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8734-8740: フローニンゲンからの便り 2022年7月5日(火)



No.3786 神の指紋_A Finger Print of God


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1660, Advertisement and Capitalism

Advertisement stimulates, exploits, and alters, our desires and needs.

Because our desires and needs cannot be gone away, it would be wise to change the direction of our desires and needs.

Today’s advertisement is poison, but it can be good medicine if it transforms itself.

Groningen; 09:31, 7/5/2022


No.1661, A Mutually Poetic Relationship

I can make a poem from the world.

The world makes a poem from me.

The relationship between the world and me is mutually poetic.

Groningen; 20:04, 7/5/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8734. 今朝方の夢

8735. マネー神学/進歩的な形での再神秘化

8736. 欲望と広告/プロテスタントとネオリベ、そしてTINA

8737. 物質的な生活状況からの見つめ直し/究極的関心や宗教的なものの再考

8738. ハーヴェイ·コックス、ユン·モウ·ソン、ウォルター·ベンジャミンの資本主義批判の観点

8739. ジークンドートレーニング116:シャドースパーリングと筋力トレーニング

8740. 5年ぶりの単著の出版に向けて


8734. 今朝方の夢


時刻は午前7時半を迎えた。今朝は起床した時から朝日が顔を覗かせていて、その光の恩恵に出迎えられる形となった。今日の最高気温は19度までしか上がらないようだが、太陽の光のおかげで暖かく感じられるのではないかと思う。午後にジムに行く際には、清々しさを感じられるだろう。


煌く朝日とそよ風に揺れる木々の葉を眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、実際に通っていた高校に似た学校にいた。ちょうど下校時間となり、靴箱に行って靴を取って帰ろうとしていた。すると、小中高と付き合いの長い女性友達(NI)に後ろから声を掛けられた。そこで彼女とはとても他愛のないやり取りをして、私は1人で下校しようと思った。するとどういうわけか、背後に違和感を感じ、振り返ると、数人の友人たちが恐ろしい形相をして私の後をつけていた。どうやら私は彼らに狙われているようであり、なぜ自分が彼らに狙われているのかの理由が分からずに少し困った。その理由を考えながら彼らを振り切るかのように足早に前に進んでいると、ひょっとしたら先ほど友人の彼女と話をしていたことが関係しているかもしれないと思った。私を追って来ているのは彼女の手下のように思えて来て、彼らの洗脳を解くか、このまま足早に逃げるかをしなければいけないと思った。彼女が言葉巧みに彼らを洗脳したのであれば、そう簡単にその洗脳は解けないと思ったし、万が一彼らと戦うことになったら、彼らを傷つけてしまう恐れもあったので、とりあえずその場からうまく立ち去ることを選んだ。そのような夢の場面があった。その次に見ていたのは、雰囲気の落ち着いた見慣れない部屋にいるものだった。そこで私は、外国人の友人数人と一緒に、日本語で俳句や短歌を詠んでいた。彼らは日本語がかなりできて、教養は抜群にあったので、俳句や短歌の作り方を教えると、すぐに素晴らしい句や歌を作り始めた。彼らの作品には、日本人にはない感性や着眼点が現れていて、とても面白いと思った。そこから私たちは、和菓子とお茶を味わいながら、俳句や短歌をお互いに詠んで楽しんだ。そのような夢を見ていた。今朝方は比較的夢の世界が穏やかだったように思う。さて今夜の夢の世界はどうだろうか。フローニンゲン:2022/7/5(火)07:52


8735. マネー神学/進歩的な形での再神秘化


穏やかな朝の世界に浸っていると、心が自然と落ち着いてくる。というよりも、自分は常に外部の世界に溶け込んでいる感覚があり、絶えず寛ぎの中にいるという感覚がある。ただ、とりわけ朝の世界の静謐さと一体化するのは自分にとって特別なことなのかもしれない。


今日もまたポール·ティリックの資本主義批判の書籍を読み進めていこう。精読はゆっくりとだが着実に進んでいて、今日の午後にジムに行くまでには再読が終わっているだろう。そこからは再びビョンチョル·ハンの書籍の精読に取り掛かろうと思ったが、その前に一度マネー神学者のフィリップ·グッドチャイルドの主著を精読したり、テクノロジー哲学者のアンドリュー·フィーンバーグの書籍を精読したいと思った。精読ではないが、少しざっと再読しておきたいと思ったのは、ドイツの哲学者かつ社会学者のピーター·スローターダイクの書籍と、スロヴェニアの哲学者であるスラヴォイ·ジジェクの書籍である。彼らは多筆家であるので、彼らの全ての書籍を持っているわけではなく、一昨年と昨年にいくつか書籍を購入した程度だが、今でも関心のある事柄について論考を残しているので、それらの書籍を再読し、来月の書籍の一括注文の際には、持っていない書籍を全て購入してしまってもいいかもしれないと思っている。来月は50冊から80冊ぐらいの書籍を購入することになりそうだ。


マネー神学者のフィリップ·グッドチャイルドは、誰も資本主義なんて信奉しなくていいはずなのに、みんなが資本主義に疑いもなしに参画してしまっているのはなぜかを、ニーチェ 、シェリング、アドルノ、ホルクハイマー、スピノザ、マルクス、ベルグソン、ドゥルーズの観点から解き明かしている。その主題と真っ向から向き合った書籍である“Capitalism and Religion: The Price of Piety”は真っ先に再読したい。


昨夜の読書を振り返っていると、ポール·ティリックは、主体と客体だけを眺めていては大切なものを見失うと指摘していたことを思い出した。そこにあるのは計算、管理、支配だけであり、高次のもの、あるいは超越的なものを愛するエロスを見出すことはできないと述べている。これはまさに慧眼であり、ハンの問題意識ともつながるものである。主体客体の分化と、主体客体双方への囚われは、資本主義の大きな問題の1つであり、逆に言えば資本主義は主体客体のどちらかに私たちを閉じ込めたり、それらの分断を助長する形で資本増殖を続けていく。神学的な言葉で言えば、主体客体を超克した「神体」とでも呼べるようなものをもう一度復活させるような形で、資本主義への対抗手段を考えていきたいとものである。そうなってくると、ありとあらゆる領域で脱神秘化を進めて来た資本主義に対しては、退行的な形での神秘化ではなく、進歩的な形での再神秘化が必要なのかもしれない。フローニンゲン:2022/7/5(火)08:59


8736. 欲望と広告/プロテスタントとネオリベ、そしてTINA


資本主義は人間の欲望に着目して生産と消費を煽り、欲望をまた加速させていく。しかし、人間の欲望をなくすことはできない。そうであれば、人間の欲望の方向性を変換させていくような試みができないだろうかと考える。例えば、人間の欲望を生産と消費に向けるような広告ではなく、欲望を脱生産や脱消費に向けるような広告が打てないだろうか。自らの欲望が何によってどのように方向付けられているのかを観察してみて、それに対する実践的処方箋を考えてみて、それを取り入れてみて自分の欲望の方向性が変わっていくのかを観察してみようと思う。


昨日は、改めて資本主義の歴史とキリスト教の歴史を重ね合わせる形での探究を行っていた。その中で、ネオリベの施策を推し進めていったイギリスのマーガレット·サッチャーが敬虔なプロテスタントの家庭で生まれ育ったことを知った。マックス·ウェーバーの主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、プロテスタントたちの勤勉で質素な倫理観と、資本主義の精神の最たるものである合理主義的かつ自助努力を尊ぶ精神は強い結び付きがあり、サッチャーはその影響を多分に受けていたのだろうということを思った。ネオリベの中にプロテスタント的なものがどのように混入しているのかをより精査していかなければならないが、いずれにせよ、そこでは自助努力と怠惰さの排斥が目指され、とにかく合理的に物事を進めていくような精神が求められる。他者に救いを求めるのではなくて、自分で自らを救うという在り方もまた尊ばれる。こうした精神や在り方が行き過ぎてしまったのが現在のネオリベ的な社会の姿であり、そうした社会から派生した種々の問題はビョンチョル·ハンが指摘していることでもある。いずれにせよ、資本主義に貢献することが人生の成功として尊ばれるような社会は相当に歪であるし、そうした成功だけが成功としてみなされ、あとは失敗の烙印を押されてしまうというのもまた歪である。仮に「成功」という言葉を用いるのであれば——その言葉もまた非常に陳腐に響くのだが——、背後にある失敗——失敗という名の健全な路線変更や成功に至るために必要な停滞や退行——を含めての複数の成功を社会的に認めていくべきなのではないかと思う。サッチャーは有名な言葉として、“TINA (There is no alternative)”という言葉、すなわち「代替案はない」というスローガンでネオリベを推し進めていったが、何が起こるかわからないこの複雑な世界の中で、代替案を考えないということはそもそも知的怠惰であり、非常に危険なことである。イギリスの哲学者のロイ·バスカーが述べているように、私たちは必ず代替案を考えながら進んでいかなければならないように思える。それは逃げ道を設けるという否定的な意味ではなく、路線変更をしながら私たちが本当に目指すべきところに向かうためという肯定的な意味合いがある。フローニンゲン:2022/7/5(火)09:46


8737. 物質的な生活状況からの見つめ直し/究極的関心や宗教的なものの再考


精神的な次元、非物質的な次元だけではなく、マルクスが言うように、現代社会の実存状況を分析するためには、まずは物質的な生活状況を見つめ直し、物質的な生活環境の中で私たちが日々何をしているのかという具体的な側面を見つめていくことは非常に重要かと思う。資本主義的社会の問題を考察するときに、マルクスのその姿勢を採用するのであれば、例えば食の問題やゴミの廃棄の問題、さらには水道屋電気の問題など、とても具体的で身近なのだが、それゆえに盲点となってしまっている領域がたくさんある。


今読み進めているポール·ティリックの資本主義批判の書籍の中では、ティリックの批判の観点を採用しながらも、観点として弱い点を例えば神学者のヨルゲン·モルトマンや社会学者のエミール·ダークハイム(デュルケム)の観点で補完している。ティリックの用語として1つ重要なものは「究極的関心(ultimate concern)」というものだが、現代においては、その究極的関心というものがひどく資本主義によって歪められてしまっている。直接的に資本の増大、すなわちカネを稼ぐことを究極的関心に置いている人もいれば、一見するとカネを稼ぐことではないことを自身の究極的関心だと思っている人も、その関心の先にはカネが待っているという状況は多々見受けられる。さらには、資本主義と結びつかない形では究極的関心など思いつきもしないというように、究極的関心に対する意識や志向性というものが麻痺してしまっている人も多く見受けられる。そんな状況分析をしながら、改めて自分の究極的関心は何なのだろうかと静かに問うている。


ダークハイムが指摘するように、宗教がもたらす共同体意識の形成や結束力というのは、現代の個人がアトム化し、分断されている時代において見逃すことのできない側面である。宗教そのものの回復の路線を探るのは、資本主義の超克と同じぐらい難しいように思えるが、その路線を探っていきながら、同時に「宗教的なもの」の質的変容の路線も探ってみようと思う。フローニンゲン:2022/7/5(火)11:27


8738. ハーヴェイ·コックス、ユン·モウ·ソン、ウォルター·ベンジャミンの

資本主義批判の観点


時刻は午後2時を迎えようとしている。空が少し曇ってきた。もう少ししたらジムに行き、ジークンドーの鍛錬をして、サウナに入ってこようと思う。ジムに行く前に、先ほどの読書の内容について振り返っておきたい。


ハーバード大学の神学者ハーヴェイ·コックスは、主著“The Market as God”の中で、資本主義の様々な特性は、伝統的な宗教の種々の側面と対比されると主張している。例えば、資本主義社会においては、買い物をすることがまるで聖礼·聖餐(sacrament)であるかのような無意識的に行う儀式的なものになっていたり、社会に溢れる宣伝広告は資本主義という宗教の論理を普及させる教理問答(catechism)のネットワークとして社会の隅々に張り巡らされていると指摘している。例えば、高級店に入ってみると、それはまるで教会や神社やお寺に足を踏み入れたかのような、どこか非日常感を味わわせてくれるような雰囲気に包まれており、そこで何か商品を購入する行動は、自分の様々な欲望を満たすという側面だけではなく——例えば、経済学者のソースティン·ヴェブレンが指摘するところの「顕示的消費」だけではなく——、資本主義という神に貢ぐ儀式的な行為になっている点は見逃すことはできない。また、現代社会のありとあらゆるところに張り巡らされている広告は、飽くなき生産と消費を煽ることに繋がるものばかりであり、それは資本主義の論理を強化する形で機能している。


ローマ·カトリック神学者のユン·モウ·ソン(Jung Mo Sung)というブラジルで活躍している解放神学者の仕事を知った。ソンは、資本主義の原理として、神学における懲罰的な考え方を見て取っている。すなわち、まるで悪行に対する当然の報いであるかのように、貧しい者は懲罰として貧しくなっているのだという考え方や、能力を発揮していない人や成果を出していない人に対して、そのような状況に置かれているのは自助努力の不足による当然な懲罰であるかのようにみなしている社会の在り方を問題視している。この問題意識は、マーク·フィッシャーやビョンチョル·ハンの問題意識と繋がるものであり、非常に重要な考え方かと思う。


それ以外にも、ウォルター·ベンジャミン(Walter Benjamin)の考察について考えていた。ベンジャミンは、似非宗教としての資本主義の特徴を、その信念体系というよりもむしろ、生活の形として隅々にその論理が浸透している点を指摘する。そして、ベンジャミンは、資本主義とは絶対的に従わなければならないドグマを持たないカルト的な宗教であると指摘している。絶対的な教義を持たないはずの資本主義も、その背後には生産性拡大や消費増大などの隠れた教義的なものがあり、人々はそれらの教義的なものに盲目的に従う形で飽くなき生産と消費に駆り立てられている。また、人々は無自覚的に自身が資本主義における消費者であるばかりではなく、生産者として、あるいは投資家として加担しており、それらの活動は全て、資本主義という似非宗教に対する盲目的な信仰と行動を強化する形で働いている。とりわけ生産活動の背後には、ティリックが指摘するように、人間の本質には何かを生み出すという生産活動が本質にあるだけではなく、生産を通じて創造主である神とつながっている感覚が内在的に存在し、資本主義は巧妙にその感覚に介入する形で、人々に無限の生産を促す。そしてひとたび生産活動に従事できなくなると、それは創造主としての神と切り離されたかのような実存的不安に苛まれることにつながりうる。こうした分析もまた重要な洞察を含んでいる。フローニンゲン:2022/7/5(火)13:59


8739. ジークンドートレーニング116:シャドースパーリングと筋力トレーニング


時刻は午後4時半を迎えた。先ほどジムに行き、帰り道に立ち寄ってスーパーから自宅に戻ってきた。ジムに向かうために自宅を出発した後に、オーナーのペイトラさんと敷地内で鉢合わせ、少しばかり立ち話をした。欧州は夏季休暇に入る頃であり、お互いの夏季休暇の計画について話し合った。自分は常に休暇中のような形で日々を過ごしているし、毎月どこかに旅に出かけているので、それを特に変えるわけではなく、7月と8月、そして9月までの旅の計画を話した。どうやらペイトラさんはフレディさんと一緒に8月は丸々スイスの自然の中で過ごすそうだ。とても素敵な夏の過ごし方かと思う。旅の話をした後に、ここ最近植えた植物についての話を聞いた。どうやらそれは残念ながら、カタツムリに食べられてしまったそうだった。実際にその植物を見せてもらうと、葉っぱや花が食べられていて、少し無残な姿として佇んでいたが、それも食物循環の一環なのかもしれないと思った。今は改めてカタツムリに食べられないようなトゲのあるバラを植え始めたとのことだった。そんな話を聞いた。今日のジムでのジークンドーのトレーニングは、前回に引き続き、鏡を見ながらの1分間のシャドースパーリングを何度か繰り返した。サンドバックを叩くよりも、こちらの方が身になるようなトレーニングのような気がする。シャドースパーリングの前には、防御とカウンターの技術を順番に丁寧に鏡を見ながら行った。そこからのシャドースパーリングでは、足技と手技をランダムで混ぜいき、所々で防御とカウンターの動作をランダムで交えていった。こうしたランダムな動きを取り入れることによって、自分のマッスルメモリーに何がどれくらい身についているのかがわかる。また、自分が知らず知らずのうちに好んでいる動きの傾向や、技の組み合わせのパターンなども見えてくる。そんな発見があった。ここ最近は、武術の動作を妨げない範囲での自重の筋力トレーニングを再開した。だが前回と違うのは、下半身に関してはジークンドーのステップや構えによって鍛えられているし、日頃からよく歩いたりジョギングをしているので、下半身の筋トレはあえて行う必要はないかと思っている。しかし上半身に関しては、下半身の筋力とアンバランスな感じがするので、両者を均衡させるようなイメージで、上半身の筋力トレーニングを再び始めている。昨日に随分と追い込んでトレーニングをしたが、今日はすでに随分と筋繊維の破壊が回復していたので、ジークンドーのトレーニングの後、鏡のある部屋で1人黙々と上半身のトレーニングをした。特に大胸筋と上腕三頭筋に焦点を当ててトレーニングをしている。夕食前にも今一度それらの部位についてトレーニングをしてみて、どれくらいの筋繊維の破壊が実現されているのかを確かめてみようと思う。フローニンゲン:2022/7/5(火)16:38


8740. 5年ぶりの単著の出版に向けて


たいていの事柄は全て突然の偶然から始まる。今日の朝にふと、久しぶりに書籍を執筆してみようかと思った。振り返ってみると、監訳書や翻訳書を除けば、最後に単著を出版してから5年も経とうとしている。それまでの間に自分は随分と新たな領域の学習と実践をしてきた。このあたりで、これまでの探究のまとめの意味と、今現在自分が関心を持っていることについて紹介するような書籍を執筆しようかと思った。来年はアメリカでの生活を再び始めようと考えていて、欧州を離れる前に、もう1冊ぐらいは書籍を書き残しておきたいと思ったのである。これから学術的な機関に戻れば、そこでは学術論文の執筆を主軸に置くことになる。自分はそれと並行して、自らがかつて企業社会でビジネスパーソンとして働いていたことに意味と役割を見出し、ビジネスパーソン向けの書籍を執筆していくことは重要なことなのではないかとふと思った。今少し構想を練って実際に書き始めた書籍は、ビジネスパーソン向けなのだが、もちろんその他の領域の人たちにも読んでもらえるようなものにしたいと考えている。ビジネス書なのだが思想書としても読めるような、それでいて難しすぎず、しかし重要な洞察が含まれているような書籍を執筆したいと思った。


先ほどジムのサウナに入っていた時にも少し文章の内容について考えを巡らしていた。「はじめに」としては、今回の書籍は成長や発達に関するプロセスやメカニズムについて解説するというよりもむしろ、それはこれまでの著作物の中で大方紹介したことでもあるし、他の既刊の書籍がカバーしていることでもあるので、成長や発達を取り巻く時代の精神や仕組みについて取り上げたいと思う。その際に、成長や発達を取り巻く社会学的なアプローチや、神学的なアプローチを採用したいと思う。前者に関して言えば、ドイツの思想家のビョンチョル·ハンの社会分析をまずは採用したい。そして後者に関して言えば、様々な発達論者に影響を与えた神学者のポール·ティリックの分析を採用したいと思う。成長や発達を取り巻くコンテクストの時代分析をした後で、あるいはそれをする中で、実践的な処方箋を提示することを行い、学術書というよりも実践書として読めるようなものに仕立て上げていきたいと思う。そのようなことを考えていた。今ここで書き留めたことをもとに、さっと「はじめに」の叩き台を書いてしまおうと思う。フローニンゲン:2022/7/5(火)17:38

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