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8689-8696: フローニンゲンからの便り 2022年6月29日(水)



No.3765 カウナスの朝の精霊_A Morning Spirit of Kaunas


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1647, Expanding Theonomy

Theonomy is expanding and surrounding me.

I’m totally blissed.

A ray of morning light is celebrating the expansion of theonomy.

Groningen; 07:44, 6/29/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8689. 今朝方の夢

8690. 今朝方の夢の続き

8691. 観想的な生を送るために必要な否定の力

8692. カイロスと神律

8693. ゼロ成長の受容/ドイツの神学者のヨルゲン·モルトマンの思想に触れて

8694. 神道の文明社会批判の体系化から出発して/GAFA化の進展について

8695. 役割とタスクの変化がもたらすものの再発見/時代と格闘した神学者たちの在り方を参考にして

8696. 虚覚醒と緩和社会/歪んだネオリベが提唱する能力主義


8689. 今朝方の夢


時刻はゆっくりと午前6時半に近づきつつある。今、空には千切れ雲が散在しているが、どうやら今日も快晴に恵まれるようだ。遠くの空に太陽がすでに昇っていて、千切れ雲の間から顔を覗かせたり、引っ込めたりをゆっくりと繰り返している。今日と明日は、最高気温が27度まで上がるので、暖かさを感じることができるだろう。ところが、7月を迎える明後日からは再び気温が下がり、最高気温は20度前後、最低気温は10度ぐらいの日々が続く。自分としてはそれくらいの気温が一番過ごしやすいので、7月もできればそれくらいの気温で進行して欲しいと思う。


今、1羽の小鳥の鳴き声が聞こえてきた。それと同時に、朝日が雲間から完全に姿を現し、書斎に黄金色の朝日が差し込み始めた。小鳥の鳴き声と朝日を全身に浴びながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、高校1年生の時に同じクラスになり、今でも親交のある友人(HH)と一緒に車の中で話をしていた。彼が運転をしてくれていて、私は助手席に座っていた。話の内容は、仕事に関するものだった。私たちは同じ学校に勤めていた。学校に勤めていると言っても教師としてではなく、私たちはあくまでも生徒なのだが、生徒でありながらも学校の中でパソコンを使って色々な仕事をしていた。仕事の場所は、大きな視聴覚室だった。お互いの席は離れていて、仕事中はお互いの顔が見えない。そのため、もし何か必要なやり取りがあれば、席を立って相手の席まで行くか、メールで用件を伝えていた。始業時間は朝の8:15からなのだが、いつも彼は朝にはやって来ず、昼から学校にやってきた。時刻は大体13時であり、彼1人だけが13時から働き始めるといった具合だった。それに対して誰も文句を言わず、先生も文句を言うことはなかった。


「そういえば、いつも13時ごろから仕事をしてるよね?」

「うん、そこから5時間ほど集中して仕事をしてるよ。午後から集中して仕事をすれば、他の人の仕事量と全く変わらないからね。いやむしろ、他の人よりももっと仕事をしているぐらいだよ」


そんなやり取りを彼とした。そこで私はふと、彼は自分のことを集中して仕事に取り組んでいると言うが、私の他愛のないメールに対する返信も午後に行っていて、果たしてそんな彼が集中して仕事に取り組んでいると言えるのだろうかと疑問に思った。その点を彼に指摘すると、彼は少し黙った。そこから私の中で、彼の仕事に対する姿勢に関しての不信感が募っていき、その感情が怒りに変わった。そうなってくると、彼の仕事に対する姿勢のみならず、仕事の質についても自然と至らないところをたくさん思い出し、思い出したことを全て彼に伝えると、彼は自己弁護をし始めた。私はそれが気に食わず、彼も他の人と一緒に朝から仕事をするべきではないかと思い、不平等感が自分の中で膨らんできた。彼は引き続き言い訳をしていたので、私は思わずカッとして、運転中の彼を殴ってしまった。彼は殴られた後、呆然として黙ったまま運転を続けていた。すると、気がつけば私の母が後ろの席に座っていて、私たち2人に声を掛けた。そう言えば、この車は母のものであり、私は彼が車を運転しているということをすっかり忘れていた。彼の運転はうまく、とても心地良かったので、車の中にいるという感覚すらなかったのである。車は高速を降り、私は素直に彼の運転のうまさを褒めた。すると、彼との間の少し険悪な雰囲気が消えて、和やかな雰囲気になった。すると気がつけば私は、小中高時代の親友3人(NK & SI & YU)と話をしていて、自分が高校時代の友人の彼を思わず殴ってしまったことを伝えていた。フローニンゲン:2022/6/29(水)06:41

8690. 今朝方の夢の続き


昨日の朝は半袖では少し寒く、今朝方もそんな感じだ。朝の清々しさを感じながら、引き続き今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、夢を観察する者としてそこにいた。何を見守っていたかというと、1人の姉と1人の弟の冒険を見守っていた。彼はまだ小学生ぐらいであり、彼らは入り組んだ巨大な迷路のような学校を冒険していた。その学校は下にも上にもどれくらいの数があるのか分からないほど階数があり、横にもどれくらいの広さが分からないほどの広さを持っていた。そんな学校には、公園があったり、湖があったりと、およそ学校の中にあるとは思えないようなものがたくさんあった。2人を見守りながら、彼らの動きに合わせても私も学校散策を楽しんでいた。すると、何やら辺りが騒がしくなった。どうやら、今から巨大な人食いワニが学校にやって来るとのことだった。学校の中にある湖にワニがやって来て、校舎に上陸することが事前に予測されているとのことだった。ワニを検知するレーダーのようなものに反応があったらしい。気がつくと、見守っていた2人はどこかに消えていて、私は夢の中に姿を現し、夢の中を生きる人物になった。そこで私は、ワニを捕獲するか、撃退するかをしようと周りにいた人たちに提案した。私は空を飛べたので、宙に浮かびながらワニに攻撃を仕掛けようと思った。ワニがやって来る時刻になると、予想通りにワニが湖にやって来て、水の中をゆっくりと泳いでいる姿がわかった。まだ完全に顔を出しておらず、泳ぎに合わせて湖面が揺らめいているのが見えていたのである。いよいよワニが校舎と湖のつながっている部分にまでやって来ると、ワニは何かに気づいたのか、一瞬躊躇して、すぐに顔を出さず、水の中に留まったままだった。ひょっとしたらワニは、私たちが捕獲することや撃退することに気づいたのかもしれないと思った。ワニは引き続き、いつでも上陸できる位置にいながらも、ずっと水面の下に隠れたままだった。私はそれを少し離れた場所で宙に浮かびながら眺めていた。


すると、私は再び夢を見守る者となり、先ほどの2人の姉弟がいる場所にいた。彼らは今、大きな部屋の中にいた。その部屋は、空き地、いや野原のようになっていて、そこでは獰猛な動物やロボットで再現された肉食恐竜が飼育されていた。2人はそんな部屋からの脱出を考えているようだったが、彼は部屋の真ん中にいて、少しでも動くと動物やロボットの恐竜から狙われていた。遠くには巨大なアナコンダが目を光らせていて、比較的近くには、巨大な肉食恐竜のロボットがいた。その他にも、人を襲う怪鳥が近くの木に数羽止まっていて、脱出は絶望的であった。そこで私は、夢を見守る者でありながらも、その場に介入する形で、助け舟のような力を発揮した。それによって、その場にいた動物やロボットは目が眩み、2人が逃げる隙が一瞬できた。弟の方がそれを逃さず、人を襲う怪鳥から脱出用の鍵を入手し、それを持ってすぐさまドアに向かい、ドアを開けた。そして彼はすぐに外に出て、姉を大声で呼んだ。姉もすぐさますぐにドアに駆け込んで、無事に2人は外に出れて、弟はドアを再び閉め、外から鍵を掛けた。2人は脱出できたことによる安堵感と喜びに包まれていながらも、今度は人間の追っ手が迫っていることに気づき、そこからすぐに離れた。2人はそこからは空を飛んで、学校の中を縦横無尽に飛び回り、最後に見えて来たカフェに逃げ込んで、その冒険は終わりを迎えた。カフェの中では美味しい食事が準備されていて、冒険の終わりを祝福するかのようだった。フローニンゲン:2022/6/29(水)07:02


8691. 観想的な生を送るために必要な否定の力


まるで一編の詩のような豊潤さを持った朝日が空に輝いている。それは神律を伴う光の筋として顕現していて、今自己はその光の恩恵に浴している。今朝方は肌寒く、長袖を着ようか迷うほどだったが、なんとか半袖で過ごしている。これくらいの気温であれば、ギリギリ半袖で室内で過ごせそうである。


先ほど洗濯物を干しながら、ビョンチョル·ハンの一連の論考を回想したり、ポール·ティリックの一連の資本主義批判の論考を回想していた。前者に関していえば、改めて観想的な生と、それを送るために不可欠な否定の力について考えていた。まず肯定の力に関して述べておくと、それは「~できる」という言葉で表されるものであり、ハンは現代は肯定の力の圧力に覆われた社会だという分析をしている。確かに社会は、私たちの自由を認め、まるで私たちがなんでもできるかのような錯覚を与えるが、現実的にはなんでもできるわけではなく、また仮に何かができるように精進したところで、他のできない何かに気づいてしまい、自分が無能な存在に思えて来てしまう。そこで生じるのが、「~できない」という言葉を伴う無能感であり、この感情が過剰になると鬱病などを発症してしまう。否定の力というのは、「~できない」という無能感を伴うものではなく、「あえて~しない」という形態を取る。現代においては、過剰に何かができることを奨励したり、何かができないことを自責するような目には見えない圧力が存在しており、そうした社会の中で、いかに私たちが「あえて~しない」という否定の力を獲得することができるかが重要であるとハンは指摘している。この指摘は重要であり、観想的な生を送るために必要なことは、できることを増やしていくことでは決してなく、ある意味活動の断捨離をしていくかのように、「あえて~しない」ということを増やしていく必要がある。しかしながら、ここで注意しなければならないのは、この「あえて~しない」ということを肯定の力に還元しないことである。すなわち、「あえて~しないということができる」と発想してしまっては元も子もないのである。その状態は、否定の力が肯定の力に転じてしまったことを意味する。結局のところ、テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーが指摘するように、能力にも良薬の側面と毒薬の側面があり、ある閾値を超えると、それは肯定から否定へ、否定から肯定へと転じてしまうものなのだろう。この閾値には当然ながら個人差があるであろうから、自分自身が実践を通じて、「あえて~しない」という否定の力の境界線を探り、「あえて~しないということができる」という肯定の力に転じないように注意深くいる必要があるだろう。この実践を続けていけば、しないことが増えていき、観想的な時間を深く味わう時間が増え、一つ一つの活動を深く味わうことができるようになって来るのではないかと思う。フローニンゲン:2022/6/29(水)08:24


8692. カイロスと神律


朝日を眺め、小鳥たちの鳴き声を聞きながら、挽き立てのコーヒーを味わっている。豊かな時間の流れに身を委ねながら、ポール·ティリックの資本主義批判に関する書籍を読み進めている。ティリックとフランクフルト学派の提唱者であるマックス·ホルクハイマーやテオドール·アドルノとの間には親交関係があり、ティリックはフランクフルト学派の思想から影響を受けている。そもそもフランクフルト学派の思想は、資本主義の内在性質に関するマルクスの批判理論とフロイトの精神分析学、そしてマックス·ヴェーバーの近代合理性批判をその思想の中心に据えている。そうしたフランクフルト学派の思想に影響を受けたティリックは一方で、ヴェーバー、ホルクハイマー、アドルノとは少し違った形で同時代の状況を眺めていた。端的には、ヴェーバー、ホルクハイマー、アドルノは同時代の時代精神や在り方に悲観的だったのに対して、ティリックは楽観的ではないにせよ、単に悲観的な姿勢を保持していただけではないのだ。彼は、神学上の2つの重要な概念を足掛かりに、ヴェーバー、ホルクハイマー、アドルノの悲観的な見方を超克しようとしていたのである。1つはカイロス(kairos)という概念だ。これは、各人が持つ豊かな固有の時間のことをいい、ティリックはカイロス時間はイエス·キリストの現れとして体験されるものであるという宗教的な解釈を施していた。キリスト教以外の宗教、あるいは宗教的な解釈を脇に置くと、それは永遠なるものや超越なるものとつながる体験をもたらす時間だと言えるだろう。そうした時間を回復し、そうした時間を生きることが、画一的な合理的社会を生きる上での対抗手段になるとティリックは考えていたのだろう。そしてもう1つの重要な概念が、神律(theonomy)というものだ。ティリックが神律という概念に持たせていた意味の射程は広く、そして豊かなものなのだが、あえて1つ重要な観点を書き留めておく。合理的な社会においては個人主義が蔓延り、人々は自律の道ばかりを強調するような在り方になっていく。ここでは個人は、自我が肥大化の一途を辿り、自我の肥大化を助長する合理性社会に対する対抗概念として神律という概念を持ち出し、姑息な自我を超えていく道を示そうとティリックは試みた。さらには、合理性社会においては、ますます主体と客体は分断されていき、主客一体の関係性を回復していくために神律という言葉を提唱したのである。このあたりの一連の論考は現代社会においても当てはまる非常に重要なものであり、さらに注意深く読書を進めていこうと思う。フローニンゲン:2022/6/29(水)09:04


8693. ゼロ成長の受容/ドイツの神学者のヨルゲン·モルトマンの思想に触れて


成長を是とする、あるいは至上課題とする現代社会においては、経済成長ゼロという事態が悪のようにみなされている。単純に人間と経済を比較することはできないが、どちらもエコロジカルなものであることを考えてみたときに、人間の身体の成長は大人になって止まりながらも内面は発達を遂げていく可能性が残されているのと同じく、経済という生態系もまた本来は外面的な、すなわち経済指標的な数値の拡張を目指すのではなく、それはあるところで止まり、それを受け入れることを通じて、経済指標には還元できない経済的豊かさを求めていくべきなのではないだろうか。経済指標によって示される経済成長など、経済成長の本来持つ質的な側面を考えれば一面に過ぎないものであり、量的な経済成長ばかりを追い求める現代の風潮は、飽くなき需要と際限のない欲望の競争を助長するだけである。


朝方からティリックの資本主義批判の書籍を読み進めているのだが、著者が面白い方向に論を展開し始めた。著者曰く、ティリックの資本主義批判は、現代の資本主義の種々の変質的性質を語るには不十分であるから、ドイツの神学者のヨルゲン·モルトマン(1926-)の論理を引き始めたのである。モルトマンという神学者を知らなかったので調べてみると、経歴もさることなながら、非常に興味深い神学者であることがわかり、文明批判につながるような書籍もいくつか出版しているようなので、それらについては8月の書籍の一括注文の際に購入しようと思う。少なくとも下記の6冊は必ず購入して読んでみようと思う。


·The Spirit of Hope: Theology for a World in Peril

·On Human Dignity: Political Theology and Ethics

·Ethics of Hope

·In the End-The Beginning: The Life of Hope

·Science and Wisdom

·The Future of Creation: Collected Essays


モルトマンの論考の一端が今読んでいる書籍の中に展開されているのだが、それを読みながらつくづく、モルトマンやティリックのように、時代と真摯に向き合って建設的な批判を表明する仏教者や神道者が少ないことが嘆かわしく思う。当然ながら、現代社会の種々の問題に対して問題意識を持っている仏教者や神道者はたくさんいるだろうが、彼らは言挙げせずをよしとしているのか、言語表現活動としてその問題意識が形になっておらず、広く多くの人に時代分析と処方箋を提示することに完全に失敗しているように思えてならない。そのあたりに仏教者や神道者の宗教家としての力量のなさを見る。そうした中で自分の役割というものが自ずから見えて来る。フローニンゲン:2022/6/29(水)10:09


8694. 神道の文明社会批判の体系化から出発して/GAFA化の進展について


ティリックやモルトマンらの同時代の社会批判の論考を読み進めながら、改めて神道の果たす役割について考える。特に、神道側の観点からの社会批判に関するものである。もともと神道というものが日本固有のものであり、日本のガラパゴス的性質ゆえなのか、神道が自国を超えたグローバルな観点で人間文明の病理を捉える視線が薄いように思える。そんな中でも、近現代においては、日本的霊性の喪失が、欧米によってもたらされた文明化による影響が大きいと見抜いていた神道家もいたことは確かである。自分の研究の出発点としては、今のところティリックやモルトマンらのようにある程度体系立てて文明批判をした神道家は特定できていないので、文明批判をしている神道家の断片的な論考を集め、それを体系化していく作業に従事する必要がありそうである。その作業の成果として、神道の文明批判の方法と独自の貢献が見えて来るだろう。そのようなことを考えていた。


今日はオランダ時間の13時からオンラインセミナーがある。それに向けての準備は整っていて、自分がスピーカーとして登壇するのは来週であり、今日はインタビューアーとして登壇する。セミナーまでは引き続き読書をしていこうと思う。


社会学者のジョージ·リッツアーは、「マクドナルド化」という言葉を用いて、アメリカ社会の隅々にファーストフード店で体現されている原理が展開されていることを指摘している。その現象に考えを巡らせながら、現代はさらに「GAFA化」とでも呼べるような現象が進行しているのではないかと思う。グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルを筆頭にしたシリコンバレー企業の成功モデルをとりわけ日本においてはもてはやす傾向があり、その成功モデルをいかに取り入れていくかに意識が向けられ、日本社会のなかにGAFAの分身のような企業やサービスが無数に生まれてきており、GAFA化の流れは加速するばかりである。ビョンチョル·ハンが問題視することの多くは、このGAFA化と密接なつながりがあるものであるため、GAFA化の進展は脅威でしかない。GAFA化は、プラットホーム資本主義、認知的資本主義、感情的資本主義、データ資本主義の権化のような現象であるから、より注意深くこの現象を分析していこうと思う。フローニンゲン:2022/6/29(水)11:04


8695. 役割とタスクの変化がもたらすものの再発見/

時代と格闘した神学者たちの在り方を参考にして


時刻は午後4時半に近づいている。つい先ほど、長年の知人でもある鈴木規夫さんと、現代社会に対して同じ問題意識を共有する吉原史郎さんとオンライセミナーをさていただいた。今日は吉原さんがメインのスピーカーということもあり、自分はインタビューアーに回った。インタビューアーしての役割を担うことは久しぶりだったので、改めて役割が変わると当然ながらタスクが変わり、役割とタスクの変化によって、自分が発揮する能力の種類もレベルも変動することを実感した。次週は自分がメインのスピーカーとして登壇する番であり、当日に何を聞かれるかは未知だが、自分の中でこの1週間もまた変わらずに自分の探究を進めていこうと思う。


セミナーの前に考えていたことを今ふと思い出したので、それについて書き留めておこう。確かに近現代の神道家が、神道や日本社会という殻に閉じこもってしまい、同時代の時代精神や文明の種々の構造的病に目を向けている姿がほとんど見られないことは残念だが、それを嘆くだけでは何も始まらず、そもそもポール·ティリックやヨルゲン·モルトマンのような時代と格闘した神学者もまた、文明社会を批判するような先駆者は少ない中で自らの批判思想を形成していったのだから、それこそ参考にするべき在り方のように思う。当然ながら、彼らもまた社会に目を向けた神学者の論理を参考にしながらも、主軸を置いたのはやはりキリスト教の原理原則であり、そこから精緻な社会分析を展開していった姿こそ参考にするべきだろう。自分の場合は、それを神道の原理原則を用いて行っていけばいいのだ。川面凡児全集を毎晩読み進める中で、確かに川面は日本社会の思想的·構造的問題のみならず、グローバルな視野で人間文明の問題を見据えていた。しかし、その論考はやはり散逸的であり、川面の思想を汲み取りながらも、神道の原理原則、すなわち神道の本質的な考え方を常に参照する形で、ビョンチョル·ハンのような現代の文明批判をしている学者の仕事を活用しながら、ティリックやモルトマンがなした文明批判的な仕事を行っていきたいと思う。今日から始まった全3回のセミナーもその足がかりになるものであり、こうした機会を1つ1つ本当に大切にしていきたいと思う。フローニンゲン:2022/6/29(水)16:31


8696. 虚覚醒と緩和社会/歪んだネオリベが提唱する能力主義


時刻は午後8時半を迎えようとしている。先ほど、夕涼みがてら、近所のゴミ捨て場に生ゴミを捨てにいった。この時期のオランダはまだまだ日が高く、雰囲気としは夕方のそれである。今、外気は27度なのだが、室温は28度なので暑さを感じる。少しまどを開けて風を通したい。窓を開け、夕方の空を眺めてみると、その穏やかな表情と共に、まるでこちらに微笑みかけるような夕日の姿に心が和らげられる。そうした安らぎを感じている。


神秘思想家のグルジェフはかつて、現代人の魂は眠ったままになっていると指摘した。確かにそうである。だがむしろ魂が眠ったままになっているというよりも、私たちの魂は文明の力によって眠らされたままにされているという見方もできるだろうし、ひょっとしたらそれよりも、私たちの魂は過度な消費主義的刺激によって、歪な形で覚醒状態であると述べていいかもしれない。まるで夢遊病者であるかのような形で虚覚醒させられていると言えるだろう。そのようなことを考えながら、現代人の無感覚的な症状にも意識が向かう。現代社会はビョンチョル·ハンが指摘するように、心身の病の根本治癒や病を引き起こしている構造的な問題の解決に向けて動いているのではなく、癒しやセラピーという耳障りの良い言葉と実践によって問題が隠蔽され続ける緩和社会(palliative society)の性質を帯びている。私たちはそうした社会の問題分析を精緻に行っていく必要があるし、様々な角度や次元からの実践が求められるのだが、少なくともハンが指摘するような恍惚的な美的感覚を取り戻すための実践というのは重要になるだろう。それは脱自的な現象が不可避に伴うという性質上、現代の共同体の崩壊につながる他者性の喪失という問題にもアドレスできるものである。


その他にも、現代の社会は能力主義だと批判されるが、その批判の観点が出て来るだけまだ救いなのだが、能力主義そのもの全てを批判するのではなく、現代の歪んだネオリベに基づく能力主義のどのような性質が現代人の精神的疲弊や病につながっているのかを分析していかなければならない。本来の能力主義というのは、個人が自由に能力を発揮できるというものであった。しかし現代においては、ハンの指摘にあるように、自由という聞こえの良い肯定的な概念を餌に、つまり自由の名の下に自己搾取を駆動させる巧妙な仕組みが出来上がっていることが問題であり、また能力主義で発揮される能力が何を指すのかということも問題となる。本来の能力主義が希求していたことは、人間の想像性や創造性が存分に発揮される形での能力であり、そして社会に資する能力の発揮であったはずだ。しかし現代において能力というものの意味の射程は極度に矮小なものとなり、それは効率性や生産性を向上させるための能力——あるいはカネを稼ぐための能力——というものに成り下がっている。そうした状況を鑑みてみると、現代の歪んだネオリベが提唱する能力主義というのは看板に偽りありだと言えるだろうし、現代社会には看板に偽りありの主義や主張、耳障りの良い言葉で溢れていることに注意しなければならない。フローニンゲン:2022/6/29(水)20:53

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