top of page

8745-8747: フローニンゲンからの便り 2022年7月7日(木)




No.3794 同心円的磁場_A Concentric Magnetic Field


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1663, The Public and Human Connections

To create the public, we need to connect with each other.

Human connections are key to restoring the public.

Groningen; 12:49, 7/7/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8745. 朝の肌寒さを感じながら

8746. 環境収容力/今朝方の夢

8747. ネオリベとコミュニケーションの希薄化/肯定性とポストコンベンショナルな思考


8745. 朝の肌寒さを感じながら


時刻は午前9時を迎えた。空にはうっすらと雲がかかっているが、朝日が地上に届いていて、辺りは輝いている。今朝方は随分と肌寒い。今日は日中でさえも、最高気温が17度までしか上がらない。午後にスーパーに買い物に行く際には何か羽織るものが必要であり、半ズボンだと寒そうである。昨日は午後にオンラインセミナーがあり、その後にも3時間ほど補足の音声ファイルを作っていたので、セミナーに関する事柄に随分と時間を充てていたように思う。こうした音声ファイルの作成もまた自分にとっては1つの振り返りの実践であり、自分の中では大切にしていることである。今日からはまた自分の取り組みを前に進めていこう。書籍の執筆の続きに取り掛かる前に、昨日読み返し始めたビョンチョル·ハンの書籍を読み終え、そこからフィリップ·グッドチャイルドのマネー神学に関する書籍を丁寧に精読していく。その精読が終わってから書籍の執筆の続きに取り掛かろうと思う。あるいは、グッドチャイルドの書籍を読みながら並行して書籍を執筆することも考えられる。今回の書籍ではグッドチャイルドの論考を盛り込むことは考えておらず、マネー神学を扱う書籍はまた別途執筆したいと思うし、グッドチャイルドの書籍も何か翻訳してもいいかもしれないと考えている。


昨日改めて、書籍の執筆においては、何を書くかよりも、何を書かないかの方が重要だと思った。それは忖度をするとか、真実に蓋をするとかいう話では全くなく、伝えたいことや表現したいことが山ほどある中で、読者にとって有益になることを選ばないといけないという意味である。それは生みの苦しみの1つのように思える。今回の書籍に関しても、すでに何を盛り込むかは随分と絞っているので、それらの項目を丁寧に解説していくと、想定している分量に達するのではないかと思う。この夏は書籍の執筆に焦点を当て、無事に完成まで持っていきたいと思う。フローニンゲン:2022/7/7(木)09:09


8746. 環境収容力/今朝方の夢


先ほど一瞬小雨が降り、今はそれが止んでまた朝日の姿が見え始めた。どうやら今日は曇りの時間帯が多いようだが、このようにして晴れ間が見えることもあるようだ。目の前の世界を眺めていると、自然や生態系には環境収容力(carrying capacity)というものがあるのと同じように、当然人間にもそうした収容力があることを忘れがちなのではないかと思う。この点は疲労社会とつながってくるものであり、同時に環境破壊のテーマともつながる。どうも人間は自己の有限性を自覚することが難しいようだ。自分の身体的なエネルギーにせよ、精神的なエネルギーにせよ、それらは有限であり、収容力があるということの自覚はどのようにすれば芽生えるのだろうか。その実践の手立てを考える。


今朝方はいくつか夢を見ていた。ぼんやりと覚えているものは、誰か知人にジークンドーを教えていたことである。場所は欧州のどこかの街の公園だったように思う。そこにはあまり人がいなくて、トレーニングに集中するにはもってこいだった。そこでしばらくトレーニングに励んでいると、夢の場面が変わった。次の夢の場面では、私は海岸にいて、砂浜を歩いていた。すると、向こうに協働者の知人がいて、その方と偶然その場で会ったので、少し話をすることにした。何やらその方の奥さんは今記憶障害で苦しんでいて、その方もまた看病が大変とのことだった。そんな奥さんにその方は今の思いを込めて手紙を綴ったそうだった。その方は私にその手紙を渡し、何かおかしな表現をしていないかを確認して欲しいと述べた。手紙を受け取った私は、打ち寄せては返す波の音を聞きながら、手紙を読み進めた。すると、その手紙にはその方の奥さんへの思いが強く込められていて、とても感動的な内容だった。幸いにも奥さんは手紙であればかろうじて読めるような状態だったので、修正するべき箇所は全くなかったので、すぐに奥さんに読んでもらうように伝えた。すると突然私の意識は海岸にはなく、その方と奥さんが話し合っている場所にあった。その方は奥さんに手紙を渡し、奥さんはゆっくりと手紙を開いて中身を読み始めた。しばらく時間が経ち、最後の文章に目を通した時、奥さんは全てを思い出したようであり、感動の涙を流していた。どうやらその方の思いは通じ、それが奥さんの記憶障害を治したことは、自分にとっても感動的な光景に映った。今朝方はそのような夢を見ていた。浜辺に立っていた時の感覚、そこで手紙を読んでいた時の感覚、そして最後に奥さんが記憶を取り戻した時に自分の内側に流れ込んできた感動的な感覚が今もなお色濃く残っている。何か心を浄化してくれるかのような夢だった。フローニンゲン:2022/7/7(木)09:26


8747. ネオリベとコミュニケーションの希薄化/肯定性とポストコンベンショナルな思考


先ほどもまた小雨が降り、それがすぐに止んで、今は青空を見せている。今日の天気はとても変動性に富んでいる。


昨日、ネオリベ的な社会における色々な問題をセミナーの中で話していた。セミナー後、ふと他者性の喪失とコミュニケーションの希薄さについて考えていた。ビョンチョル·ハンの指摘に基づけば、現在は確かにSNSやその他のテクノロジーを活用してコミュニケーションが過剰になっている状態たが、社会の中ではコミュニケーションが欠落してしまっている領域を見る。オランダで生活をしていると、街で人とすれ違う際に視線が合ったらたいてい挨拶をするし、ジムに行って同じ場所を共有している場合には、尚更自然とコミュニケーションが起こる。興味深いのは、こうしたコミュニケーションは移民局などの役所でも起こり、担当してくれた人と雑談のような形で話をすることもある。今となってはこうしたことは当たり前のように思っているが、ひとたび日本に帰ってみると、見知らぬ人に挨拶をしたり、ちょっと雑談することがほとんどないことに驚く。これはコミュニケーションの過剰さの対極にあるような現象なのではないかと思う。街で人と視線が合うことは愚か、見知らぬ人と話が始まるということは、少なくとも都市部においてはほとんどない。これは単なる文化差として片付けてしまっていいものとは思えない。ハンも指摘するように、ネオリベの末期症状を抱えているのは日本と韓国であり、ネオリベ的な社会運営による病理がこうした日々の生活における何気ないコミュニケーションの希薄化として現れているのではないかと思う。


昨日はその他にも、ポストコンベンショナルな思考について改めて考えていた。この社会はコインの一面だけを見せるように仕向けてくる。差し出された面だけしか見ないのはコンベンショナルな思考の典型であり、一方で、差し出されたコインの裏をさっと見れるようなあり方がポストコンベンショナルな段階の1つの特徴かと思う。例えば、「70歳まで働ける社会を実現する」という政策は聞こえはいいが、まさにハンが指摘しているように、それは肯定性に彩られた言説であり、コインの裏から見れば、70歳まで働くことができなければあとは自己責任というネオリベ的な主張にも聞こえるし、70歳まで働くことがよしとされる社会の中で、何らかの理由で70歳まで働けない人は異端者扱いを受け、無能な人間や失敗者の烙印を押され、社会の周辺に追いやられる光景がすぐに脳裏に浮かぶ。大抵の人は、この社会が達成主義·能力主義社会であるがゆえに、70歳まで「働ける」という「~できる(can)」という言葉の響きに吸い寄せられ、70歳まで働ける社会がどのような社会なのかというところには思考が及ばないのである。それはコンベンショナルな思考であり、逆に言えば、70歳まで働くことを良しとする社会の実態や有り様まで思考が及ぶのであれば、それはポストコンベンショナルな思考の現れかと思う。フローニンゲン:2022/7/7(木)10:28

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page