No.3771 光の子供たち_Children of Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1648, The Hell of the Same.
This society is the hell of the same.
An infinite series of the same derives from a homogeneous force.
Groningen; 14:58, 6/30/2022
No.1649, The Loss of Self
I live as the self whom anyone never knows.
Yet, the modern society is accelerating to unveil the unknown and inviolable aspects of the self.
It is deeply problematic.
Groningen; 16:58, 6/30/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8697. 今朝方の夢
8698. 今朝方の夢の続き
8699. 同質性に疲弊する自己/洞察と否定性/形而上学と神学
8700. ナラティブと情報の複雑さと否定性の違い
8701. マルチタスクの背後にある闇/理論や実践の歪み
8697. 今朝方の夢
時刻は午前8時半を迎えようとしている。今、朝日が燦然と輝いている。今この瞬間は、空には1つも雲がない。どうやらこの状態が昼まで続くようだ。ところが正午過ぎからは雷を伴う雨が降り始めるらしい。今この瞬間の空の様子からはにわかに信じがたいが、今日は昼過ぎから夜にかけてずっと雨が降るようなのだ。昨日と今日は比較的気温が高いが、午後から降る雨によって、明日からの1週間は随分と涼しくなる。というよりも来週からは最高気温が20度を下回る日が続くので、肌寒さを感じるぐらいである。7月初旬のフローニンゲンの気温らしいと言えばらしいのだが。
昨日はオンラインセミナーがあり、それによって頭が冴えていて、少し興奮した状態で就寝に向かったので、すぐに寝付くことができなかった。そのため、今朝方の夢はどこか断片的なものになっていた。脳が落ち着いている状態で入眠を迎えることが夢を見る条件の1つなのかもしれないと思う。断片的とは言え、いくつか覚えていることがあるのでそれらについて書き留めておこう。まず覚えているのは、外国のリゾート地にいて、そこの旅館のようなホテルに宿泊していたことである。私はかなり広い部屋にいて、1人で読書をしていると、そこに1人の女性がやってきた。見るとその女性は、自分よりも少し歳が若い有名な女優の方だった。彼女とは初対面なのだが、お互いに気さくな性格だからか、最初から打ち解けて話をすることができたのを覚えている。この夢以外にも父が現れていた夢の場面があった。父とは外国のどこか風光明媚な街を一緒に散策していて、あれこれ話しながら歩いていた。そこで私は1つ面白いクイズを思いついたので、それを父に出題した。それはこのような内容のクイズだった。「イタリアとドイツの音楽隊が演奏をし、アンコールを何度も求められたときに、片方は同じ曲を同じ感じで演奏し続け、もう片方は毎回変化をつけて演奏します。さて、どっちがどっちでしょう?」というものだった。父は少し考えた後、回答を述べた。その理由を聞くと、正しい理由ではなかったが、一応正解とした。回答は、前者がイタリアの音楽隊で、後者がドイツの音楽隊である。自分がどのように解説したのか正確に覚えていないし、そもそもこのクイズの回答もでたらめなのだが、一応覚えていることを書き留めておくと、確かイタリアの音楽隊のメンバーのほとどんがカトリックであり、ドイツの音楽隊のほとんどがプロテスタントだからという理由だったように思う。イタリアは確かにカトリックが人口の大部分を占めるが、ドイツはカトリックとプロテスタントが同じぐらいの割合である。そして、自分が述べた理由の解説もかなりのこじつけであり、カトリックは聖書を各人が勝手に読んでその内容について1人で独自に考えることを良しとせず、聖職者の元で聖書を読んでいかなければならないが、プロテスタントは自ら聖書と向き合いながら1人考える自由がある。そうした自己解釈の自由と聖書読解の自由があるがゆえに、アンコールの演奏も演奏者たちがその場で何を演奏するかを決め、変化に富んだものになるのだということを私は父に述べていた。それと、生涯独身のカトリックと違い、プロテスタントでは結婚が認められていて、カトリックがほとんどのイタリアの演奏家たちは、一なるものを大切にしなければならず、アンコールでは1つの同じ曲を演奏し続けなければならない、というようなことも付け加えて説明していたのを覚えている。そこから父と私は、街の一角にあった骨董屋に立ち寄り、何か良いものはないか物色した後に、宿泊先に戻った。フローニンゲン:2022/6/30(木)08:54
8698. 今朝方の夢の続き
穏やかな朝の世界が続いている。まだ空には雲1つなく、果たして正午過ぎから雷が伴う雨が降るのか定かではないが、もしそうした雨が降ったら一気に涼しくなるだろう。今この瞬間は昨日の幾分暑さを感じさせる気温を引き継いでいる。
早朝に今朝方の断片的な夢について振り返っていたが、その続きを思い出した。もしかしたら続きというよりも、先に見ていた夢かもしれないが、それについても振り返っておこう。夢の中で私は、広い座敷に座っていて、そこで小中高時代のある友人(TO)に足をマッサージしてもらっていた。彼はマッサージがうまく、中学校時代の美術の時間には、先生が美術に関する説明をしているときによく足をマッサージしてもらっていた。座敷の隅に私は横になり、そこで彼にマッサージをしてもらった。後ほど何か食べ物を買いにスーパーに行こうと思っていて、彼にこれだけマッサージをしてもらったので、そのお礼として、何か小さなお菓子でも購入しようと思った。それを彼に伝えると、彼は嬉しそうにして、そこからも引き続きもうしばらく足をマッサージしてくれた。最後にうつ伏せになり、太腿の裏をマッサージしてもらったところで夢の場面が変わった。この夢以外にも、イタリアの高級車に乗っている夢があった。それを自分で購入したとは思えず、誰かから試しに乗ってみたらどうかと勧められて借りているような感じだっただろうか。いずれにせよ、その高級車に乗って、高速道路を爽快に飛ばしながら走っていた場面があった。この夢においては、やはり速度に酔いしれるような側面があったのを覚えている。ちょうど昨夜は就寝前に、ポール·ヴィリリオの速度学の考え方を採用して、現代の異常なまでの時間の速さや、加速度的な社会の運営に対して問題意識を持っていたところだった。ところがその問題意識と裏腹に、自分は高速道路の速さに心地良さを感じていたのが興味深い。フローニンゲン:2022/6/30(木)10:27
8699. 同質性に疲弊する自己/洞察と否定性/形而上学と神学
時刻は午後5時半を迎えようとしているが、結局今日は天気予報が今のところ外れ、雨が降っていない。今は、小鳥のさえずりが聞こえてくるぐらいに穏やかである。
現代社会は、多様性を尊重するという偽りの看板を掲げながら、背後では画一化や平準化を押し進めていき、社会全体がますます同質的なものになっていく。自我は同質な存在に還元されることを恐れて、自己保全のために異質な存在になろうとするが、社会においては異質な存在になることそのものが疎まれる。多様性を尊重する社会においては、本来異質な存在は歓迎されるべきものなのだが、結局自己は異質な存在になることもできず、同質性の中に埋没して疲弊していく。
洞察というのは否定性によってもたらされるからハッとさせられるのだと思う。情報であれば、それは肯定性に基づく加算的なものだから、人は情報を得てもハッとしないのだ。現代は肯定性の産物である情報に溢れていて、それは逆に言えば、洞察を喪失した社会だと言えるだろうか。そんな社会にあって、個人レベルとして自分がやっていくべきことは、否定性を大切にし、洞察に触れ、洞察を生み出していくことなのだと思う。
午後に、改めて形而上学と神学の関係について調べていた。形而上学は、神の存在を信じる前の段階において、神の存在について議論する。一方、神学の前提は、神はすでに存在していると認めているところにある。そうなってくると神学は、やはりキリスト教に限るものではなく、神を前提としている神道においても当然存在する。もちろん、他の宗教でいう「神」と神道でいう「カミ」の性質の違いについては考慮しなければならないが、神道神学という言葉の元に神道の探究を進めていくことはやはりおかしなものではないことがわかる。そのようなことを午後に考えていた。
今日はまだ時間があるので、引き続きビョンチョル·ハンの書籍の再読を進めていこうと思う。今回の再読が一旦落ち着けば、そこからは再び、先日初読を終えたポール·ティリックの資本主義批判に関する書籍の再読をしたい。その際には、一言一句最初から最後まで精読をしていこうと思う。初読を通じて、それに値する書籍だと分かった。精読をしながら、少しずつ自分の中で洞察を深めていこう。フローニンゲン:2022/6/30(木)17:29
8700. ナラティブと情報の複雑さと否定性の違い
ナラティブの豊かさ。ナラティブは私たちをそこに留まらせ、持続を感じさせてくれる性質を持つ。それは、観想的な生を営む上で不可欠なものである。ナラティブの複雑さと情報の複雑さはどこか違うように思う。やはり前者には感情や質的なもの、さらには実存的なものが宿りやすい性質があるということが、いやそれらが必ず宿る性質があるということが、それらを捨象する情報の平面的な複雑さとの違いなのだろうか。ナラティブはまた、否定性の観点においても情報と異なるように思える。情報も確かに否定性を内包し得るかもしれないが、ハンは基本的に情報は肯定性の産物であって、否定性が内包されるようなものではないと主張する。悲惨な出来事に関するニュースという情報の否定性の性質はどのように考えられるだろうか。目を当てたくもないことに光を当てるような情報は、否定性の現れであると捉えられなくもない。一方で、悲惨な出来事に関する情報にいくら接しても、深層的な部分で心が全く動かされないことが多くあることを考えてみると、やはり情報には否定性があったとしても、それは微弱のようだ。同じ悲惨な出来事であっても、それを情報として接するのか、ナラティブを通じて接するのかで、心が動かされる度合いは大きく異なる。このように考えてみると、肯定性で覆われた現代社会においては、ますますナラティブの重要性が高まっているように思える。ナラティブを大切にすることを掛け声として行うのではなく、またドグマ的に行うのでもなく、人々が自然な形で何かを物語る社会を実現するにはどのようにすればいいのだろうか。そうしたことについて考えさせられる夕方の時間だ。フローニンゲン:2022/6/30(木)17:48
8701. マルチタスクの背後にある闇/理論や実践の歪み
時刻は午後8時を迎えた。今日も日中は気温が上がっていたが、今は随分と爽やかな風が吹いている。先ほどまで2階の部屋の両側の窓を開けていて、風を通していた。目の前の木が夕方のそよ風に揺れる姿を眺めながら、夕方に考えていたことを書き留めておこう。
現代はマルチタスクというものがもてはやされている。しかしマルチタスクは、野生動物が常に発揮しているものであり、何ら特殊な能力ではない。そして、現代社会において強調されるマルチタスクが問題なのは、ビョンチョル·ハンが指摘するように、注意欠陥症や注意過剰症を助長したり、観想的な生の喪失を促すからである。それに加えて改めて思うのは、マルチタスクの対象がことごとく自己搾取的なものであるという側面もあることだ。そして自己搾取的に発揮されたマルチタスクの大半の行動は全てデータ化されていて、そのデータがデータ資本主義の格好の肥やしになることもまた大きな問題のように思える。マルチタスクの背後にある闇は深い。
そこから善意のもとで構築された理論や実践の歪みについて考えていた。理論や実践が歪むのは、否定性を突かれてなされるのではなく、むしろその理論や実践の肯定性が悪用される形で理論や実践が廃れていくのだ。理論や研究の何かしらの聞こえのいい肯定性を帯びた結果は、肯定性を源にして駆動する現代の歪んだネオリベシステムにはとても好都合である。否定性を通じた管理や搾取には限界があるが、肯定性を利用した管理や搾取はとても効率的であり、限界がほぼない。そのようなことを考えてから、アカデミックな世界における肯定性の搾取について考えていた。研修者の研究テーマそのものが、知らず知らずのうちにハイジャックされ、研究内容が搾取される傾向は今に始まったことではないが、その傾向は加速している。研究者は良かれと思って研究テーマを設定し、その研究に邁進するが、実は研究テーマの設定そのものが、現代文明の闇やシャドーによって影響を受けていることに自覚的な研究者は驚くほどに少ない。大抵が善意に研究を進める善良な研究者なのだが、その善良性をまた餌にしているのが昨今の歪んだネオリベである。またそもそも、研究者の評価は、外部の企業や組織からどれだけ研究資金を集められるかだったりする。どれだけカネを引っ張れるかが評価の対象になっていると、自ずから研究内容もカネが得られそうな内容になりがちとなる。当然ながらその構造を見抜き、カネにならないながらも人間や社会、あるいは生態系にとって役に立つ研究を真摯に続けている研究者がいることは忘れてはならない。ただし、そうした研究者はやはり少数であり、大抵の研究者が知らず知らずのうちに研究テーマの設定から意識がハイジャックされていて、どれだけカネを引っ張ってこられるかの競争に加担させられてしまっている状況は見過ごすことはできない。フローニンゲン:2022/6/30(木)20:23
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