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8708-8715: フローニンゲンからの便り 2022年7月2日(土)



No.3777 宇宙の線香花火_Sparklers of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1652, A Corporation

A corporation has a non-person legal entity.

Though it has a possibility to become bankrupt, any corporation can live forever because it does not have any physical life expectancy.

Thus, a corporation can continue its movement to pursue an infinite amount of capital.

Groningen; 19:36, 7/2/2022


No.1653, Mammon

Giant Mammon always grins at us.

Worshipers of Mammon smile back to it.

This capitalistic world is desperately complete.

Groningen; 19:50, 7/2/2022


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8708. 今朝方の夢

8709. ロイ・バスカーの存在論/今朝方の夢の続き

8710. マーク・フィッシャーの資本主義批判

8711. 資本主義社会における「自己売春」の進行

8712. ハイパーオブジェクトとしての資本主義

8713. 快楽原則と現実原則/アクチュアルな背後にあるリアルに眼差しを向けること

8714. 精神病と現代ビジネス/アントレプレナーシップ化が進行する現代の病

8715. 公園のベンチに腰掛けて/疲労社会の温床的構造


8708. 今朝方の夢


時刻は午前7時半を迎えた。気がつけば、今週もまた週末を迎えていた。週末最初の土曜日は、晴天の朝から始まった。辺りはとても静かで、朝日の輝く世界の中で生命たちが踊りを踊っている。今この瞬間には小鳥の鳴き声は聞こえていないが、彼らがまた鳴き声を上げ始めるのを待ちたいと思う。


今朝方の夢を早速振り返り、今日もまた自分の取り組みを腰を据えてゆっくりと取り組みたい。昨夜の段階で、ビョンチョル·ハンの全ての書籍の3回目の読書を終えたので、今日からは再びポール·ティリックの資本主義批判の書籍を読み進めたいと思う。


夢の中で私は、現代社会に対して同じような批判の眼差しを投げかける友人と外国の街で話をしていた。その話の中で、今度一緒に何かセミナーでもしようということになり、また後日企画に関する話し合いをすることにした。彼と別れた後、私は街を散策していた。するといつの間にか、東京の少し郊外の街に自分がいることに気づいた。そして、どうやら私は、明後日に行われるサイクリングレースのコースの下見をしに来たことに気づいたのである。ひょんなことから出場することになったそのレースで結果を出すために、事前にコースを調べておこうと思ったのだ。コースを調べていると、途中でどのように進めばいいのかに悩んでしまう箇所があった。直進して行けばいいのか、それとも迂回をした方がいいのか悩む箇所があり、そこについては一度地図を開いてみて、その先の道の構造を把握した上で判断しようと思った。結果的にそこは迂回はせず、直進した方がいいだろうと判断した。そのような形で引き続きコースの下見をした後、今度は折り返しをするために、来た道を改めて戻っていこうと思った。その際に、先ほど見落としていた近道のようなものがあり、行きも帰りもその道を通っていこうと思った。早速下見としてその道に入っていくと、住宅街に突き当たった。少し暗い雰囲気を発している平屋のような小さなアパート群があり、その中を突き進んでいく必要があった。文字通り、入り組んだ平家の中を自転車で進んでいく必要があったのである。住人に迷惑をかけないように注意しながらゆっくりと自転車を漕いでいると、遠くの方の家の扉が開き、誰か人が出て来て何か叫んでいた。私が平屋の中に侵入したことに気づいたのかと思い、私はすぐさま右に曲がり、叫び声がした方には近づかないようにした。そこから直進すると、後ろで扉が開く音が聞こえ、振り返ると、そこには旧友の女性友達がいた。しかし、彼女の表情を見た瞬間、彼女は私を騙して取って食うかのような顔をしていたので、これは危険だと思い、一応彼女に挨拶をしたが、すぐさまその場を離れた。無事に平屋のアパート群を脱出すると、そこからはもう見慣れた景色であり、ゴール地点として指定されている、自分が実際に通っていた大学まで自転車を走らせた。フローニンゲン:2022/7/2(土)07:49


8709. ロイ・バスカーの存在論/今朝方の夢の続き


昨夜就寝前に、ロイ·バスカーの存在論の核にある現象の階層構造論について考えていた。今の自分の関心は、バスカーの階層論で言うところの、一番上にある現象に働きかけようとしているのだと改めて思った。巷でいう問題を解決するような姿勢ではなく、問題を生み出している構造そのものに働きかけていくことに自分は関心を持っているのだと改めて思う。例えば、成人発達理論が誤った形で活用されてしまっている状況に働きかけるというよりも、そうした状況を生み出している時代精神が何であり、時代の構造的な病が何かを把握した上で、それらに働きかけていくことに関心があるのである。このあたりについても来週の水曜日のセミナーで言及するかもしれないと考えながら夢の世界の中に入っていった。


そのようなことを思い出していると、昨夜の夢の別の場面について思い出した。夢の中で私は、実際に通っていた中学校の体育館の中にいた。今から部活を始めるところであり、私は最終学年のチームのキャプテンとしてそこにいた。練習を本格的に始める前に、親友(SI)と一緒に少しシュート練習をした。そこから本格的な練習に入る際に、ウォーミングアップから始めた。ところがウォーミングアップを終えたら、早速紅白戦を行うことにした。大会が近いこともあって、すぐさま実践的な練習を始めた方がいいと思ったのである。チーム分けをする際に、全員でジャンケンを一斉に行い、二手に分かれた。私の方のチームには副キャプテンの友人もいて、メンバーとしてかなり強いように思えたので、様子を見てメンバー調整をしようと思った。いざ紅白戦を始めると、意外と点差が付かず、良いゲームが続いた。紅白戦を通じていくつか課題のようなものが見えてきたので、紅白戦終了後、課題として浮き彫りになってきた箇所に関する練習を中心に行った。今朝方はそのような夢も見ていた。フローニンゲン:2022/7/2(土)08:01


8710. マーク・フィッシャーの資本主義批判


今日からは、ポール·ティリックの資本主義批判の書籍の再読を始めようと思っていたのだが、ふと書斎の上に先日積んだイギリスの思想家マーク·フィッシャーの書籍に目が向かった。彼の“Capitalist Realism”と“Postcapitalist Desire”の再読をすることを優先させた方がいいのではないかと直感的に感じた。前者の書籍の中でフィッシャーは、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という言葉を残している。この言葉は慧眼に満ちている。資本主義の終末よりも、この世界の終末を想像する方が遥かにたやすいというのは自分もここ最近よく思うことである。現代思想家において、もちろんスラヴォイ·ジジェクのような思想家もいるが、自分はビョンチョル·ハンやフィッシャーの論考により共感を示す性質がある。


フィッシャーが述べる資本主義リアリズムとは、資本主義が唯一の存続可能な政治·経済上のシステムであるだけではなく、それに対抗する代替物を想像することすら不可能だという認識が蔓延した状態のことを指す。現代社会を見渡してみても、まるで資本主義が唯一の生きる道であるかのように社会運営の隅々に張り巡らされていて、仮に資本主義に反旗を翻そうものなら、逆に資本主義リアリズムを強化してしまうだけだという批判をフィッシャーは展開している。


ビョンチョル·ハンと同じく、Youtube上には、フィッシャーの講義や書籍に対するディスカッションなどの動画音声が充実している。それらを参考にしながら、今日はフィッシャーの書籍を丁寧に読み返していこう。


資本主義が持つ高度に抽象的かつ掴み所のない非物質的·非人称的な構造を理解するには、人文社会学的なアプローチでは限界があり、やはり超越的な眼差しを持ってこの世界を見ることを可能にしてくれる神学的な観点が非常に重要かと思う。それも踏まえて、神学的な探究も引き続き継続していく。フローニンゲン:2022/7/2(土)09:29


8711. 資本主義社会における「自己売春」の進行


マーク·フィッシャーの論考を追っていると、ビョンチョル·ハンの思想と絡めれば、現代人は自己とその労働を積極的に商品化し、それを切り売りし、より魅力的な商品に自己を仕立て上げるために駆り立てられている状況についてまた新しい見方ができる。そこでは癒しにせよ、自己啓発にせよ、SNSにせよ、それらの本来の意味や機能が失われ、単に自己をより魅力的な商品に仕立て上げるために、すなわちその見栄えと機能をより良いものにするために利用されてしまっているのである。そんな現代人は、「自己売春」とでも形容できることを知らず知らず、しかもそれを良かれと思って行っているのである。そんな様相が見える。資本主義がもたらす苦しみを力説するだけでは意味がなく、むしろそうした道徳的な力説は、フィッシャーの論を借りれば、逆に資本主義を強化してしまう。重要なことは、資本主義の構造的矛盾を指摘し、それを明るみにしながら、それでは自己防衛としてまずは私たち1人1人がどのような具体的実践を行えるのかを提示する路線を今のところ採用したいと思う。


最近は改めて存在論を探究しているが、例えばそれは資本主義批判の際にも重要なアプローチとなる。いつの間にか公共的なものが私的なものに存在論的にシフトしている問題なども、存在論の観点を用いれば明らかになってくる。例えば、教育や医療を含めた公共サービスは、かつては公共圏に存在していたはずなのに、いつの間にか市場原理主義的な存在圏、すなわちビジネス圏に移行してしまっている姿などが見えてくる。


その他にも、企業社会の中で成功することが、逆に資本主義システムの良き肥やしになっているという構造なども注目しなければならない。これは企業社会に限らず、現代においては資本主義が至る所に遍満しているのだから、何かの業界で成功者になることは、即座に資本主義システムに対して肥やしを提供していることにつながるのではないかという構造が見えてくる。例えばフィッシャーは、ロック歌手がロックスターになることによって、もはやその人物が歌うものはロックではなくなってしまうという逆説を指摘しているが、これも現代社会が社会的な成功と定義付けているものと資本主義の拡張への貢献の密接な繋がりを見抜いたものかと思う。もし仮に成功というものを考えるのであれば、それは未だかつて誰も述べていないような自分なりの成功の定義にせねばならず、それはすなわち、自分なりの人生の意味というものを紡ぎ出し、それを生きることに他ならないのだと思う。フローニンゲン:2022/7/2(土)10:29


8712. ハイパーオブジェクトとしての資本主義


先ほど仮眠から目覚め、再び書斎に戻ってきた。空を眺めると、白い入道雲がゆっくりと動いている。雲の流れを目で追いながら、ぼんやりと考え事をしていた。


現代の資本主義が私たちを自己売春的な構造に埋め込むだけではなく、人間が他の人間を肥やしにして欲望を満たしていく共食い的な側面もあることに気づく。確かに世の中には社会契約的な法体系はあるが、それ以外の領域では、ホッブズが問題視していた「万民の万民による闘争状態」であるかのように、この社会では誰かが誰かを食い潰している。


仮眠前にマーク·フィッシャーの書籍を読み進めていると、同じイギリス人の思想家であるティモシー·モートンの「ハイパーオブジェクト」についてふと思い出した。モートンが述べるハイパーオブジェクトの定義は、まさに資本主義に当てはまる。1つは、資本主義が様々なものに粘着するという側面を持っているという点であり、そしてもう1つが、資本主義は様々なものに合わせて形状を変えるという側面を持っていることである。例えば資本主義は、何も企業社会と粘着しているだけではなく、教育や医療とも粘着している。そして粘着に合わせて、粘着対象の搾取に都合の良いように最適な形に変化するという性質を持っている。また、ハイパーオブジェクトとしての資本主義は、時空間を超越していて、どんな場所にも時間にも私たちに迫ってくるという性質も帯びている。それは空気や水のように存在しながら、私たちの生活の隅々かつ、身体、心、魂、霊の存在の入れ子の隅々にまで跋扈しているのだ。また、遍満しながらも特定の場所を持たず、同時に資本主義が存在しているのは、ロイ·バスカーが述べるところの「実在領域」に該当する世界に存在している。すなわち、通常の私たちが知覚できるような三次元世界はおろか、認識としても及ばないような場所に存在しているということである。もちろん、資本主義が体現された現象は三次元世界に現れるのだが、そうした現象を生み出している資本主義のシステムそのものは、知覚が及ばないような高次元の領域に存在している。最後に、ハイパーオブジェクトは1つの要因によってもたらされるのではなく、複数の要因が相互に影響し合って生み出されるという特徴を持つ。まさに資本主義も、特定の要因にその生成メカニズムや問題を還元することができないのは、それが多様な要因によって生み出されているからである。そんな厄介な特徴を持つ資本主義に対して、そのさらに詳細な分析や実行的な処方箋の提示に向けた探究は続く。フローニンゲン:2022/7/2(土)13:42


8713. 快楽原則と現実原則/アクチュアルな背後にあるリアルに眼差しを向けること


フランクフルト学派にせよ、ビョンチョル·ハンにせよ、社会批判の理論の背後にはフロイトの精神分析の影響が強く見られる。中でもフロイトが提唱した「快楽原則(pleasure principle)」と「現実原則(reality principle)」というものが、まさに巧妙に資本主義によって悪用·濫用されている姿が浮き上がってくる。快楽原則というのは、自分の内側から湧き上がってくる欲求を現実的に満たすか、想像的な充足によってその欲求を低減させることを意味する。それは苦痛を避け、快楽を満たすことを第一にする。一方の現実原則は、欲求の充足を先延ばしにしたり、欲求を現実社会に適合する形で満たしていくことを指す。極端な例で言えば、本当は人間を切り刻みたい欲望を持っているのだが、それを現実世界で満たそうとすると犯罪者になってしまうので、外科医になって、患者の体にメスを入れることによってその欲望を満たすということなどが挙げられる。いずれにせよ重要なことは、マーク·フィッシャーが、ジャック·ラカンの精神分析に多大な影響を受けているスラヴォイ·ジジェクの論考を引っ張りながら指摘しているように、現実世界に顕現しているものとそうでないもの——ロイ·バスカーの存在論でいえば、アクチュアルなものとリアルなもの——を区別する必要があるのである。アクチュアルに顕現された現象と、実はその背後にあるリアルなものとは全く別物である可能性があるのだ。この図式を活用すれば、資本主義が具現化させているものと、資本主義そのものをきちんと区別しなければならないことが見えてくる。端的に言えば、資本主義は実に巧妙に私たちをその世界に引き摺り込むので、それが自然だと思っていること、当たり前だと思っていること、良いことだと思っているアクチュアルな事柄と、その背後にあるリアルな事柄を峻別しなければ、いつまで経っても資本主義に幻想を見せさせられたままとなる。別の表現で言えば、リアルは資本主義によって抑圧·隠蔽されているとも言えるだろうし、ゆえにそうした隠されたものを見通すような知識と洞察がなければ、いとも簡単に資本主義が生み出す幻想世界に取り込まれてしまうだろう。フィッシャーが資本主義リアリズムに対抗する戦略の1つとして、資本主義が私たちに提示する現実世界の背後にあるリアルなものを見つめること。それはすぐには難しいかもしれないが、その意識を絶えず持っていると、確かにリアルな世界そのものを映し出す色々な事柄が見えてくる。フローニンゲン:2022/7/2(土)14:13


8714. 精神病と現代ビジネス/アントレプレナーシップ化が進行する現代の病


後期資本主義に現れた、あるいは後期資本主義によって生み出された注意欠陥症、さらには注意過剰症が、今その性質を逆手にとってビジネスの場で応用されていることは恐るべきことである。そもそも、それらの症状は、ハワード·ベッカーが提唱したラベリング理論の代表的な事例であり、そのような病気があって人々がそれらを患うというよりも、そうした病気としてのカテゴリー(ラベル)があって、人々がそうした病気の患者だとみなされる側面が多分にある。ある意味、そうした病気が生成されることは、医薬品業界の富を肥やすことにつながるだけではなくて、様々なコンテンツの波に消費者を晒す動画視聴サービスや音楽配信サービスなどとも非常に相性がいい。また、そうしたコンテンツに付帯する広告提供サービスにとっても都合が良いことなのだ。つまり、人々が注意散漫であればあるほどに、次から次に様々なコンテンツに触れてくれるため、サービスプロバイダーからすれば、そうした病理にラベリングされた人々が増えるのは実に都合の良いことなのだ。おそらく、注意欠陥症や注意過剰症が先にあったのか、それともラベルが先にあったのかという鶏が先なのか卵が先なのかという話ではなく、確かに注意欠陥症や注意過剰症に資するような事例を最初に発見した精神科医がいたのだろうが、その定義や範囲がいつのにか拡張され、どんどんとそうした症状に該当する人が増えてきて、それに注目した資本主義のプレイヤーたちが、その症状を逆手に取り、症状を悪化させながらそれを利益に還元していくようにビジネスを展開したというループ構造がありそうである。


そうした問題意識を持ちながらマーク·フィッシャーの書籍を読み進めていくと、彼自身が重度のうつ病を患っていて、最終的には自殺を遂げたことを思った。彼の問題意識の中で、自身のうつ病との格闘体験から、メンタルヘルスと資本主義の関係に関するテーマは重要な位置を占めていた。フィッシャーは、うつ病を含め、その他の精神病とネオリベのつながりについて重要な論考や観点をいくつも残している。その1つとして、ビョンチョル·ハンが指摘するように、アントレプレナーシップの礼賛と促進は大きな問題として浮上している。ハンが述べるように、現代人は何かしらの観点でアントレプレナーの性質(事業を立ち上げるという性質)を持っていて、自助努力と自律性を押し進める形で、自らのプロジェクトの遂行に邁進している。しかもそうしたプロジェクトは、往々にして、いやほぼ全てのケースにおいて、自己に付帯する種々の条件付け——個人的・社会的なコンディショニング——によってもたらされたものなのである。ある意味、受験勉強に自己を駆り立てる受験生もまたアントレプレナーだし——彼らは何かを生み出すという側面はあまり見られないかもしれないが、受験というゲームの新たな攻略法を生み出すという生産行為をするかもしれない。そもそもアントレプレナーの語源はやはり、何かを生み出すというよりも、新しく事業を立ち上げるという意味が強い——、芸術作品を生み出すことをプロジェクトに掲げている芸術家もまたアントレプレナーだし、会社の中の新入社員もまた評価獲得や出世ゲームというプロジェクトに従事しているという点でアントレプレナーである。アントレプレナーの特徴として、自主自律の精神があり、それを強要されながら人々は自己が立ち上げた事業的企てに邁進し、その先で何か壁に突き当たっても、自主自律と自己責任という名の下に、助けが得られない場合がほとんどである。ゲームの勝者だけが存在価値があるのだと信じ込まされていて、勝者になることに躍起になり、勝者に向かう過程で落伍したり、ひとたび勝者になれなければ、存在価値が否定されたかのような強い自責の念がもたらされる。そうしたプロセスの中で、アントレプレナーとしての現代人はますます病んでいく。そしてひとたびメンタルヘルスの問題を抱えたら、ネオリベ的社会の中では、メンタルヘルスそのものが市場原理に委ねられた民営化の波に晒されており、そこでは患者の病気を根本的に治癒するというよりも、その病気を通じてよりカネを得るようなゲームが展開されるという構造が見える。この構造的問題に対して、フィッシャーはメンタルヘルスの「再政治化」を訴えているのだが、その論考についてこれから読み進めていこう。フローニンゲン:2022/7/2(土)15:21


8715. 公園のベンチに腰掛けて/疲労社会の温床的構造


時刻は午後4時半を迎えた。つい今し方、街の中心部のオーガニックスーパーから帰ってきた。スーパーに行く前に、コピーやに立ち寄って、昨日に届けられた文明崩壊学に関する2冊の書籍を受け取った。それらの書籍については、また明日以降に初読をしたいと思う。今日はとても穏やかな天気であり、心地良い暖かさがあったので、スーパーで購入したイチゴをノーダープラントソン公園のベンチに腰掛けて食べた。スーパーでイチゴを見たときに、イチゴを欲している自分の身体がいて、身体の声に従う形でそれを購入した。オランダ産のそのオーガニックのイチゴは、オーガニックであるがゆえに形は様々だが、味はどれも美味であった。大切に育てられた愛情のようなものをそこに感じたのである。公園には結構な人がいて、芝生にシートを敷いてくつろいでいる人や、直接芝生に腰を下ろしている人の姿を多く見かけた。みんな、各人思い思いのやり方で公園でくつろいでいた。公園のベンチは大抵埋まっていたが、ちょうど1人の男性が腰を上げてその場を立ち去ろうとしている姿が見えたので、そのベンチに向かった。そして、ベンチに腰掛けた時、そこに堆積された歴史のようなものを感じた。そのベンチには、自分が出会ったことのない、そしてこれからの人生においても交差することがないであろう数多くの人々がそこに腰掛けて、ホッと一息ついていた情景が浮かび上がってきた。それは視覚的なビジョンだけではなく、そうした人々に共感する感覚も伴っていた。ゆっくりとイチゴの味を味わい、そよ風に当たりながら少しばかりぼんやりしてから自宅に戻ってきた。


公園から自宅に戻る道中もまた、マーク·フィッシャーの論考に対してあれこれ考えていた。メンタルヘルスの問題だけではないが、メンタルヘルス領域で顕著な現象として、問題の根本的な治癒をせず、表面的な治癒をもって患者を再び現実世界に送り返す構造について考えていた。そこでは、疲弊して故障したマシーンが病院にやってくるのだが、病院では壊れた箇所だけ直し、そのマシーンがどういった理由や要因で故障したかは一切に気に留めず、故障が直ったら即座に元いた世界にマシーンを送り返すという構造が存在している。病院に駆け込めれば表面的な救いが得られるからまだマシかもしれないが、自助努力と自己責任を押し付けるネオリベ的社会の中では、他者に助けを求めることそのものが弱わさや無能さ、そして失敗者の証のように思わされている点がひどく残酷である。健康も成功も、そして成長も、およそ社会の全ての事柄において、自助努力と自己責任が強調·強要されるというのは、まさに疲労社会の温床的構造である。フローニンゲン:2022/7/2(土)16:45

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