top of page

8857-8865: フローニンゲンからの便り 2022年8月2日(火)



No.3886 朝光の出現_Emergence of Morning Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1684, A Peaceful Marine Time

I’m having a peaceful marine time right now.

My inner world is a serene ocean.

Groningen; 09:22, 8/2/2022


No.1685, Infinity and Eternity

Both infinity and eternity are the intrinsic possibilities of humans.

Whether they become manifest or not depends on each of us.

Groningen; 16:16, 8/2/2022


No.1686, The Ephemerality of Humans and Human Civilization

Both humans and human civilization are very ephemeral in the history of the earth.

It is no surprise that both will disappear soon or later.

It will look like a bubble bursts.

Groningen; 16:27, 8/2/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8857. ビジュアリゼーション瞑想の再開/和書の一括注文を終えて

8858. 今朝方の夢

8859. ジャック・エラルの書籍を読みながら

8860. マトリック世界を構築し、そこに誘うテクノロジー/日本社会に対するキリスト教の影響度合い

8861. 仮眠中のビジョン/泡沫的な存在としての人間と文明/マルクスの影響

8862. テクノロジーの形而上学的性質

8863. 環境に溶け込むテクノロジー/マークーゼとエラルのテクノロジーによる解放思想

8864. テクノロジー固有のリアリティ

8865. ジークンドートレーニング121:グループレッスンの楽しさを味わって


8857. ビジュアリゼーション瞑想の再開/和書の一括注文を終えて


時刻は午前8時を迎えようとしている。今、穏やかな朝空から地上に朝日が降り注いでいる。どうやら今日も天気が良いようで、今日の最高気温は26度まで上がるようなので随分と暖かい1日になりそうだ。今日から3日間は同じぐらいの気温になり、金曜日からはまた気温が下がって20度ぐらいの日々が続く。依然として涼しい夏が進行している。


今日はロビンさんから声を掛けて頂いたので、ジークンドーのグループレッスンに参加する。思えば、グループレッスンに参加するのは今日が初めてである。これまではずっとプライベートレッスンだったので、他の生徒たちとのやり取りも含めて、楽しみなことがとても多い。今日のグループレッスンは人数がそれほど多くないために自分が声を掛けてもらえた。少人数なので他の生徒とはお互いをよく知れる良い機会になるのではないかと思う。レッスンは夜の8時からであることを考え、今日はいつも食べている夕食を昼食に持って来て、少し遅めの昼食にしようと思う。レッスン前か後にはバナナで栄養を補給することを考えている。どちらがいいかはまた直前に決めたらいいだろう。


昨夜からふと、寝る前に、少しビジュアリゼーションを兼ねた瞑想実践を再開させた。マインドとボディを統合したヒーリングに関するドキュメンタリーを見たことが大きな影響を与えたことは間違いないだろうが、ビジュアリゼーションの要素を取り入れた心身の健康を促進する瞑想を夜寝る前に意識的に少々再開させてみることにした。それをやったおかげか、今朝はいつも以上に熟睡できていたように思う。目覚めは爽快で、心身のエネルギーがまた新たに充電されているような感覚がする。この実践を今夜からもまた継続させていき、しばらくの間習慣的に行ってみたいと思う。


昨夜はそれ以外にも、8月の書籍の一括注文として、まずは和書を20冊ほど購入した。当初は和書の購入を考えていなかったが、数冊ほど興味深いものがあったので、それらの内容を再吟味したところ、それらの書籍は購入に値すると思った。そこからは、過去に購入リストに加えていた書籍を再度眺めてみて、今の自分の関心に合致するものを再検討した。すると、20冊ほどになった。江戸時代から現在にかけての日本の経済思想に関する和書を数冊、日本人の死生観·霊魂観に関する書籍も数冊購入し、それらは特に今の自分の探究と紐づいている。それと箏を再注文し、今回はなんとかオランダまで郵送してもらえることを祈る。フローニンゲン:2022/8/2(火)08:07


8858. 今朝方の夢


鳩がホーホーと鳴く声が聞こえている。朝日が燦然と降り注ぐ朝の世界の輝きは素晴らしい。目を奪われて、ずっと眺めていたいほどである。


今朝方はいくつか印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、競馬場にいた。今からそこでレースが行われるらしいのだが、出場するのは馬だけではなく、色々な動物たちだった。しかも彼らは軒並み人間の言葉が話せて、レース前には騎手と真剣に作戦を練ったり、楽しそうに話をしていた。私もまたレースに参加することになっていて、私は女性のカバと一緒にレースに臨もうとしていた。そのカバは薄ピンク色をしていて、毛がふさふさで、上に乗るとその毛並みがとても心地良かった。レースの前評判として、私たちは結構期待が掛かっていた。ライバルになりそうなのは、黒い男性のカバとそれからもう2、3頭の何らかの動物だった。いよいよレースが始まる時間となり、私たちは所定の場所に向かった。ピストルの合図と共にいざレースが始まると、私はカバの彼女と相談していたように、序盤から飛ばしていく戦略を取った。私たちはすぐさま先頭に躍り出て、後続の動物たちをどんどんと突き放していった。すると、1頭だけ自分たちの後を追ってくる動物がいたが、それとの距離も徐々に開いていき、私たちは独走体制に入った。結末を見る前に夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、自分のお尻の左部分に針を打ってもらって治療していた。施術師はプロの鍼師であり、的確な場所に針を打ってもらったが、最初は少し違和感があった。というのもそこに立っていたのはプロの鍼師だったのだが、どうやら実際に針を打ったのはそのアシスタントだったようなのだ。アシスタントの女性は経験がまだ浅く、何度も針を打ち直していたので、その痛みがあった。最終的にはそれを見かねてか、男性のプロの鍼師の方が針を打ち、そこでようやく安心感が生まれた。しばらくすると、針を打った場所ではなく、体全体が軽くなるな感じがして、さらには身体中に新たなエネルギーが循環するような感覚があった。鍼師の方曰く、それが狙いとのこととだった。私はどこか特定の部位が悪かったのではなく、その鍼師の方は、私のエネルギーの総量を増加させ、そしてエネルギー循環をさらに良いものにしてくれるためにお尻に針を打ったのだった。そのおかげで体がとても軽くなり、エネルギーにも満ち満ちていたので、私はお礼の言葉を述べて、すぐさま移動した。すると、気がつけば私は見慣れない体育館にいて、その体育館で、ある男性とタッグを組んで、1分間の時間を掛けて、大きな複数枚の画用紙を所定の場所に所定の形で運ぶゲームに取り組むことになった。1分間の時間は時計を見ずに体内で測定しなければならず、所定の形に関しても、大きさの指定はあるが、それも自分たちが画用紙の枚数をコントロールして自分たちで概算しなければならなかった。そのゲームに取り掛かり、一応の形ができたところで夢から覚めた。フローニンゲン:2022/8/2(火)08:24


8859. ジャック・エラルの書籍を読みながら


哲学者かつ神学者でもあったジャック·エラルの主著“The Technological Society (1964)”を読み返している。本書が執筆されたのは随分と前であり、現代の自分の目から見ると最先端テクノロジーについて触れているわけでは当然ないのだが、それでもテクノロジーの性質とそれを活用する社会の有り様に関するエラルの分析は非常に参考になる。本書を読み返しながら、テクノロジーというものが人間のように無駄な迂回をしたり、試行錯誤しながら何かに取り組む性質が欠落している点について考えていた。テクノロジーは、最初から効率主義的な産物なのである。そうした性質を内包するテクノロジーを活用する社会がどうしても効率至上主義に傾いていくのは必然なのではないかと思えてくる。その必然的度合いを緩めたり、そこからの解放に向けてはテクノロジーの性質を変化させるというよりも、やはり私たちがテクノロジーとどのように向き合うのかという態度や心構えの変容が重要になってくると思える。どんなテクノロジーでもいいが、それがこれまでにない形で無駄なことをし始めたら、私たちは困ってしまうだろう。うまく掃除機が作動しなかったり、バスの運行ルートがランダムになったりすると、生活が随分と面倒なことになる。そうしたことから、テクノロジーに効率性に反することを内包させるよりも——それはそれで面白い試みかもしれないが——、人間側に反効率的な精神と行動を浸透させていく方が賢明なアプローチなのではないかと思う。


効率性という観点で言えばその他にも、経済学というものが効率性を実現させる技術としての科学であると指摘されている点にも注目していた。経済学的という意味での“economic”と、倹約的という意味での“economical”は、言葉の作りがとても似ており、昨夜もそれについて少しばかり考えを巡らせていた。経済学というのは時間を倹約するという意味での効率性を求め、資源に関しても効率的な配分をすることを求めていながらにして、実質上は、時間の倹約には成功したとしても、資源の活用においては浪費としか形容できないような形で経済活動がなされている点は見逃せない。こうした無駄は肯定的な無駄ではなく、否定的な無駄として映る。社会全体として歪な効率性を求めることを通じて、人間は入力的刺激に自動的に出力を生み出すオートマトン的自動機械に仕立て上げられつつある。そのようなことを考えながらエラルの書籍を読み進めていた。フローニンゲン:2022/8/2(火)10:44


8860. マトリック世界を構築し、そこに誘うテクノロジー/

日本社会に対するキリスト教の影響度合い


ジャック·エラルのテクノロジー論を敷衍すると、資本主義がこの社会を作っているというよりも、その根幹にテクノロジーが社会を作っているという側面を見逃すことはできないように思う。資本主義における資本の増大が最大化されるためにもテクノロジーはなくてはならないものとして存在していることから、テクノロジーは資本主義にとっての、そして資本に取っての血液のようなものなのだろう。また、テクノロジーは固有の認識世界としてのマトリックス世界を生み出し、人々をそのゲームの世界の中に巧妙に取り込んでいく。この性質もまた非常に重要なものである。ゲームの世界に誘うことに関しては、昨日読んだエラルのプロパガンダに関する論考にあるように、精神的なレイプとしてのプロパガンダを巧妙に活用することによってそれが実現される。とりわけエラルが懐柔型ないしは統合型と呼んだプロパガンダを通じて、人々は自分の欲望が刺激される形で、ゲームの世界に引き込まれ、ゲームの世界に適応していくのである。それはもはや有無を言わせぬ全体主義的な適応である。そうした適応を促す構図が見えてくる。


エラルの書籍を読み進めていると、現代においては法制度までもが効率性を暗黙的に希求したものであることが見えてくる。法律には社会運営上の効率性を求める側面があり、現代においてはそれもまた過度なものになりつつあるのかもしれない。またそこには手続き的な、言い換えれば道具的な理性に基づく要素が色濃くなりつつあり、社会全体として様々な次元と角度から効率性の追求が行われていることが見えてくる。当然ながら、まだ効率性の波に飲まれていないものもあるが、それらの領域もまた効率性の荒波に巻き込まれるのも時間の問題のように思えてくる。現代社会は、マネーを神のように崇めるだけではなく、それに加えて効率性というものもまた神のように崇めているのかもしれない。そして、神の高みに向かっていくということを奨励する形での成長への飽くなき信仰が見え隠れしている。


精神分析家のカレン·ホーナイが指摘したように、欧米社会においては確かに文明の根幹にキリスト教の精神が存在している。昨夜購入した和書の中には神道に関するものがあり、そこでふと、日本の精神風土においてキリスト教の精神の影響はどこにどのような形でどれだけ現れているのかに改めて関心を持った。歴史上、随分と前からキリスト教との接触を日本は経験しているが、第二次世界大戦での敗戦後、アメリカ的な精神が日本の深層部分により強く入り込んで来たことは間違い無いだろう。キリスト教の精神と実践を学ぶ過程の中で、その影響がどれだけのものなのかを分析することは、日本社会の治癒と変容に向けた実践を考えていく上で非常に重要になるだろう。フローニンゲン:2022/8/2(火)11:11


8861. 仮眠中のビジョン/泡沫的な存在としての人間と文明/マルクスの影響


時刻はゆっくりと午後4時を迎えようとしている。今日は予定通り、ゆっくりめの昼食を摂った。その時に、普段食べている夕食を食べた。昼食後、しばらく作業をして、つい先ほどまで仮眠を取っていた。仮眠の中で、夢に近しいビジョンを知覚していた。そこでは日本人の少年が現れ、彼の様子を遠くから眺めていた。自分の横には彼の母親がいて、母親と一緒に彼の様子を微笑ましく見守っていた。ビジョンの世界はほのかに黄色く、とても穏やかな感じが漂っていた。ビジョンの最後に、今の自分の取り組みについて何か啓示的な閃きがあった。具体的な内容は忘れてしまっているが、いずれにせよ、今の取り組みの方向性のまま突き進んでいけばいいことを示唆しているものだった。


少し時計の針を巻き戻してみる。ジャック·エラルの書籍の再読を終えたのは昼前だった。そこからは、再びエラルの書籍“The Technological System”の再読を始めた。今日は本当に涼しく、今は最高気温の26度近くになっているが、朝の時間帯においては足元から冷えるような感覚がしていた。


昨日ふと、人間という生物種がこの地球上に存在しているというのも、ひょっとしたら長大な地球の歴史から考えてみると、泡沫的な現象なのではないかと思った。人間は今、他の惑星での生活に乗り出していこうとしているが、いずれにせよ、人間という生物種が遅かれ早かれ絶滅してしまうことは何ら驚くに値しないことのように思えた。人間という生物種もまた恐竜のようなものであり、地球の長大な歴史に登場した一過性の一登場人物に過ぎないように思えてくる。人間という生物種の泡沫性に加えて、人間が作る文明というのもまた等しく泡沫的なものであることが見えてくる。昨日は、そのようなことをぼんやり考えながらコーヒーを淹れていたという記憶が蘇ってきた。


そのような記憶を思い出しながら、ジャック·エラルもポール·ティリックと同様に、マルクスの影響を受けていることが興味深い。現代の課題に向き合ったこの2人の神学者は、共にマルクスの仕事を参照していたのである。マルクスの資本主義批判、いや資本の性質を徹底的に分析した功績に再度注目しながら、自分の取り組みの中にもマルクスの仕事を溶け込ませていきたいと思う。フローニンゲン:2022/8/2(火)15:57


8862. テクノロジーの形而上学的性質


ジャック·エラルのテクノロジー思想をじっくり辿っている。エラルは、テクノロジーの自律的側面に注目をしていた。テクノロジーは人間の手を離れ、自ら成長していく力を持っている。その影響力は、社会的、文化的、政治的、生態的な次元にどのような形で顕現するかは未知であるが、テクノロジーは人間から独立した形で発展を遂げていく。テクノロジーには最初から人間の手には負えない要素が含まれているのである。すなわち、どれだけ人間側が気をつけていても、テクノロジーは絶えず暴走する可能性を内包しているし、それがどのような形で活用されるか分からないのである。そうなってくると、テクノロジーのリスク評価など本質的にはそれは行えないことがわかるが、仮にリスク評価をするのであれば、テクノロジーのそうした性質まで見据えながらそれを行わなければならない。果たして、原発等を含めて、日本の中で大きなテクノロジーとして存在しているものは、そうした倫理観を持った形でのリスク評価がなされているのだろうかと気がかりになる。


また、テクノロジーは自身の内側になる法則性に従って運動を続けていくが、そこには目的論的な方向性というのは存在しているのだろうか。人間が考えるような目的とは違った種類の、かつ違った次元での目的がそこに内在しているのかもしれない。そうなってくると、尚更テクノロジーの進化の方向など予想できるはずがないことがわかってくる。さらには、テクノロジーの奇妙かつ重要な性質として見逃すことはできないのは、あるテクノロジーはひとたび誕生してそれが人々に活用されるようになると、それは私たちを取り巻く環境に変化することである。テクノロジーはリアリティを構成する影絵になっていくのである。環境としてリアリティの中に溶け出したテクノロジーを批判的意識を持って眺めることが難しくなってしまうのはそのためだ。ただでさえ現代人の批判的意識は希薄になっているのだから、テクノロジーがそのように環境として機能し始めると、なお一層のことその対象化は難しい。テクノロジーの形而上学的性質をもっと突き詰めていきたいと改めて思う。フローニンゲン:2022/8/2(火)16:12


8863. 環境に溶け込むテクノロジー/マークーゼとエラルのテクノロジーによる解放思想


ボードリヤールが消費社会論の中で批判しているように、私たちは消費対象に内在する論理を理解することは愚か、それに関心さえ示さなくなる。これはテクノロジーに対しても全く同様のことが当てはまるように思う。それがエラルが指摘するように、テクノロジーが環境そのものに溶け込んでいくのと同時に、引き続き消費対象としてあり続けるという性質によるところが大きい。テクノロジーは自らの存在を人間の意識が及ばない背後に隠すという重要な性質を持っている。


ジャック·エラルはマルクスからの影響のみならず、それに加えてマークーゼの影響も見られる。まるでマークーゼと同様に、テクノロジーに対する批判的考察を加えながらも、ユートピアの実現はテクノロジカルなものでしかあり得ないと述べている。テクノロジーを通じた人間解放に向けて、徹底的にテクノロジーの性質を分析し、テクノロジーを通じた解放を希求している点はマークーゼとほぼ同様のように思えてくる。マークーゼは、テクノロジーを通じて、人間が人間であることを脱却するような形での、ある意味皮肉的な形での人間解放を提唱した。エラルのテクノロジーによる人間解放の考え方は、マークーゼのそれと全く同じものなのか、それとも相違があるものなのかをより探究していこう。いずれにせよ、エラルは、原始人が自らを取り巻いている自然に対して自覚的だったとの同じように、現代人もテクノロジーに取り囲まれた環境そのものに絶えず自覚的にならねばならないと説く。私たちを取り巻く環境へ自覚的である態度を減退させればさせるほど、私たちは環境に取り込まれていく。しかしひょっとしたら、人間はそれを通じて人間であることをやめられるのかもしれないというマークーゼの解放論に近しい考え方が芽生える。テクノロジーで覆われた環境と盲目的に同一化するというのは、発達理論の観点からすると、それは決して超えて含む形での環境との同一化ではなく、幾分退行的な形でのそれのように思えてくる。


エラルはテクノロジーの内在性質として、テクノロジーは概念であり、環境であり、決定要因であり、システムであると定義している。それはそっくりそのままマネーの内在性質と重なるものであるように思える。エラルのテクノロジー思想は、マネー哲学さらにはマネー神学の探究の際に応用が可能であり、このように、テクノロジーについて考えながらマネーについて考え、マネーについて考えながらテクノロジーについて考えるということをこれから絶えず意識的に行っていこうと思う。フローニンゲン:2022/8/2(火)16:54


8864. テクノロジー固有のリアリティ


テクノロジーを人間の目から見るというよりも、テクノロジー固有のリアリティをテクノロジーの目で見てみることを意識しよう。人間のリアリティとは異なる形で動物のリアリティがあるのと同じく、テクノロジーにも固有のリアリティ世界があるのだから。


トーマス·クーンが指摘するように、科学的な知は決して単線的に進歩していかない。ある1つの知が他の知に1つずつ積み上がっていくというプロセスではなくて、そこには浮き沈みがあるのである。また、パラダイムシフトにあるように、非線形的な跳躍も伴うものなのだ。それは人間の発達プロセスと瓜二つである。そうなってくると、今科学的に正しいと思われているものは、それはより正しい知が現れるまでの一時的なポジションを保っているだけに過ぎない場合は往々にしてあるし、そもそもパラダイムが大きくシフトした場合には、全く妥当性を欠く知になりえる。ジャック·エラルが、科学的な知の発達とテクノロジーの発達を対比させながらテクノロジーの内在性質を明らかにしようとしている箇所をより丹念に読み進めていこう。


科学的なパラダイムは、単に研究手法や研究のルールを定めるものではない。もっと大きなものとして科学者に影響を与え、科学の進歩に影響を与えるものである。それはほぼほぼ知覚することが不能なものであり、次のパラダイムに移行して初めてこれまでのパラダイムがなんであったかに気付かされる特徴は、人間の発達と似ている。人間の発達もまた、次の発達段階に到達して初めて、これまで自分がどのような発達段階にいたのかに気付けるのだ。また、そうしたパラダイムは、ロイ·バスカーが述べるところの“the Real”の定義とも合致するように思う。パラダイムというのはこちらの世界に存在しているのでなく、あちらの世界に存在している目には見えない巨大な構造かつメカニズムなのだろう。バスカーの存在論や科学哲学について読み返し、また現代の最先端の実在論についても探究を続けていこう。フローニンゲン:2022/8/2(火)18:33


8865. ジークンドートレーニング121:グループレッスンの楽しさを味わって


いつもはもう寝ている時間だが、今日はつい先ほどジークンドーのグループレッスンを終えて自宅に戻ってきた。ロビンさんから声を掛けてもらったことにより、今日初めてグループレッスンに参加した。プライベートレッスンとはまた違った学びがたくさんあって、非常に実りのあるレッスンだった。何よりも、グループの雰囲気がとても良く、メンバー全員が温かく自分を迎えてくれたことはとても有り難かった。レッスンは基本的にオランダ語で行われたが、要所要所にロビンさんが英語で説明をしてくれたし、技の掛け合いの際に相手になってくれる生徒が常に英語で話してくれたのでほとんど不自由はなかった。メンバーの年齢は意外と高く、自分以外の7人の生徒のうちのほとんどが自分より年長者なのではないかと思った。7人の中に2人の女性がいて、カメラという女性はジークンドーを初めて3年ほどになり、グループレッスンはもう100回以上受けているとのことだった。彼女は以前には他のマーシャルアーツをいくつかやっていたようで、動きがとても良かった。もう1人のレベッカという女性は自分よりも小柄で、この間ジークンドーを始めたばかりとのことで、今度ランク1の試験を受けると述べていた。彼女とも最後に対面で技の掛け合いをしたのだが、ついこの間ジークンドー始めたとは思えないほどのキレのある動きをしていた。


グループレッスンの魅力は、お互いに技のポイントを説明したり、相手がより良い動きになるように意見交換できることである。また、普段はロビンさんだけを相手に技を掛けていたので、身長を含めた体格の異なる相手に技を掛けてみる感覚を味わうことができた。中でもエドという男性は2mほどの身長があったので、エルボーの打撃など、相手に当てるのが難しいものがあり、そこは臨機応変に対応する必要があるかと思った。グループレッスンは、最初に和気藹々と少し話をした後に、全員でジークンドーの挨拶をして、そこからはステップの動きを準備運動がてら行った。そこからは接触法の練習を行った。これは防御とカウンターの21個の技に基づくものであり、これまでロビンさんと練習していたものよりもコンビネーションの数が多く、少しついていくのが難しいものもあり、逆にそれは自分の学びになった。コンビネーションに気を取られて、プライベートレッスンで指摘されていたことを忘れてしまっている動きがあった。例えば、右手のパクサオをして、左手でラプサオをするときに右手の肘を防御代わりに上げることを忘れてしまったり、そこから右手でバックフィストをする際に肘をついつい下げてしまうことなどが見られた。この癖の修正をし、正しい動きができるように明日からまた修練を積み重ねよう。そのほかに細かな点で言えば、相手の肋骨にバックフィストを当てる際に、肋骨の下を狙ってしまうと、相手にかわされる恐れがあるが、肋骨の上を狙うと相手は避けることが難しいので、そこを狙うように打つ点は新たな発見だった。メンバーの中には日本に旅行に行ったことがある人もいて、日本の日本の話でも盛り上がり、全員とても親しみやすい人だった。ロビンさんが言うように、本当に素晴らしいグループである。そんな彼らと良い汗を流しながら、体の触れ合いを通じて心を通わせることができて本当に充実していた。改めて、ジークンドーの魅力を感じた次第である。フローニンゲン:2022/8/2(火)22:19

 
 
 

Commenti


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page