No.3704 宇宙の宝石_A Gem of the Universe
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1573, The Transparent World
The world is always transparent.
Anything negative and positive can happen in this world.
Ripples of an event can penetrate the whole world.
Groningen; 07:57, 6/3/2022
No.1574, Self-Exploitative Self-Help Activities & Vanishment of Self
Almost all of the self-help activities in the modern society are self-exploitative.
Unfortunately, most people do not notice it.
On the contrary, they are willing to do those self-exploitative activities, believing that they are self-help.
Moreover, the self is mostly vanished, being fully exploited.
Groningen; 12:52, 6/3/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8550. 観想的な生活/脱自的な在り方から全自的な在り方へ
8551. 今朝方の夢
8552. 継続的な英語の発話能力の鍛錬/ビョンチョル·ハンの思想と文体に惹かれて
8553. 現代社会を描く邦画を見ながら
8554. 夢の世界を侵食し始める現代文明/書くことと発達
8555. 遊びの搾取/嗜好的生き物としての人間
8556. 無為を無為のままに楽しむこと
8557. 非中央集権的な新自由主義的収奪システムの社会の中で
8558. 搾取の道具となる癒し
8550. 観想的な生活/脱自的な在り方から全自的な在り方へ
時刻は午前6時を迎えた。今、朝日が書斎の窓から差し込んでいて、それを全身に浴びながらこの日記を綴っている。この瞬間において、風は全く吹いておらず、小鳥の鳴き声だけが辺りに響き渡っている。小鳥たちの鳴き声のリズムは軽快で、それでいて落ち着きがある。彼らの鳴き声に耳を澄ませていると、ここに観想的な生活があることを実感する。現代社会の過剰な生活から身を守る簡単な方法は、こうした観想的な生活を営むことだ。暴力的に忙しなく流れる時間の中で自己を搾取し続けるのではなく、このように静かな生活環境に身を置くことは、1人の個人としてできる自己防衛手段かと思われる。こうした生き方が特異なものではなく、当たり前のものとして行われることを願う。
いよいよ来週の今日は、アイントホーフェンとカウナスに向けた旅が出発する。まず足を運ぶアイントホーフェンは南オランダにあり、フローニンゲンから列車で行くことができるので、当日は焦ることなく出発できる。午後あたりに出発し、アイントホーフェンのホテルのチェックインを済ませたら、散歩がてら周辺を散策しようと思う。実際に観光を始めるのは翌日からだ。今回の旅でもまた色々な素晴らしい出会いがあるだろう。それは町そのもののとの出会いかもしれないし、人との出会いかもしれないし、芸術作品との出会いかもしれない。出会いはそのように様々な彩りを持っているものであり、そのいずれか、あるいは全てとの素晴らしき出会いに期待する。
自己を超出する脱自的な在り方から、全てと一体となる全自的な在り方への変容プロセスを着実に歩む自己。昨日は、自己のそのような側面に気づいた。もはや自分は日々、多くの時間を脱自的な在り方を超えて、全てと同一化するような全自的な在り方にいることが増えているように思う。小さな自我に囚われていないがゆえに、大きな寛ぎを得ていると言えるかもしれない。小さな自我は、私たちに悩みや不安をもたらす最大の要因でありながら、自我を賢明に消し去ろうとすると、逆に自我の防衛反応から、むしろまた別種の悩みや不安に絡め取られてしまうという悪循環が起こる。最初のステップである脱自的な在り方を構築する際には、やはり落ち着いた環境に身を置くということは最低限必要なことかと思う。自我を刺激するようなものからできるだけ距離を取り、ゆっくりと自我の種々の側面を見つめていくというプロセスを長大な時間をかけて行った結果として、脱自的な在り方が実現される。自分の場合はそのような歩みであったように思う。朝日を眺め、それを眺めている自己を朝日に溶け込ませていくこと。その溶解現象が起きれば、脱自的な在り方から全自的な在り方への移行が起こり始めているサインである。フローニンゲン:2022/6/3(金)06:34
8551. 今朝方の夢
朝日の輝きがとても眩しく、朝の世界全体が黄金色に彩られている景色は美しい。単純にそれは美しく、心を深く落ち着かせてくれる。小鳥たちの鳴き声1つもまた、単純な完全なる美しさを体現している。それは驚くべきことである。鳴き声1つに完全なる美が顕現しているのだ。
完全なる美に包まれながら、今朝方の夢を振り返りたいと思う。夢の中で私は、母方の祖母が昔住んでいた江東区のマンションの階段にいた。懐かしさを感じながら、階段を上っていると、誰かが自分をつけているように思えたので、階段を上がる速度を早めた。特に邪悪な気を感じたわけではないが、少し違和感があったので、背後から追ってくるものから逃げようと思ったのである。そうすると、その違和感をもたらす正体となる人物が、後ろからではなく前からやって来た。階段を逆に降りて来たのである。私はそれに驚いて、ハッとしたが、どうやら私を追いかけて来ていたのは見知らぬ若い女性のようだった。彼女とは初対面のはずだったが、どこかで会ったことがあるような気がした。すると彼女は、昔私と会ったことがあると述べ、その時の話をしてくれた。そこからしばらく話をした後に、どうやら彼女は私のことを懐かしく思って話しかけようとしていたのだと思った。だから別に邪悪な気などを感じることがなかったのだ。そこからは彼女と一緒に階段を上って行き、昔祖母が住んでいた部屋の前までやって来て、玄関前の鉄格子を指差して、「これは自分が大家さんにお願いして、全家庭に作ってもらったものなんです」と述べた。防犯上、そうした鉄格子とインターフォンがあった方が良いのではないかと大家さんに持ちかけたところ、大家さんもそれは確かに必要だと述べ、全家庭に取り付けてくれたのである。そんな懐かしい思い出話をしたところで、夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、高校時代のクラスメートの友人(HH)とどこかの家の一室で話をしていた。彼は興奮気味に話をしていて、私が口を挟むと少し苛立っているようだった。彼の気が立っているのも無理はなく、これから重要な格闘技の試合に彼は出場することになっていたのである。彼が対戦するのは、幼少時代に私たちが見ていたアニメの凶悪なキャラクターであり、通常であれば人間が勝てるような相手ではなかった。しかし、彼は臆することなく、そのキャラクターとの戦いに向けて準備を着々に進めていた。いざその会場に瞬間移動すると、闘技場ではすでに別のキャラクター同士が戦っていた。よくよく見ると、戦っているのはそのアニメの仲間同士であり、驚いた。ただし、お互いに憎み合って戦っているわけでは決してなく、とても楽しそうに戦っていて、爽快感があった。片方のキャラクターが太陽を呼び出し、それを凝縮させ、小さな円盤に変えた。それを相手にぶつけたところ、その相手は熱さに参りそうになっていたが、太陽の熱さにもすぐに慣れてしまうほどの適応力があった。すると突然、彼らは戦うことを止め、楽しそうに雑談を始めた。この格闘大会は賞金が懸かっていたが、彼らはそれらには目もくれず、純粋に戦うことを楽しみ、大会の場は仲間との再会の場のようだった。フローニンゲン:2022/6/3(金)06:50
8552. 継続的な英語の発話能力の鍛錬/ビョンチョル·ハンの思想と文体に惹かれて
時刻は午前9時を迎えた。朝日の強さが増しているが、午前中の穏やかな世界は引き続き目の前にある。先ほど、いつものように英会話アプリのELSAを使って、英語の発話能力の鍛錬を行なっていた。ここのところは、毎朝必ず1時間ほどの時間を取って、このアプリを使っている。正午過ぎにもこのアプリを使い、夕方と夜にもアプリを用いて発話能力の鍛錬を行っていて、合計で3時間半から4時間ほどこのアプリを使っているような日々が続いている。今はある程度集中的に発話能力の見直しをしていて、もうしばらくしたら使用時間をもう少し下げても良いかと思う。そもそもこのアプリは、毎日10分使って英語の発話能力の鍛錬をしようというコンセプトが掲げられていて、自分はそれを遥かに上回る時間を投入している。4月からこのアプリを用いて早2ヶ月になるが、その期間、自分が世界で一番このアプリを使い続けていたことがわかる。このアプリのランキング制度を眺めていると、この2ヶ月間、自分は絶えず毎週ランキングの1位を獲得していて、世界で一番自分がこのアプリを使っていることを物語っている。ちょうどそのランキング制度も、来週が最後のリーグとなり、それをもって再来週からはアプリの使用量を落とし、その代わりに読書に時間を充てようと思う。ちょうど来週から再来週にかけては旅行を行っている期間なので、その移行として適切な調節ができるかと思う。旅から帰って来たら、ビョンチョル·ハンの残りの書籍を全て購入しようと思う。8月の書籍の一括注文まで待てなくなったので、まずはハンの書籍だけを全て入手してしまおうと思った。彼の思想から得られることは極めて多く、今は彼の視点と洞察を深く欲している自分がいる。ちょうど文明学的なテーマのプロジェクトを協働者の方々と近々始める予定であり、そのプロジェクトの参考資料としてハンの書籍は役に立つだろう。ハンの文体は自分にとって大変心地良く、詩的な表現も含め、短く密度の濃い書物を執筆していく在り方を参考にしたいと思う。もしかしたら、ハンの書籍の中で自分が最も自分が重要だと思うものを取り上げ、全文を筆写するかもしれない。それくらいにハンの思想に共感するものがあり、文体としても参考にしたいとものがある。残念ながら自分が読んでいるのは、ドイツ語の原著ではなく英訳のものなのだが、英訳からもハンの密度の濃く美的な文章が感じられる。彼の思想とそれが体現された文体に惹かれている自分がいるようだ。ある思想家の思想を参照する際には、その思想家の思想を表面的にではなく、その実存部分を含めて一度惚れ込む必要があり、今はハンに対してそのフェーズにあるのかもしれない。彼が韓国生まれのヨーロッパに渡ったアジア人であるというところもまた、自分の共感を引き起こす要因になっているように思われる。フローニンゲン:2022/6/3(金)09:24
8553. 現代社会を描く邦画を見ながら
弛まずに流れ続ける川のように、自分の取り組みが継続している。それでいいのだと思う。また、それ以外であってはならないのだと思う。人知れず流れ続ける川のように、自分は自らの天命に則ったライフワークに従事し続けていく。その流れと一体となり、自分は自らのライフワークと化す。そこには何の強迫感も焦りもない。川が何かに強迫され、焦って流れているのを見たことがないのと同じように。
ここしばらくはずっと日本のアニメを色々と見て自分の探究の肥やしにしていたが、一昨日ぐらいから邦画を再び見始めた。しかも直近数年以内の作品に絞って見るようにしている。それを通じて、日本の現代の実存状況·精神状況を捉えたいと思う自分がいるようなのだ。映画の中では、現代の日本社会が抱える闇と問題が浮き彫りになっていて、作品を通じて社会の様相とそこに生きる個人の姿を見る。日本の問題が持つ固有性は確かに存在するが、それは世界で生じている問題と似た構造を持つものばかりである。いや、根底は全て繋がっているのだ。文明学の探究において、映画という媒体は非常に参考になる。それは参照点としても有益であるし、どんな社会批判の書籍よりも強いメッセージ性を持っている優れた作品もある。しばらくは、ここ数年に世に出た邦画に絞り、臨界値を超えたら洋画に移っていこうと思う。その時にも、現代社会の闇と問題を取り上げた作品を中心に見ていく。ここでは詳しく述べないが、この数日以内に見た優れた作品として、『すばらしき世界(2020)』『護られなかった者たちへ(2021)』『空白(2021)』がある。反社会的勢力の人間の社会復帰の困難さ、生活保護の裏と闇、感情的狂気とそこからの回復と深層的な他者理解など、重要な問題提起をする作品ばかりであった。今日は、『189(2021)』という児童福祉と児童虐待を取り上げた作品を見ようと思う。
自分という存在は、この社会の1人のエージェントとして活動に従事しているが、いつも自分の眼差しや存在感は社会の外にあるような気がしている。社会の膜の向こう側にある世界そのものに眼差しと存在が立脚しているように感じる。社会を超えた世界は、絶えず深海の水の如く変わらずに佇み続けている。そこには混沌があり、秩序がある。あるいは、混沌と秩序を超えた全てがそこにあると言えるかもしれない。そんな感覚で社会と世界を捉えている自分がいる。社会を描く映画作品だけではなく、社会を超えた世界にまで踏み込んだ映画作品もまた鑑賞していきたいと思う。それを通じて、自分の実存的感覚はまた変容していくだろう。社会はいかようにも変化するが、世界は不変なのだ。千変万化する社会の中で、不変の世界を見つめる自己。自分の体は半分社会にあり、半分世界にある状態なのか。肉体は社会にありながら、精神と魂は世界にあるのか。この点に関する自己認識もまた深めていかなければなるまい。それはこの社会と世界に存在する自分の生存に関わることなのだから。フローニンゲン:2022/6/3(金)09:54
8554. 夢の世界を侵食し始める現代文明/書くことと発達
今し方コーヒーを淹れている時にふと、自分は夢に重要性を見出し、毎日夢日記をつけているが、現代人にとってはひょっとしたら夢を見ることだけが現代文明の魔の手から逃れられている唯一の時間なのではないかと思った。スマホを含めた諸々の電子機器から一旦離れ、情報と刺激の波から唯一逃れられている時間が夢を見ている時なのではないかと思ったのだ。しかし、そこにもまた魔の手が忍び寄って来ている。現代社会においては、睡眠もまたいかに効率良く行えるかのテクノロジーやサービスが開発されていて、夢の世界にまで文明の魔の手が迫って来ているのではないかと思ったのである。夢の世界までもが文明によって侵食されてしまう日がやって来るのはもう間も無くなのかもしれない。そうした流れの中で、いかに自らの夢の世界を守っていくか。夢の世界は、想像性と創造性に溢れていて、固有のものでもある。想像性と創造性、そして固有性が剥ぎ取られ、全て効率性という観点のもとに画一化されてしまう時代の流れにあって、夢の世界は本当になんとしてでも守り抜かなければならないもののように思えて来る。そこには固有の知性や固有の実存性を司るものがある。そこに種々の源泉があるのだ。その源泉が汚染されつつある現代社会の中で、自分は引き続き夢日記を書き続け、汚染から自らの夢の世界を守っていこうと思う。その試みを通じて、他者の夢の世界を守ための道が見えて来るかもしれない。立ち込めるコーヒーの香りを嗅いでいる時に、そのようなことを考えていた。そこで筆を置き、しばらく経ってまた戻って来た。書くことによって、自分の思考も感覚も、そしておよそ全ての体験が組織化されていく。人間の発達は、こうした組織化の過程でもあることを考えると、書くことは発達上の要求事項のように思えてならない。書くことはまた、自分の境涯を開いていく。自己を新しい地平に立たせ、新しい自己と経験に自らを開いていく。書くことは組織化を促すのと同時に、書くことは新たなものを吸引する働きも持っているようだ。書くというのは収束と拡散の双方をうまく引き起こす力を内包しているらしい。ここから少し音楽に帰っていこう。作曲もまた自分の内側にある音楽的なものを書く行為であり、そこには書くことの本質が宿っている。自然言語ではない音楽言語を通じて書くことを通じて、自己の音楽的なものが読まれていき、それが音の形となって現れるのが作曲という行為である。音楽的な自己を見出すという試みが日々の作曲実践なのだ。音楽的な自己に固有の実存的性質を発見していこう。そして、それを味わってみよう。それをするためには書くという作曲実践がなければならない。今から作る曲の中で、音楽的な自己はどのような表情と感覚を伴って現れて来るのだろうか。フローニンゲン:2022/6/3(金)10:43
8555. 遊びの搾取/嗜好的生き物としての人間
そよ風の歌声に耳を傾けている。正午前の太陽の光の踊りを鑑賞している。今日は雲ひとつない快晴に恵まれていて、午前中はすこぶる充実していた。午後にはジムに行き、ジークンドーのトレーニングをして、サウナに入ってこようと思う。ジムからの帰り際にはスーパーに立ち寄るが、来週の金曜日から旅行が始まるので、食料品は考えて購入しよう。
静かで落ち着いた環境の中で自分と向き合いながら観想的な生活を送っていると、自分の感覚も感情も豊かなものになっていく。感覚や感情を搾取する現代社会において、観想的な生活を営むことはその対抗手段になる。本来は、このような観想的な生活こそが自然であったはずだが、いつの間にかそれは極めて稀な生活様式になってしまった。現代の社会においては、私たちは生活様式そのものも搾取されてしまっているのである。観想的な生活の中で、時間はとてもゆったりと進行していく。その進行の中、自己を満たしてくれる遊びの重要性が浮かび上がる。ドイツの思想家のビョンチョル·ハンの指摘にあるように、現代はゲーミフィケーションという名のもとに、遊びの要素までもが搾取の手段になってしまっているのだ。経済行為の中にゲーミフィケーションが導入されればされるほど、遊びそのものが搾取され、その価値も意義も歪められてしまう。ホイジンガが述べるように、私たちは内在的に遊戯人としての性質を本来持つが、そうした性質までもが搾取の対象になっているのである。ゲーミフィケーションの活用者はそれを悪用と思っておらず、善意で行っている場合が多いことが厄介であるが、世の中でゲーミフィケーションの言葉を表に出しているプロダクトやサービスの背後には、そうした搾取がないかを絶えず内省することが重要かと思う。さもなければ、私たちは簡単にその性質が乗っ取られ、本来自分や人生を豊かにする遊びまでもが価値変質を起こしてしまう。
ハンの指摘の中で、人間は嗜好的生き物であるというものが興味深く思った。嗜好的というのは、ソースティン·ヴェブレンが述べるような他者に見せびらかすための贅沢でも、自己の欲望を基づく消費的な贅沢でもなく、自己を解放し、自己を真に充足させる類の贅沢である。それは必要性から少し逸脱した余分のようなものであり、こうした余分こそが私たちの生活を豊かにしてくれるのである。例えば、のんびりと雲の流れる様子を眺めるというのは別に生きていくために絶対的に必要なわけではないのだが、そうした余分的な行為が人生を豊かにしてくれる。そもそもそうした行為は消費活動とは異質のものであり、水や空気のように遍満する消費活動を煽る時代のコンディショニングから私たちを守ってくれる非常に重要な役割を果たす。本来は、こうした余分的ないしは余暇的な活動も日常生活に溶け込んでいたはずなのだが、現代においては、それを時代のコンディショニングへの対抗手段として行っていく必要があるというのは残念なことである。午後からもまた、余暇的な時間の中で嗜好的活動に十全に従事していこうと思う。フローニンゲン:2022/6/3(金)12:04
8556. 無為を無為のままに楽しむこと
時刻は午後4時半を迎えた。今日は天気がすこぶる良く、先ほどジムから帰って来たのだが、行きと帰りは半袖半ズボンで暖かさを楽しんでいた。途中で通り抜けたノーダープラントソン公園では、人々が木陰や日向で思い思いに寛いでいた。そうした光景を眺めているだけで、こちらも心が穏やかになる。何かを目的として、特に生産を目的として休暇を取るのではなく、純粋に休むことを楽しむために休めばいいのである。現代においては、休暇や休息までもがさらなる生産や効率性を目的としたものに成り下がっているのだから。その行為の先に待っている何かを目的に活動に従事するのではなく、その活動そのものを純粋に楽しむということが求められている社会に私たちは生きている。特に今述べたように、休暇や休息などは、その先により生産的になることや、生産的な自己を回復すること、より効率的に働けるようになることや、効率的な自己を回復することなどの目的が付帯しがちであり、それは本来の休暇や休息の意味や意義とはかけ離れたものであることを自覚することが重要である。無為を無為のままに楽しむこと。その精神を忘れていない人々の姿を見ることができて、少し嬉しくなった次第だ。
さて、今日はジムの鏡のある部屋でトレーニングをしている時に、キックボクシングの2人組と同席となった。彼らのトレーニング風景を眺めながら、自分は粛々とジークンドーのトレーニングを行っていった。キックボクシングはやはりスポーツ的な要素があり、捻る動作やテレグラフィックモーションなどが多く、武術的なジークンドーは随分と動きが異なると改めて思った。そうした比較をすることによって、逆にノンテレグラフィックな動きの精度を上げていくことを改めて思い、そこに集中してトレーニングを行っていった。その後、いつものようにサウナを楽しんだのだが、今日はジムのオーナーを含め、もう2人の男性と合計4人でサウナに入っていた。サウナの良さはお互いの仕事や社会的地位などを気にせず、裸の付き合いができることであり、毎回ではないが他者とサウナを共有することを積み重ねていくことによって、よりオープンな自己が形成されているように思う。それはサウナの思わぬ効果である。日常、他者と裸で向き合うことなどサウナ以外にはほとんどあり得なく、それは身体的なオープンさを通じて心のオープンさももたらしてくれる。サウナは素の自己をある意味強制的に開示してくれる良い実践である。
ジムに行く前に、8月の書籍の一括注文まで待てず、ビョンチョル·ハンの書籍を14冊ほど注文した。カウナス旅行の前までに届きそうなものを選んだわけだが、これですでに出版されているハンの書籍のほぼ全てを購入したことになる。書籍の到着は早く、到着は明日のようだ。ここ最近は、旅行の際には書籍をあえて持っていくことをしていなかったが、ハンの書籍は薄いものが多いので、来週末からの旅行には何か1冊ほど持っていってもいいかもしれない。フローニンゲン:2022/6/3(金)16:43
8557. 非中央集権的な新自由主義的収奪システムの社会の中で
穏やかな夕方の風が吹いている。2階の両側の窓を開けると、心地良い風が部屋を通り抜けていく。深く深くこの静けさを味わうこと。平穏を愛し、それを慈しむこと。小さな幸せを大切にすること。他者に寛容であること。そんな在り方を貫きたい。
現在、ビョンチョル·ハンの思想が深く自分を捉えている。彼の問題意識と自分の問題意識は完全に合致している。今日は追加でハンの書籍を14冊ほど購入したのだが、これまで彼に注目をしてこなかったことが不思議なぐらいだ。しかし、彼の書籍をすでに購入していた自分がいるところを見ると、やはり彼の思想に無意識的に共鳴していた自分がいることは確かだ。今はそれが意識的に完全に共鳴をしている。
ハンは、新自由主義的資本主義の世界では、フーコーが提唱した調教型の収奪システムではなく、新たな収奪システムが出来上がっていると主張している。そこでは、人々は肉体的に搾取される労働者というよりも、人々の心を搾取し、できることに駆り立てる起業家に仕立て上げると説く。達成主義と能力主義のもと、人々を常に何かを達成しようとする起業家のように仕立て上げ、見せかけの自主性に任せて、資本の増大のために自己搾取的に人々を働かせ続ける。しかも厄介なのは、人々は情熱的に自己を搾取してしまうことだ。それに気づけないのである。というよりも、そこでは見せかけの気持ち良さがある。ハンの指摘で重要なのは、フーコー的な調教システムでは苦痛に基づいて搾取が行われていたが、現代の新自由主義的収奪システムにおいては、達成の心地良さを含め、一見すると肯定的な感情に浸けいる形で人々を搾取するのである。だから人々は自ら率先して、喜んで自己を搾取するのである。その結果、人々は気づかないうちに極度に疲弊し、うつ病や燃え尽き症候群などを患い、社会全体が燃え尽き症候群型社会と化してしまう。そんな社会においては、もはや余暇でさえも起業家的自己のパーソナルブランディングの向上のために使われてしまう。あるいは余暇を達成主義的な形で能力開発のセミナーやワークショップ、さらにはリトリートなどに充ててしまう。これはもう完全なるラットレースである。現代社会はもはや、有害な形で肯定的な感情に漬け入り、有害な生産性と効率性に人間を駆り立てる。そして厄介なのは、こうした不健全なシステムは中央集権的に運営されているのではなく、責任の所在が無限に分散している非中央集権的な形で運営されているのだ。何か1つの、あるいは1人の、もしくは1つの組織を悪玉にすることはできないのだ。無数の悪玉菌が高度に分散された1つの複雑なシステムを構築しているのである。そして、社会はそんな腐ったシステムに私たちが適合することを良しとする。ひとたびシステムに不適合になった者にはチャンスや支援はほとんど与えられず、システム不適合者としての烙印を押されて虐げられるのである。そんな社会に私たちは生きているという自覚をどれほど多くの人が持っているだろうか。今の自分の問題意識は、こうした社会の構造的特性にある。自分のこれからの探究はこの1点に集約されていく。文明学の探究と実践は、この病理的な文明の治癒と変容に向かうものでなければらない。フローニンゲン:2022/6/3(金)19:55
8558. 搾取の道具となる癒し
時刻は午後8時を迎えた。爽やかな風が辺りに吹いていて、つい先ほどまで窓を開けていたので、爽快な風を浴びていた。夕方の空の表情はとても穏やかで優しい。自然はいつもただそれとして常にそこにあり、人間の規範意識の外にある。しかし、人間の社会は規範意識を持って眺めなければならないし、規範意識を持って関与·運営していかなければならない。
先ほど洗濯物を畳みながら、自己の治癒と社会の治癒は本来表裏一体であり、不二のものであることを思った。ところが実際には、私たちは自分の治癒にばかり目がいってしまう。ビョンチュル·ハンは、新自由主義的な搾取的社会においては、ヒーリングまでもが搾取の対象になっていると指摘する。人々は、過度な達成主義と能力主義のラットレースの中で四六時中疾走させられ、それで疲弊したら癒しを求める。あるいは、癒しが与えられる。だが、この癒しもまたさらなる搾取のためのものであり、根本的な癒しでもなんでもないのである。それは自我を肥大させ、自らの心の影の部分を増幅するような形で提供されてしまっているのである。ここでもまた、癒しという肯定的なものが搾取の道具に成り下がってしまっている構造的な問題を見る。現代社会を覆う新自由主義的な搾取システムは本当に巧妙である。一見すると肯定的な意味を持ちそうなものは軒並み搾取の道具に成り下がってしまっているのである。そうなってくると人々は何に頼り、何を信頼すればいいのだろうか。テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーは書籍のタイトルにもなっているが、現代は不審で覆われた社会であると述べている。不審社会で人々が信頼している唯一のものはカネなのだろうか。自分はそんな社会では生きたくないし、自分の子供や未来の世代がそんな社会で生を営んで欲しいとは思えない。そのような思いがあるからこそ、自分の探究と実践は全て社会の治癒と変容に向けられていく。今日もその試みに満ちた1日であり、明日もそうなるだろう。いつなんどきもそこから感心の目を逸らせたくはない。フローニンゲン:2022/6/3(金)20:17
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