No.3749 アイントホーフェンの夕方の宇宙_The Evening Universe of Eindhoven
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1639, Aperspective Madness
Aperspective madness is rampant in this modern society.
The society has lost a gaze.
People are being constantly watched and monitored with no gaze,
and they feel distorted freedom,
which is aperspective madness.
Groningen; 09:24, 6/25/2022
No.1640, Our Body & Digital Capitalism
Digital technologies decay our bodily experiences.
Digital communications castrate our somatic nature.
The acceleration of digitalization means that of loss of our body.
Almost all of our bodily experiences become mere digital data which are the precious source of digital capitalism.
Groningen; 09:50, 6/25/2022
No.1641, The Endless Cycle
Today’s political economy drives us to the endless cycle of production and consumption.
We need to get out of the cycle; otherwise our soul would be exhausted and burned out. Groningen; 10:11, 6/25/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8663. 今朝方の夢
8664. 今朝方の夢の続き
8665. 不思議な哺乳類と遭遇する夢
8666. ポール·ティリッヒのアプローチの採用
8667. 方向性の整理
8663. 今朝方の夢
間も無く午前7時を迎えようとしている土曜日の朝。今、小鳥たちがチュンチュんと鳴き声を上げていて、週末の朝の始まりを祝福している。ほのかな朝日が心地良く、青空が広がっている。ここ最近は最高気温が20度を超えるようになってきていて、夏らしさを感じ始めている。フローニンゲンの夏はとても過ごしやすく、ちょうどいい気候なのがこのシーズンだ。
今朝方はいくつかの夢を見ていたので、それらについて振り返っておこう。夢の中で私は、大学のサッカーチームに所属していた。どういうわけか私は自らをゴシップ係と名乗り、メンバーのゴシップネタを集め、情報の透明性の観点から、メンバーにその情報を共有して楽しむということをしていた。もちろん、本当に秘密にしなければならないことは秘密にしていたが、そうではないような面白いネタであればとにかくメンバーに共有し続けていた。そんな形でムードメーカーの役割を務めていたのである。監督もまたそんな自分の役割を認めていて、「今日のゴシップネタは何かないか?」といつも練習始めのミーティングの際に尋ねて来るほどだった。その日の練習でも同じことを尋ねられ、私は今日もまたゴシップネタを披露しようと思った。すると、もともと野球をやっていた知人が立ち上がり、今日は彼からゴシップネタを報告したいとのことだった。それは珍しいことだったので、場が盛り上がり、メンバーは皆彼に釘付けとなった。彼が共有したネタもまた私のネタと同じく、微笑ましく、他愛もないものだったが、笑いが起き、場がとてもいい雰囲気になった。そのような夢の場面があった。
その他に見ていた夢としては、海外のリゾート地のホテルに宿泊していたものである。季節は初夏を思わせ、とても過ごしやすい気候だった。レストランの1階で食事をしていると、日本人の若い女性が3人自分のところにやって来た。彼女たちは友人の友人ということで全く無関係な人たちではなく、なんとなしか彼女たちのことを知っていた。彼女たちは自分のところにやって来て、お腹が空いて困っていると述べた。彼女たちの面倒を見るマネージャー役のような男性が、彼女たちにちゃんとした食事を与えていないようだった。実際に彼女たちは、1つの小さなお皿に、ソーセージ、ハム、スクランブルエッグを少しだけ乗っけて、それを3人でシェアすると述べていた。そんな食事では栄養が足りないだろうと思ったし、何よりも皿の上に乗っけられているものは栄養バランスが悪過ぎだと思った。何よりも、ソーセージやハムといった発癌性物質を含むものを中心に食事を構成するというのはまずいと思ったので、私は彼女たちに好きなものを頼むように述べた。すると彼女たちはとても嬉しそうにしており、それを見て私も嬉しくなった。私もまだ食事が済んでいなかったので、全員でシェアしながら食事を楽しもうと思った。フローニンゲン:2022/6/25(土)07:14
8664. 今朝方の夢の続き
朝の静けさの中で、黙想的な気持ちでこの瞬間に佇んでいる。今日もまた読書を中心に1日を過ごしていくことになるだろう。明日はロビンさんとのジークンドーのプライベートレッスンがあり、それに向けての調整も本日行う。調整といっても大したことではないのだが、一応明日のレッスンに向けて、前回に習ったことを総復習しておこうと思う。技の復習と鍛錬は毎日やっているので、前回のレッスンで指摘を受けた事柄の再確認と言った方が正しいだろうか。とりわけ心や意識の在り方について重要な指摘をいくつか受けたので、それを確認しておこうと思う。読書に関して言えば、今日もまた午前中から夕食までの時間は、文明学の探究に充てていく。とりわけビョンチョル·ハンの書籍の精読を継続させていく。すでに12冊ほど、一言一句読み進めていく形での精読を終えているが、あと5冊ほどまだ精読していないものが残っている。そのうちの1冊はすでに半分まで精読済みであり、今日は少なくとも2冊は精読を行うことができそうだ。ハンの書籍についてはこれからも何度も繰り返し読み返していこうと思っており、それに並行する形で、テクノロジー哲学やマネー神学の書籍も精読を始めていこうかと思う。それらの書籍についてはこれまで一言一句最初から最後まで読むという形を採用していなかったので、全体観が掴めて来たこのタイミングで精読を始めていこうかと思う。
先ほど今朝方の夢について振り返っていた。夢にはまだ断片的な記憶として残っているその他の場面があったので、それについても書き出しておきたい。夢の中で私は、見慣れない一軒家の一室にいた。その家は殺風景であり、どこか寂しさの感情を引き起こすような雰囲気だった。そんな家の中で私は、家に送られてきた遺骨の入った箱を開け、身元確認をした上で整理をしていくという仕事をしていた。それは報酬が発生するような仕事ではなく、ある種使命感に駆られて行なっていることだった。遺骨の入ったどの箱にも、死ぬまでの経緯が物語風に書かれた紙が挿入されていて、それを読みながら供養をするのが自分の役目のようだった。直近で受け取った遺骨の当人は、どうやら大学であらぬ罪を着せられ、それに耐えかねて自殺をしたようだった。自分の無実を晴らして欲しいという切実な願いが伝わって来たので、私は友人のライターの人にその紙を見せた。するとライターの友人は、これは絶対に記事にして世間に公表しなければならないと述べた。そうすることによって、彼の無実を証明することができると彼は述べ、私もまたそれに賛成だった。何よりも、亡くなったその若い男性もまた、世間に何かしらの手段でこの件を公表して欲しいと紙に書いていたので、その意思を受け継ぎ、実現させようと思った。すると突然、部屋には母と母と仕事を一緒にしていると述べる中年男性がいて、3人で少し話した。2人は少し酔っ払っているみたいであり、テーブルに着席するのではなく、壁際にもたれかかってしゃがみ込んだので、私も彼らの近くでしゃがみ込んで、2人の愚痴を聞き、彼らの気分が回復する手伝いを始めた。そのような夢の場面があった。フローニンゲン:2022/6/25(土)07:32
8665. 不思議な哺乳類と遭遇する夢
朝日が燦然と照っていて、とても心地良い朝の世界が広がっている。気温もほどよいこの季節のフローニンゲンは一番生活がしやすく、毎日清々しい気持ちになる。夏を謳歌すること。それが今の自分に求められていることなのかもしれない。そよ風がとても優しく吹いている。この瞬間の空には一切雲がないのでにわかに信じられないが、今日は夕方に雨が降るらしい。どうやらそれは昨日の朝のような雷雨ではなく、小雨のようだ。こうした形で時折小雨が降ることによって、この街の涼しさが確保されているのかもしれない。
先ほど、今朝方の一連の夢について振り返っていたが、もう1つ書き留めていないものがあった。それは少し不思議な世界での出来事だったので、それについても書き留めておこう。夢の中で私は、自宅と深海がつながった不思議な空間にいた。自宅は水浸しになっていて、深海の最も深い部分だけがそこにあった。つまり、自宅の中は水浸しになっているのだが、それは浅瀬のようなものであり、浅瀬なのだがそれは深海の最深部であるという構造になっていたのである。私は水浸しになった自宅の中を泳いだり、歩いたりしていた。ちょうど腰ぐらいの高さまで浸水している箇所は歩き、それよりももう少し浸水している箇所は泳いで移動していた。ただいずれにしても、そこは深海であったから、足元は全く見えず、少し不気味な感じがした。なので途中からは、小さなビニールボートに乗って移動することにした。ボートに乗ると、母もボートに乗って来て、進行方向について助言をくれた。そして、どうやら深海には絶滅寸前の哺乳類がいるらしく、それを保護することをしなければならないと母が述べた。その哺乳類たちがいそうな場所を母は指を差して教えてくれ、そちらに向かおうとしたところ、母はいつの間にか消えていた。私は1人でその哺乳類の保護にあたらなければならず、そもそもどんな哺乳類なのかの情報がなかったので、少し心配になりながらそちらに向かった。すると、海底で何かキラリと光るものが見えた。どうやらその哺乳類の体の輝きのようだった。体全体が輝いているわけではなく、どうやらその哺乳類の一部は光る性質を持っているようだった。それはとても珍しいと思い、その光を頼りにボートを進めていき、光が集まっている場所に到着した。彼らは海底をゆっくりと旋回して泳いでいるようで、それが自分を待っていたかのような踊りに見えた。自分がやって来ることを待ちながら、同時にそこに誘う踊りのように思えたのである。同じ哺乳類同士だからか、彼らが自分に危害を加えることは決してないということだけはわかっており、いざ彼らの姿が海面に現れようとしたところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/6/25(土)07:45
8666. ポール·ティリッヒのアプローチの採用
時刻は午後5時を迎えた。今日は確かに午前中に雨が降る瞬間があったが、それはごくわずかな時間であって、今はすっかり晴れ間が顔を覗かせ、辺りは眩いばかりの光で包まれている。とても穏やかな土曜日がゆっくりと進行し続けている。その進行に身をまかせながら、自分の取り組みをゆっくりと前に進めていた。
神学者のポール·ティリッヒは、宗教の本質を元に、宗教と資本主義の関係性について詳細な分析を行い、資本主義の内在的な問題について指摘していた。ティリッヒは神学者の中でも時代と真摯に向き合い、時代の諸問題と格闘した尊敬すべき神学者である。ティリッヒのアプローチを採用して、川面凡児が宗教の本質をいかに捉えていたのかを把握し、それとの関係性で資本主義の性質と問題を分析することを行ってみたいと思う。その取り組みをするために、ティリッヒの資本主義批判の書籍を先ほど購入した。併せて、ここ最近関心を寄せていた「文明崩壊学(collapsology)」に関する書籍も2冊ほど購入した。それらは8月の書籍の一括注文の際に購入しようと思っていたが、待つことができないほどに早く読みたかったので、本日購入した次第だ。注文した3冊の書籍は、数日以内に届くとのことだったので有り難い。7月の中旬にはスウェーデン旅行が控えているので、それまでには余裕を持って書籍を受け取ることができ、それらの書物の初読も十分に終えることができているだろう。
それでは今から、観想的な実践としての作曲実践を行いたい。曲を作ることに没入し、音楽世界の中の持続に身を委ねる。作曲後に時間があれば、夕食までにもう少し読書をしたいところである。フローニンゲン:2022/6/25(土)17:05
8667. 方向性の整理
アランにとってはスピノザやカント、そしてデカルトが重要な思想家だったのである。範を求める思想家は、自分の関心事項と魂の要求に従っていれば誰でもいいのである。アランは、スピノザの『エチカ』、カント『純粋理性批判』、デカルトの『方法序説』を隅から隅まで丁寧に何度も繰り返し読んだ。自分もまた、自分にとって重要な思想家の書籍とそのように付き合っていく。すでに核となる思想家は幾人かいる。幾人もいることを嬉しく思おう。それはとても贅沢なことなのだ。彼らの書籍を隅から隅まで繰り返し読み込んでいき、自己の存在の奥底まで彼らの思想が滲み渡るようにする。これから読み進める川面凡児の全集もそのような1冊であり、本日購入したポール·ティリッヒの書籍もそのような1冊になるだろうか。とにかく、自分にとって重要な思想家の重要な書籍は精読あるのみである。逆に言えば、それ以外の著者の著作は精読などしなくていい。限りある人生の中で何度も精読できる書籍には限りがあるのだから。精読の中で考えたことは逐一文章にしていこう。内省と表現は表裏一体のものでなければならない。完全なものを書こうとしないこと。そもそも完全なものなどいつまで経っても書けないのだから。人はどういうわけか最初から完璧を求めるが、結局完璧などやって来ないばかりか、人は書くことを出発させようともしない。なんとも不思議なことである。小さな形を絶え間なく生み出していくこと。それは文章執筆にも当てはまる。どんな大作も、ある意味小作の集合と結合なのだから。
ビョンチョル·ハンの著書を読んでいると、彼がキリスト教の神学に造詣が深いのと、彼が元々韓国人であることからアジアの思想にも親しみにがあることがわかる。彼の書籍は見事な文明批判の形をなしているのだが、そこに宗教的な思想が見え隠れしている。自分はそこに注目し、ハンがキリスト教か仏教の概念や論理を用いて説明しているところを、神道の概念や論理を用いて説明してみるとどのようなことが言えるのかを絶えず考えていこうと思う。正直なところ、神道家は現代文明の諸問題に対してほぼ何も貢献していないと言えるぐらいに黙り込んでいる。自身を取り巻く社会構造や文明の病理に無頓着なのは、何も神道家に限ったことではなく、ほぼ全ての職業のほぼ全ての人に当てはまることであり、それを批判していてもしょうがない。そうした貢献は、気づいた人間が率先してやっていけばいいのである。とにかく自分の関心は、現代文明の諸問題と病理の構造を、様々な領域の洞察を用いながら解明していき、その治癒と変容に向けた実践的な処方箋を提示することである。入浴まであと1時間ある。その1時間もまた読書に充てていこう。フローニンゲン:2022/6/25(土)20:02
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