。少なくとも、「税学(taxology)」という言葉は聞いたことがないし、それが学べるような大学もないように思える。いずれにせよ、税金というものが社会運営上、非常に重要なものであり、国際税務を考えてみたときにその影響力は途轍もなく大きく、まさに「税金戦争(tax war)」とでも形容できるような現象が起こっていることを見ると、この分野を見逃すことはできないと思う。ちょうど先日、課税システムの内在性質とその構造的問題を扱う書籍と出会うことができたので、今月に行う書籍の一括注文の際にそれを購入しておきたい。税への関心が芽生えたのは、自分自身がかつて国際税務コンサルタントとして仕事をしていた経験も少なからず影響しているだろう。今の関心は当然ながら、税というものをポストコンベンショナルな眼差して見つめていくということにある。それを通じて、社会の影に光を当て、それを治癒·変容していくことに関心があるのだ。


昨日、人間の文明が生まれてたかだか数千年であり、一方恐竜は1億6千万年もの間繁栄していたことを知り、少々驚いた。人間の文明の繁栄している時間の長さがとてもちっぽけなものに思えたのである。果たして人類は恐竜ほどにこの地球上に存続できるのだろうか。現状、それはほとんど不可能なのではないかと思える。人類とその文明は、隕石の衝突といった外部要因ではなく、人間自らが生み出した内部要因によって絶滅·崩壊するような直観がある。


そのようなことを考えながら、現代人はテクノロジーの力を借りながら、人間であることを止める形で人間から解放されていくという皮肉な人間解放の実現に向かって歩みを進めているようなビジョンも芽生えた。この発想は、マークーゼのテクノロジーを通じた人間解放につながる考えである。人間は人間であることを止める形で、人間であることによって生じていた苦しみから救済されるというのは皮肉ではあるが、それが実際に今進行している救済の在り方なのだと思う。そこから、テクノロジーを通じて民主主義の保持や発展を謳う考え方に出会うことについても考えを巡らせていた。そもそも民主主義は保持と発展に値するものなのだろうか。そうしたそもそも論を問う思考が芽生え、民主主義に取って代わるより良い政治運営システムはないのかと考え始めた。それを考えるためには政治学に関する知識が必要であり、それに関する探究も始めなければならない。いずれにせよ、根本的におかしなものを必死に守ろうとしたり、必死に発展させようとする姿勢は随分と滑稽なものに映る。フローニンゲン:2022/8/4(木)10:56


8875. テクノロジーの本質としての開示する力


テクノロジーの語源である、techneとlogosあるいはlogyという言葉を改めて考えてみた時に、この世界は技術に関する言説として存在しているのではないかと思った。世界そのものは、バスカーやラカンが指摘するように、人間の人知を超えた領域として無限に広がっているが、その大部分を構成するものとして、技術に関する言説ないしは物語というものがあるような気がしている。私たち人間は、知らず知らずにその言説や物語の中を生かされているという側面があるのではないかと思う。テクノロジーはそれこそ実に様々な性質を持つことがテクノロジー哲学の探究をしていて思うことなのだが、世界としてのテクノロジーという性質に注目することをこれからも念頭に置いておきたいと思う。ハイデガー的に言うのであれば、人間は世界そのものとテクノロジーとしての世界に投げ出された存在なのかもしれない。


ハイデガーは、テクノロジーには開示する力があると述べている。それをもう少し噛み砕くと、テクノロジーの本質は、私たちがテクノロジーを生み出すというよりも、生み出されたテクノロジーが自らを自律的な存在としてこの世界に在らしめる力を持っているということである。テクノロジーの存在が持続することにせよ、部分と全体の繋がりにせよ、それはもはや人間の手を離れた現象であり、そうした性質をハイデガーは見据えて、テクノロジーは自らの存在を新たに開示すると述べている。また、テクノロジーが機能する際にも、それは人間の手を離れる形で独自の在り方で世界に顕現するし、テクノロジーが機能して初めて立ち現れる世界が存在する。そこにもまた、テクノロジーが開示する力を本質に持っていることが窺える。テクノロジーがそれそのものとしてこの世界に立ち現れる性質と、テクノロジカルリアリティーとでも形容できるような独自の世界を顕現させる力に注目したい。


昨日、教育哲学者としての印象の強いプラグマティストのジョン·デューイがテクノロジー哲学を展開していることを初めて知った。シカゴ大学出版から出版されている2巻に渡る全集を過去に読んでいた時に、テクノロジーに関する記述をすっかり見落としていたようなのだ。その時には、デューイの教育哲学について知りたいと思っていたので、それは仕方のないことかもしれないが、今このようにデューイはテクノロジーに関しても考察を深めていたことを知ったので、改めて全集を読み返す中で、デューイのテクノロジー思想についても理解を深めていこうと思う。デューイは、テクノロジーの本質に知性と価値というものを見出しており、その意味するところをより詳しく理解していきたいと思う。教育哲学者のつながりで言えば、イヴァン·イリッチもまたテクノロジー哲学を展開していたことを知った。イリッチのテクノロジー思想についても探究の深めていきたいと思う次第だ。フローニンゲン:2022/8/4(木)12:18


8876. 死者が生者になること/日本語の内在性質に関する探究


死者が生者になること。それを可能にするのは、生者が死者を思い出すことである。生者の重要な役割の1つとして、死者を生者にするということが挙げられるかもしれない。私たちの記憶の中に存在する死者は、私たちによって思い出されることによって再び生命を得る。そして、記憶の中で彼らは生者として生き続けるのである。彼らは現実世界に生きていた時よりもありありとした形で私たちの記憶の中で生者として姿を現してくれる。


正午を過ぎたフローニンゲン。ちょうど今の時間帯が一番気温が上がるようであり、28度に達している。書斎のある家の2階の気温も随分と上がっている。少し雲があるおかげで暑さはさほどではないが、後ほどジムに行く際には半袖半ズボンがちょうどいいだろう。


ここ最近は再び日本の映画をよく見ている。特にこの直近10年間ぐらいに公開された映画を見ながら、日本が抱える現代的な課題にはどのようなものがあるのかを探究していて、同時に、日本の深層的な意識や世界観についても改めて関心の目を向けている。いつか欧米の大学で日本についての講座を受け持つことになれば、こうした映画を教材にしていくことも考えている。そのようなことを考えながら、日本の精神性について理解するために、日本語そのものを言語哲学的に探究していくことも研究テーマの射程に入れ始めている。以前より、言霊学への関心があり、重要な文献はすでに購入している。また、言語哲学者の井筒俊彦先生のアプローチもまた非常に参考になるものであり、今後本格的にこの研究に乗り出したら、井筒先生の書籍もきっと読み返すことになるだろう。日本固有の課題は、日本語によって構築された固有のリアリティから生み出されているため、そうした課題の治癒·克服に向けては、必然的に日本語の持つ特質について理解しなければならない。そのようなことを考えていると、そう言えば、フランス哲学者の森有正先生もまた、晩年において日本語の探究に乗り出していたことを思い出す。日本人の集合意識を形作り、日本固有のリアリティを生み出している母体装置としての日本語の内在性質についても、ゆっくりとだが着実に研究を進めていきたい。フローニンゲン:2022/8/4(木)13:06


8877. ジムで心地良い汗を流して


時刻は午後4時を迎えた。先ほどジムから戻ってきて、シャワーを浴び、さっぱりしたところである。今日はジムでサウナに入ることはせず、鏡のある部屋でジークンドーの鍛錬をした後に、大きな部屋で自重トレーニングをして汗を流した。およそ1時間ぐらいジムでゆっくりと過ごし、自宅に戻ってきた。今日は気温が28度まで上がっていて、今は26度ほどになっているが、まだ暑さがある。とは言え、それは気持ちの良い程度の暑さであり、嫌になるほどのものではない。ジムで体を動かし、ジムから自宅までも散歩をしていたので、体がまだ運動モードにあるのか、シャワーを浴びた後に少し汗が滲む。それもまた夏らしくてとても心地良い。


さて、今日のジークンドーのトレーニングでは、先日のプライベートレッスンとグループレッスンで習った事柄を特に意識して鍛錬をした。もう一度基礎に立ち返り、オンガードポジションの際に肩に力みがないかどうかを確認したり、ステップの際の力の発動点などを意識しながら練習を行なっていた。今日はジムにあまり人がおらず、オーナーとも最初そのような雑談をしていた。今、ジムの会員は夏休みとしてどこかに出かけているのかもしれない。あるいは、今日は天気が良かったので、公園などに出かけるなど、別のことをしていた可能性もあるなと思った。


これから夕食までの時間を使って、再びテクノロジー哲学に関する読書をしていこうと思う。今日からは再びアンドリュー·フィーンバーグの仕事に戻る。フィーンバーグの仕事をできるだけ丁寧に辿っていこうと思う。フィーンバーグの指導教官でもあったハーバート·マークーゼのテクノロジー思想についても併せて理解を深めることを期待したい。そして、フィーンバーグのテクノロジー思想をマネーの内在性質の解明に転用することも絶えず意識する。そして、現代のテクノロジー思想家との比較で言えば、バーナード·スティグラーと対比させていく視点も絶えず持って読書を進めていこうと思う。こうした意識を持つのと持たないのとでは、読書をする際に得られるものが歴然と異なるだろう。フローニンゲン:2022/8/4(木)16:28


8878. 緑茶の愉しみ/民主的理性の産物としてのテクノロジー


これまでは午前中から昼にかけてコーヒーを飲んでいて、それ以降はずっと水を飲んでいたが、今日からは午後に緑茶を淹れて飲み始めたのだが、とてもいいものだ。昨日に街の中心部のコーヒー豆·茶葉専門店に行き、コーヒー豆だけではなく、緑茶の葉っぱも購入した。数年前にこの店でお茶を淹れるための陶器も購入していて、久しぶりにそれを使ってお茶を飲んでいる。日本人として、緑茶を飲むと、何かDNAに刻まれているものを思い出すかのようにして、ホッと一息つくことができる。これからも午後から夕食前までの時間は緑茶をゆっくり味わいながら過ごしたい。


アンドリュー·フィーンバーグの書籍を再読していると、色々と気づきがもたらされる。以前集中的に読んでからしばらく時間が経っていて、その間にも自分自身の中で新たな知識が獲得され、色々と考察が深まっていたこともあって、読書から得られることにも必然的に変化があった。フィーンバーグは、ハーバート·マークーゼを博士論文の指導教官に持っていて、マークーゼのテクノロジー思想に影響を受けながらも、マークーゼとは異なる発想を持っている点が注目される。また、フランクフルト学派の第二世代であるヨルゲン·ハーバマスもまたテクノロジー思想を展開しており、フィーンバーグはマークーゼのテクノロジー思想も参考にしながら、同時に独自の論を展開している点も注目に値する。フィーンバーグの指摘の中でも重要だと思うのは、過去のフランクフルト学派の論客たちは、軒並みテクノロジーを道具的理性の産物だとみなして否定的な見解しか持っていなかったが、フィーンバーグは、テクノロジーが持つ「民主的理性(democratic rationalization)」にも注目している。これはある意味テクノロジーが持っている価値や意義のようなものであり、肯定的な側面である。テクノロジーが持つ民主的理性とは何かというと、新たなテクノロジーは、既存の社会構造を覆す形で活用されうることや、これま無視や抑圧されていた人々の欲求を満たす形で活用されるという側面のことを指す。当然ながらテクノロジーは毒薬にも良薬にもなりえて、それは良薬の側面である。フィーンバーグも認めるように、現在いや、過去から現在にかけてのほとんどのテクノロジーは、道具的理性に堕し、民主的理性が目指す方向性とは逆に、既存の社会構造を温存する形で活用されたり、人々を支配するような形で活用されてきた歴史がある。さて、テクノロジーをどのように活用すればその良薬的側面が表に出てくるのか。このあたりは、フィーンバーグが述べているように、テクノロジーのデザインも活用も政治的な側面があることを考えると、政治学に関する知識をより習得していかなければその道が見えてこないかもしれないと思う。フローニンゲン:2022/8/4(木)17:15

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