No.3878 ストックホルムの日曜日の輝く朝_A Shining Sunday Morning of Stockholm
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1681, Cubistic and Surrealistic Nature of Capitalism
My research focuses on the cubistic and surrealistic nature of capitalism rather than concrete one.
Capitalism has those layers, but my main focuses are cubistic and surrealistic layers.
Groningen; 19:22, 7/31/2022
下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。
本日の3曲
全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。
タイトル一覧
8840. 神道神学を用いた資本主義批判へ向けて
8841. 今朝方の夢
8842. 秘匿さを暴露する組織的な犯罪行為としてのテクノロジー/マトリックス世界と著者
8843. 飼い慣らされた家畜的存在としての人間/実践に含まれる倫理性・政治性/脱自的人間/一神教とグローバル化
8844. 政治的なものとしての個人的なもの/資本主義と分裂
8845. 私小説的執筆スタイル/資本主義と投機的意識
8846. マルクスのテクノロジー思想
8847. ジークンドートレーニング117: ロビンさんとの9回目のプライベートレッスンを終えて
8848. ジークンドートレーニング118:基本に立ち返ることの大切さ
8849. ジークンドートレーニング119:テンポへの意識
8850. ジークンドートレーニング120:心の有り様を見つめ直して
8840. 神道神学を用いた資本主義批判へ向けて
時刻は午前8時半を迎えようとしている。今、空にはうっすらとした雲がかかっていて、今日もまた涼しい。今日はどうやら正午前から夜にかけて雨が降るようなので、午後のジークンドーのプライベートレッスンの際には傘を差して道場に向かう必要がありそうである。今日のロビンさんとのセッションもまた非常に楽しみであり、ロビンさんが新しいお守りが欲しいということを述べていて、ちょうど秋の日本への一時帰国の際にお守りを買ってこようと思うが、どんなお守りが欲しいのか、そして個数などについても聞いておこうと思う。また、ヨーテボリでロビンさんの息子のタイモン君のために買ったお土産を忘れずに持っていこうと思う。
昨日、欧米の思想書を読むことを継続する中で、キリスト教や仏教の思想が引き合いに出されることはよくあるが、神道に関してはほぼ皆無であることについて考えていた。欧米の思想家にとって神道はやはり馴染みのないものであるらしく、また逆に神道側の努力として世界に発信をしていないことの現れかと思った。現代の課題を解決するために、神道が無力であるとは考えにくく、神道の持つ固有の考え方はきっと現代の課題の解決に向けての一助になるはずである。現代の課題を超克するための思想的な枠組みとして神道の価値を新たに見出したいと思う。そのようなことを考えながら、ひとたび神道に固有のものの見方や洞察を見出したら、ポール·ティリックがプロテスタント神学の観点から資本主義批判を展開していたように、神道神学を用いて同様の仕事に着手したいと思う。まずはティリックが行なったように、資本主義の経済政策·金融政策という側面ではなく、文化的な側面に対して焦点を当てていきながら資本主義の治癒と変容に向けた批判を行なっていく。また、同じくプロテスタントの神学者ジャック·エラルは、テクノロジーをプロテスタント神学の観点から考察をしていった注目に値する人物であり、彼の仕事のアプローチもまた辿ってみたいと思う。それによって、神道神学をテクノロジー批判に活用するヒントが掴めるだろう。エラルの書籍はすでに何冊か持っているので、それらを再読することの優先順位を上げよう。再読の際には、彼のテクノロジー批判の中にプロテスタント神学がどのように体現されているかに注目していく。
それ以外にも、今後のオンラインセミナーとして、来月にもう1度旅を扱うセミナーがあるが、それ以降は文明学のテーマに絞るという選択と集中を行なった方がいいかもしれないと思った。引き続き旅の際には動画を撮影しながらも、その動画は旅のセミナーで共有するというよりも、文明を様々な観点から見ていくという点で、文明学のセミナーを通じて共有した方がいいのではないかと思った。そのようなことを考えながら昨夜は就寝に向かった。フローニンゲン:2022/7/31(日)08:37
8841. 今朝方の夢
時刻はゆっくりと午前10時に向かっている。先ほど洗濯物を干し終え、朝のコーヒーを淹れた。今、立ち込めるコーヒーの香りを嗅ぎながらこの日記を書いている。今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、振り返りをしておこう。夢の中で私は、神道をアメリカに紹介するために、神道に関する英語の本を書いていた。その体裁は学術書だが、一般の人でも楽しく読めるように工夫を凝らしていた。その書籍の中では、欧州ほどには知られていないビョンチョル·ハンの思想にも触れ、自分の中ではかなり思い入れの強い作品になった。無事に書籍を出版すると、その反響が想像以上にあり、多くのアメリカ人から肯定的なフィードバックを受けた。また、書籍の内容をもとにある大学で講義をすることになり、その講義を通じて、色々と新たな発見や気づきがもたらされた。そこから私は、神道に関する研究により力を入れていこうと思い、そこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、地元の住宅地にいて、そこで高校の文化祭をすることになっていた。学校の文化祭のはずが、それは街の祭りと融合する形で開催されることになり、かなり盛大な準備がなされていた。ある家に巨大な神輿がくっつけられていて、そこが名物になっていたのでそこに向かった。するとその場に、高校時代のメガネをかけた優しいクラスメートがいて、彼と少し話をしていた。話の中で、彼の写真を見せてもらえることになり、写真を見せてもらうと、プロ顔負けの写真であり、驚いた。私は彼の写真を純粋に褒めた。すると、彼は私の種々の才能を褒めてくれ、お互いに天才だということを言い合う形で褒め合った。私たちは大いに笑い、お互いに褒められたことを気持ちよく感じていて、爽快感の中でその場を後にした。
次の場面では、私は薄暗い空間の中にいた。そこは見慣れない街で、辺りがあまりにも薄暗かったので、とても不気味な感じがした。近くにカフェがあったのでそこに入ると、カフェの一角に高校時代のクラスメートの女子が3人いた。私は彼女たちに話しかけることをせず、ただし、彼女たちの近くのカーテンに行き、その裏側に隠れた。彼女たちはすぐにそこにいるのが私だと気づき、私のことを楽しげに話し始めたが、今は彼女たちと話している暇はないと直感的に感じ、カーテンからさっと出て、カフェの外に出た。すると、カフェと目と鼻の先にある空き地に、小さな窯が置かれていて、窯にはスープがグツグツと煮えていた。一体誰が作ったのだろうと考えていると、遠くの方に子供たちの姿が見えた。どうやら彼らはウイグル人のようであり、1人の男の子が私の方に物凄い勢いで走って向かってきた。そして、言葉はわからなかったが、ウイグルの武術をして勝負しろと申し出ているかのようであった。子供とは言え、彼からは血気盛んなファイターの様子が漂っていて、彼と戦ってお互いに怪我をしたら大変だと思った。私は彼と戦うことをせず、まずは逃げようと思った。しかし、仮に彼と戦うことになったら、ジークンドーの技で一撃で仕留めようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/7/31(日)10:07
8842. 秘匿さを暴露する組織的な犯罪行為としてのテクノロジー/マトリックス世界と著者
昨日の段階で、リープラジャパンさんの内面探求ワークであるIFDのワークシートの記入が済んだので、今日からはまた読書に集中できる。今日の読書は、昨日の読みかけのピーター·スローターダイクの書籍を読み進めていく。そこからは、経済地理学者のデイヴィッド・ハーヴェイの一連の書籍を読み返していこうと思う。そこからは、テクノロジー哲学やマネー神学に関する書籍、そして広くは文明学に関する種々の学術領域の書物を読み進めていこうと思う。
ハイデガーのテクノロジー思想に関して興味深いのは、ハイデガーはテクノロジーを隠されているものを暴く力を有するものだとみなしている点である。もっと言えば、ハイデガーは、テクノロジーというのは秘匿さを暴露する組織的な犯罪行為と同義であるとみなしていたのである。確かにテクノロジーは、人間がこれまで理解し得なかった自己の側面を含め、種々の秘密を組織的に暴く力を有していることがわかる。また、テクノロジーの語源であるtechne(技術知)がlogos化(論理化)されたという点についてもより考えを深めていきたい。仮に技術知が論理化の道ではなく、詩化の道を辿っていたら、テクノロジー社会の様相は今とは違ったものになっていたのではないかと思う。技術知の論理化は、計測可能性や形骸化した言語使用の波に飲まれ、それが文明の病理を形成してしまった方向性が見えてくる。
今の文明というマトリックス世界の複雑さは、その物語が誰か特定のストーリーテラーによって書かれたものであるというよりも、主要な著者は複数いて、マイナーな著者は文明に加担する私たち1人1人であるというところに由来すると言えるだろうか。マトリックスの物語が複雑でかつ混迷を極めているのは、そうした著者の無限性によるところが大きいように思えてくる。逆に言えば、既存のマトリック世界に風穴を開けるのも、1人の個人なのかもしれないという可能性も見えてくる。言語的なものや記号的なもので強固に構築されたマトリックス世界に対して、言語や記号からのアプローチも当然存在するが、言語や記号になっていないものからのアプローチによって、その世界の治癒と変容に向けて何かできないかを考えている。フローニンゲン:2022/7/31(日)10:15
8843. 飼い慣らされた家畜的存在としての人間/実践に含まれる倫理性・政治性/
脱自的人間/一神教とグローバル化
ニーチェは、人間は飼い慣らされた家畜的存在であるとみなしていたが、自分は絶えず、飼い慣らされることからいかに脱却しようかと企図しているように思える。社会による家畜化の圧力は、テクノロジーの進歩などと共に増加の一途を辿っているため、自らを守るという意味でも、飼い慣らされることから解放されていく道を絶えず探っていく必要があるし、そうした実践に継続的に取り組んでいく必要がある。ある1つの単線的な物語に依拠してしまうと、それは飼い慣らされることを強く助長する。哲学者のピーター·スローターダイクが指摘するように、ある理論が単線的な物語に堕してしまうと、その理論は死を迎える。これと同じく、人間もまたある単線的な物語のみに立脚すると、精神的な退廃が加速され、精神的な死期が早まってしまうのではないかと思う。
テクノロジー哲学者のアンドリュー·フィーンバーグの書籍を読み返していると、そこでは古代ギリシャにおける技術や実践の考え方に触れられていて、それをもとに考えてみると、本来実践とは、精神的な次元における倫理的·政治的行為であることが忘れられがちであることに気づく。実践には価値倫理的判断、そして政治的な判断が絶えず混入しているのである。実践の中に含まれるそうした側面についてより自覚的になり、社会の中に溢れる実践の倫理的·政治的側面についてさらに探究を進めていこう。
ハイデガーの指摘の中で注目するのは、人間が人間を脱自的に超えていく性質を持っていると見抜いていたことである。人間は自らを超えていく性質を絶えず内包していて、自分を取り巻く世界そのものに開かれることを通じて、世界そのものと脱自的に合一できる性質は改めて興味深い。これはエロス的体験の本質を形作る性質でもあり、人間が持つこの特徴にはさらなる考察を加えていきたいものである。
スローターダイクの書籍を読んでいる中で、ヨーロッパにおける哲学にせよ神学にせよ、そこには神の摂理や世界の摂理の合理化に向けたヒステリックな試みがあり、それは2千年以上も続けられ、現在のグローバル化の飽くなき希求につながっているという指摘を興味深く思った。これは一神教的な宗教ゆえに過度なグローバル化の方向に向かったのか、そのあたりに関心を持ちながら、神道とグローバル化の関係についても調査してみようと思う。フローニンゲン:2022/7/31(日)11:09
8844. 政治的なものとしての個人的なもの/資本主義と分裂
時刻は午後1時を迎えた。ロビンさんとのプライベートセッションに向けて自宅を出発するのは午後3時前なので、まだ時間がある。天気予報の通り、昼前から雨が降り始め、風はほとんどないが、今もなお雨が降っている。先ほどまでは結構激しい雨が降っていた。夏の雨は、どこか心を落ち着かせてくれる働きがある。雨によって爽快感がもたらされることも興味深い。今週末には日本から協働者の方がオランダに遊びに来るのだが、今週末から来週にかけてのオランダはかなり涼しい。フローニンゲンに至っては、最高気温が20度に満たない日が続く。
自分の内面世界を取り巻く政治性に意識を向けている。経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイが指摘するように、個人的なものは絶えず政治的なものなのだ。自分の感情や思考1つ取ってみても、まさにそこに政治的なものを見出せる。また、価値判断ともなれば、尚更そこに政治的なものを汲み取ることができる。自分の中にある政治的なものを題材にして、それを深堀していくために、政治学の様々な概念や理論を参照していこうと思う。
資本主義というのは、ドゥルーズやガタリが指摘するように、分裂症的であり、同時にデイヴィッド·ハーヴェイが指摘するように、分裂を生み出す工場として機能しているのかもしれない。資本主義は、私たちの様々な次元における分裂を生み出し、その分裂を餌にして資本増大運動を永続的に続けている。資本主義というのは、分裂という差異を通じて拡張していく性質を持ちながら、その差異というのは質的なものではなく、同質性に裏打ちされた量的なものである。そのようにして資本主義は、水平的な差異に基づく拡張運動を続けていく。それに私たちが飲み込まれているというのは、垂直的な方向での差異の創造の抑圧·阻害を意味し、それは私たちの垂直的成長の実現を妨げることにつながる。
デイヴィッド·ハーヴェイの書籍を読んでいると、地図制作というものがいかに政治的な産物であり、そこには植民地主義的な世界観の投影が見て取れることが興味深い。何気なく使っている地図にも、その製作者の意図や無意識的なバイアスが混入されていて、中世においては地図の形までもが随分と恣意的なものであった。現代においては、さすがに形としては客観的なものになっていながらも、そこに何が表示されるのかについては依然として政治的な要素がある。例えば、アメリカの諜報機関の周りだけGPSがうまく作動しないようになっていたりするように、地球上において正確に映し出されないものが現代の地図にはあるようだ。フローニンゲン:2022/7/31(日)13:11
8845. 私小説的執筆スタイル/資本主義と投機的意識
おそらく今後学術機関に戻ったら、学術論文の執筆に力を入れていくことになるだろうが、自分の中ではそれ以上に重要なのは、自らの経験や考えを自由に表現できるエッセー的文章の執筆を可能にする日記の執筆実践である。それは学術的な厳密性を重視するようなものではなく、学術的な観点を取り入れながら、自分がこの世界とどのように向き合い、どのような実践を日々行っているのかを克明に記していくような私小説的形式をより採用していくことになるかもしれない。結局のところ、学術論文の執筆スタイルには重大な欠陥があり、それは自分の内面領域の表現に大きな制限をかけるため、真に自らが世界とどのように向かい、どのような実践をしているのかを共有していくことをほぼほぼ不可能にする。そうしたことからも、自分の中で最も大切にしなければならないのは、今この瞬間に書き連ねているこうした一人称的な語りを可能にする執筆スタイルである。それを改めて肝に銘じる。このスタイルを洗練させたデカルト、モンテーニュ、パスカルなどの執筆スタイルに範を求めていこうと思う次第だ。絶えず血が通った文章を書いていくこと。血の通っていない文章の感染力は微々たるものである。一方で、血の通った文章には見逃せない感染力がある。
資本主義の世界で生きている中で、今ここに意識を留めることの難しさは、至極当たり前のことなのではないかと思う。デイヴィッド·ハーヴェイが指摘しているように、資本主義は常に投機的な形でその運動をしており、そこに参画する私たちの意識も絶えず未来志向型のものになる。私たちはある意味、過去や現在を未来に投影する形で絶えず生きていて、そうした投影を通じて絵も言わぬ不安を覚える。精神分析の世界では、恐怖というのはある特定の対象物に対して生じると定義されている一方で、不安というのは特定の対象を持たない。未来に意識を向けることによって、そこにはまだ生じていない事柄や具体化されえない事柄が溢れているのだから、それらを想像して不安が芽生えるというのもまた必然のように思える。今ここに意識を留めることの大切さは様々な方面で言われることだが、その意義を資本主義の投機的な性質と絡めて再考したいものだ。
先ほどまた少し雨脚が強くなった。雨の滴るフローニンゲンはまた一興である。今から少しばかり仮眠をして、仮眠から目覚めたら、ロビンさんとのプライベートレッスンに向けて身支度をしよう。身支度をしてからもまだ時間があるだろうから、引き続きデイヴィッド·ハーヴェイの書籍を読み進めていこう。そこからはハーヴェイ·コックスやジャック·エラルの書籍を読み進めていく。それは来週以降にもまたがる読書計画である。フローニンゲン:2022/7/31(日)13:35
8846. マルクスのテクノロジー思想
資本主義の問題に取り組む際には、当然ながら資本主義の内在性質を外側の視点から探究していくことは重要だ。そこには経済政策や金融政策なども含まれるし、古くはマルクスが『資本論』で詳細に分析した資本主義の性質を理解することも含まれる。しかし自分の関心は、そうした外側からのアプローチや、資本主義の客観的性質というよりも、資本主義に対して内側から、つまり個人の意識や文化といった集合的な意識の観点からアプローチすることであり、同時に資本主義がそれらに対してどのような影響を与えているのかという性質に関する分析を行うことである。その点において言えば、今読み進めている経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイの論考は非常に参考になるが、自分の関心の核心を突くようなものではない。観点として必ず持っておかなければならないことをハーヴェイは指摘しているので、彼の著作物を今読み返しているが、自分の関心はとにかく個人や集合の内面と結びつくものである。資本主義の内在性質というのもまたそれとの関係で明らかにされるものに関心があるのだ。今後の読書の方向性を明確にする意味でも、それは絶えず念頭に置いておこうと思う。
テクノロジー哲学の探究を進めた後にマルクスの『資本論』に戻ってくると、第1巻においては、科学との関連においてテクノロジーについて論じている箇所があることに気づく。また、第2巻においてもそのトピックは踏襲されており、第3巻においては、テクノロジーを通じた種々の変化に論考が移っていく。改めて資本論を眺めてみると、この著作が、テクノロジーの観点から資本主義を批判している側面が浮かび上がってくる。資本主義においてテクノロジーや科学がどのような役割を果たしていて、それが資本主義の価値化や生産における商品化にどのように働きかけているのかの分析を資本論は行っている。マルクスの生家を訪れにトリアーに訪れた記憶が蘇ってくる。あの時に感じていた資本論に対する意味づけと、テクノロジー哲学をそこからさらに進めた上で再び資本論に戻ってきたときの意味づけとでは随分と異なるものがある。テクノロジー哲学を通じた資本主義批判の書としてマルクスの資本論を改めて読み返してみることも近々着手したいと思う。そのようなことを思いながら少しばかり資本論を読み返してみると、注記の中に、テクノロジーは私たちが自然をどのように管理するかという手段を指すだけではなく、私たちが生活を維持するために社会関係をどのように結ぶかの手段を指すという記述に目が止まった。テクノロジーを社会学的な観点で捉えていくことは大切だが、マルクスが述べていることを拡張させて、私たち人間同士の関係をつなぎ合わせる手段としてのテクノロジーの性質を見ていくだけではなく、私たちがテクノロジーそのものとどのような関係性を結んでいるのかを見ていく必要性も強く感じる。フローニンゲン:2022/7/31(日)14:20
8847. ジークンドートレーニング117: ロビンさんとの9回目の
プライベートレッスンを終えて
時刻は午後5時半を迎えた。ロビンさんとの第9回目のプライベートレッスンを終え、自宅で自重トレーニングをした後にシャワーを浴びて今に至る。今日のプライベートレッスンも非常に充実していて、学びの宝庫であった。トレーニングで得られたことを綴る前に、外枠を埋めるかのような記述をしておきたい。トレーニングを終える頃にはすっかり雨は止んでいたが、行き道においては雨が結構な強さで降っていた。幸いにも風がなかったのでそれほど煩わしさを感じることはなく、むしろ夏のオランダの涼しげな雨を堪能することができた。地面にはカタツムリやナメクジが散歩をしていて、歩いている人や自転車が彼らを踏みつぶさないことを切に願っていた。
道場に到着すると、2人の男性が部屋にいて、ロビンさんは自分の前に彼らとセッションを行ったようだった。見かけは50代の中年の男性たちだった。ロビンさんのクライアントで最年長は70歳の男性とのことであり、1度か2度見かけたことがある。トレーニングの開始の前に、ロビンさんにスウェーデンで購入したお土産を渡した。それは、息子のタイモン君のために買ってきたものであり、鬼滅の刃の炭治郎のハンドタオルである。ロビンさんは鬼滅の刃のコミックを買って読んでいたそうだが、タイモン君はまだ英語をそれほど読むのが得意ではないらしいが、アニメで見ていたとのことなので、いずれにせよ彼が喜びそうなものを渡せて良かったと思う。セッション終了後には、ロビンさんからのお願いとして、ロビンさんとそのタオルを持った姿を写真で収めた。セッションが終わってから色々と雑談する中で、ロビンさんの友達で欧州で唯一と言っていい神道の神主がアムステルダムにいるらしく(ロビンさんが後ほど動画(https://www.youtube.com/watch?v=8LxhRLt3pU8)を送ってくれたのだが、その方の名前はポール・ド・レオさんという)、この秋にロビンさんと一緒にその方のところに訪れることになった。ロビンさんの友達にはその他にも、チベット仏教のオランダ人僧侶などもいるようであり、話を聞いてみて面白そうな人が結構いる。
この秋に一時帰国した際には、ロビンさんからお守りを買ってきて欲しいと依頼を受けた。安全祈願か健康祈願のお守りを伊勢神宮か京都で購入しようと思う。ロビンさんはすでに日本語のブルース·リーの書籍は持っているようだったので、日本語のそれを購入することの依頼は受けなかった。ブルース·リーとの関連で行くと、今日は道場の帰りに思わぬことが起こった。トレーニングを終えた後だったので体は熱く、行きに着ていたスウェットを着ることなく手に持って歩いていた。ロビンさんの道場のジークンドーの文言が入った半袖のトレーニングウェアで道を歩いていたところ、自転車に乗った中年の男性が自分のことを凝視しながらゆっくりと近寄ってきて、右手の拳を上げて笑顔で、「ブルース·リー!」と叫んで通り過ぎて行ったのである。一応こちらからも笑って挨拶をしたが、ジークンドーのことを知っている一般人がいて少し驚くと共に、ブルース·リーを知っている人やマーシャルアーツ好きの人にはやはりジークンドーは認知されているのだろうと思った。いずれにせよ、こうした形で声を掛けられるのは初めての体験だったので印象に残っている。フローニンゲン:2022/7/31(日)17:48
8848. ジークンドートレーニング118:基本に立ち返ることの大切さ
今日のロビンさんとのプライベートレッスンについて具体的な事柄を振り返っておきたい。前々回あたりから、ランク2の全ての技を習い終えてからは随分と実践的な練習が始まった。前回においてはヘッドギアをつけて、ロビンさんのかなり強めの打撃を受けることが前提とされたスパーリング的な実践も始まった。まだ生粋のスパーリングは行っていないのだが、いずれにせよどんどんとそれを行うことが近づいていることを実感する。同時に、そうした実践的な要素が強くなるばかりではなく、もう一度基本に立ち返ることをいつもロビンさんは行ってくれる。例えば今日は、オンガードポジションから始まった。最初このエクササイズから始まることを驚いた。オンガードポジションを取り上げるエクササイズなどもう随分とやっていなかったように思えたからだ。それは初回の一番最初に習うものであり、それをあえてここで取り上げることになった。ロビンさんのメニューにはいつも明確な意図があり、それもまた意図が込められたものだった。これまでのレッスンや自主トレーニングを通じて、オンガードポジションの原理に則りながらも、自然と自分らしいオンガードポジションが形成されていくことは誰しもに起こる自然なことだ。それぞれに身体的な特徴の差があるので当たり前なのだ。しかし、そうした個性以外にも変な癖が混じってしまうことも同時に起こりやすく、ロビンさんの意図は、自分の個性としてのオンガードポジションの中に混入した変な癖を特定し、それを取り除くことにあった。自分の場合、知らず知らず左手のガードの手が体の中心に寄りすぎていて、そのせいで左の肩に余計な力が入っているとのことだった。これは自分では気がつかないことであり、鏡を見て練習していても完全に見落としていたことであった。そこから肩の力を抜いたよりリラックスしたオンガードポジションに矯正していった。大事なこととして、日々の鍛錬の中で、常に自分の身体に気づきの意識を向けることをロビンさんから改めて教わった。デカルト的な自己を疑うという態度ではなく、自己の内側の感覚に自覚的になることの大切さを教えられたのである。いつものセッションと同様に、今日も身体を動かすだけではなく、あれこれ意見交換をしながら対話を通じて技の細部を詰めていくことや、ジークンドーで最も大事なマインドの活用の仕方や心の有り様を学んでいった。もう1つ基礎に立ち返るということで言えば、前後のステップインスライドと前後のプッシュステップの練習を行った。ステップインスライドにおいて、改めてどこか力の発動点なのかを確認したのである。これまであまり意識していなかったが、ステップインスライドにおいては、前方に移動する際には前に出している利き足に力の発動点があり、後方に移動する際には後ろ足に力の発動点がある。一方のプッシュステップにおいては、その逆であり、前方に移動する時には、後ろの左足に力の発動点があり、後方に移動する時には前の右足に力の発動点がある。この点を意識し、尚且ついつもより小さな動きをプッシュステップで行ってみるエクササイズを何度か行った。明日からの鍛錬では、改めてオンガードポジションの左手に気をつけ、尚且つステップインスライドとプッシュステップの力の発動点により自覚的になってみようと思う。フローニンゲン:2022/7/31(日)18:04
8849. ジークンドートレーニング119:テンポへの意識
夕方の空はうっすらとした雨雲で覆われていて、先ほどもまた雨が降った。しかし、太陽が雲の向こう側にあることが感じられるぐらいに、雲の向こうからは光が滲み出ている。
今日のロビンさんとのセッションでは、基本に立ち返ることの大切さを改めて教わったように思う。これまで色々な技を教わったが、基本に立ち返り、基礎的な動作と応用的な動きを行きつ戻りつすることが重要である。むしろ、いかなる応用的な動きも基礎的な動きの組み合わせであり、基礎の上に構築されるものなのだ。また、今日のセッションの中ではこれまで習った技や動きを別の技に組み合わせてみることも行った。それらは、カート·フィッシャーのダイナミックスキル理論に則るものである。点·線·面·立体のサイクルを通じて私たちの能力は発達していく。ジークンドーにおいては、基礎的な技や動きをどれだけ強固な点として築き上げていくか、磨き上げていくかが重要になる。そして、ひとたびそうした点が構築されると、今度は点を組み合わせて線を作っていく作業が始まる。今の自分は、強固な点を作っているプロセスであり、同時に少しずつ線を作っている過程にいるように思う。
今日のセッションを振り返ってみたときに、音楽的に解釈するならば、防御とカウンターの技を繰り出す際のテンポに改めて注目してみなければならないと思った。前回までは再び1番から8番までの防御とカウンターの技を練習したのだが、今日は9番から21番までを練習した。その中で、確か序盤の頃に、防御の手を出した後のカウンターの手を出すテンポが遅いことを指摘された。「タ·タ」というテンポで1手、2手と技を出すのではなく、「タタ」という連続した形で手を出していくことの大切さを改めて教えられた。テンポはジークドーにおいて非常に重要かつ奥が深い要素であり、今の自分は単調的なテンポで技を繰り出すことを避けることを意識したほうがいいように思う。明日からの鍛錬においては、技を出すときの呼吸の音でテンポを測るようにして、とりわけ防御とカウンターの技におけるテンポにより自覚的になってみようと思う。
もう一つ細かな点で言えば、相手と対峙した時に、相手の顔ばかりに目が行きがちだが、相手の表情によって相手の動作を察知することは重要でありながらも、相手の表情によってこちらの感情が影響を受けないようにすることの大切さも学んだ。しかも今日はそれを鍛えるためのエクササイズを随分と行い、それはユニークな体験だった。ロビンさんがわざと怒っているような表情や笑っているような表情を浮かべたり、さらには感情が全くないかのような冷静な表情を浮かべた時に、こちらの感情が相手の表情によって影響を受けないように心を整えることをしながら、ロビンさんにステップで近寄っていき、ロビンさんが上げた方の手を叩くというエクササイズを何度か行った。今日のこのエクササイズは、相手の表情や大袈裟な動きなどを含めた外部要因によってこちらの感情が動かないようにし、冷静な中で自分がなすべき動きを的確に実行に移すことができるかを鍛えるものだった。また、相手を見るときには、相手の目を見つめることは避け、相手の両肩と顔を結ぶ三角形で相手を観察することの大切さを改めて教えてもらった。顔の動きや肩の動きでどのような動きがなされるのかを瞬時に感じることができるので、それらの箇所を起点に視線を向けることを今後も習慣化していこう。フローニンゲン:2022/7/31(日)18:23
8850. ジークンドートレーニング120:心の有り様を見つめ直して
時刻はゆっくりと午後8時を迎えようとしている。振り返ってみれば、今週もまた非常に充実していた。自分の探究にせよ、協働プロジェクトにせよ、いずれも充実したものであったし、今週を充実した形で締め括るかのように今日は午後にロビンさんとのプライベートレッスンがあった。そこから得られることは単にジークンドーに関することだけではなく、自分の心の特性や自我の特性などについても得られることが非常に多く、人間存在とは何かについて武術から学ばされることは本当に多い。今日のセッションについて改めて振り返ってみると、相手の感情や相手の動作にこちらの感情が動かされることのないように落ち着いた心の状態を保つことの鍛錬が印象に残っている。その中で、自分は頭で色々と考えがちだが、その場の状況においてはもっと身体感覚や直感のようなものを信じるようにしたいと思う。そのためには、もっと身体感覚や直感を磨いていく必要がある。ロビンさんと対峙した際に、ロビンさんの周りに踏み込めない境界線があり、それを感じた時に自分の心が動くのを感じた。心が動く前に、それ以上踏み込むと危険だという直感があり、その直感を得ることは大事なのだが、それを恐怖心に変えないようにすることが大切であった。それはもちろん難しく、仮に恐怖心が芽生えたとしても、そこから瞬時に心を平穏な状態に戻せるようになっていく必要がある。ロビンさんとも話をしていたのだが、これは無感覚とは全く違う感覚であり、危ないものは危ないと感じながらも、相手からの動作や相手の感情でこちらが右往左往することのない不動心のようなものを作っていくような感覚だ。常に冷静に状況を捉え、その場で最適なことをしかるべき形で実行できるような心を作っていくこと。それはきっと、日々の心掛け次第で色々な場面で鍛錬できるはずだ。ジムや自宅でのジークンドーの鍛錬を超えて、日々の生活の隅々で心を整える鍛錬をしていきたい。この点についてはどのような実践ができるかをまた考えていき、色々と試行錯誤して実験的に様々な実践をしてみようと思う。
細かな振り返りとしては、防護とカウンターの技の15番目のものに関して、右のパクサオで相手の左手の攻撃を防いだら、斜め前方にプッシュステップで体を移動させるのではなく、ほぼ直線気味に相手の方向に向かってプッシュステップをして、左手の手のひらで相手の急所に攻撃をする動きが大事だ。そしてすぐさまオンガードポジションに戻って次の動作に備えることが肝要である。その他にも、これまで意識していなかったのは、防御とカウンターの12番目の技の際に、左手でパクサオをして相手の攻撃を防いだ後に、右手のバックフィストの攻撃をヒンジ(蝶番)の動きで繰り出すことである。ヒンジの動きで繰り出すことによって、相手の二の腕に当てられる面積が増え、攻撃を当てられない可能性を減らすことができる。これまでの自分はこのヒンジの動きをしない形でバックフィストを出していたので、相手の腕にうまく当てられない可能性が強く残っていたのである。こうした細かい点についても学べたという収穫があった。フローニンゲン:2022/7/31(日)20:04
Comments