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8724-8733: フローニンゲンからの便り 2022年7月4日(月)



No.3785 慈愛の幾何学_A Geometry of Benevolence


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1658, Asinine Capitalism

Capitalism has ever been obsessed with pursuing infiniteness within finiteness.

That has generated incessant tragedies.

Groningen; 17:15, 7/4/2022


No.1659, Theonomy

Our life and the world are inherently penetrated not only by autonomy and heteronomy but also by theonomy.

Once we see through the principle, a qualitative transformation may happen to us and the world.

Groningen; 18:57, 7/4/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8724. 今朝方の夢

8725. 資本主義批判の方向性/欲望の方向転換

8726. 今朝方の夢の続き

8727. 資本主義と建築

8728. 資本主義によって餌付けとコンディショニングをされた現代人/神に近いところにいる資本主義

8729. 悪魔的な性質を内包する資本主義に対するポール・ティリックの態度

8730. 自律的・他律的・神律的文化について

8731. 内在する悪魔 /消費刹那主義的な生き方に対抗して

8732. 食品廃棄と肯定性に毒された現代社会

8733. 資本主義の病理を特徴付ける自己充足的有限性


8724. 今朝方の夢


今日からまた新たな秋を迎えた。時刻は午前7時半を迎えようとしている。今、ホーホーと鳴く鳥の鳴き声が聞こえてくる。今は朝日の姿が見えているが、空には少し雲がかかっている。今日は最高気温が21度まで上がるようだが、朝のこの時間帯は半袖だとかなり寒い。上に何か羽織るものが必要なぐらいだ。天気予報を見ると、ここから1週間は少なくとも、最高気温と最低気温が同じような日々が続く。今は一番涼しくて過ごしやすい時期だと言えるかもしれない。


今朝方はいくつか夢を見ていた。夢の中で私は、幼少期に同じ社宅で過ごした1歳年上の友人の家にいた。彼の家から通っている学校まではとても近く、学校が休みの期間の今は毎日彼の家に遊びに行っていた。午前中から昼過ぎまで彼の家にいて、午後から学校に行ってジークンドーのトレーニングをしていた。その日も友人の家で彼と遊んでいたのだが、昼前に彼の母親が帰ってきて、玄関の汚れに驚いていた。彼の母親は玄関で、その汚れのことを有害細菌だと述べていた。友人と私はそれを聞いて大袈裟だなと思って笑った。友人の母親は私のことを昔からよく知っていて、私がそのような汚れを付けたとは思っていないようだったが、誰がやったのか気になっているようだった。そう言えば私の前に、もう1人別の友人が遊びに来ていて、彼はカレー味のカールを食べながらタバコを吸っていて、そのヤニではないかと思った。私は彼とあまり面識はなく、ただ身長がとても高くて体格も良かったので、なんとなく彼のことは知っていた。しかし友人曰く、おそらく彼の仕業ではなく、その汚れは何か別の人が付けたものかもしれないと述べた。結局、誰が付けたのかわからないまま、犯人探しはやめて、私は彼の家をお邪魔することにした。別れ際に彼の母親に、「また明日も来るかもしれません」と伝えると、彼の母親は何も問題なく歓迎してくれるような笑顔を浮かべていた。彼の家を出てから向かったのは学校である。ちょうど夕方からジークンドーの部活があり、夕方の時間はメンバー同士でスパーリングを行うことが通例であった。夕方までの時間は自主トレーニングで、その成果をスパーリングで試すことが毎日行われていた。私はまだジークンドーを始めて日が浅く、スパーリングをまだ一度もしたことがなかった。どのようなものか気になって、今日は自主トレーニングで使っている体育館ではなく、スパーリングが行われている体育館に向かった。体育館に近づくと、体育館の入り口から3人の若い男性が出てきた。見ると彼らは、現役のプロの格闘家であり、3人とも小柄ながらも貫禄があった。どうやら彼らも部活のメンバーのようであり、うちの部活は随分とすごい人がいるものだなと思った。3人は笑顔で私に話し掛け、彼らは私の名前を知っているようだったが、私は彼らの名前がうる覚えだった。彼ら曰く、早くスパーリングにエントリーしないと今日はもうスパーリングする相手を見つけられないかもしれないと教えてくれた。なので急いで体育館に入り、スパーリングが行われているリングに駆け寄り、エントリーをしたところ、エントリーを担当しているメンバーの1人から、「今日は相手がもう見つからないかもしれないね」と言われた。明日はもう少し早く来て、明日はなんとかスパーリングをしてみたいと思った。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/7/4(月)07:45


8725. 資本主義批判の方向性/欲望の方向転換


書斎の窓から差し込んでくる優しい朝日を浴びながら、当面は、資本主義批判をしていく際に、それを経済構造的な観点というよりも、心理·文化的な観点で展開していこうと思った。これまでの自分が探究してきた事柄からすると、そちらの方が行いやすい。まずは、心理·文化的な観点から資本主義の問題を分析していき、それに対する処方箋を考えていく。その取り組みをしばらく続けた後に、探究の観点を徐々に経済構造的なものに移していこうと思う。そう思わせてくれたのは、フランクフルト学派もポール·ティリックも、資本主義の文化に対する影響や人間心理に対する影響についての考察が深いからである。フランクフルト学派とティリックの違いを挙げると、ティリックは神学的な観点で資本主義が文化にもたらす影響について考察しているので、その点にユニークさがある。逆に彼らは経済的な側面にはそれほど言及がない。その側面については他の論客の理論を参考にして補完していく必要がある。ここ最近注目しているビョンチョル·ハンも資本主義の経済的な問題、例えば格差の問題や通貨発行権や経済政策の問題についてほどんど言及しておらず、彼もまた文化的な側面や心理学的な側面に焦点を当てているので、それこそ古典的にはマルクスの資本論を読み返す必要があるし、マネー神学者のフィリップ·グッドチャイルドやニミ·ワリボコ、経済地理学者のデヴィッド·ハーヴェイの一連の論考も参考にしたいところだ。そのようなことを改めて考えていた。今日の読書もまた、まずは資本主義が私たちの心や文化に与える影響について考察していき、昨日よりも少しでも問題の分析が精緻になるようにしたいと思う。1つでも2つでもいいので、新たな観点を獲得し、それを分析の精緻さに繋げていきたい。


それ以外にも昨日は、ドゥルーズとガタリ的な発想もしれないが、欲望を抑圧するのではなく、欲望を解放する形で、しかもそれは利己的な欲望ではなく、利他性や創造を司る欲望を解放させ、公共的なものを作っていくというのは、利己的な欲望に私たちを駆動させる資本主義の対抗策の1つになるのではないかと考えていた。とにかく現代の資本主義社会においては、実際の消費量を超えるような物で溢れていて、それにはまるで歯止めが効かないかのような様相を見せている。しかもそれらの物は、全て私的利用される物であり、公共的な物では一切ない。そこで、過剰に私的な物を生産するその欲望エネルギーを、公共的な物を創出する方向に振り向けられないかと考えていたのである。これも集合規模で実現しようとなるといきなりは難しいが、一個人としてであれば、何か始められることがあるのではないかと思う。それこそ自分の場合は、文化財としての創作物を公共的な形で作って共有することなどが挙げられ、それはまさに今の自分の創作活動の在り方である。人間は何かを作る存在であるという側面があるので、物を生み出すことを抑圧する方向性はあまり賢明ではなく、ゆえに物を作る欲望をうまく利用して、人々とこの惑星にとって良き物を作っていく方向に変換していきたいものである。フローニンゲン:2022/7/4(月)07:59


8726. 今朝方の夢の続き


時刻は午前9時を迎えた。柔らかな朝日が地上に降り注いでいて、辺りはとても穏やかな雰囲気を発している。そよ風が世界の頬を優しく撫でながら移動している。


今朝方の夢の続きについてこの時間帯になって思い出したので、それについても書き留めておこう。夢の中で私は、森の中にいた。そこで友人と一緒にサッカーの1対1の練習をしていた。ところがボールはサッカーボールではなく、円盤型の見慣れない物体を用いていた。それを足で操作するのはなかなか難しく、相手を抜くのは至難の技であった。しかし、こうした扱いにくい物を扱いながら相手を抜く練習をすることによって、相手を抜いていく技術が高まるのではないかという期待があった。しばらく練習をした後に森を出ようとした。森を抜けた瞬間に、私はアムステルダムにいた。そこで、母方の叔父と一緒に観光をしていた。叔父はアムステルダムに来たのが初めてか、あるいは何十年も前に1度来たことがあるぐらいだったので、好奇心の目を持って街を眺めていた。私は叔父を案内する形でアムステルダムを一緒に観光した。しばらく街を歩いていると、郊外の住宅地にやって来た。そこは、地域を挙げて地酒を作っているらしく、ビール樽のような物がどの家の横にも積み重ねられていた。叔父と一緒に、せっかくなのでそこで何か地酒でも飲もうかという話になったところで夢の場面が変わった。今朝方はその他にも何か夢を見ていたような気がする。それほどまでに今朝方は夢の世界が活性化されていた。その他の夢については今この瞬間に思い出すことはできないが、先ほど書き留めていた夢について改めて思い出してみると、ジークンドーの夢を見ていたことは興味深い。ここ最近は事あるごとにジークンドーが夢の中に出てくる。特に、自分の攻撃性に関する夢の際には必ずと言っていいほどジークンドーが出てくる。ただし今日は、自分の攻撃性という側面を通じてジークンドーが現れたのではないように思える点が興味深い。また、ジークンドーのスパーリングに近い実践的な訓練を前回のプライベートレッスンの際に行ったのだが、まだそれは正式なスパーリングではなく、スパーリングを求めている自分がいるのかもしれないと思う。フローニンゲン:2022/7/4(月)09:26


8727. 資本主義と建築


資本主義は実に様々な存在圏に蔓延っていて、それは経済圏だけではなく、生活圏や文化圏に隅々と蔓延っている。その中で、象徴圏というものを考えてみたときに、それは多分に文化圏とも繋がるものだが、資本主義の象徴性が色々と浮かび上がってくる。これを映画の中の様々なシンボルと絡めて見るのも面白いが、都市との関係で見てみると、ニューヨークのマンハッタンにある摩天楼というのは紛れもなく資本主義の象徴である。特に、富の神(悪魔)であるマモンの象徴として機能している。富の神がいる場所へ少しでも近づこうと、摩天楼の建物はとにかく天を目指してより高い物を目指すようになる。日本は、ニューヨークのマンハッタの都市の景観とそこで用いられていた建築様式を20世紀前半に持ち込んだという歴史がある。例えば、東京の丸の内などはその最たる例であり、当時どんどんと高い建物が立っていく様子を肯定的、あるいは否定的に捉えながら小説や詩の中で描写した作品が結構あることに気づく。摩天楼の建物の特徴は、まさに資本主義の特性の1つである効率性を追求したものである。そもそもで言えば、摩天楼の建物は、木材などの材質よりも安く大量に生産できるコンクリートを活用した点が特徴として挙げられる。それ以上に注目するべきことは、マンハッタンはそれほど広い土地を持っているわけではないので、ある限られた面積の中でどれだけ大きな建物が建てられるかを考えた結果、それを効率よく実現するためには垂直的に高く高くしていくことが理想であると考えられた点だろう。当時の資本主義はこのように、土地には限りがあるから、今度はそれよりも広大なスペースを持つ空の搾取に向かって垂直的に高い建物を建てる方向に向かったのである。現代においては、もはや土地や空などの物理的な制約を受ける空間からも離れ、無限に広がるデジタル空間へと資本主義は魔の手を伸ばそうとしている——すでに伸ばしている——。ここから資本主義はデジタル空間の中でどのような運動を展開するのだろうか。それに対して私たちは何をしていけばいいのだろうか。そのような問いが立つ。


ナオミ·クラインの「ショックドクトリン」というのは、何も新たな思想やシステムの導入の際に適用される概念なのではなく、都市空間の再編成においても当てはまるものなのだと思う。とりわけ東京の中心部にオフィス街が出来たのは、関東大震災後だったということを聞く。関東大震災後、復興に向けて動き出そうとしているときに、ショックドクトリン的にニューヨークのマンハッタン型の建築が理想とされ、それが今の東京のオフィス街の景観を作っている。当時はおそらく、復興の象徴を求めていたのだろうし、ニューヨークのマンハッタンが経済的な成長をどんどん遂げている姿に憧れの念もあったのだろう。そうしたことが重なって、とりわけ丸の内を中心にして高層鉄筋コンクリート群の建物が次々に建てられていったことに改めて注目する。ここからは都市の形成や建築と結び付けながら、資本主義の象徴性についても考察を深めていきたいと思う。フローニンゲン:2022/7/4(月)10:07


8728. 資本主義によって餌付けとコンディショニングをされた現代人/

神に近いところにいる資本主義


効率性や生産性の味をひとたび知ってしまうと、それがパブロフの犬的に人々の中に当たり前のものとして認識され、本来は効率性や生産性の概念とは相容れないような実践や領域にそれらの概念を持ち込み、効率性や生産性を過度に求めることに人々は躍起になるのだろう。ひとたび何かの味を知り、その旨味を知ってしまった人間を、すなわち一度餌付けとコンディショニングが完成してしまった人間を変革していくことは多分に難しく、それは不可能ではないが、多くの現代人がそこから抜け出せていない点は誰の目にも明らかだろう。


資本主義そのものは、実際とのころ神にとても近しい存在なのかもしれない。神の存在を容易に把握できないのと同じように、資本主義というのも捉え所がなく、何か人知を超えた巨大なもののように思えてくる。そうした擬似的な神として資本主義が佇んでいる点をポール·ティリックは見抜き、その姿を悪魔的と形容したのだろう。


小鳥たちの澄み渡るさえずりが辺りに響いている。彼らの鳴き声を聞きながら、午前中の読書に従事している。昨日から引き続き、ポール·ティリックの資本主義批判の書籍を読み返している。今回は精読をしており、一言一句読みながら、時折立ち止まってあれこれと考え事をしている。先ほど資本主義と建築について考えていたのも、ティリックの書籍から得られた刺激によるものだ。それでいくと、ティリックが述べるように、文化は宗教と密接に結びついていながらにして、実存的には切り離されたものではければならないという指摘は重要かと思う。この指摘をもとに、擬似的宗教としての資本主義が文化的表象としてどのように現れているのかを分析しながらも、同時に資本主義に毒されていない実存領域を発見したり、あるいはそれを作り出していくような試みに従事する必要があるかと思う。ティリックがあえて宗教と文化を分ける観点も持ち出したのは、まさに資本主義に毒された文化が実存領域に侵入することを防ぐために、あるいは既存の実存生活を守るためだったのだと思われる。ティリックの書籍を読み返すことが終われば、再びマネー神学の書籍に立ち返って、マネーの内在性質を神学的に考察していこうと思う。フローニンゲン:2022/7/4(月)10:46


8729. 悪魔的な性質を内包する資本主義に対するポール・ティリックの態度


ポール·ティリックは、資本主義を悪だと決めかかって捉えることを避けるようにと戒めている。その背後には、資本主義の悪魔的性質があり、その1つとして、資本主義の肯定的な側面の中にも悪魔的なものが内在しており、仮に資本主義の肯定的な側面を見つめないのであれば、そこに内包されている悪魔的な性質が見過ごされてしまうという考え方がある。現代においては、資本主義を悪だと決めつけて議論をする風潮があるが、それをしてしまうと、資本主義の肯定的な側面に含まれている悪魔的な性質を見逃してしまうことになるのだ。改めて資本主義の価値は何であったというそもそも論も大切にし、肯定的な側面に潜む悪魔と対峙しながらにして、同時に否定的な側面を詳細に分析していく姿勢が必要だろう。川面凡児の神道神学的発想を用いれば、表裏一体となった物の見方をしていかなければならない。肯定的な側面の中に否定的な側面を見出し、否定的な側面に肯定的な側面を見出しながら、事物の全体像をより詳細に把握しつつ、その変容を促す実践に従事する姿勢が大切となることを改めて思う。ティリックは、現代社会の中における宗教の最も重要な役割は、資本主義の悪魔的性質を明るみにしながらそれと対峙することであると明白に述べている。果たして、ティリックが立脚していたキリスト教を含め、その他の宗教はその役割を担っているのだろうか。そんな問いも自ずから立つ。


ティリックが指摘するように、資本主義は似非宗教的であり、それは伝統宗教の何と違うのだろうか。端的には、ティリックが宗教の定義として掲げる「究極的関心(ultimate concern)」の対象が明確に異なる。似非宗教的な資本主義においては、その究極的関心は詰まるところ、自我中心的あるいは人間中心的なものであり、世俗化されたものである。一方で伝統的な宗教における究極的関心は、絶えず人間の自我や人間性といったものを超越したものに向けられている。現代の資本主義においては、とにかく人間の自我の欲望や欲求を満たすことによって加速させられている側面があるため、もう一度個人として何を究極的関心に持って生きているのかを問うことは重要であろうし、そのプロセスの中で、超越的な眼差しを獲得していくことも重要になるだろう。ティリックは、資本主義に内包する悪魔的な聖性を神学の観点で分析することができるだけではなく、神学の観点から分析すべきだと強い口調で指摘していたことを思い出しながら、自らの究極的関心というものもまた神学の観点から見つめ直したいと思う。フローニンゲン:2022/7/4(月)13:15


8730. 自律的・他律的・神律的文化について


ポール·ティリックは、カントが説く自律的な在り方を神学の観点から超越しようとした。カントにおいては、認識と物自体を分けることを説き、自律性(autonomy)としての理性の働きに着目した。一方で、人間には自己を超えた物理法則を含めた他律(heteronomy)からの影響があり、また自己の内側の最も深くにある超越的な内在法則、さらには宇宙の物理法則の背後にある超越的な法則である神律(theonomy)に着目しながら、ティリックは資本主義批判を展開していった。とりわけ、それら3つの働きが人間が生み出す文化にどのように表象として現れているかに着目しながら、文化と接続している資本主義の批判を行っていったのである。


厳密には、ティリックが述べる自律性とは、単に主観的な理性の働きに則るものを指していたわけではなく、自律性は主観的かつ客観的な理性の法則に則るものであるとし、個人主義や主観主義に陥ることを戒めていた。このあたりも、現代の資本主義が押し進める自律性とは意味合いが異なるように思える。現代においては、肯定性が内包した自律性を声高に叫ぶことによって、歪んだ個人主義を押し進めながら、それによる個人の分断を通じたあくなき生産の追求や自己搾取が生み出されている。


文化から宗教の性質を紐解き、宗教から文化の性質を紐解きながらにして資本主義の内在性質を紐解いていったティリック。ティリックの自律、他律、神律の観点から文化を紐解いてみると、自律的な文化は、個人や社会生活は究極的な関心とは切断されてしまっており、合理性に基づいて推進されるものだと言える。また他律的な文化は、自律的な理性を抑圧させるようなドグマ的な、あるいは権威的な基準によって推進されるものだとしている。最後に神律的な文化は、自己の神聖な性質や基盤からもたらされる究極的な関心事や究極的な意味によって営まれるものだと述べている。端的には、自律的な文化は合理性一辺倒であり、他律的な文化は個人の理性を抑圧しながら営まれ、神律的な文化は理性に過度に依存するのでも抑圧するのでもなく、個人の内面の深みに立脚した形で営まれるという性質がある。


備忘録として書き記しておくと、ティリックは自律性と他律性を問題視しているが、それらを等しく問題視しているわけではない。端的には、ティリックは自律性を他律性よりも優先させていた。これはティリックがプロテスタントの神学者であり、教会のドグマ的な教義に違和感を示す考え方を持っているからであろうと推測さるし、そもそも発達理論の観点で言えば、ティリックが述べる他律性は慣習的な段階の産物であり、自律性は後慣習的な段階に向かう過程で生み出されるものであるから、より高次元の自律性の方に価値を置いているというのが見えてくる。そして、ティリックが採用したのは、後慣習的な段階に向かう過程で生み出される自律性をいかに神律に変容させていくかというアプローチであり、その点についてこれから調査をしてみようと思う。フローニンゲン:2022/7/4(月)14:32


8731. 内在する悪魔 /消費刹那主義的な生き方に対抗して


時刻は午後3時に近づきつつある。もう少し読書をしたら、今日は天気が良いので、近くのショッピングモールに行って、プロテインを含め、栄養を補うパウダー類を購入しに行こうと思う。先ほど改めて、数学に強く立脚した自然科学、テクノロジー、そして資本主義経済について考えていた。人間の学問の世界の頂点に位置していた神学が、神の超越性の世界から離れた人間性を中心にした学問に派生した瞬間に、そこに悪魔が入り込んでしまったのではないかという考えが生まれた。もちろん、神学そのものの中に悪魔がいないかを探究していくことは重要である。神の存在が前提となっているが、神学の中に悪魔はいないのだろうかという関心がある。今のところ悪魔がいそうなのは、神学から次に派生した数学と音楽である。数学と音楽の悪魔的性質については今すぐにでもいくつか思い当たることがある。音楽の悪魔的性質を一旦脇に置き、数学の悪魔的性質を引き継ぐ形で種々の自然科学が発展し、そして数学は経済学にも引き継がれていることを考えると、現代の資本主義経済というのは、神学から派生した種々の学問によって立脚しており、それらが誕生した時点から悪魔的なものを絶えず内包していたのであるから、現代の資本主義経済に悪魔的なものが温存されているのも必然なことのように思えてきた。ティリックの書籍を読みながら、数学に内包されている悪魔的なものを考える際に、彼が定義した悪魔的なものの性質を参考にしてみるといいだろう。そうすれば、現代の経済学の悪魔的な性質や構造上の問題も自ずと見えてくるだろう。


昨日、刹那的な時間感覚で私たちを生きさせようとする資本主義社会の中で、永遠を感じさせてくれる時間を過ごすことの大切さについて考えていた。刹那的に消費されゆく時間。それを煽る果てしない生産商品運動。それらによって、私たちの人生はますます刹那的なものになっていく。一瞬一瞬という意味での刹那を大切にすることと、生が刹那的なものにされてしまうことは全く違うことを意味しているのは言うまでもない。現代においては、個人のアトム化だけではなく、時間もまた断片的にアトム化され、それが1つの大きな連続的な流れを生み出し、人々は刹那的な時間の大海を生きている。消費刹那主義的に生きる人生を対象化し、それに気づくだけでもまずは最初の一歩になるだろうか。そよ風の声に耳を傾けること。家の中に侵入してきた虫を眺めること。そんな些細なこともどこか刹那的に生かさせようとする現代社会の在り方に待ったをかける大切な実践のように見えてくる。フローニンゲン:2022/7/4(月)15:22


8732. 食品廃棄と肯定性に毒された現代社会


形の悪い野菜を即座に捨ててしまう食品廃棄は、ビョンチョル·ハンが指摘する肯定性に毒された社会の在り方と対応する。ハンは、肯定性の体現された具体的な例として、表面がツルツルしたスマホやブラジリアンワックスによる脱毛の例などを持ち出す。こうしたゴツゴツしていないものを嫌い、表面がつるりとしたものを好むのは肯定性を志向する社会の在り方を映し出している側面がある。そもそも資本主義の中で否定性が嫌われるのが、それは資本拡大の障壁·障害にあるからという理由が一番大きいだろうか。例えばグローバル化というのも国境という壁を取り払うことによって資本を地球規模で増大させようとするために好都合のテーゼであって、そうしたところにも資本主義と肯定性というのは実に相性が良く、むしろ資本主義は肯定性によって駆動され、拡大されているという側面がある。そのようなことを考えながら、これから足を運ぶスーパーにはオーガニック野菜が売られていて、やはりそれは画一化·標準化された野菜とは違って色も形も異なっている。だが、そんなオーガニック野菜でさえも、おそらくスーパーに並ぶ前に廃棄されてしまったものが山のようにあるのだろうと想像される。おそらく私たちは、ハンの指摘する透明社会の在り方に注意深くありながら、例えばこうした食の背後にあるプロセスや現象をきちんと可視化していき、多くの人にその実情を知らせる必要があるのではないかと思う。そうした情報開示は必要であり、ハンが述べるような自己搾取的な情報開示とは異なるように思える。そのようなことを買い物前に考えていた。フローニンゲン:2022/7/4(月)15:32


8733. 資本主義の病理を特徴付ける自己充足的有限性


先ほど買い物から戻ってきた。半袖半ズボンで出かけるには肌寒いような気温であったが、行きは走って体を温めて買い物から戻ってきた。買い物に出かける前に、食品廃棄と資本主義について、ビョンチョル·ハンの思想と絡めて少しばかり考えていたせいか、また違った気づきをスーパーで得ることができた。スーパーまで無事にやって来た食材は、今度はそこにある意味「陳列価値(display value)」とでも表現できるかのような価値を纏い、実際に消費者が消費する以上の物が陳列されていることに改めて驚いた。商品の幅を広げ、たくさんの種類の商品を並べておくことは、基本的にどんな店も行っていることだが、そこにもまた大きな無駄があるし、そうした行動に仕向ける歪んだ価値観があることが見えてくる。


買い物から戻って来て、引き続き書斎で読書を始めた。ポール·ティリックは、「自己充足的有限性(self-sufficient finitude)」という面白い概念を提示している。これは最初掴みにくい概念だったが、読書を進めているうちにその意味の輪郭が見えて来た。端的にはそれは、ブルジョワ的資本主義を特徴付けるものであり、永遠なるものを締め出す形で、本来有限のものを無限だと倒錯的に信じながら形を生み出し続けることで自己を満足させるような性質のことをいう。ティリックは、そうした在り方がとりわけ西洋社会の根幹に根付いていて、それは本来有限なものの中に無条件に意味を汲み取ろうとする態度として現れると指摘している。そしてティリックは、その態度が現代を特徴付ける自然科学、テクノロジー、資本主義経済を生み出したと指摘している。その指摘を受けて改めて自然科学、テクノロジー、資本主義経済を眺めてみると、それらは確かに無限なるもの、すなわち超越的なるものを捨象しながら、有限なるものの中に無条件的に意味を汲み取ろうとする態度を持って発展して来たことが見えてくる。しかもその無条件的に汲み取る意味には超越的な視点が欠落しているので、例えば自然科学においては、理性の及ぶ範囲の事柄でしか自然を眺めることができなかったり、テクノロジーにおいては、人間中心的な発想のもとに、いかに時空間や自然をテクノロジーで支配·管理·超克していくかという発想に陥りがちとなり、資本主義経済においては、際限なく欲望を刺激し、欲望に付け入る資本主義システムが人間の霊性や実存性の役に果たして立っているのかと問う姿勢を骨抜きにすることにつながる。そのように考えてみると、自己充足的有限性というのは資本主義の病理を特徴付ける1つの性質だと言えるだろうし、それに関与していくことが、資本主義の変容の重要なきっかけの1つになり得るかもしれない。フローニンゲン:2022/7/4(月)17:09

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