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8563-8569: フローニンゲンからの便り 2022年6月5日(日)



No.3709 青き宇宙_A Blue Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1581, Disbelief in Shinto

My spirituality is definitely centered on Shinto.

Yet, I have disbelief in whether Shinto fulfills its responsibility for this modern world.

I can’t find any Shintoists who propose solid and feasible solutions to the pathology of this society.

Groningen; 08:15, 6/5/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8563. 素晴らしき朝の目覚めから

8564. 今朝方の夢

8565. バノプティコン(ban-opticon)が進展する社会の中で

8566. 神道への不審

8567. 資本主義と死への衝動との結び付きから

8568. 日常の全てに死を見出すこと

8569. 先祖を辿ること


8563. 素晴らしき朝の目覚めから


時刻は午前6時半を迎えた。今、静けさを体現した日曜日の朝の世界が広がっている。今朝はすこぶる目覚めが良く、目覚めた瞬間に心身の充実感を感じた。起床の時点からそのような形で充実感を感じられるというのは幸先が良いし、とても理想的である。どうやら今日は午後から小雨が降るようであり、明日以降も天気は崩れる。幸いなことに、旅行に出かける金曜日は、ちょうど自宅を出発する頃には晴れに恵まれるようだ。アイントホーフェンとカウナスの旅行が始まるまでもう間も無くである。今回の旅もまたいつもと同じように、素晴らしい出会いと発見が数々あるだろう。アイントホーフェンには焦って行く必要はなく、フローニンゲンを午後に出発すれば十分かと思う。そのため、当日の朝に部屋の掃除や荷造りをすることができそうである。


昨日、ビョンチョル·ハンの書籍が届けれられた、その中にあった“Capitalism and the Death Drive”はすでに持っていることに気づいた。すでにその書籍は昨年の夏に初読を終えていたのだが、それを覚えておらず、再度注文していたようだった。2冊手元にある必要はないので、火曜日に親友のメルヴィンに髪を切ってもらう際に、彼にこの1冊をプレゼントしよう。メルヴィンもまた、現代の新自由主義的な社会への問題意識が高く、よく英語の本を読んでいるので、贈り物としてうってつけかと思う。友人に書籍をプレゼントすることは良いことだが、ごく稀に同じ本を2度注文してしまうことがこれまでにもあったので、今後は書籍の注文の際には少し気をつけようと思う。アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダのそれぞれのアマゾンから書籍を注文する際には、過去の注文履歴が集約されていないようなので、このようなことが起こってしまう。間違いなく初めて購入するであろう書籍はいいが、購入したかもしれないと思う書籍に関しては、一応過去の注文履歴から検索をしてみようと思う。そうすれば、今回のようなミスは防げるだろう。もちろん、良書を周りの人に配るというのは、本来とても良いことなのだ。そのようにして社会に知が広がっていき、共有知となる。今日は、昨日届けられた書籍を読むのもいいが、せっかくなので上記の書籍の再読をしようと思う。そうすれば、メルヴィンに書籍を渡す際に少し話ができるだろうし、今後この書籍を取り上げてメルヴィンと話すこともできるだろうから。そもそもこの本を昨年の夏の段階で購入していたのは、その時には資本主義と死というものを関連づけて考えたかったからである。その2つの概念がタイトルに入っていたこともあり、検索をして手に取ったのが本書だった。今回は再読ということもあり、ゆっくりと精読をしていきたい。再読から得られた刺激を元にまた文章を執筆したり、自分のその他の表現行為にそれを体現したいと思う。フローニンゲン:2022/6/5(日)06:44


8564. 今朝方の夢


今日はどうやら最高気温が24度まで達するようで、随分と暖かくなる。朝のこの時間帯は、気温が12度と肌寒く、冬の格好をして室内で過ごしている。今日の午後からの小雨を受けて、明日からはまた気温が下がるようだ。6月を迎えたが、まだまだ肌寒い日が続くフローニンゲンである。


昨日は、宇宙人がテーマとなった夢を見ていた。その夢は不気味さと恐怖感を引き起こすものだったが、今朝方の夢は肯定的な感情に満ちたものだった。夢の中で私は、実際に通っていた中学校の体育館のバスケコートにいた。そこで、あるバスケ漫画の主人公たちと一緒にバスケの練習をしていた。その漫画の主人公と一緒にパスを出し、彼がカットインからシュートを決めるという練習を行なっていた。それはうちのメンバーにとっても参考になり、特に右のフォワードを務める友人に参考にしてもらいたい動きだった。私がその主人公にパスを出す際に、彼は一度フェイクを入れて、マークをしている相手を離し、そして見事な体の使い方でボールを点ではなく面で受けた。ここはポイントであり、パスの出し手として、点でしかパスを送れないとなると出しづらいのだが、パスを出す空間が広い面を作ってくれるとパスはとても出しやすいのである。この点を特に友人に参考にしてもらいたいと思い、このことを改めて解説した。いざ友人にも同じ動きをやってもらったところ、最初はうまくいかなかったが、彼は運動神経が良く、飲み込みも早いので、少し練習すると同じ動きができた。ボールをうまく受けられるようになったら、あとはシュートであり、ゴール下までボールを運んでもいいし、ボールを受けてそのままジャンプシュートしてもいいということを伝えた。彼はゴール下まで入って行くことを好んでいたので、そのスタイルを踏襲するのもいいし、新しいオプションとしてジャンプシュートを練習するのも良いかと思った。そのような練習をした後に、漫画の登場人物たちと部活のメンバーを混ぜて、紅白戦を行なった。この紅白戦がとても盛り上がり、非常に良い雰囲気の中で接戦が繰り広げられた。自分のシュートもことごとく入り、パスも冴え渡っていて、大変気持ち良くプレーすることができていた。その快感の中でふと目覚めた。今日の目覚めの良さは、この夢のおかげもあったかと思う。誰かと一緒に思いっきり体を動かすというのはいいものだ。夢の中で得ていた爽快感が、目覚めた瞬間にもあったのである。この夢の前にも何か夢を見ていたような気がするが、それもまた肯定的な感情を引き起こすものだったという感覚が残っている。フローニンゲン:2022/6/5(日)06:55

8565. バノプティコン(ban-opticon)が進展する社会の中で


フーコーが指摘するような身体的な調教型社会から、現代はビョンチョル·ハンの指摘にあるように、人々の感情や意思に訴えかける心理政治的(psychopolitical)な社会の様相を強めている。そのような社会の中にあっては、人間の肯定的な感情に焦点が当てられ、それが搾取と改変の対象となる。そこでは、「自分には~ができる」という“can”を煽るメッセージが投げかけられ続け、人々はその達成へと自らを駆り立てる。この仕組みが巧妙なのは、フーコーが指摘する身体的な調教型社会の中にいたある種明確な調教者というのは存在せず、社会全体からの見えない圧力によって、個人自らが己の調教者になるのである。一昔前のような、搾取する者とされる者の主体と対象が異なっていた形ではなく、現代においてはそれはことごとく一致するのである。自らが自らを搾取する存在となり、人々は社会からの見えない圧力によって、自分には何かができるということを信じながら、絶えず自分を駆り立てて行く。また、恐ろしいのは、自分には何かができると思って自己を駆り立てない者は、社会の外にすぐさま弾き出されてしまうのだ。システム不適合者を一望的に見つけ出す仕組みを持ち、システム不適合者をシステムの外に一斉に弾き出してしまうような社会のしくみをハンは、“ban(~を禁止する)”という言葉とパノプティコンをかけて、「バノプティコン(ban-opticon)」と呼んでいる。しかも現代は、システム不適合者を発見する技術はますます洗練され、より効率的にシステムの外へシステム不適合者を排除する仕組みを構築し続けている。自分には何かが達成できると思えないような人間は、システム不適合者として簡単に社会の外に弾き出されてしまい、必要な支援や機会が与えられない。一方で、システム適合者は自らをその虚構の起業家精神に基づいて、飽くなき達成の道を邁進する。ハンが述べる疲労社会の特徴は、そのような構造を持っていると言えるだろうか。朝からハンの思想を元に、ぼんやりと現代社会について考えていた。これから実際にハンの書籍を読み進めていこうと思う。今週末の旅の開始までに随分と書籍が読めるだろうし、旅にもハンの書籍を何か持参しようかと思う。フローニンゲン:2022/6/5(日)07:53


8566. 神道への不審


自分の霊性は、疑うことのないほどに神道に立脚していると思うが、神道への不審は消えない。それよりも、不審は募るばかりである。果たして神道は、現代の社会的な要求にきちんと応えているのだろうか。神道は社会課題に対して責任を果たしているのだろうか。そのような不審がある。おそらく神道家はみんなそれぞれ、社会へ貢献しようとしていると思うのだが、こと神道神学を探究する学者側から、この現代社会の病理の構造を見抜くような洞察を聞いたことがないし、そうした問題意識を持って書かれた本もほぼ皆無である。神道学者たちの関心と自分の関心は、随分と乖離があることが分かり、日本語で書かれた神道研究の学術書は、ほとんど自分の関心の役に立たない。今、船便で送られて来ている川面凡児全集には期待がかかるが、川面神道神学をそのまま適用する形では自分の研究が進んでいかないように思えている。川面神道神学の洞察を活用するにしても、方法論としてはプロテスタント神学者のポール·ティリッヒが行ったような形を取るか、マネー神学者のフィリップ·グッドチャイルドやニミ·ワリボコが採用したキリスト教神学の適用アプローチを参考にしていく必要がある。日本の神道研究は、それこそ國學院大学や皇學館大学をはじめとして、その研究の質だけを見たら間違いなく世界で一番高い。実際に、両大学の研究者が執筆した学術書をこれまで随分と読む中で、その研究の質の高さを実感した。だが、現代の日本のエリートと同じく、彼らの研究の中で発揮されている知性が随分と小さく狭いものであることに不満がある。端的には、自らを取り巻く生存環境への関心が希薄であり、時代の精神的·制度的な病理に対する関心が極めて希薄なのである。当然研究者は1人1人が独自の研究テーマを持って研究を進めて行くわけだが、自らの研究テーマそのものを呪縛している時代の精神や、自分がその研究テーマに関心を持った時代的背景などへ強く問題意識を持っている人がほとんどいないように思われることが残念でならない。研究は自己の探究欲を満たすという側面があって然るべきだが、本来それだけではならないはずである。自らの研究が社会にどのような役割を果たすのかという問題意識。すなわち、探究欲だけを満たすような利己的な研究ではなく、自らの研究が社会にいかに貢献できるのかという利他的な思いを持つ必要が学者の本分にはあるのではないかと思う。本来、宗教というのは人のため、社会のために資するはずのものであり、それを研究する者たちが現在のような有り様だというのはひどく嘆かわしい。少なくとも自分は、神道神学を用いて、社会の要求と課題に応えて行く道を歩む。少なくともキリスト教神学の観点からそれを行っている先人がいるのだから、彼らの方法論を参考にしなければならない。フローニンゲン:2022/6/5(日)08:28


8567. 資本主義と死への衝動との結び付きから


少しばかり今後の神道研究の方向性がまた明確になった。今、ビョンチョル·ハンの“Capitalism and the Death Drive”という書籍を読み返しているのだが、改めて資本主義と死への衝動との結び付きが強い点に着目し、現代人の死生観の探究とその見直しに関してであれば、神道の貢献が可能な道があるように思えたのである。つまるところ、現代人が達成型社会の中で自らを駆り立てるようにして働いたり、能力開発を行ったりする根幹には死の恐れと死への衝動の双方があり、そうした人間の内在特性を深く考察しない限りは、現代文明の病理を改善する処方箋など打ち出しようがないと思ったのである。神道の死生観を探究するというのは、もちろん霊魂観を探究することにつながってくるが、まずは死生観に着目する形で、関連文献を読み進めていこうと思う。その時に当然ながら核になるのは川面凡児の書籍群だが、神道の死生観であればその他にも良著がある。それらについては、夏の書籍の一括注文の際に購入しようと思う。


仮に現時点で博士論文か書籍を執筆するのであれば、現代文明の精神的病理と構造的病理の双方を分析するところから始め、それら双方に現代人の死生観がつながっているという指摘の元、現代人の死生観の特性についての考察と、神道における死生観についての考察を展開していくという流れが思いつく。文明の問題分析に関しては、当然ながらハンの思想も参考になるが、それ以外にもフランクフルト学派——とりわけフロムやマークーゼ——の論考や、スティグラーやフィーンバーグの論考、さらにはグッドチャイルドやワリボコの論考も大切になる。その他にも、現代文明の問題分析に関して重要な指摘をしている学者は数多く存在していて、彼らの考察も取り入れながらも、核となる思想家は何人かに絞る必要があるだろう。そうでなければ、1つの論文や1冊の書籍にまとめることはできない。テクノロジー神学で大きな貢献を果たしたジャック·エラルや、速度学の提唱者のポール·ヴィリリオなどの論考をどれだけ盛り込んでいくのかも今後考えて行く必要がある。そのようなことを考えていると、ポール·ティリッヒなどの論考も参照したいという思いが湧き出てきて、参照点となる学者がどんどんと思い付く。それはそれで有り難いことであり、あとは論文や書籍の趣旨に応じて取捨選択していけばいい。研究の成果物となる論文や書籍の方向性がまた随分と明瞭なものになってきた。今はひたすら読書に励み、その過程で得られたことをこまめにこのように書き留めていけばいいのだ。フローニンゲン:2022/6/5(日)09:40


8568. 日常の全てに死を見出すこと


現代人の死生観の特性を明らかにし、豊かな死生観を体現した生き方の実現に貢献して行くこと。神道研究の主眼をまずはそこに置く。テオドール·アドルノが指摘するように、死を否定する生は、破壊的·暴力的なものとなり、その破壊的·暴力的な性質を強めていく。現代においては、過度に死を拒絶し、死の価値を完全なまでに喪失している価値観が蔓延している。現代人の美意識というものもまた、死の拒絶を背後に持つ歪なものに成り果てている。死の意味と価値を見つめ直すこと。ジョルジュ·バタイユが述べるように、本来死は、小さな自我の囚われから私たちを解放し、高みに連れて行ってくれるエロス(上昇の愛)と不可分のものであったはずだ。現代において、充実した生を営めなくなってきていることの背景には、どうやら死をどのように捉えるかという大きな問題があるようだ。このテーマは、自分にとって最重要なものである。芸術論的な美学ではなく、文明学的な意味での美学ともつなげていきたいテーマとして死が存在している。これまで自分が探究してきた発達理論の世界においても、死というのは極めて重要な役割を担う現象であることを考えてみると、自分の研究の中にある一本の太い幹のようなものを見つけることができる。


死の感覚を取り戻すこと。抑圧されている死の恐怖を見つめること。それが直接的に難しければ、間接的に様々な実践を通じて行っていくこと。フロイトが指摘するように、重要なことは無意識的なものを意識化させることである。トラウマを伴うような死の意識化は専門性が問われるためにそこから着手するのではなく、例えば、死が当たり前のものとして存在している自然と意識的に触れ合ってみるというのは1つの方法だろう。自分で植物を育てることもまた、そこに死を必ず見ることになるであろうから、重要な実践になり得る。人間の発達が死と再生のプロセスで成り立っている以上、本質的な発達をもたらす内省というのは、自己の死を見つめるものにならざるを得ない。過去の自分の死、そしてこれからの死を含めた内省を経て本質的な変容プロセスが進んでいくのである。


朝の涼しさを楽しんでいる小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。彼らの鳴き声の1つの音もまた死に縁取られている。ゆえに美しい。1つの音が生の輝きとして現れ、それが儚く消えていくという死の形を取ることによって、次の音が生まれ、それらの音の連なりが1つのメロディーとなる。メロディーというのもまた死と再生によってもたらされていたことに気づくだろうか。朝の時間がゆっくりと進行しているその過程もまた、朝の死のプロセスに他ならない。ある朝が死に、昼がやって来る。そして昼はまた死を遂げて、夜がやって来る。そこからまた新しい朝がやって来るのだ。日常の全てに死を見出すこと。死そのものの意義と輝きを見出すこと。それができて初めて、真正の生の輝きを見出すことができるのだろう。フローニンゲン:2022/6/5(日)10:25


8569. 先祖を辿ること


時刻は午後5時を迎えた。早朝の天気予報が外れ、今はまだ小雨が降り始めておらず、とても穏やかな夕方の世界が広がっている。小鳥たちも嬉しそうに鳴き声を上げている。今改めて天気予報を確認すると、どうやら雨が降り始めるのは夕食後ぐらいからであり、小雨ではなく、結構な雨が降る予報になっていた。


今日は読書と創作活動以外に、両親との2ヶ月に1度のZoomミーティングを行った。毎回両親の近況を聞けることが楽しみであり、今回は両親が先日行った旅行の話から始まり、そこからは色々な話題を話した。中でも印象的だったのが、自分が神道へ関心を示していることを共有すると、福井出身の継体天皇に関する興味深い話を父の方から聞いたことである。以前より、加藤家は福井と石川に縁があることは聞いていたが、継体天皇は藤原家の関係から、加藤家と深いつながりがあるようだった。そのような話をしていると、母がふと、母方の祖父の福井の実家はお屋敷のように立派で大きかったという話をしてくれた。そこから加藤家の家柄を垣間見たように思った。以前、ジョン·エフ·ケネディ大学にいた際に、先祖を辿るワークショップに参加し、先祖を知ることの意味と意義について強く実感したのを覚えている。2年前に実家に帰った際には、父が調べていた先祖のルーツに関するプリントアウトされた資料を見せてもらい、随分と知らないことがあるなと改めて思った次第である。先祖を辿る試みは一夜にして行えるようなものではなく、今後も神道研究と並行して緩やかに進めていきたいと思う。


それでは、夕食の準備までにまだ時間があるので、ビョンチョル·ハンの書籍の続きを読み進めよう。そして夕食後には、英会話アプリのELSAを使って、英語の発話能力の鍛錬をしようと思う。そんな形で夕方と夜の時間をゆっくりと過ごす。フローニンゲン:2022/6/5(日)17:20

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