No.3700 朝の宇宙の姿_The Image of the Morning Universes
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1570, North African Countries
North African countries are calling me.
It is a revelatory message.
I’ll visit these countries in my near future.
Groningen; 10:28, 6/2/2022
No.1571, Waiting for You
An infinite number of unknown things are waiting for you to find them.
If you open yourself fully, overcoming and transcending your tiny ego, you can do it.
Groningen; 10:46, 6/2/2022
No.1572, Singing and Dancing with Undiscovered Things
A numerous number of undiscovered are looking forward to enjoying singing and dancing with us.
They are waiting silently to explode their joy and pleasure with us.
Groningen; 10:50, 6/2/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8542. 来週末からの旅行に向けて
8543. 今朝方の夢
8544. 書くことは再読すること/ポール·ティリッヒとビョンチョル·ハンへの共感
8545. 自己搾取的主従関係の構造の中で疲弊する現代人
8546. 世界内空間に寛ぐ自己/究極的な関心点/北アフリカ諸国からの呼び声
8547. 私たちを待つもの/愛そのものになること/内側にいる感覚/対象と成る在り方
8548. 計測不可能性の尊重/新自由主義的な達成型社会の脅威
8549. 現代の管理社会の性質について
8542. 来週末からの旅行に向けて
時刻は午前6時半に近づこうとしている。今、燦然と輝く朝日の光の筋が、2階の書斎に差し込んでいる。それを額に受け、脳が覚醒し、身体が活動に向けて準備を始めているのがわかる。気がつけば早いもので、来週の金曜日から旅行が始まる。今回は、オランダのアイントホーフェンとリトアニアのカウナスに滞在する。アイントホーフェンの滞在中には、デンボスを訪れ、そこでボッシュの絵画を鑑賞することが楽しみだ。デンボスに行くのは、ボッシュの作品が多数所蔵されている美術館に行くことが最大の目的である。デンボスにはいくつも美術館があり、その中で自分が気になっている美術館を何箇所か巡って行こうと思っている。カウナスに関しても楽しみがたくさんある。最大の楽しみは、ここでも美術館が巡りだ。特に、国立チュルリョーニス美術館で、先日のバルト三国旅行の際に出会ったチュルリョーニスの作品を鑑賞することが一番楽しみにしていることである。ある旅から次の旅の期間は、充電の期間であり、同時に旅で持ち帰ったものを深める期間でもある。この発酵の期間は重要で、その期間に色々と自分の中で変化が起きていることは興味深い。自らの探究上、旅に出かけていくことは不可欠なものとなった。文明学の探究と創出に向けて、旅から得られることは途轍もなく大きく、旅を通じてでなければ得られないことが無数にある。今このようにして書斎にいて、日々そこで研究を続けていく過程で得られたことが、思わぬ形で1つの全体としてのまとまりを作り上げるのも、旅の緩やかな時間と刺激があってこそである。来週の金曜日から始まる旅に向けて、今週末の日曜日には両親とのZoomミーティングがあり、火曜日と木曜日には仕事上のミーティングとオンラインセミナーがある。それらを終えたら旅の始まりだ。
朝日の様子を眺めていると、今日は1日を通して晴れに恵まれるようだ。今日は十分に日光浴を楽しめるだろう。今日の午後にでも、玄関前の庭に生えた雑草を取り除いておきたい。その作業を来週まで待つのではなく、天気が良い今日中にやってしまおう。それは良い気分転換になるだろうし、ちょっとしたエクササイズにもなるだろう。その他には特にやることはなく、いつものように読書と創作活動に打ち込む。読書に関しては、文明学の探究という傘下の中で、関連書籍を次々に読んでいく。もうしばらく関連書籍の再読をしたら、いくつか核となる文献を精読していこう。それは8月まで続けていき、8月になったら再び書籍の一括注文をしたい。ドイツの哲学者ビョンチョル·ハンや、フランスの哲学者ヘンリー·ルフェーヴラの書籍に関しては、いくつかまた新しく購入したいものがある。フローニンゲン:2022/6/2(木)06:38
8543. 今朝方の夢
時刻はまだ午前6時半を迎えたばかりだが、目の前に広がる朝の世界は、すでに活動に向けて鼓動を始めている。その確かな鼓動のリズムを聞きながら、自分の内側のリズムを確認する。自分もまた、今日の活動に向けて準備が整いつつある。このように日記を執筆することは、活動に向けた最良の準備である。とりわけ、今から執筆する夢日記は、1日の活動を始めるに当たってなくてはならないものである。
それでは今朝方の夢について振り返ってみよう。夢の中で私は、欧州旅行をしていた。今、風光明媚な町に到着したところであり、宿泊先のホテルに向かった。ホテルに到着してしばらくすると、ホテルの中の一室で、大学入試の対策セミナーに参加した。そこでは数学が取り上げられていて、私は二次方程式の移動の問題を解いていた。その問題は、受験生時代であれば難なく解けていたはずなのだが、解き方を随分忘れていて手こずった。あれこれ考えた結果、ようやく解法の道筋を見つけた。なるほど、放物線の頂点に着目する必要があると気づいたのである。それに気づくと、その問題はすぐに解けた。そこから、仮に解法を忘れてしまっていても、自分の頭で考えれば、なんとか問題を解いていくことができそうだぞと思った。しかし当然ながら、そのやり方には限界があることを知っていて、その限界が来るまで自らの頭で問題に向かって行こうと思った。しばらく問題を解いていると、何やら周りに知り合いがちらほらいることに気づいた。特に、大学時代の友人たちが多くいることに気づいたのである。彼らはみんな、今は日本の大企業に勤めている。そんな彼らと一緒に、大学時代を懐かしみながら、ホテルの外のサッカーコートでサッカーをすることになった。いざサッカーを始めてみると、彼らはみんな仕事に忙殺されて運動ができていないのか、体のキレが悪かった。一方の私は、普段から運動をしているためか、体のキレが一番良かった。そうした差があったので、私だけが随分活躍し、何点入れたかわからないほどに得点を決め、こちらのチームが圧勝した。良い運動をした後にホテルに戻ると、ホテルの形が変形していて、1階が不思議な空間に化していた。そこではまたしても大学入試対策のセミナーが行われていたが、そのセミナーに加えて、数学におけるノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞級のいくつかの数学上の諸問題を解く会合が行われていた。私はどちらにも参加し、とりわけ後者の問題については真剣に考えていた。すると、小中学校時代のある友人(KF)が現れ、彼はセミナーや会合に参加しているわけではないが、ちょっと休憩がてら話をしようと持ちかけてきた。私も頭が煮詰まっていて、ちょっと休憩したいと思っていたところだったのでちょうど良かった。彼とホテルの1階を散歩していると、不思議な空間を見つけた。そこで彼が壁に取り付けられていたダイヤルのようなものを回すと、突然天井から冷たい水のシャワーが降ってきて、私は咄嗟によけたが、完全によけ切ることができず、右足が濡れてしまった。彼はすぐに謝ったが、自分が足をタオルで拭いていると、いつの間にか彼は消えていた。彼を探しに再び来た道を引き返してみると、セミナーも会合も、全員もう十分に問題と向き合ったようで、ここから懇親会をしようとしていた。それを見て私は、どういうわけか突然宙に浮かび、突然消えた友人の彼を探しに、ホテル内を飛び回ることにした。ホテルの奥の方まで飛んで移動していると、ホテルの従業員たちに姿を見られ、その先には行ってはいけないと言われた。しかし私はこのホテルの宿泊客であり、その先もまた宿泊客が決して入ってはならないような場所には思えなかったので、引き続き飛んで移動することにした。すると、地上から1人の従業員が水鉄砲のようなものをぶつけてきた。それは催眠効果のある薬が混入しているようであり、すぐに意識が朦朧としてきたが、自分は必ず彼を探そうと思い、必死に飛び続けた。最悪の場合、ホテルの従業員に捕まるぐらいなら、ホテルのどこかの窓から外に逃げてしまおうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/6/2(木)06:58
8544. 書くことは再読すること/ポール·ティリッヒとビョンチョル·ハンへの共感
時刻は午前9時を迎えた。穏やかな朝の世界が心を深く落ち着かせてくれる。体験について書くことは、体験を読むことなのだ。体験を再読することが書くことなのである。書くという意味についてそのようなことを思った。このようにして毎日日記を綴っていると、日々の体験がより深いものとして自分の内側に刻印されていき、それが堆積と発酵を通じて経験に昇華されていく姿を目撃している。日々の体験を書き留めることは、その体験を読むことに他ならず、体験の再読効果が書くことにはある。そのようにして自分は、日々の貴重な体験を自分の肥やしにしている。
文明論にまで踏み込んで思想を展開した神学者のポール·ティリッヒ。彼に範を求めることは非常に多い。近々、ティリッヒの書籍についても読み返してみなければならない。彼の書籍においては、当然ながらプロテスタント神学、とりわけ組織神学において優れた本があるが、自分の関心からすると、それらの書籍よりも、ティリッヒが同時代の社会を神学者の眼を通して批判的に論じた書籍の方が面白いし、参考になる。それらの書籍を本棚からまた引っ張り出してこよう。このように、日々の読書は、その時々の自分の関心事項に合わせて、読みたいものを読んでいく。読書は決して苦痛なものではなく、むしろ快楽が伴うものなのだ。あるいは一歩先に進めて、読書とは享楽をもたらしてくれるものなのだ。書物に書かれた世界の中に自己を明け渡すことによって得られる解放感。それは読書以外では得難いものであり、読書に固有の治癒的·変容的作用の鍵は、そうした特性にあるのではないかと思う。
昨日、久しぶりにドイツの思想家のビョンチョル·ハンの書籍を読み返したのだが、彼の思想に共感することが多々あり、共感的に読書をすることを通じて、自分の内側に何かが回復され、何か強いエネルギーが湧き上がってくるような感覚があった。こうした体験もまた読書の醍醐味と言えるだろうか。ビョンチョル·ハンの経歴について改めて調べてみると、彼は韓国生まれの韓国人なのだが、最初高麗大学で冶金(やきん)を専攻していたが、学者としてのキャリアを大きく変え、ドイツに渡り、ドイツ哲学で博士号を取得した。彼のドイツ語でのインタビューをかつて聞いたことがあるのだが、その流暢なドイツ語には驚かされた。ドイツ人ではない彼が、どれほど研鑽を積んでドイツでドイツ哲学の博士号を取得したのかが窺えるようなインタビューであった。ハンの書籍についてはまだ英訳のものをごくわずかしか持っていない。この夏に書籍の一括購入する際には、英訳で出版されている残りの全ての書籍も入手しようと思う。ハンは哲学の領域において、学術コミュニティーに向けた生粋の哲学論文や書籍を書くことはしておらず、一般向けの書籍として執筆活動をしているのだが、それら一般向けの書籍であっても得ることは非常に多く、彼の洞察をつぶさに押さえていきたいと思う。フローニンゲン:2022/6/2(木)09:31
8545. 自己搾取的主従関係の構造の中で疲弊する現代人
なるほど、ビョンチョル·ハンの指摘として、私たちは新自由主義的な社会の中で、搾取されている奴隷であるばかりではなく、自らを搾取する主人という二重構造を持っているというのは確かにそうかもしれない。明確な主人に奉仕するのではなく、自らが主人と奴隷の二役を担い、であるがゆえに自らが自らを搾取しているという構造が見えにくいのかもしれない。結果として人々は、自己搾取的主従関係の構造から逃れることができず、自己を駆り立てながら疲弊の道を邁進していくのである。その結果として、現代の種々の精神病を多くの人が患うことになる。確かに自分自身が組織に所属していた時にも、目には見えない形で自分が何かに駆り立てられている感覚があった。その感覚を醸成していたものがまさに、ハンが述べるような自己搾取的主従関係の構造だったのだろう。その構造においてさらに問題になるのは、自己の主体性というものが溶解し、自己は結局何かを達成するプロジェクトと自己認識してしまい、永続的かつ盲目的にそのプロジェクトに従事していく。もっと能力を上げること、もっと効率を上げること、もっとカネを稼ぐことへ自己を駆り立ててしまう現象はすぐに思いつく具体例である。それらのプロジェクトは、盲目的に過度な自己達成的な形で推し進められ、自己疲弊的な特性を持っている。現代人の自我はどうやら、新自由主義的資本主義が持つ自己破壊的な性質を帯びていて、目には見えない形で自己を破壊する暴力に加担しているようだ。こうした問題について、宗教の側はどのように解決の糸口を見出しているのだろうか。本来宗教は、人間の自由と解放をもたらすもののはずであり、その本義からすると、宗教は必ずこうした文明社会の諸課題に対して真摯に向き合い、解決策や処方箋を提示しなければならないはずである。ところが、どうもその責務を果たしていないように思えるのは自分だけではないだろう。人間に自由と解放をもたらすはずの宗教もまた、新自由主義的な発想に絡めとられてしまい、個人を搾取し、同時に宗教組織や宗教共同体としても自己破壊的に破滅の道を歩んでいる。プロテスタント神学においては、例えばポール·ティリッヒのような神学者が時代の課題と真摯に向き合っていたが、さて神道においてはそのような神学者はいるのだろうか。川面凡児はそのうちの1人かもしれず、彼の全集が届き次第、文明の病に対して言及している彼の論考はとりわけ丁寧に読んでいこうと思う。フローニンゲン:2022/6/2(木)09:48
8546. 世界内空間に寛ぐ自己/究極的な関心点/北アフリカ諸国からの呼び声
何も規則も制約もない開かれた大きな世界。そうした世界内空間に自己は投げ出されていて、そうした世界に向かって、自己は絶えず自己超出を試みている。自己は書かれながらにして、そして自己自身を読まれながらにして超出の歩みを続けていくが、超出後の自己を定着させる試みとしても書くことと読むことの意義がある。すなわち、書きながら読みながら自己を超えていく道と、超えた後に書くことと読むことの双方の道があるのだ。
文明の病に対して神道神学とその実践はいかなる貢献を果たしうるのか。その1点に究極的な関心が集まる。その凝集した中心点から関心を放射線状に広げていき、研究活動を続けていこう。その関心の中心点は揺るぎない。直感的に、神道神学の何らかの側面は、きっと必ず現代文明の病に光を照らし、その治癒に貢献するだろうことが見えている。現在抱えているもどかしさは、その側面が何かまだ明確でないことであり、文明の危機に関心を持った神道家の論考を見つけあぐねていることである。だが、それらもきっとしかるべきタイミングで見つかるだろう。そうすれば、自分の研究の視界は一気に明瞭なものになる。それまでは、耐えながらにして自分の取り組みを少しずつ前に進めていく。
北アフリカ諸国からの呼び声が聞こえてくる。それは先日も聞こえてきた声であった。かの詩人リルケも北アフリカを旅していた。画家のマティスやクレーもまた北アフリカを旅することによって、自身の創作活動における変容を経験した。アルジェリア、モロッコ、チュニジアへの思いが募ってくる。この呼び声に従って北アフリカの大地に降り立つ時、自分はどのような変容を経験するだろうか。来年のどこかのタイミングで、北アフリカには是非とも足を運びたい。その地が自分を呼んでいる。自分の魂がその地の何かに共鳴し始めている。フローニンゲン:2022/6/2(木)10:37
8547. 私たちを待つもの/愛そのものになること/内側にいる感覚/対象と成る在り方
数多の事柄が、私たちを待っている。彼らは私たちに発見され、感じ取られることを待っている。それを実現するためには、私たちは感性を取り戻し、小さな自我を超えていく必要がある。そうすれば、幾多の未発見の事物が私たちを待っていることに気づくだろう。彼らは沈黙をして私たちを待っていて、一緒に歌や踊りを楽しむことを待っている。
自己が対象を愛するのではなく、愛そのものになること、あるいは愛する力そのものと化すこと。自己はその実現に向けて歩みを進めている。愛の本質的な性質として生じる自己溶解的全体一致体験を考えてみれば、自己が愛の本質に向けた道の上を歩んでいることは自然なことなのだろう。自己の発達の本質もまた愛の本質と本来完全に合致するものなのだから。両者は共に脱自的であり、世界全体との合一を果たすものなのだから。
青空の内側にいる感覚。梅の花の内側にいる感覚。そんな感覚が突如やって来た。青空の内側にいる感覚は、今眺めている青空からもたらされたものだ。一方で、梅の花の内側にいる感覚は、少し前に通りで見かけた梅の花の記憶がもたらしたものである。いずれにせよ、彼らの世界の内側は、静かで穏やかである。そこには、人間が営む喧騒にまみれた世界とは全く違う現実があるかのようである。おそらくそうなのだろう。現実世界は多重構造になっていて、様々な階層の現実空間があるのだ。現代文明がこうも不穏で魂を脅かす現実空間を私たちに突きつけてくることに憤りを感じずにはいられない。文明の現実空間とは違う空間に脱出しながらにして、文明の現実空間を浄化していくこと。それに向けた試みはもう始まっている。
向かうべきは、対象を見ることではなく、対象と成ることである。対象を見るというのは、依然として見る主体としての自己が残存している。目撃者の意識ではなく、非二元の意識を体得し、観察者としての自己を超え、対象そのものと成る形でそれを味わい、世界そのものを体験していく。こうした体験を積んでいくこともまた、現代文明の治癒と変容の実践と繋がっているものに違いない。現代文明においては、非二元的在り方はおろか、目撃者の在り方も私たちにもたらしてくれず、あるのは搾取的かつ埋没的な在り方しかない。そんな在り方からの脱却を自己は常に希求している。フローニンゲン:2022/6/2(木)11:10
8548. 計測不可能性の尊重/新自由主義的な達成型社会の脅威
とても穏やかな夕方の世界が目の前に広がっていて、雲のない輝く青空を眺めながら、小鳥たちの鳴き声を聞いている。輝く夕方の空も、小鳥たちの鳴き声も、計測可能性を超えたものであり、質的に自分に訴えかけてくるものがある。私たちの世界には、自らの存在も含めて、決して定量的計測可能性の範疇に下ってはならないものがたくさんあるのだ。それなのに、現代社会の有り様はどうだろう。新自由主義的な発想元に、全てを計測対象とし、管理下に置こうとしている。これはとても危険なことである。こうした潮流に抗うためには、この世界で計測可能性を逃れているものを発見し、それを守っていくことである。自己の何かしらの側面や人生が、計測可能性の波に飲み込まれているのであれば、それに気づき、そうした在り方を正していかなければならない。計測不可能性の発見と尊重。それを大切にしたい。
新自由主義的な達成型社会においては、達成の脱落者は、自らの努力不足や能力不足を嘆くが、自らを達成に駆り立てる社会やシステムそのものに批判的な眼差しを向けることがない。そこにもまた、新自由主義的な達成型社会の巧妙な仕組みを見て取ることができる。新自由主義的な達成型社会の搾取の方法は、テクノロジーの進歩と人間の感性の麻痺の進展に応じて、年を追うごとに巧妙になっている。現代社会はますますデジタルパノプティコンないしはテクノロジカルパノプティコンの特性を強め、グローバル規模で人間を支配·管理し、搾取の対象にしている。ビョンチョル·ハンは、新自由主義的現代社会を蛇に喩え、現代人をモグラに喩えた。モグラは賢明に穴を掘り、その通路を自由に行き来しながらモグラ自身を飼い慣らし、食い殺していくのが蛇である。
ビョンチョル·ハンの指摘にあるように、現代における透明性は、全て新自由主義的資本主義の資本増大を促すことに加担しているに過ぎない。情報の透明性において、開示された情報はビッグデータとして、資本増大のための肥やしとして利用されてしまっている。モグラとしての現代人は、実存性を剥奪され、物化され、データ化され、資本増大の最良の提供者になっている。現在改めて精読しているビョンチョル·ハンの“Psychopolitics: Neoliberalism and New Technologies of Power”は、コンパクトであるが、非常に洞察が深い。やはりハンの書籍は全て購入し、全てを丁寧に読んでいく必要がありそうだ。フローニンゲン:2022/6/2(木)16:48
8549. 現代の管理社会の性質について
一昔前の管理社会においては、文字通り身体的な拘束を含め、物理的な制限や抑圧、痛みなどを与える形で人間をコントロールしていた。ところが現代の新自由主義的な社会においては、対象は身体というよりも、人間の心であり、心の内側の欲望を刺激する形で、巧妙な拘束と抑圧が実現されている。そこでは、ソーシャルメディアにおける「いいね」を求めるような心の特性を突いて、劣等感や不安を刺激しながらも、それを満たす肯定的な形で人間を管理下に置く。つまり、一昔前の管理社会においては、鞭による人間の統治がなされていたのに対し、現代の管理社会においては、飴による人間の統治が進行している。結果として、当然ながら存在の入れ子の観点からすれば、身体が目には見えない形で搾取·調教されているのだが、主たる対象は心の領域であり、心が搾取·調教する形で管理社会が運営されている。そのようなことを考えていると、ビョンチョル·ハンが指摘するように、フーコー、ベンサム、オーウェルらが述べた管理社会の仕組みや性質をさらに巧妙悪質にした形での仕組みと性質を持っているのが現代の管理社会の姿だろう。
欲望を抑圧する一昔前の管理社会から、欲望を刺激し、増大させる現代の管理社会。人間の欲望は無限であり、とりわけ成長欲求というのは、人間の成長には限りがないという性質上、無限に追い求められがちであり、そうした成長欲求と達成型社会の煽りが組み合わされる形で、人間は常に欲望を肥大化させ、自我をますます肥大化させていく。本来人間の成長とは、ピアジェが指摘するように、自我の縮小過程を辿り、より利他的な存在になっていくはずなのだが、現代の欲望刺激型社会の中では、自我は縮小するどころか、ますます肥大化していく。現代社会は、個人の成長を煽りながらも、皮肉にもその仕組みとして、個人をより利己的な存在に導き、退化させているのである。
今日は随分とビョンチョル·ハンの書籍の精読を進めた。ここから少し休憩がてら作曲時実践をして、バーナード·スティグラーの書籍を読み進めていこうかと思う。自分の内側の声に従うこと。自分自身の内奥が求める活動に従事すること。絶えず自分の内的世界が現代文明に汚染されていないかを内省すること。そのためには、静かな環境と落ち着いた時間が必要である。フローニンゲン:2022/6/2(木)17:20
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