8716-8723: フローニンゲンからの便り 2022年7月3日(日)
- yoheikatowwp
- 2022年7月6日
- 読了時間: 18分

No.3780 精霊の誘い_Invitation of a Spirit
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1654, Ego Inflation and Hustle Culture
Ego inflation is a chronic modern disease.
People with the disease always hustle themselves.
The most popular culture in the world today is hustle culture.
Groningen; 08:48, 7/3/2022
No.1655, Creation of Monsters
If people all over the world fight with each other because of race and ethnicity, how about creating a gigantic monster without those attributes?
The world may need a monster created by biotechnology.
Groningen; 10:29, 7/3/2022
No.1656, The Contingent World
This world is full of contingency that gives meaning or no meaning to everything.
Only a person who has a poetic sense can grasp meaning from any contingency.
Groningen; 11:46, 7/3/2022
No.1657, A Valid and Cogent Notion
It could be a dangerous notion that eliminating some amounts of people for the planet.
But the idea that eradicating the whole human at once because they are inherently viruses for the planet and universe would be transcendentally valid and cogent.
Groningen; 13:12, 7/3/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8716. 今朝方の夢
8717. 今朝方の夢の続き
8718. 富を愛する悪魔としてのマモン/悪魔的な性質を内包する法人
8719. 文明崩壊学の在り方/憑在論と展望/資本主義の悪魔的な性質
8720. ベンジャミン·ノイスとニック·ランドの思想
8721. 加速主義の発想/公共性を食い潰す資本主義
8722. 無限と有限のせめぎ合いの中で/ハンナ・アーレントが指摘する人間の条件から
8723. 神律の実践適用のために/世界との交感と一体化
8716. 今朝方の夢
時刻は午前7時を迎えた。きらめく日曜日の朝が目の前に広がっている。数日前に夏日が2日ほどあったが、そこからは雨のおかげで気温が下がった。ここからは最高気温が20度前後、最低気温は12度前後の過ごしやすい日々が続く。このくらいの気温だと本当に過ごしやすいので、できればこのまましばらくはこれくらいの気温でいて欲しいところだ。
朝日を拝みながら、早速今朝方の夢について振り返っておきたいと思う。夢の中で私は、見慣れない部屋の中にいた。そこで、小中高時代の友人(AF)と話をしていた。しばらく話をしていると、近くに布団があって、そこで誰かが寝ていることに気づいた。誰かと思って布団を少し剥がしてみると、そこにはまた別の友人(TK)がいて、彼はスヤスヤと眠っていた。彼はとても気持ち良さそうに眠っていたのだが、私たちは彼を起こさないといけないと思い、彼を起こした。すると、彼は眠い目を擦りながら起き上がり、私たちの存在を確認した。すると彼が向こうの方を指差し、そちらの方を見ると、そこにテーブルがあって、また別の友人(YK)がそこに座っていた。私は彼のところに行き、彼に話しかけた。すると彼は、「これから多くの友人がここにやってくるんだけど、その前に教えておきたいことがあるんだ」と述べた。どうやら彼曰く、この部屋には隠し通路があって、それは時空を超えてどこか別の場所とつながっているとのことだった。その通路がどこにあるのかというと、その部屋の中にある押入れの向こう側にあるとのことだった。彼の言った通り、早速数人の男女の友人たちがこの部屋にやって来た。彼と私は友人たちに挨拶をし、そこからしばらく話をした後に席を立った。そしてその押入れの中に入り、隠し通路に向かった。それは水平の通路ではなく、垂直に落ちていく通路であり、何かが回転する激しい音と共に、彼と私は時空間を超えて通路の向こう側に出た。するとそこは、先ほどまでは夜だった時間と異なり、朝であり、そして場所はドイツの自動車会社のオフィスビルの中だった。時空間を移動した衝撃なのか、私はズボンを履いておらず、下着姿でそこにいて、手にはスーツの上下があった。それをすぐさま着ないといけないと思って、着始めると、始業時間と重なっていたので、次から次へと自動車会社の従業員たちがオフィスにやって来た。従業員は全員ドイツ人で、私はドイツ語が少し理解できたので、彼らが私に話しかけてくる言葉の意味を理解した。みんな私が下着姿であることを面白く思っているようであったが、とりあえずスーツを着て、その場に溶け込もうと思った。私はドイツに仕事をしに来たわけではなく、目一杯遊ぼうと思ってここに来たのであると思い出し、すぐにオフィスビルを抜けて、その街の観光を始めた。十分に観光した後、私は再び隠し通路から元いた場所に戻った。そんな夢を見ていた。フローニンゲン:2022/7/3(日)07:20
8717. 今朝方の夢の続き
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、そういえばもう1つ夢を見ていたことを思い出した。最後の夢の場面では、小中学校時代の男友達(KS)と女友達(HK)のために朝食を作っていた。まず友人の彼がフルーツの盛り合わせのようなものを作ってくれ、その後にキッチンを借りて、私は卵焼を作ろうと思った。ただ少し時間がかかるかなと思ったので、スクランブルエッグにしてしまった方が早いかもしれないと思い、1人当たり2つの卵分あれば十分かと思ったので、次々と卵を割っていき、合計で6個の卵を使ってスクランブルエッグを作った。程よい焼き加減になったところで、フライパンからお皿に移し、その上にケチャップを少々かけた。お皿にはすでに温野菜の料理があったので、それと一緒にスクランブルエッグを食べたら美味しいかと思った。温野菜の隅っこには友人の彼が細かく刻んだハムを散りばめていて、ベジタリアンの自分はハムは食べないので、それを避けてその料理を食べようと思った。そのような夢があったことを思い出すと、それが引き金となって、また別の夢を思い出した。
夢の中で私は、東京のビジネス街にいた。時刻は夕方で、辺りはもう暗くなっていた。気温に関しても肌寒く、秋の格好でジャケットか何かを羽織っていた。私の横には母がいて、今から宿泊先を探すことになった。急遽東京で滞在しなければならないことになり、ビジネス街のどこかにある良さげなホテルに宿泊し、明日帰ろうと思っていた。品の良さそうなホテルがすぐ目の前にあったので、そこに行ってみて、予約はしていないが今夜滞在できるかを確認しに受付に向かった。すると、受付には少し列ができていて、若くてノリの良い3人の男性が、列に並んでいる人に何か紙切れを配っていた。私もその紙切れを渡され、何やらその紙切れが今夜の食事会のチケットのようだった。その代金は1万5千円ほどした。彼ら曰く、その食事会に参加することがホテルの宿泊条件とのことだったので、私は現金でその代金を支払った。すると、彼らに案内される形で、母と私は別の部屋に移った。そこはパーティー会場だったのでとても広く、テーブルには白いテーブルクロスが掛けてあってセットアップされていた。その他の客も続々とパーティー会場に集まって来た。しかしそこからしばらく待っても何も始まらず、どうしたものかと思った。3人の若者は、パーティー会場の隅っこでひそひそ話をしていた。ちょうど私の近くには、大学時代のゼミの友人がいて、彼と目を合わせて、「何かがおかしい」と合図を送り合った。彼もまた何かがおかしいと感じていたようであり、私たちは彼ら3人に騙されているのではないかと思ったのである。そこからすぐに、彼らが詐欺師であると確証し、彼らにお金を返してもらおうと思ったが、彼らはもうどこかに消えていた。「やられたな」と思った時に、被害が少しのお金でまだ助かったと思った。しかし私は、彼らがどこに潜伏しているのか直感的にわかったので、彼らを捕まえてやろうと思った。そのような夢の場面もあった。フローニンゲン:2022/7/3(日)07:36
8718. 富を愛する悪魔としてのマモン/悪魔的な性質を内包する法人
間も無く時刻は午前9時を迎えようとしている。ホーホーと鳴く鳥の鳴き声が聞こえてくる。今は少しうっすらとした雲が空を覆っていて、今朝方は肌寒さが感じられる。
昨夜、富を愛する悪魔としてのマモン(Mammon)について考えていた。昨年、“The Enchantments of Mammon”という非常に分厚い書籍をもとに、キリスト教の歴史と資本主義の誕生の歴史を合わせて辿っていった。再度本書を読み返してみようと思って、昨夜書斎の机の上にその本を置いた。
ここ最近は毎月旅行に出かけているが、それは欧州が中心であり、イスラム国には足を運んでいない。欧州にいる間にトルコや北アフリカのモロッコやチュニジアなどにも足を運びたいと思っている。どちらの国もイスラム教が浸透しており、それらの国に呼ばれている感覚が最近増している。コーランには、「アッラーは商売はお許しになった、だが利息取りは禁じ給うた」という有名な一節がある。現代の資本主義は、金利で化物のように無限増殖を繰り返していて、マモンは金利をこよなく愛する。そうしたことから、利息を禁じているイスラムの生活や社会運営に関心を持ち始めている。イスラム教では、金利によってマネーが無限に増殖する様子が悪魔的に思えるためにそれを禁止しているのだろうか。この点は非常に重要なことだと思うので、イスラム教の利息についての考え方について調べてみようと思う。
昨夜はその他にも、改めて企業法について考えていた。企業法の中で、会社は法人格を持つ。この法人格というものが面白い性質を持っていると思ったのだ。端的には、法人格は無限の命を持つ。法人が無限の命を持つと言った方が正確だろうか。当然ながら倒産などの死に該当する現象は存在するが、法人には人間のような身体的な命の有限性はなく、資本を無限に獲得することに向かって永遠と運動を続けることができる。この姿はとても不気味である。記憶は定かではないが、確かキリスト教は最初、法人がまるで永遠の命を手に入れたかのように富を増やし続ける姿を悪魔的だと思い、株式会社の設立に難色を示したのではなかったか。そのあたりも含めて、上記の書籍を改めて読んでみようと思う。フローニンゲン:2022/7/3(日)09:09
8719. 文明崩壊学の在り方/憑在論と展望/資本主義の悪魔的な性質
昨日から、文明崩壊学に関する書籍を読み始めた。昨日の午後にその書籍を受け取り、早速夜から読み始めてみた。文明崩壊学は、文明の崩壊のプロセスとメカニズムを解明し、現在の文明の危機的な状況に処方箋を提示するだけではなく、そこに内在している在り方こそが重要かと思う。端的には、文明崩壊学では、文明が崩壊する可能性を引き受けるのである。それは何を意味するかというと、未来の死を引き受けることに他ならない。死を引き受けない人間の生がひどく味気ないものに映るのと同様に、死を引き受けない分析も実践も、どこか頼りないものに映る。文明崩壊学は、文明の崩壊の可能性を引き受けることを通じた死の引き受けの構えがある点において、探究の価値があるように思える。こうした構えは、未来を引き受け、今を引き受けるという透徹した意思に貫かれている。ジャック·デリダはかつて、憑依(haunt)と存在論(ontology)を組み合わせた概念として「憑在論(hauntology)」というものを提唱した。私たちは今を未来に対して投影し、往々にして未来の何かを想像しながら生きている。それは確かに未来への憑依であり、憑依した未来がこちらに向かって影響を与えてくる構図は確かに存在しているだろう。だが、現代はひょっとしたら、未来に対する展望すら生まれないような危機的な状況で人々は生きているようにも思える。デリダの憑在論に影響を受けたマーク·フィッシャーは、未来に対する思いを手放してしまうことにたいする拒絶として具現化した音楽を紹介しながら、今一度未来への展望を開こうとしたのかもしれない。
このところはずっと、家のオーナーのフレディさんに教えてもらったアルヴォ·ペルトの音楽を聴いている。ピアノ曲、協奏曲、交響曲、合唱曲と、どれもが静謐な響きを持っていて、魂が現れるような感覚になる。エストニアのこの作曲家に対する関心は日増しに高まる。先日エストニアに訪れた時に、ペルトの楽譜を購入できなかったことは残念だが、またどこかの機会にそれは叶うだろう。豊潤な持続をもつペルトの音楽にしばらく浸ろう。
ペルトの音楽を聴きながら、昨日考えていたことを思い出した。現代社会において対抗手段や代替手段として生まれたものは、それが生まれた瞬間に、即座に資本主義に巧みに取り込まれ、それはすぐに対抗手段や代替手段としての機能と役割が剥奪され、それはすぐに資本創出装置に成り下がる。どんな概念も理論も運動もそうである。「多様性」という概念が生まれればそれはすぐにその本質を失い、資本創出装置に成り下がる。「心理的安全性」という概念などもまたそのわかりやすい例である。こうした性質もまた、資本主義の悪魔的な性質の1つだと言えそうである。フローニンゲン:2022/7/3(日)09:24
8720. ベンジャミン·ノイスとニック·ランドの思想
果たして人類は、人間文明は、この地球という惑星に対して、これまで何か1つでも良いことをして来たのだろうか。1つもそれが思い浮かばない。そうなってくると、次なる文明を考えるうんちゃらというのは、ひどく人間中心主義的な発想であって、仮に地球中心主義や宇宙中心主義の立場に立つならば、人類と人間文明の消失こそ最善なのではないかと思えてくる。これはここ最近ずっと自分の頭の中から離れない考えである。現実的には、全人類と人間文明が一瞬にして消失·崩壊することは難しいが、その終末的絵図を考えてしまう自分がいる。文明の崩壊が悲劇だと言う人もいるのかもしれない、崩壊が所与だとわかっていれば、崩壊することが当たり前だと考えることができていれば、それが悲劇だとは思わないのではないだろうか。こうした発想につながるかもしれないのは、ベンジャミン·ノイスが提唱した「加速主義(accelerationism)」という考え方である。ノイスがその言葉を提唱した“The Persistence of the Negative: A Critique of Contemporary Continental Theory”はまだ読んだことがないので、その書籍を今度参照してみよう。そこから、「加速主義の父」と形容されるニック·ランドの仕事も参照しなければならないと思った。彼の主著“The Thirst for Annihilation: Georges Bataille and Virulent Nihilism”は丁寧に精読していきたい。ギリシャ哲学、カント、ヘーゲルの流れを汲んで展開される大陸哲学の傍らで常にひっそりと息をしながら展開されていた傍流の哲学には、何か自分の生き方を投影してしまうのか、とても共感の念を持つ。生粋のアカデミアの流れとは違う場所で育まれているそうした思想には惹かれる何かがある。ランドが本書で展開するバタイユの思想もまたそうしたものになる。ランドの思想で興味深いのは、その加速主義的な物の見方だけではなく、その根底にあると言えるかもしれない死への眼差しである。カントが、現象と物そのものを切り分け、私たちは物そのものを認識することはできないと述べたが、ランドはそうした物そののもは仮に認識を通じて知り得なくても、それそのものを体験として味わうことなら可能であると述べた。まさに「死」という現象は、そうした不知でありながらも、体験可能なものの代表例である。さらには、恍惚的な美というのもの、それ自体は不知でありながらも、私たちはそれを体験としてなら味わうことができるのだ。そうした体験は、自己を超越する契機となり、生の意味の回復や生命の躍動を感じることにつながるのではないだろうか。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/7/3(日)10:24
8721. 加速主義の発想/公共性を食い潰す資本主義
現代の資本主義による様々な病理の進行にせよ、地球環境問題の進行にせよ、それが実はゆっくりであるがゆえに、人々はそれに実感を持ちにくく、無関心と無行動を引き起こしているのかもしれない。かつてハーバード大学のダニエル·ギルバートは、「多くの環境保護主義者は気候変動が急激に起こっていると述べているが、それは違う。むしろそれはあまりにもゆっくりなのだ。変化が限りなく遅いために、人々はそれに気づかないのである」ということを述べていた。そのようなことを思い出しながら、改めて先ほど書き留めていたニック·ランドやベンジャミン·ノイスの加速主義について考えを巡らせる。彼らはある意味、崩壊を加速させ、その急激な変化によって人々を目覚めさせたり、社会変革を実現させたりしようと考えているのだろうが、当然ながらこの方法にもまた限界が内包されているがゆえに、もう少し丁寧に彼らの論を追ってみようと思う。
川面凡児の思想において、土地の国有化という考え方がある。これを冷静に眺めてみると、共有資本を食い潰し、全てを私的資本に変えていこうとする現代の資本主義の在り方に対抗する考え方の方向性を発見することができる。現代においては、いつの間にか誰のものでもなかった土地に値段がつけられ、それが所有や交換の対象になっている。本来は公共的なものであったはずのものが私的所有の対象となり、消費対象となる例は枚挙にいとまがない。その流れに抗うための手段や実践を創造するヒントとして、川面凡児の神道神学を探究してみよう。神道の発想には、どこか公共性という概念と親和的なものを感じる。フローニンゲン:2022/7/3(日)11:34
8722. 無限と有限のせめぎ合いの中で/ハンナ・アーレントが指摘する人間の条件から
時刻は午後4時半を迎えた。先ほどから雷が伴う雨が降り始めた。雨が降り始める前には太陽の姿が見えていて、少し暖かさを感じていたが、この雨によってまた気温が下がりそうである。
人間の欲望には際限がなく、一方で自らの命や地球の資源を含め、この世界には有限なものがたくさんあるということ。この無限と有限のせめぎ合いの中で人間文明は運動を続けている。文明は、有限なものを無限なものと錯覚して運動を続けているゆえに、どこかで崩壊という壁にぶち当たりそうである。そんな文明が支配する社会の中で、有限な生の意味はますます貧困なものになっている。生の意味が喪失しかけている現代社会において、直接的に生の意味を問うというよりも、ヴィクトール·フランクル的に、こうした実存的危機に瀕している生から私たちが何を問われているのかを内省することが大切なのかもしれない。意味が貧困になっている生に対して意味を問うのは酷であり、そうであれば生そのものから何を問われているのかを考えてみるのである。おそらく、生そのものは常に豊かな意味を持っているはずなのだ。その意味が貧困になっているだけであり、生そのものには不可侵な意味の力があるのではないだろうか。そうしたところに希望を見出したい気持ちになる。生もまた人間の認識を超えた側面を多分に持っているように思え、そうであれば、カントが物それ自体は認識できないと述べたように、そしてそこから物それ自体を認識できなくても、物それ自体を味わってみよと述べたニック·ランドの発想にあるように、生そのものを味わってみる体験を意識的に積むことは重要な実践なのではないかと思う。
ここ最近注目しているビョンチョル·ハンがハンナ·アーレントの思想を引用していたことに刺激を受け、アーレントの思想にも注目したい。アーレントは、人間は条件付けられた存在であると述べ、人間を条件付ける3つのものを列挙した。1つ目は、人間が生物的に縛られた存在であるということである。これはインテグラル理論の概念図式を用いれば、右上象限的な制約があるということだろう。2つ目は、人間は自然会とは別に人工物の世界を作ることを挙げており、これはインテグラル理論で言えば、右下象限に該当する事柄になるだろう。最後に、人間が無数の人間の中で生きていることを挙げている。これは、間主観的な世界を人は生きているという点において、インテグラル理論で言えば、左下象限に該当するだろる。重要なことは、人間は物質的にも人間関係的にも自らの世界を作り上げていくが、同時にそれらに条件付けられるということである。インテグラル理論でいうところの左上象限の観点も加えれば、人間は自らの体験や思考にも条件付けられると言える。アーレントは、人間は自らが生み出すものによって制約を受けながらも、それらの制約条件をまた絶えず更新していく存在としても描いている。現在においては、それぞれの制約条件が複雑化し、それらの関係性もまた複雑化しているがゆえに、制約条件の更新が機能不全に陥っているのかもしれない。この状況に対して一体どこから着手していくべきなのだろうか。フローニンゲン:2022/7/3(日)16:49
8723. 神律の実践適用のために/世界との交感と一体化
例えば、ポール·ティリックが述べている資本主義への対抗策としての神律を社会実践に拡張させていくためには、資本主義を宗教(religion)だと述べてはならないように思う。ティリックが指摘するように、資本主義はあくまでも宗教的(religious)ないしは、似非宗教(quasi-religion)として見なさなければならないように思う。その線引きとして、世俗なものと聖なるものを峻別する必要があり、伝統的な宗教が考える聖なるものと、資本主義世界の中で崇められるものは明確に異なるという認識を守らなければならないように思う。聖なるものを認識した後に、どのように資本主義の問題を超克していくかはさらに考えていかなければならないが、聖なるものの認識とそれへの眼差しによって、生の意味を喪失している状態からの回復や、それに伴って、資本主義的ハッスルカルチャーからの脱却なども実現した生き方ができてくるのではないかということを考えていた。
昨日に、イギリスの思想家ティモシー·モートンのハイパーオブジェクトという概念について言及していた。その概念を提唱したモートンの発想は、生態的な認識論をさらに一歩進めたものなのかもしれないと思う。生態的な認識論においては、私たちが意味を汲み取る以前の事物の世界を認識し、そうした世界と交感していくことを大切にしているが、それはなかなかに難しい。そもそも目には見えず、意味が立ち上がる前の世界そのものをどのように認識していくのかも定かではなく、それと交じりながらそれを感じるというのはとても難しいのである。ただし、少なくとも上述のティリックが述べるような神律的な観点がわずかでもあれば、そうした世界との接続が実現され、それとの交感を行っていくことは不可能ではないように思える。いずれにせよ、微細な身体感覚や詩的な感受性、さらには超越的な眼差しとその感性のようなものがなければ、そうした世界との接続及び交感は困難だが、逆に言えば、そうしたものを開発し、涵養していけば、そうした世界との接続と交感が少しずつ実現されていくのではないかと思う。少なくとも自らがそうしたことを意識して実践している範囲で言えば、それは少なからぬ効果があると言える。
先ほどまで降っていた雨が止み、晴れ間が見え始めてきた。それを喜ぶ小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。まろやかな色と形を持つ夕方の世界が目の前に広がっていて、それと交感している自分がここにいる。そしてそうした自分は、その世界そのものと化している。フローニンゲン:2022/7/3(日)17:39
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